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Chin 雑記帳


2012年03月11日(日)

狆の班の呼び名はいつ頃から?


以前にも触れたと思いますが、狆には、顔の班をはじめ身体の班、その他飾り毛・口の周りの色

などに粋な名前が付いています。

私自身も、この粋な呼び名を気に入っていますが、はたして江戸時代に名付けられたものなので

しょうか。
 いつも、この疑問が頭を過ぎります。

戦後、出版された本には図入りで書かれているものもありますが、その呼び名がいつ頃付けられ

呼ばれる様になったのか調べてみましたが、今一つ正確なことは分かりません。


最近出版された本には参考文献を載せて、その情報の出所を示しているものが殆んどですが、一昔

前の書籍には参考文献を載せているものは殆んど無く、その情報の出所を探すのに苦労します。

狆の歴史を調べている過程で、古い書籍に目を通すことがありましたが、今の所それらしいものを見

掛けたことはありません。

たとえば、口の周りが綺麗な明るいピンク色をした狆のことを、森田屋口の狆と呼ばれています。 

ここに名前が出て来る森田屋さんは、口の周りが明るいピンク色の狆の改良に尽力したそうです。

狆のことを書いている本には良く載っている事ですし、この森田屋口の狆を残したいと思っているブリ

ーダーさんも多いと思います。

江戸時代の「宴遊日記」を読むと、森田屋と言う薬屋さんのことが出て来ます。 ひょっとしたら、この

森田屋さんが森田屋口の名前の元になった森田屋さんのことかと読み続けると、この森田屋さんが

狆を飼っていたと言う様なことは何処にも記されていませんし、まして口の周りが明るくピンク色の狆

の改良に尽力したなどと言うようなことはどこにも書かれていませんので、少しがっかりしました。

きっと、違う森田屋さんのことなのでしょう。

顔や身体の模様などに関しても、以前にも書きましたが 「島津斉彬文書 上巻」には黒狆と言う言葉

が出て来ますが、それ以上の物は出てきません。

また昭和35年に狆研究家の須永政三さんがある展覧会での審査の総評を記していますが、そこでも

具体的な顔や身体の班の呼び名は使っていません。

現在、戦争前の昭和13年に、狆研究家の須永政三さんが共著している成光館出版部より発行された

 「日本犬の研究」を、読んでみたいと思っています。


狆の班や飾毛・口の周りの色などの粋な呼び名が付けられたのが江戸時代からの物なのか、明治・

大正時代だったのか、それとも戦後 日本国内における狆の再生・復興の過程で愛狆家達に拠って

付けられたものなのかヒントがあるかもしれません。




          







2012年01月22日(日)

狆の戦後デビュー


マイ・レポートで狆の戦中・戦後の状況を調べている段階で「犬献納運動」に拠る「供出」と言う形で、

例外的な犬種を除いて、殆んどの犬は命を落とさなければならなかったことが分かった。


例外的な犬種とは、軍用犬・警察犬そして純粋な日本犬及び登録された猟犬であった。(狆は純粋な

日本犬とは認められて居なかった。)

