日露歴史センター主催・ゾルゲ・尾崎秀実処刑60周年記念11/6講演会 プログラム原稿         


イラク戦争から見たゾルゲ事件

 

加藤哲郎(一橋大学大学院教授・政治学)

 


 1 情報戦としてのイラク戦争

 

 19世紀の戦争は、武力と兵士を主体とした「機動戦」「街頭戦」だった。20世紀の戦争は、経済力と国民動員を柱にした「陣地戦」「組織戦」だった。 21世紀の戦争は、メディアと言説を駆使して、グローバルな世界で正統性を競い合う「情報戦」「言説戦」になる──これが、私の主張の骨子である。

 このことについては、すでに多くの書物や論文で執筆し、またインターネットを駆使して、平和のための言説戦を展開してきた。たとえばイラクのアブグレイブ刑務所での虐待事件。米国の戦争の大義が揺らぐと、直ちに政権支持率に響き、国際世論の動向も無視できなくなる。それは直接に大統領選挙の帰趨にも反映する。大統領選挙そのものが、虚報・雑音を交えた情報戦となった。

 だが9・11以後の情報戦の一つの重要な特徴は、「陣地戦」の時代の20世紀後半、東西冷戦期の米国を動かしてきた情報機関CIAの権威失墜である。

 そもそもオサマ・ビンラディンは、CIAの反ソ戦略の鬼子だった。2001年9・11の航空機を用いたテロの情報を、米国諜報機関は集めていたにもかかわらず、未然に防げなかった。ノイズ=雑音と国家的重要情報の区別が分析できなかったのである。アフガニスタンのタリバン政権を倒し占領してまでビンラディンの行方を追ったが、行方をつかめずにいる。イラクの「大量破壊兵器」が虚報であったことは、いまではパウエル国務長官さえ公的に認めざるをえなくなった。アブグレイブ刑務所の虐待事件は、その衝撃的画像で、ついには国内マスメディアからもブッシュ政権の「いい加減な戦争」の大義を問われることになったが、現地の米軍兵士たちの所業を精査すると、その虐待=拷問とは、CIAが長く開発しマニュアル化してきた「敵スパイ」に対する尋問方法そのものであり、「上官の命令」なしにはできないものであった。

 ついには官僚的に膨張した各種情報・諜報機関を統合して新たな情報戦体制を組まざるをえなくなってきている。米国情報機関は、国際世論の前で正統性を問われるイラク情報戦において、いまや守勢にまわっている(加藤「大義の摩滅した戦争、平和の道徳的攻勢 ――アブグレイブの拷問をめぐる情報戦」『世界』2004年7月号)。なぜだろうか?

 

 2 旧ソ連の情報戦としてのゾルゲ事件

 

 「機動戦」「陣地戦」の時代にも、「情報戦」がなかったわけではない。国家間戦争の主要な側面ではなかっただけである。第二次世界大戦は、基本的には戦時総動員体制や軍事物資備蓄・供給、航空母艦や都市絨毯空撃が戦況を左右する「陣地戦」であったが、その「国民戦」「総力戦」の性格に関わって、「敵国」ないし「仮想敵」の国力を測定し、軍備・軍事拠点や「国民統合・動員」上の政治的弱点についての情報収集・分析・予測、戦略・戦術策定の基礎的情報収集・分析能力が、著しく重要な意味を持ってきた。ましてや第一次世界大戦の帰結として、ロシア革命と社会主義・共産主義勢力台頭を経験しており、資本主義勢力・社会主義勢力とも、諜報・情報技術を飛躍的に高めた。

 この時代に、社会主義・共産主義勢力の情報戦の中心になったのが、ソ連の秘密警察とコミンテルン=世界共産党だった。コミンテルンは、一方で各国支部=各国共産党がそれぞれの国で革命運動・労働運動を展開しながら、他方で「労働者の祖国」ソ連邦を防衛し拡大するネットワークを作った。第一の運動の最重要の顔であるドイツ共産党が1933年ヒトラー政権樹立で地下に追いやられ、「世界革命」の望みが最終的に絶たれると、コミンテルンの基本的活動は、ソ連の外交政策に従属した防衛的情報戦となった。そこで浮上したのが、第一の革命運動ではとるにたらない党でありながら、第二の情報戦・諜報戦では世界各地の活動にさまざまな人材を供給しうる米国共産党だった。ブラウダー書記長指導下の1930年代米国共産党は、そうした二重組織としてソ連共産党=コミンテルンから位置づけられ、世界各地での工作担当者を輩出した。

 次に紹介する手紙は、1935年夏、「反ファッショ統一戦線・人民戦線」を決議したコミンテルン第7回大会直後に、米国共産党書記長アール・ブラウダーがコミンテルン書記長G・ディミトロフに宛てた手紙である。

