社会人類学研究班
わたしが人文科学研究所の助手になったころ、鶴見俊輔さんは西洋部の助教授であった。その鶴見研究室は、助手の大部屋のむかいがわにあった。そして人文の建物の二階は、この鶴見さんの部屋の部分だけ、どういうわけか天井が傾斜していて、屋根裏部屋という風情があった。その情景は「屋根裏の哲学者」ということばを連想させるにじゅうぶんであった。
その鶴見研究室のドアをはじめてあけたとき、わたしはびっくりした。というのは、鶴見さんの書棚には、靴の空箱がいくつもならべられており、その空箱にカードが乱雑につめこまれていたからである。本もいくらかはあったが、本の占めるスペースより、はるかに多いスペースを靴の箱が占領していたのだ。鶴見さんは、あの、おだやかな微笑を浮かべながら、どうです、いいでしょう、B6判のカードは、ちょうど靴の箱にぴったり入ります、値段はタダです、カード入れはこれにかぎります、とおっしゃった。なるほど、そういわれてみると、どうやら靴箱のサイズとB6判のカードは一致しているようである。
それらのカードには、青鉛筆と赤鉛筆でなにかが書きこまれていた。鶴見さんの字は、じぶんだけがわかればよい、という、一種の略記号のようなもので、わたしには部分的にしか判読できなかったが、これらのカードが素材になって、鶴見さんの思索が展開してゆくらしいことはよくわかった。ついでにいっておくと、鶴見さんは、いつも紺のジャンバーを着ていて、胸のポケットには赤と青の色鉛筆が何本か無造作に突きこまれていた。どうやら、この人は、ふつうの万年筆や黒鉛筆は使わない人らしい、とわたしはおもった。ときどき本を借りると、そこにも赤と青でいろんな書きこみがあった。この書きこみにいたっては、いよいよ判読不可能で、すべてがわたしにとっては謎であった。
この哲学者のデスクはさらにふしぎだった。ひき出しはほとんどが空っぽで、そこには、チーズや胡瓜がほうりこまれていた。鶴見さんは、こういう簡便食を、必要におうじてかじりながら勉強し、夜が更ければ、そのまま床にころがって寝てしまうのであるらしかった。つまり、鶴見さんにとって研究室は簡易宿泊所をも兼ねていたようなのである。だいたい、人文というところは、研究室で夜明かし、といった猛烈な伝統があり、あかるいうちに帰宅する若い研究者などは、用務員のおじさんたちから、ダメです、もっと勉強しなさい、と叱られたりすることもあったらしい。
鶴見さんは、ほとんどわたしと入れかわりに東京工大に移られたから、いっしょにいた期間はきわめて短かったが、そのあいだに、わたしに、ぜひいちど梅棹忠夫という人に会いなさい、と熱心にすすめられた。鶴見さんによると、梅棹さんという人ほ、じぶんで金槌やカンナを使っで簡単な建具などさっさとつくってしまう人だ、あんな実践カのある人は、めったにいるものではない、というのであつた。まことに失礼なようだが、鶴見さんは、およそ生活技術についてはいっこうに無頓着、かつ不器用な人だから、鶴見さんからみると、大工道具を使うことができる、ということだけで梅棹さんを評価なさっているのではないか、ずいぶん珍奇な評価だ、とわたしはおもった。金槌やカンナくらい、誰だって使える大工道具を使えない鶴見さんのほうが、率直にいって例外的だったのである。
だが、それと前後して、わたしは雑誌『思想の科学』(一九五四年五月号)に梅棹さんの書かれた「アマチュア思想家宣言」というエッセイを読んで、頭をガクンとなぐられたような気がした。このエッセイには、当時の梅棹さんのもっておられた、徹底的にプラグマティックな機能主義が反映されており、いわゆる「思想」を痛烈に批判する姿勢がキラキラとかがやいていた。それにもまして、わたしは梅棹さんの文体に惹かれた。この人の文章は、まず誰にでもわかるような平易なことばで書かれている。第二に、その文章はきわめて新鮮な思考を展開させている。そして、その説得力たるやおそるべきものがある。ひとことでいえば、スキがないのである。これにはおどろいた。いちど、こんな文章を書く人に会いたい、とわたしはおもった。たぶん、鶴見さんが日曜大工をひきあいに出されたのは、鶴見流の比喩であるらしいということも、「アマチュア思想家宣言」を読んだことでわかった。
梅棹さんに会う機会は、意外にはやくやってきた。当時、わたしは坂田吉雄先生の研究班に属しており、明治思想史を勉強していた。そのなかで、わたしは明治初期の翻訳文化に興味をもち、西周がこころみたような西洋の学術用語の日本語化がどんな意味をもったか、をかんがえる作業をしていた。だが、たとえば‘philosophy’という英語を「哲学」と訳したとき、そこにはどうしても意味論的なズレがある。このズレは結局のところ、文化差というものであろう。いまにしておもえば、文化と言語をめぐる素朴な疑問をわたしは抱いていたのであった。だが疑問は、誰かにぶつけてみる必要がある。わたしは、これを梅棹さんにぶつけてみよう、とおもった。
