三十六日間の忘れ物 (11)
 胸の高鳴りが治まらない。しかし息だけはなんとか整ってくる。
 ぴんぽん。家のベルが大きく音を鳴らしていた。
『はい』
 しばらくしてひなたの母親だろう声がドアホン越しに聞こえる。
 僕は一瞬、何と言えばいいか迷うが、すぐに答えを返していた。
「えっと、僕はひなた……綾瀬さんの友達で、倉本といいます。あの、綾瀬さんは家に、
いますか?」
『え、ひなちゃんのお友達?』
 母親は少なからず驚いた声で、思わずというように訊ね返していた。
「あ、はい。そうです」
 僕はすぐに頷く。しかしそれに返ってきたのは、どこか慌てたような落ちつかない答え
だった。
『え、えーっと。そう、そうなの。……少し待っていてちょうだい』
 一方的に告げると、ドアホンがぶつりと音を立てて切れる。どうしたというのだろうか。
やはり先程のおばさん達の言うとおり、ひなたの身には何か起きているのだろうか。
 少し、と言ったけれど、なかなか戻ってくる様子はなかった。恐らくもう十分くらいは
経ったのじゃないだろうか。
 もういちどベルを鳴らすべきだろうかと悩み始めたころ、やっと玄関のドアが開いてい
た。
 ひなたの母親だろう。三十代後半から四十代前半くらいの女性が姿を現していた。しか
しそこにはひなたの姿はない。
「お待たせしてごめんね。その、ひなちゃんは、部屋にいるから上がってもらえるかしら」
 どこか歯切れの悪い声で呟くと、僕を家の中に招き入れる。その声が僕をますます不安
にさせていく。
 ただ少なくともひなたは、この家の中にいる事だけはわかって、そのことについてだけ
は少なからずほっとしていた。
「ひなちゃんの部屋は、二階の右の部屋だから。その、……ゆっくりしていってね」
 玄関を入ってすぐそこにある階段を指さして、ひなたの母親は僕をじっと見つめていた。
 何か言いたそうにしているようにも見えたけれど、それ以上には口を開こうとはしなかっ
た。
 ひなたの母親の様子は気にはなったけれど、これ以上ここでじっとしていても仕方がな
い。僕は一礼してから、すぐに階段を登っていた。
 ひなたの部屋。階段を登って右側にある部屋には、可愛らしい文字でかかれたプレート
が飾られていた。
 思わず息を飲み込んでいた。
 すぐこの奥にひなたがいる。それだけで胸の中が弾けそうに思えた。
 コンコン。扉を叩いてみる。
 同時に向こう側で鈴の音がちりんちりんと奏でていた。
「どうぞ」
 聞こえた声は、確かにひなたのものだった。何度となく聞いた、澄んだ優しい明るい声。
 僕はドアを開けて中へと入り込む。
 中に見えたのは女の子らしい、小綺麗な整った部屋。右手に机が置いてあって、その奥
にベッドがひとつ。いくつかぬいぐるみが、そのそばに飾られていた。
 そしてそのベッドの上にひなたが腰掛けていた。
 肩の辺りでふわりとカールした髪。
 どこかいたずらに浮かんだ笑顔は、記憶の中で見たひなたの顔と同じものだった。
 ただ一点違うとすれば、淡いグリーンのパジャマ姿だった事だろうか。素肌にそのまま
身につけているのか、ところどころ肌を覗かせていて、少しだけ目のやりばに困る。
 ひなたが笑っていた。
 ずっと望んでいた笑顔がいまここにある。そして彼女の姿はあの時と変わっているよう
には思えなかった。
「友希くん、ひさしぶりだね」
「あ、うん。ひさしぶり」
 ひなたはあの時と同じように、微笑んで語りかけてくる。僕は慌てて言葉を返すと、そ
れからすぐに聞きたい事を訊ねようとして口を開く。
「ちょっといいか――」
「で、友希くんはどうして今頃きたのかな」
 しかしそれを遮るように、ひなたは再び話し始める。そしてひなたが告げた言葉は、微
笑んだ顔とは似つかわしくない、辛辣な口調での台詞だった。
「僕は」
 記憶を失っていたから。そう告げるのは簡単な事だった。だけど、いまそれは伝えても
言い訳にしかならない気がして、何も言えなかった。
 ひなたはしかし僕が声を失っている事など気にもしない様子で、再び話し始めていた。
「あの時からもう四ヶ月も経つんだね」
 ひなたの言うあの時と言うのは、来てね、と言っていた大会の事だろうか。
 あの日、僕は事故にあった。だがその事故の事も、その時の状況もはっきりとは分から
ない。他の事は殆ど思い出し初めていた。しかしどうしてもあの日の事だけは思い出す事
が出来なかったから。
「友希くんが来てくれるの。私、ずっと待っていたのにな」
 ひなたの台詞に胸が締め付けられるようだった。友希にとっては今までの月日は、ひな
