伊里野の瞳を見つめる。
そして口にするはあの言葉。
「ねえ伊里野、ぼくは誰?」
答えはない。静寂。
永遠とも思える時間が過ぎる。その果てに、
「ーーーーーあさば」
伊里野の唇から漏れた言葉。
「...ぼくは誰?」
もう一度、問う。
「...浅羽」
伊里野が答える。
「浅羽」
問わないのに伊里野が呟く。
「浅羽、浅羽、浅羽ーーーーーーっ!」
伊里野が駆け寄る。同時に浅羽も駆け寄る。
二人は互いの存在を、体温を確かめるように、抱き締め合っていた。
 
 
 *   *   *
「うう...ぎもぢわるい...」
椎名が苦しそうに呟く。
「おめー、よくあんなの食えたなあ...」
榎本が半ばエイリアンを見つめるような目つきで言う。
伊里野はバンから外を見ている。午後の日はまだまだ高く、暑い真っ盛りだ。
「...で、これからどこへ行きゃいいんだ」
「そうですね、航空学園って知ってます?あそこって、モーターグライダーとかセスナとか持ってるんですよ。榎本さん、操縦出来ますか?」
「こいつが出来ないわけ無いじゃない。ブラックマンタは別として、ジェット戦闘機から軍用ヘリ、特攻用潜水艇まで何でもござれよ」
「よし、それじゃあ航空学園へ行って乗せて貰いましょう」
「何のために」
「空ですよ。伊里野を空へ連れて行ったら何か変わるかも知れないじゃないですか」
「...わかった。もう何でもこいだ」
一行は航空学園へ行き、榎本と椎名が何やら交渉した結果、T-5を借りられることになった。
「こいつがまだ現役で飛んでるとはな」
榎本の目に懐かしそうな光が灯る。
「こいつの同型機で俺は初めて空を飛んだんだ」
「はいはいそこまで。今はあんたの昔語りを聞いている暇はないの」
椎名を睨むと榎本は操縦席に着いた。
「浅羽、伊里野は後ろだ」
椎名も乗り込んだ所で、エンジンを始動。慣れた手つきで次々に計器をチェック、他に誰もいない滑走路に出る。
「いくぜー、ちっとばかし手荒いかもしれんが...発進!」
T-5は滑走路を走り...榎本の操る操縦桿に従って...飛んだ。
「うわあ」
声を上げたのは浅羽。前回は軍用ヘリだったが、今回はプロペラ機。振動も音も全然違う。
「おいおい浅羽、お前が1人で楽しんでどうする」
「伊里野、見てごらん、空だよ。...もう戦わなくていいんだ。もうこの空を汚さなくていいんだ。伊里野」
伊里野の瞳は空の青さを映してはいるものの、それが心に届いているのかいないのかはわからなかった。
どこまでも続く、青い空。そこに浮かぶ白い雲。
このプロペラ機ではとても高い空に浮かぶ雲の上まで上がることは出来ないが、榎本は山々の上を飛び、そこに湧いた山雲の上を飛び越えて見せた。
そして出来るだけの高空に昇り、下降の勢いを以て宙返り。4人も乗ったこの練習機には少々酷な飛行だ。
だが、それでも伊里野の反応を導き出すことは出来なかった。
着陸。力なく歩く榎本、椎名、そして浅羽。
「お前でも無理だったか...」
榎本が力なく呟く。
「あと一つ」
「え?」
「あと一つ、思いつきました」
「そ、それは?」
椎名真由美が最後の希望に縋るような目を向ける。
「夜のプールです」
浅羽が答える。
「園原中の...夜のプールです」
「なるほどな、お前と伊里野が初めてであった場所、つーわけか」
「そうです」
「加奈ちゃん、水着持ってきてないわよ?」
「今更何言ってる。どっかで買って来りゃいいだろ」
航空学園から園原中へ戻る道すがら、見つけた運動用品店で伊里野の水着を買う。園原中の標準指定水着。そして帽子。
浅羽はあの時、体育の短パンを穿いていたが、今回は伊里野の水着と一緒に海パンを買って貰う。...一番安いのだったが。
そして園原中へ戻る。折しも日は暮れ、夜の闇があたりを包み始めていた。
午後7時12分。
あの時より少し早い時間だが、細かいことは気にする気はなかった。
ある意味「プロ」の榎本が付いているゆえ、あっさりとプールサイドまで辿り着く。
椎名が伊里野を着替えさせ、浅羽は用具置き場の陰で海パンに履き替えた。
そして。
あの夜が、そこにあった。
 
 
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