梅棹さんにさいしょにおめにかかったのは、百万遍をちょっと東に入ったところにある進々堂の喫茶室であった。わたしは右にしるしたような問題をしどろもどろに表現し、まあ、文化差のないのは、化学方程式や数式ぐらいなものではないですか、といったようなことをつけくわえたようである。梅棹さんは、わたしのいうことをいちいちうなずいてきき、あなたのいうとおりだ、言語は文化そのものである、だが数式だって文化の反映であることにかわりはない、αやらβやらは西洋のもので、日本なら、イロハでやるのがほんとうだろう、αβでやっているのは、便宜的な妥協であるにすぎない、とおっしゃったような気がする。文章とおなじように、梅棹さんの表現は簡潔で、説得力があった。
これがさいしょの出会いであった。梅棹さんは、進々堂のまえに駐車していた紺色のオースチンに乗って、またおいで、といってくださった。ついでながら、当時、まだきわめて珍しかった自家用車について、わたしが、自動車って便利ですか、と梅棹さんにきいてみたら、はあ、散髪にゆくのには便利でっせ、という答がかえってきた。この答も、鶴見さんの日曜大工論とおなじく、象徴的かつ比喩的であって、結局は、これから国内、海外を問わずフィールド・ワークをするには自動車の運転を知っている必要がある、ということであったのだとおもう。だが、それがわかってきたのは、あとになってからのことで、その当時は、梅棹さんも鶴見さんとおなじく、奇人である、としかおもわなかった。
だが、これが契機になって、わたしはしばしば梅棹さんを訪ねるようになった。べつだん、これといって話題があるわけではない。ただ訪ねて雑談をするのである。梅棹さんはそのころ、大阪市立大学の助教授であり、生物学を教えておられる、とのことであった。そして、梅棹さんの学位論文が、オタマジャクシの群の密度の研究であるということも、あとで知った。しかし同時に、梅棹さんの生物学講義なるものが、まことに珍奇であることも知った。すなわち、この「生物学者」は、毎週、その週に読んだ書物について授業をなさり、その書物たるや考古学、人類学、心理学にわたり、したがって、ある日、ある学生が、おずおずと梅棹先生に、これは「生物学」の授業なのですね、と念押しをした、というエピソードもわたしの耳に入ってきた。
大阪市大のころの梅棹さんについて、わたしはあまり多くのことを知らない。ただ、梅棹さんにとっては、学生相手の授業は、かならずしもたのしいものとはいえなかったようである。そのうえ、梅棹さんは、早起きのたちではない。深夜にいたって頭が冴え、昼間は眠っている、というのがそのリズムであったらしい。大阪まで通勤する京阪電車が、なぜ駅弁を売らないのであるか、といったような、きわめて無茶苦茶な梅棹見解もそのころきいた。わずか四〇分ほどの近郊私鉄に、駅弁を売れ、と注文するのは、常識を越えている。しかし、話をきいていると、だんだん、梅棹さんの意見こそが正しいようにおもえてきて、わたしも、京阪電車のみならず、日本のありとあらゆる公共輸送機関が怪しからぬような気がするのであった。
とにかく、梅棹さんは、理論構築の名人であった。その理論たるや、とりわけアルコールが入ると我田引水、牽強付会もいいところで、もうヤケクソとしかきこえないのだが、それにもかかわらず、説得力は強烈であって、こちらは、ただ、ハア、といって首をうなだれるのみである。いちど、せめてもの抵抗に、梅棹さんのおっしゃることは、自己合理化にすぎないのではないですか、といったら、梅棹さんはふしぎそうな顔をして、そらそうでっしゃろ、あらゆる理論は自己合理化や、マルクスかてそうやろ、理論ちゅうのは、そんなもんや、と一蹴された。