たの事は存在していない日々だった。いまは思い出したばかりで、まるでつい先日の出来
事のようにすら感じられる。
 しかしひなたにとっては違う。ひなたが今までどうしていたのかは知らない。もしかし
たら、僕に何度も連絡をとろうとしてくれていたのかもしれない。
 僕はしばらくの間は入院していて、携帯は充電すらされていなかった。病院の中では使
えなかったし、どうせ僕は電話で話すような友達も特にはいなかった。
 話すとすれば美優だったけれど、あの頃の美優は毎日のように顔を出していたし、聖も
それに付き添って時々は見舞いにきてくれていた。
 他のクラスメイト達も時々顔を出してくれていたし、そう長い間でもないから、電話で
話す必要なんてない。そう思っていた。
 しかしひなたとは違う。学校も一緒ではなく、お互いの家も知らない。唯一の連絡をと
れる手段は携帯電話だけだった。
 いつもは電話なんていらなかった。あの海浜公園にいけば出会えたから。約束なんてす
る必要もなかったんだ。
 だけどいま、その事がこうして二人の距離を離していたのかもしれなかった。
 声を出せずにいた僕に、ひなたはすぐにどこか寂しそうに微笑んで、ゆっくりと言葉を
紡ぎだした。
「私、待ってるの疲れちゃった。だからもう、会うのやめよ?」
 ひなたの声に、僕の時間は止まっていた。いま何を言われたのか、はっきりとわからな
かった。あまりにも唐突な言葉に、顔を凍り付かせる事しか出来なかった。
 会いたくて会いたくて、なんとか探し当てたその後に、待っていたのは別れの言葉。
 声すら失って、僕はそれでも必死で頭の中を巡らせていた。
 ひなたを見つめる。その瞬間、彼女は小さく微笑んで、いたずらな顔を僕へと向けた。
「なんて嘘だよ」
 次に告げられた言葉に、僕は目を白黒とさせた。嘘、嘘ってなんだ。何が嘘なんだ。僕
はすぐには理解できなかった。
 だけど笑っているひなたに、思わずほっと息を吐き出して、ああ、そういえばひなたは
質の悪い冗談が好きな子だったと思い直す。
「はぁ、びっくりしたよ。そういう冗談はなしにして欲しい」
 安堵と共に呟いて、ひなたへと笑いかける。ひなたも僕を見つめながら、優しく微笑ん
でいた。
「うん、そっか」
 ベッドに腰掛けたまま、ひなたは笑顔を崩そうとはしなかった。
 僕はこの時、気がつくべきだったのかもしれない。彼女の微笑みが、どこか不自然だっ
た事に。
「でもね」
 ひなたは笑顔を崩さないまま、ゆっくりと唇を震わせていく。
「私。もう何も聞こえないんだ」
 続けた台詞が何を言っているのか、僕には理解出来なかった。僕の顔に浮かんでいたの
は、驚きか、それとも戸惑いだっただろうか。
「あの時にね。傷つけたらしくて、私の耳はもう何もとらえてくれないの。だからいまま
で友希くんが何て言っていたか、私にはわからない。それどころか、自分がいま何て話し
ているのかすらわからない。本当に伝えたい言葉が伝えられているのか、それすらもわか
らないの」
 ひなたの言葉に、僕は喉の奥に何か痛みを覚えて、吐き出しそうにすらなる。
 ひなたは微かに俯いて、それでも言葉を止めず話し続けていた。
「人ってね。耳が聞こえないと、そのうち話す事も難しくなるんだって。自分の話してい
る声も聞こえないんだから、当然だよね」
 ひなたの顔が少しずつ。笑顔だったはずの顔が、少しずつ崩れていく。
 僕は何も言う事すら出来ずに、ひなたをじっと見つめていた。
「いま、私はちゃんと喋られているのかな。私の声は友希くんに届いてる? 聞こえてい
るのかな。昔と私の声、変わっていないかな」
 微笑んでいたはずの顔から、涙がこぼれていた。彼女の頬を伝い濡らしていく。
「わからない。わからないの。だから」
 ひなたはうつむきがちだった顔を僕へとむけて、涙をいっぱいに答えたまま、はっきり
とした声で告げていた。
「だから、もう。歌えないんだ」
 ひなたの声は、何よりも終わりに満ちていた。
 ひなたにとって歌う事は全てだった。ひなたの夢は、いつも歌と一緒にあった。
 僕はそんなひなたに惹かれていた。ひなたのように夢を見つけたいと、そう願った。
 それなのにひなたは夢を失ってしまった。ひなたには何も残されていない。
 ひなたが全てを失った時、僕はひなたの事を忘れていた。ひなたを支えてあげるべきだっ
たのに。
 僕には、何も言う資格がない。
「ひなた」
 ただ無意識のうちに彼女の名前を呼んでいた。
 もちろん、彼女には聞こえるはずもなかった。
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