戦争が終わった時に生き残った犬は、その供出を逃れた犬のみであった。


もちろん「狆」も、生き残った者は皆無と言っても良い状況であった。

飼い主によって密かに隠され、他の人間の目に触れない処で息を潜めて戦争の終わるのを待った

数少ない狆のみが、奇跡的に生き残った。


では戦後のどの時点で、「狆」が人々の前に再びその姿を現したのでしょうか。



大変興味を引く記事が、誠文堂新光社発行『愛犬の友』2009年1月号の中に書かれていました。

須田一郎著 「かっての人気犬種今昔」と言う記事です。 以下は、記事を抜粋させて貰ったものです。




『長期化した戦争で衣服や食糧確保に困った政府は、毛皮や肉の有効活用をしようと考えて犬の供出

を国民に働きかけた。

これは軍用犬・警察犬・天然記念物指定と登録した猟犬以外はすべて供出の対象としたので、愛犬家

はパニックに陥ったが行政には勝てず、泣く泣く犬を差し出した。そんなわけで、戦争が終わって気づく

と、残されたのはシェパート犬(S犬)と日本犬だけであった。


ところが昭和25年11月3日、ジャパンケンネルクラブ(JKC)が東京・上野恩賜公園で創立記念全犬種

展覧会を開催すると「小はポメラニアン、狆など愛玩種からグレート・デンの大に至るまで凡そ40余種」

(会報第2号)300頭が出陳され、日本にはいないはずの犬種がゾロゾロと姿を現し観客を唖然とさせた



理由はかんたん、犬はキャンプ出身だった。キャンプとは、連合国が作った特別区域のことで、そこに

住む米兵たちは出身地を懐かしみ「リトルニューヨーク」とか「リトルサンフランシスコ」と呼んだ。

このようなキャンプは現在も沖縄・佐世保・岩国・横須賀・横田・三沢などに存在している。 そこへ、

占領軍トップの連合国最高司令官マッカーサー元帥が昭和23年12月24日、日本民主化が軌道に

乗ったと判断し米兵の緊張を緩和するためにクリスマスプレゼントとしてキャンプ内での犬の飼育制限

解除を通達した(「ドッグガイド」昭和24年2月号)。

この報が伝えられると米兵は先を争うように本国から犬を取り寄せた。太平洋戦争中、日本の都市や

工場に爆弾を落としたB29爆撃機は犬を運ぶ輸送機に早変わりした。

その機数や飛行回数は軍事機密で不明だが、5万頭を超える犬が運ばれたと私は思っている。

訓練士はむろんドッグ・ボーイとして米兵に雇われた日本人も少なくなかった。

犬の多くは成犬だったのですぐ繁殖が行われた。1,2回は子犬の貰い手がキャンプ内にいたが、

あとからあとから生まれるのでさばききれなくなった。

そこで日本人に売り渡すことになった。 その世話役を務めたのが訓練士とドッグ・ボーイだった。』




この記事を読んだ時は、ショックでした。 

「狆」を、他の犬達とともに米軍が運んで来た。 それも、B29爆撃機で遣って来た。

狆の戦後デビューは、米国からB29に乗って来た狆が昭和25年JKCの創立記念展覧会での出陳

であったことも、驚きでした。


戦争中の『犬献納運動』に拠って多くの犬が軍需物資として、その命を供出させられたこともショック

でしたが、これに近い情報は前々から聞いたことがありましたので予想の範囲でした。

しかし、戦争中に姿を消してしまった狆や洋犬の戦後の日本への導入に関しては、単純に畜犬業者等

による輸入や占領軍の家族等が連れて来日したものと考えていましたので、米兵たちの早急な需要を

満たすためにB29爆撃機で犬の大量輸送が行われたと言う様な興味深い事実を知るのは初めてでし

た。





        
                  戦後間もなく作られた狆のボーンチャイナ







2011年12月18日(日)

順調です


12月 3日(土) 子宮摘出手術
12月 4日(日) 退院

12月14日(水) 抜糸

今回は麻酔後の喘息もなく、順調に回復しているハナです。


『後は、好きな物を一杯食べさせて、可愛がってやって下さい。』

『胴輪を使って補助しながら、出来るだけ歩かせるように。』

『人間と同じで、歩く様にしないと、歩けなく成ってしまう。』

動物病院の院長先生の言葉を、実行しています。


   






2011年12月3日(土)~4日(日)