[文書20 ブラウダーからディミトロフへの手紙 1935年9月2日 

(旧ソ連秘密文書、RTsKHIDNI495-74-463、邦訳『コミンテルンとアメリカ共産党』五月書房、2000年、106ページ)]

「親愛なる同志ディミトロフ
 急いで出発するので、その前に貴兄と話すことはできないと思う。むろん、われわれの活動の主要な方針は、先の大会以後はっきりしているし、アメリカ合衆国共産党はそれを十全に実現するために全勢力を注ぎ込むだろう。だが、それでもなお、決定を必要とし、貴兄が熟知しておくべき問題がいくつか残っている。それについてかいつまんで話すことにするが、詳しいことが必要なら同志ゲアハルトに聞いてもらいたい。
1. ピーク、マヌイルスキー、クーシネン、エルコリと討議した結果、私の意見としては、同志ゲアハルトを少なくとも1936年初頭の党大会までにはアメリカに戻してほしいと思うし、そうすれば、その一方で同時に同志ゲアハルトはアメリカでドイツ共産党の活動をしながら、必要に応じて、大会の準備をすることができる。同志ゲアハルトは、われわれが次の大会を準備しているまさにこの時期だからこそ、アメリカ合衆国共産党にとってきわめて貴重な人材なのである。
2.われわれは同志岡野、東洋書記局、プロフィンテルンとともに、日本共産党への支援計画とも連動させつつ汎太平洋労働組合書記局の計画を練ってきた。全員がその計画に賛同し、同志ブラッドフォード(=ルディ・ベーカー、暗号名「サン」、最有力諜報組織「ブラザー・サン」を率いたアメリカ共産党地下活動最高幹部、ローゼンバーグら原爆スパイ工作指導者]現在プロフィンテルンの仕事でヨーロッパ滞在中)をアメリカに送りその計画を指揮させるという重要なポイントを含めて同意した。もし、貴兄がこの計画に同意するなら、残る問題は形式上の決定と資金の手配だけである。
3.目下、上海にいるアグネス・スメドレーが現地で反帝国主義の英字紙[Voice of China]を発行するのを援助するという提案は、最終決定されるべきである。情勢はますます好転しており、そのような新聞が出れば大きな影響力を発揮するだろうと、彼女は手紙に書いている。アメリカ合衆国共産党は、政治的にも技術的にも優れた助手を彼女に提供することができる。中国人の同志たちも同意している。ただし、これら上海の同志たちが、もし中国共産党と接触した場合にはその活動が危険に晒されるから、それを避けるために彼らに中国共産党と接触させないという条件つきである。このプロジェクトの政治的価値は明白だ。承認の形式的手続きと必要な資金の準備が待たれる。
 この3件は、未決の主要問題だ。迅速な決定が効果的な活動を促す。最後に、今大会とその成果についての深い満足と、この大会がアメリカ合衆国共産党および全世界の党を新しい高次の体験に導くだろうという私の見解とを表明しておきたい。アメリカ共産党がこの目的のために貢献し得るどんなことであれ、貴兄からの要請を私は喜んで受け入れる。
  モスクワ、1935年9月2日   友愛の熱い挨拶をもって アール・ブラウダー」

 この手紙ではなぜか、(1)ゾルゲ事件とも関係する「ゲアハルト」=ゲアハルト・アイスラー=米国共産党駐在コミンテルン代表(31年ヌーラン事件時のコミンテルン極東部上海ビューロー政治担当、ゾルゲと親しいドイツ共産党員)、(2)岡野進=野坂参三の米国での活動、(3)中国でのアグネス・スメドレーの活動が、一つの手紙のなかの三つの主要論題として語られている。

 

 3 米国共産党を介したゾルゲ諜報団と野坂参三の反ファッショ活動

 

 もともとゾルゲの1933年夏日本入国も、モスクワから米国ニューヨーク・シカゴを通ってバンクーバー経由横浜到着だった。その頃レーニン大学出身の米国共産党員ジョー小出=鵜飼宣道が、野坂参三の助手となるため帰国し、サンフランシスコの汎太平洋労働組合に勤務しながら地下活動を開始する。

 その直後に、同じく米国共産党員で西海岸労働運動(コミンテルンの第一の顔)にはほとんど参加しなかった宮城与徳が、日本へと旅発つ。34年、野坂参三が秘かに米国に渡り、ジョー小出の助力で『国際通信』を発行しはじめたころ、ゾルゲは尾崎秀実と奈良公園で出会い、本格的情報活動を始める。

 だが、尾崎とゾルゲは1930−32年、上海で既に会っていた。二人を上海で最初に引き合わせたのは、ゾルゲ供述をもとに判決文に入った米国人ジャーナリスト、アグネス・スメドレーではなく、尾崎秀実の当初の供述通り、鬼頭銀一という米国共産党日本人部の創設者(初代書記)だった。