北白川の梅棹邸には、わたしをふくめて、何人もが足をはこび、深更にいたるまで、きわめて雑多な議論をつづけた。例外なしに酒を飲んだ。米山俊直、石毛直道、谷泰そして、ややおくれて松原正毅―いろんな人物が入り乱れた。そんなある晩、突如として伊谷純一郎さんがとびこんできた。何の論文だったか忘れたが、梅棹さんの原稿だけがおくれているために本が出ない、早く書け、というのが伊谷さんの用件であった。梅棹さんは、大文章家であるが、執筆にとりかかるまでのウォーミング・アップの手つづきや条件がなかなかむずかしいかたである。一種のキツネつき状態になって、そこではじめて、あの名文ができあがる。伊谷づんもそのことはご存知だ。ご存知であっても、梅棹論文がなければ本ができないのであるから、これもしかたがない。その伊谷さんにむかって、梅棹さんは、あとひと月のうちにかならず書く、といわれた。伊谷さんは、その場に居合わせたわたしをジロリと睨み、加藤君、おまえが証人や、梅棹は書く、と言いよった、おまえは唯一の証人やで、とおっしゃるのであった。わたしは梅棹さんが、絶対に書かないという信念を持ちながら、伊谷さんには、ハイ、と返事をした。その原稿がどうなったか、わたしは知らない。
梅棹さんはしばしば、学問なるものは最高の「道楽」である、と説かれた。若いころ、わたしは、他の多くの若者とおなじく、学問というのは、高尚な「真理の探求」をその目的とするものである、と信じていた。しかし、そもそも「真理」なるものが結局は相対的なものである以上、あんまり高尚な思想におつきあいしていたのでは損をする。あたらしいことを知って、なるほど、と知的興奮を経験する―それが学問のたのしみというものだということが、わたしにもだんだんわかってきた。いまわたしのまわりにいる若い人たちも、「学問」とか「勉強」とかいうことばをきくと、身のひきしまる思いをするらしいけれども、わたしにいわせれば、知ることのたのしみが「学問」というものなので、それがブタの研究であろうと、パチンコの研究であろうと、おもしろいとおもったことをひたすら追求すればそれでよろしいのである。ある種の人は競馬を道楽にし、ある種の人はバーであそぶことを道楽にする。たまたま、なにかを知ることを道楽にする人間が、世間さまから「学者」と呼ばれる。それだけのことだ。梅棹流にいえば、われわれは「知的プレーボーイ」以外のなにものでもないのである。そして、わたしが、そんなふうにかんがえるようになったのは、ひとえに梅棹さんから感化されたからであるようにおもう。
当時の日本の知的環境からいうと、これは特筆大書しておくべきことがらであるようにおもわれる。というのは、いわゆる「六〇年安保」をめぐって学生運動もさかんだったし日本の知識人の多くは、多かれすくなかれ、政治的なかかわりをもつか、あるいはもたなければならないという義務感のようなものをもっていたからだ。わたしは、まえにもすこしふれたとおり、学生のころに運動にかかわったことがあるから、六〇年安保について、けっして無関心ではありえなかった。だが、そうかといって、熱狂的になることもなかった。京都でわたしの属していたグループには、いわば醒めた精神が支配的であり、学問をたのしむ、という姿勢がその根幹になっていたのである。
まことにうれしいことに、その梅棹さんが大阪市大から人文に移ってこられた(一九六五年)。そして、一九五〇年代なかばにはじまる、今西錦司先生を班長とする社会人類学研究班がいよいよ活気を帯びるようになる。今西先生からは、人文に入ったときから、精神的にガンガンとパンチをいただいた。まえにものべたように、人文では、その職階のいかんを問わず、研究発表の義務があり、わたしも、入所して三カ月ほどたったとき、みずからの研究について、なにかを発表しなければならないことになった。
いまでもはっきりおぼえているけれども、そのさいしょの発表にあたって、わたしはE・フロムの『自由からの逃走』を材料にして、「国民性」研究の動向をのべ、日本人もまた、フロムのいう「サド・マゾヒズム的傾向」をもっているのではないか、うんぬん、といったようなことをのべた。いくつかの小さな論点について、先生がたや先輩たちからコメントや質問があり、わたしはそれに答え、やれやれこれでおわった、と心中ほっとしたのだが、そのとき、それまでずっと口をへの字にむすんでおられた今西先生が、おまえはものごとの順序を逆転している、とおっしゃった。フロムはフロムでよろしい。サド・マゾヒズムも結構だ。しかし、なにを根拠にそういうことを口走るのか。フロムは、どれだけの実証的事実をもっているのか、ましてや、日本人をそれに対比させるにあたって、おまえは、ひとつもその根拠になる事実をのべていないではないか、というのが今西先生からのコメントだったのである。入所したばかりの助手に対してであったから、今西先生の語調はやわらかく、やさしかったが、わたしはどう答えていいか、立ちすくんでしまった。今西先生は、つづけて、おまえには、まず他人の学説にもとづく結論があり、その結論を飾り立てているだけである。ゆるぎなき具体的事実の把握から結論とおぼしきものを模索してゆくのが学問というものである。ばあいによっては、結論なんか、なくてもよろしい、これからは、事実だけを語れ−そういって、今西先生は、タバコに火をつけて、プイと横を向いてしまわれた。要するに、わたしの発表したことのすベてについての全面否定なのである。わたしは、ただ首をうなだれるのみであった。そのわたしを、、なかば慰め、なかば追い討ちをかけるように、藤岡喜愛さんが、まあ、そういうことでっしゃろな、ではこれで、と散会を宜してくれた。それでわたしは、その場を救われたのである。