子宮蓄膿症



もう直ぐ14歳になろうとする『ハナ』。

若い頃は、あまり病気とは縁が無かったのに、歳をとった最近は健康のことばかり書くようになってしまい

ました。


『子宮蓄膿症』、 以前から聞いたことがあった恐い病気ですが、家の子には関係無いと思っていました

が、年老いたハナのシーズンの出血が2カ月と長引き、出血の量の多さも半端なもので無かったので、

この病気を疑って病院で診てもうことにしました。

困ったことに、疑いが現実の物になってしまいました。

ハナの年齢のことと心臓病のことで、なかなか手術の決断ができませんでしたが、ハナが後何年頑張

れるか分かりませんが、老後を苦しまないで過ごさせてやりたく恐々手術を決断しました。

この病気を直すには手術しか方法がないそうで、子宮が膿でいっぱいになって破裂、膿の毒素が身体中

に飛び散ってしまう様な事態にならない前に、急遽子宮の摘出手術を行いました。

手術は40分程で終り、手術後間もなく病院よりハナが麻酔から覚めたと連絡があり、夫婦で会いに

行って来ました。

妻が『ハナちゃん』と名前を呼ぶと、大きな目を開いて私達を見て安心したのか、また うとうとと・・・・・。

通常は手術後3~4日は、入院するそうですが、状態が良ければ明日にでも家に連れて帰っても良い

と、院長先生より話しがあり、説明を聞きながら摘出された2本の子宮を見てみると、私の手の中指の

太さと同じ位までパンパンに膨れ上がり、メスを入れると青白い膿が溢れ出て来たのを見たときには、

 『手術をやって、本当に良かった』と思わずには居られませんでした。


        
                    病院から戻るなり、いつもの指定席の
                                   テーブルの下に潜ってお昼寝です







2011年8月6日(土)

亀戸動物病院


4月に体調不良のため、混合ワクチンを打てなかった花總を連れて、亀戸動物病院に行って来ました。

月曜日と水曜日そして土曜日の午前中は院長先生の診察日なので、ワクチン接種方々、色々なことを

聞いて来ようと、朝一番に行きましたが、院長先生目当ての患者さんや、遠方から来られる方も多く

大分混雑していました。


院長先生は、今まで何頭かの狆を診た経験があるそうで、いつも的確なアドバイスをしてくれます。 

わが家の狆達も、風花に始まり、花總、姫花と十年来、診てもらっています。


そこで、花總が先月より呑み始めたアリナミンEXの事について聞いたところ、アリナミンEXに入っている

ビタミンの殆んどは水溶性なので、1/4~1/2錠位ならずっと呑ませ続けても大丈夫とのことでした。

 『この子には、呑ませて下さい。』との先生の言葉に、今日から1/2錠を呑ませることにしました。


自宅に戻ってから、脂溶性のビタミンと聞いたビタミンEをネットで調べたところ、『ビタミンEも他の物質

に変わって尿中や胆汁を経て糞中に、また皮脂線からも体外に排出する。』と書かれていました。


 
                                                    亀戸動物病院






2011年7月9日(土)

アリナミンEX


1カ月程前、ご近所の方から上手く歩くことができないハナの様子を見て、家ではこの薬を飲ませて

いると教えて頂いたものがあります。

それは、アリナミンEXと言うビタミン剤です。


その方の飼われていたワンちゃんは、ハナより3歳ほど若く、しかも歩く状態ももっと良い状態だった

そうですが、フローリングやトイレシーツの上では滑ってしまい上手く歩くことが出来ない、そしてハナ

と同じ様に前脚を広げた状態で、座っていたそうです。

そのワンちゃんの飼い主さんは、ステロイド剤を使いたく無かったので、ステロイド系の薬を呑ませる

前に、この薬を試してみたそうです。 

1日1/2錠を40日呑ませ続け、40日で元の状態に戻ったそうです。 しかし、薬を止めたら、元の

状態に逆戻りだったそうです。  しかし、そのワンちゃんは、今も元気に過ごしているそうです。




      