 実はこの鬼頭銀一と、野坂参三助手ジョー小出は、1925−28年デンバー大学の同級生だった。共に日本ではキリスト教ヒューマニストであったが、デンバー大学でチェーリントン教授に学び、共産主義に近づいた。ニューヨークの米国共産党本部に抜擢され、鬼頭は29年上海汎太平洋労組派遣、ジョー小出が米国共産党日本人部第2代書記になった。ジョーは、その政治的才能と英語力をブラウダーに買われ、30年にはソ連のレーニン大学に派遣された。

 他方、1932年に上海から帰国して大阪朝日新聞本社に戻った尾崎秀実は、上海で31年に別件で逮捕され執行猶予で出所した鬼頭銀一が33年神戸でゴム販売業「鬼頭商会」を開くのを援助し、店員も紹介している。ゾルゲと奈良公園で会う前に、米国共産党の鬼頭と33−34年に会見を重ねていた。上海で鬼頭の勧誘により中国共産党と接触した水野成は、同じ頃、大阪の大原社会問題研究所に勤務しており、後に尾崎の誘いでゾルゲ・グループに加わる。米国共産党から直接派遣された宮城与徳はすでにゾルゲとの活動を開始していた。

 ここに、ブラウダーのディミトロフ宛手紙の意味が浮上する。モスクワの使命を帯びて、コミンテルン米国駐在員アイスラーと米国共産党書記長ブラウダーを中継地にして、中国のアグネス・スメドレーら、日本のゾルゲ・尾崎秀実ら、米国西海岸の野坂参三・ジョー小出らが、それぞれに使命感を持ち、一つの目的のために活動し援助されていた。彼らは「世界革命」の情報収集・心理戦=情報戦の戦士たちだった。たとえ実際は「ソ連擁護」であったにしても。

 

 4 アメリカにおける戦時OSS=R&A型情報戦とイラクのCIA

 

 ゾルゲ=尾崎らは日本で36年2・26事件を経験する。同じ頃、米国の日本研究は、宣教師の息子たちにより花開こうとしており、後に対日戦後政策策定に影響力を発揮するH・ボートン、E・ライシャワー、C・B・ファーズらは日本で学んでいた。2・26から日中戦争、中国西安事件・国共合作への展開が、アジアでの情報戦を、ソ連・米国の双方にとって死活のものにする。

 1941年7月、日本でゾルゲ・グループが摘発・検挙される直前に、米国ではナチス・日本・ソ連の情報布陣をはるかに上回る、情報戦に特化した政府機関が、英国の援助を得て作られた。ドノヴァンのCOI=情報調整局である。COIは、翌42年6月OSS(戦略情報局)に発展し、戦後のCIAの前身となる。COI=OSSの特徴は、世界全域を対象に情報収集・特殊工作網を「手足」として張り巡らしたばかりでなく、米国中の最高の「頭脳」を集めた調査分析部(R&A)を持ったことであった。OSS発足は原爆作成のマンハッタン計画と同時で、社会科学と人文科学、特に人類学・地理学・心理学等が全面的に戦争動員された。国務省や陸軍の在来情報機関が保守的な手工業的活動を展開している時、ドノヴァンのOSSは、左翼・マルキストをも積極的に取り込み「客観的・科学的分析」「現実的に可能な戦略・戦術情報」を提供した。最高時約2千人が加わり、前ハーバード大学歴史学部長ランガー等米国社会科学・人文科学界の重鎮たちと、彼らの選抜した最優秀な若手助教授・博士による情報分析体制がとられた。それがソ連のゾルゲ団風手工業的諜報組織を凌駕するのは、時間の問題だった。極東情報分析だけで数十人の専門家が配置されていた。だがOSSは45年終戦時、そこにコミュニストを抱えていた理由で、フーバーのFBIに告発される。支えのルーズベルトが死亡し、トルーマンに見放される。「手足」の諜報・秘密工作部門は47年CIAに受け継がれるが、「頭脳」のR&Aは解体する。一部は国務省等の各地域部局に分散・継承され、大部分は平時の大学・シンクタンク・財団等へと戻っていく。

 「頭脳」の脆弱化したCIAは、朝鮮・ベトナム・中南米など冷戦時代の戦場でも秘密工作を繰り返すが、戦後200か国近くに増えた国際社会に対応できなくなった。その帰結が今日のイラク戦争で、国際社会はIT革命・グローバル化にみあった新しい情報秩序を必要としている。ゾルゲ的な手工業的諜報活動は過去のものとなり、新たな「科学的」IT情報が支配的になる。だがそこでも残るのは、それに使命を感じ身を殉じる、情報発信・分析主体の有無である。



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