そして、この今西流の学問のすさまじさをわたしはその後、社会人類学研究班に参加することで思い知らされた。とにかく、この研究会の議論たるや、ものすごいのである。梅棹さんや藤岡さんはもとよりのこと、川喜田二郎、中尾佐助、伊谷純一郎、上山春平、岩田慶治、飯沼二郎、和崎洋一といった論客がずらりと顔をそろえ、わたしと同世代の人間としては、米山、谷、それに佐々木高明、といった人びとがいた。このメンバーは、それぞれに頑固としかいいようのないほどに自己主張がつよく、第三者がみると、喧嘩をしているのではないか、としかおもえないほど議論は白熱した。だが、この人びとにはひとつの共通した特性があった。それは、現地調査に出かけた人物がもたらす一次的素材に関しては、絶対的な信頼を置くということである。一般に学者の議論というものは、書物で得た知識にもとづいたものであることが多い。トインビーがこういっている、マルクスはこう書いている―そんなふうに、高名な学者や思想家の名前をひきあいに出せば、一般に日本人は感心する。しかし、そういう論法はこの研究会ではいっさい通用しなかった。トインビーいわく、といった俗物的引用をする人間がいると、誰かが、それはトインビーが間違っとるのや、あのおっさんはカンちがいしよるからな、と軽く否定するのであった。
そのかわり、フィールド経験は最高に信頼された。たとえば、アフリカの某地方に特定の植物が栽培されている、というフィールドからの報告があれば、たとえ他のあらゆる書物にその植物についての記載がなくても、書物よりも体験知のほうが尊重された。どこかに行って、そこで直接に知った事実―それがこの研究会でいちばんだいじなことだったのである。そして、それらの事実を土台にして、さまざまな仮説がつぎつぎにつくられていった。書物を読んでも出てこないような珍説・奇説がとび出した。一九六〇年代におこなわれた宗教の比較人類学的研究などは、わたしにはいまも忘れることのできない教訓をふくんでいる。
参加者のすべては、まえにみたように一家言をもっており、めったに自説をゆずらなかったが、梅棹さんは、のちに小松左京さんが命名した「白紙還元法」の名人であった。つまり、はてしない議論がつづくなかで、梅棹さんは突如として、それまでの議論がぜんぶまちがいである、と論断し、すべてを白紙に戻して、梅棹見解で押しまくるのである。そのうえ、梅棹さんのこの「白紙還元法」はタイミングがよかった。通常、午後一時ころからはじまる研究会に、梅棹さんは、二時、三時と大幅に遅刻して出席なさる。夜型人間だから、いくら頑張っても、この時間でないと起きられないのだ。そして、研究会に出てきても、しばしば、コックリと居眠りをなさる。居眠りをなさりながらも、議論はきいている。だから始末がわるい。われわれがくたびれ果て、さあ、このへんでおわりにしようか、とおもいはじめる午後六時ごろ、梅棹さんは、にわかに目覚めて「白紙還元法」をなさるのである。通常の人間が眠くなる時間が梅棹さんの起床時間なのだから、研究会の時間帯からいって、勝敗はわかっている。われわれは、口惜しい思いをしながらも、梅棹説を承認せざるをえなくなる仕掛けになっていたらしいのであった。
この研究会についてひとつつけ加えておくべきことがある。それは、この研究会のメンバーの多くが、京大学士山岳会、および京大探検部の出身者であった、ということだ。誰が誰とどうつながっていたか―それは、外部からひょっこりと入っていったわたしなどにはよくわからなかったし、いまもわからないけれども、その精神は、すこし、わかったような気がする。探検部とかかわっていた人たちがしばしば口にする「団結、岩より固く、人情、紙より薄し」というスローガンも、さいしょは唐突に感じたけれど、何年かつきあっているうちに、だんだん理解できるようになってきた。要するに、共同の作業は一糸乱れずにすすめてゆくが、「人情」というものではいっさいうごかされない、というのがその趣旨なのである。ましてや、個人的な「人情」で組織の円滑な運営をさまたげたりすることがあったら、当然、制裁をうけるべきなのであった。研究会での白熱の論議も、このスローガンからすればあたりまえのことであったのだ。