私はビタミン剤など呑んだことも無く、初めの内は単なるお話しとして聞いていました。

ハナは、2~3年程前から年齢とともに頸椎の軟骨に当たる部分が尖って来て、そこが神経に当た

って激痛が走り、苦しんで来ました。

その都度ステロイド系の薬で痛みを和らげて来ましたが、何回も繰り返している内に、
症状が徐々に

悪化して、前脚の麻痺にまで繋がってしまったのでは無いかと思っていました。

このまま徐々に歩けなくなり、老いて行ってしまうのではと思っていましたし、また13歳5カ月と言う歳

も歳ですので、駄目で元々と思い、少し試してみて変化が無ければ止めれば良いと考え、少なめの

1/4錠を1日1回呑ませてみることにしました。


試してみると、本当に効果てきめんだったのか、それとも偶然だったのか、呑み始めたその日から

昨日まで歩くことが出来なかった所も歩いているではありませんか。 

目に見えて、元気になったことが分かりました。


ビタミン剤がこんなにも効くものなのか吃驚して、獣医さんの処に聞きにいきましたが、体内に蓄積

する物質があると、他の病気を誘発することもあるので、あまり多く与え過ぎない様にとの指示でし

た。


完璧に以前の様に元気はつらつとは行きませんが、1年ほど前位と同じぐらいの状態になった様に

思えますので
暫く様子を見ながらこの薬を呑ませてみようと思っています。

呑ませ始めてから、今日で3週間目になりますが、
現在のところ良い状態を持続しています



     
                                               Hana 13歳の夏






2011年6月11日(土)

ジャパニーズ・ローズ

ジャパニーズ・ローズとは日本原産のオールドローズの 『はまなす』 のことです。 雅子紀のお印

でもあります。
 
    


この花がどうしたのかと言いますと、ヨーロッパやアメリカで 『ジャパニーズ・スパニエル』 と呼ばれ

ていた狆は、1860年代中ごろには日本的な物 (ジャポニズム) として、欧米の人々の間で熱狂

の的となっていました。

そして、ドッグショーの花形として1865年英国のイズリントンでのドッグショーで、最初に賞に輝いた

狆の名前が、記録として残されています。

その名前が 『ジャパニーズ・ローズ』、和訳しますと 『はまなす ちゃん』 または 『日本のバラ号』

とでも言ったところでしょうか。




この受賞から12年後、1877年にウェストミンスターケネルクラブが、狆を『ジャパニーズ・スパニエル』

として公式の血統認証を行っていますし、1888年にはアメリカンケンネルクラブでは 公認犬種として

登録されることになりました。

そして、世界最大のドッグショーで、120年も続いているクラフト展の第一回目の開催が、このロンドン

の北部に位置するイズリントンで1891年に行われています。



                                  現在のドッグショーでのチャンピオン認定証



    2001年にベルギーのFCI本部より風花荘花總に贈られたFCIインターナショナルチャンピオンの認定書です。




この頃欧米では、狆は上流階級のご婦人たちに特に人気があり、その中でもイギリスのアレクサンドラ

王妃は有名です。

フランスでは、 エデュア-ル・マネ と ピエール・オーギュスト・ルノワール が同じ狆 『たま』 の絵

を描いています。

また、1864年には 『チン・チン』 と言う名の狆に良く似たペキニーズが、ダブリンで行われた第1回

アイルランド・ドッグショーで、ウィナー犬に輝いています。

アジアから遣って来た鼻ペチャで似た様なニつの犬種への欧米の人々の興味は、東洋的な物として

熱狂的なブームを引き起こしたのでしょう。






2011年6月4日(土)

幕府よりヴィクトリア女王へ贈られた狆の真偽


私は、以前からパズルを解くように頭を悩ませていることがあります。

狆を飼っている方には、つとに有名な 『日米和親条約締結時に幕府よりイギリスのヴィクトリア女王

への贈呈品としてペリー提督に渡された狆』 のことです。


狆を扱うどの本にも、そのことが書かれ、疑いも無い事実として語られて来ました。以前から疑問を

抱いているのは、私ぐらいかもしれません。


真偽はどうなのか。

真偽はともかくとして、私が集めた情報を下記の表にしてみました。


赤い鳥
ペリー提督来航記
鈴木三重吉著
幕府よりアメリカ大統領に贈られた狆3頭、その内2頭は大分長く生きた。
ペリー提督に贈られた狆2頭、1頭は航海中死んだ。

産経新聞コラム
SUSIとハンバーグ
幕府より米国のピアース大統領に狆2頭、ペリー提督に狆2頭、英国のヴィクトリア女王に狆2頭が贈られた。
米国大統領と英国女王へ贈られたペアーはどうなったか。両国の公文書に狆が手元に届いた記録がない。
航海途中に死んだらしい。

柳川当清航海日誌

ペリー提督来訪6年後、万延元年(1860年)の遣米使節がニューヨークのペリー邸を訪問。『2匹の狆来て衣類を嗅ぎ、日本人なるを知りて大いに喜び羅ることきわまりなし』の記述
(産経新聞のコラムに掲載)

犬の帝国
岩波書店発行
アーロン・スキャブラント著
本橋哲也訳
徳川将軍家がアメリカのペリー提督に4頭の狆を贈った。
ペリー提督はその内の2頭の狆(スパニエル)ミヤコとシモダは英国のスターリング提督経由でヴィクトリア女王に贈っている。女王が受けとった記録もないので、船旅の間に死んでしまったのかもしれない。
他の2頭の狆マスター・サム・スプーナーとマダム・イェドは、アメリカに向かう船旅で死んだ
ペリー提督は、更に2頭の狆イドとジャップを他の処から手に入れて娘に送ったが、1頭だけ船旅に耐えて生き残った。
1860年の遣米使節が亡きペリー提督の夫人をニューヨークの娘婿のベルモント家に訪ねたときに、一行が家に入るやいなや喜んで出迎えたのが、その狆であった。


ながさき経済
日英交流150周年
扉が開いたその時
長崎経済研究所発行
岩崎隆幸著
1854年日英和親条約締結時に、英国のスターリング提督が長崎奉行水野筑後守に所望して、ヴィクトリア女王への献上品として2頭の狆が贈られた。
この狆は、目付永井岩之丞が長崎中を探して買い求めた雌雄で十両もする名古屋産の最良種の狆であった。