そんなふうに、きっちりとケジメがついているからこそ、人間関係はかえってさわやかだった。研究会がおわると、それまで顔面蒼白になって論戦をつづけていた二人の人物が、肩をならべて酒を飲みに出かける、といった風景も日常的であった。学問上の自説は曲げない、だが、人間としてのつきあいは別だ―そのことを、わたしはこの研究会の人びとから教えられたのである。学問上の見解あるいはイデオロギーのちがいから、個人的な怨恨関係をもつようになった、という事例をわたしはいくつも知っている。いや、日本の学界では、そういうことのほうが多い。だが、この研究会のメンバーのわかちあう哲学は、そうではなかった。いろんな意見や哲学は火花を散らすが、それはいささかも、人間的な信頼とかかわりあいに影響をおよぼすことがなかったのである。
このグループの人間的つながりは、こんにちにいたっても、なお強力にのこっている。ふだんのつきあいは、それぞれにいまはバラバラになっているけれども、学会だの研究会だので、この時代の仲間たちはしばしば顔をあわせるし、誰かが研究会を主催したり、書物の責任編集者になつたりして、これこれの部分についてつきあってくれないか、というようなことになると、けっしてイヤとはいえない仕掛けになっている。あるいは誰かが病気になったりしても、一両日中につたわってくる。もつべきものは友だち、とよくいわれるし、わたしはさいわいにしてよき友にめぐまれているけれども、そのなかで、とくにありがたいとおもっているのはこのグループなのである。そしてそれを象徴するかのように、毎年二月の末には、今西先生を中心に「洛北セミナー」という、いわば研究会OB会がひらかれる。0B会といっても、当時をなつかしむ式の宴会ではない。こんにちもなお、このときのメンバーは、かつてとおなじような学術討論に夜を徹するのが習慣になっているのだ。
こうした研究会活動は、その主題や方法については、もちろん、歴史的に流動的であったし、こんにちもそうであろう、とおもう。研究会を代表する先生の哲学だの、人がらだの、またそれに参加する学者たちの組みあわせによっていろいろなパターンをとりうる。わたしが直接に参加し、あるいは間接的にオブザーバーとして出席した諸研究会をくらベてみても、そのことはよくわかる。たとえば、清水盛光先生の「家族」についての研究会は、きわめて文献研究的であり、井上清先生の「米騒動の研究」は、新聞切り抜きの山に埋れての大作業であった。研究会のおこなわれる会議室に入ったとたんに、エリを正すような研究会もあったし、いったい、いつはじまって、いつ終ったのかさえわからないような、よい意味で不定型の研究会もあった。そして、人文の掲示板には、各研究班のスケジュールが整然と予告されていて、誰がどの研究会に出席してもよろしい、という、きわめて開放的なシステムをとっていたから、その気になりさえすれば、どこにでも顔を出すことは可能であった。いうなれば、さまざまな碩学の、さまざまな思索に、いつでも自由に接する由由があたえられていたのである。
その自由をわたしがどこまで利用したか、ということになると、これは、まことに心許ないはなしであって、はじめのころはともかく、あとはじぶんの所属する研究班のしごとで手いっぱい。よその研究班については、その動静を掲示板や噂話によって知ることができる、といったていどであったようにおもう。しかし、この研究所ぜんたいがおどろくべき知的エネルギーで充満していて、それが毎日、大きく鼓動しているのだということは実感的によくわかった。いくつかの例外はあったけれども、研究班のそれぞれの研究期間は三年間といった期限がついており、わたしはそんなふうにしてつづけられているもろもろの研究班をつぎつぎにわたり歩いた。助手として採用された当初は特定の研究班に配属され、いわば事務担当を命ぜられるのであったが、一定期間をすぎると、自由にじぶんの好きな研究班をえらぶことができた。だから、日本部の諸研究班のみならず、今西班にも入り、またあとでのべるように、桑原班にも参加させていただいたのである。そして、かんがえてみると、明治維新論から米騒動、サルやチンパンジーの研究から文学理論、離婚の調査から伝統芸術論―まったく雑多なテーマについて、雑多な勉強をした。いろんな「専門家」から、多様なことを教えられた。わたしは、じぶんの「専攻」が「社会学」であるのだ、と思いこんでいたのだが、「この道一筋」的な生きかたは、だんだんと心のなかから消えてゆき、そのかわりに、世界というものを見る多様な視角に魅せられる人間になっていったのである。
加藤秀俊著作データベース