上記の資料から、幕府からぺりー提督へ、狆が贈られたことは事実として確認できますが、幕府より

ヴィクトリア女王への献上品となると、記載されている資料、記載されていない資料と、まちまちです。

また、幕府より贈られた狆の数もまちまちです。



大正時代に鈴木三重吉氏に拠って書かれた『ペリー提督来航記』には、ヴィクトリア女王のことは

一切触れられていません。

『犬の帝国』を書いたアーロン・スキャブラントも徳川将軍家がペリー提督に狆を贈ったことを書いて

いますが、ヴィクトリア女王への献上品としてペリーに託したとは書いていません。

しかし、『ペリー提督が徳川将軍家より贈られた狆を英国のスターリング提督経由でヴィクトリア女王

へ贈った』ということは確かに書かれています。 



ペリーの艦隊が日本よりの帰路、香港に寄港し幕府よりアメリカ大統領およびペリー提督の両名に

贈られた狆(小さなスパニエル種の犬)を見学させたり、犬好きで有名なヴィクトリア女王のために、

ペリー提督よりの贈り物として、スターリング提督に預けた可能性は大いにあると思います。



アーロン・スキャブラントが 『帝国の犬』 の中で、  『ぺりー提督が英国のスターリング提督経由で

ヴィクトリア女王へ、ミヤコとシモダという名前の狆を贈った』と書いていることと、『ながさき経済』の

『日英交流150周年 扉が開いたその時』 に書かれている 『スターリング提督が長崎奉行に所望

して、ヴィクトリア女王への献上品として2頭の狆を贈られた』 という2つの事柄は、同じ1854年の

出来事、 同じスターリング提督と狆に関わることとして、興味を引くものです。



日本に初めて遣って来たイギリスのスターリング提督が、長崎奉行にヴィクトリア女王への献上品

として『狆』を所望したこと自体、スターリング提督が日本に来る前から 『狆』 の存在を知っていた

事の証拠です。

そして、幕府よりペリー提督に贈呈され、ペリー提督よりヴィクトリア女王への贈り物として、香港で

スタリーング提督に預けられた2頭の狆と、スターリング提督がヴィクトリア女王への献上品として

長崎奉行に所望し、贈られた2頭の狆のどちらが、長い航海を生き抜いて、ヴィクトリア女王の元に

届いたのでしょうか。  



上記の二つの出来事は、ヴィクトリア女王へ幕府から貰った狆を献上する事や、献上する狆の数、

スターリング提督が関わっていること、そして同じ1854年の半年の間の出来事など共通点が多く

あります。 この辺に、以前から私が抱いていた疑問を解くカギがあるのかもしれません。










2011年6月4日(土)

日英交流150周年 扉が開いたその時
  
(長崎経済研究所発行『ながさき経済』2004年10月号より抜粋) 


はじめに

 話は、1853年まで遡る。近世日本が大きな転換期にさしかかり、鎖国の窓が開け放たれる

きっかけとなった2つの事件が起こったその年である。 2つの事件とは、皆さんもよくご存じの

アメリカ提督ペリーの浦賀来航と、ロシア提督プチャーチンの長崎来航のことである。

江戸幕府が欧米諸国と調印した「和親条約」は対アメリカが最初で1854年3月31日、

対イギリスが同年10月14日で、対ロシアが翌年2月7日であった。

今年は、日英和親条約が長崎の地で調印されてからちょうど150年の節目の年にあたる。

そこで本稿では、イギリスとの条約調印に関してスポットを当て、当時の様子をできるだけ

リアルに再現してみよう。


 
 簡易年表(主な出来事)    
西 暦  月 日    出  来  事
1853年 7月8日 ペリー浦賀に来航
* 8月22日 プチャーチン長崎に来航
1854年 1月3日 プチャーチン長崎に再来航
* 2月13日 ペリー再来航
* 3月28日 クリミヤ戦争勃発(英・仏、ロシアへ宣戦布告)
* 3月31日 日米和親条約調印
* 9月7日 スターリング長崎に来航
* 10月14日 日英和親条約調印
1855年 2月7日 日露和親条約調印



長崎での日英交渉

 日英和親条約は思わぬきっかけから、長崎の香焼島の沖での交渉がトントン拍子に進み、

鎖国後第2番目の条約としては交渉開始から1カ月余りと異例のスピードで長崎奉行所西役所


(現在の県庁)において調印されることになる。



(1)黒船来航


 1854年9月7日の長崎奉行所の様子はいったいどのようなものだったのか、そこから話を

ほりおこしてみることにしよう。


辰の刻(午前8時ごろ)、長崎奉行所水野筑後守が朝の手水を使っているところへ、目付の

永井岩之丞がセカセカとやって来た。


「申し上げます。ただいま黒船1隻、しかも軍艦らしいものが香焼島の大中の瀬戸まで入って

参りました」

「また、軍船の推参だな。唐船、蘭船とも予定通りに入港を済ませているから軍船に違いあるまい。

今度はイギリスか」

「ご明察の通りと存じます」

というよな2人のやりとりからもわかるように、存外にいたって冷静な感じを受ける。それもそのはずで、

その年の3月にはクリミア戦争が勃発し、香港に集結したイギリスの東インド艦隊が、東シナ海から

日本海の海域まで、しきりにロシア艦隊を追い回しているという噂をもうこの時代の長崎人はよく知って

いたからだ、といわれている。


目付役の番船が香焼の栗浦沖で石火矢を放ちながら偵察してみると、まさしくイギリス艦隊、軍艦1隻

(ウィンチェスター号)と蒸気船3隻(エンカウンター号、バラクータ号およびスティクス号)がユニオン・

ジャックの旗印を掲げ、大中の瀬戸にゆっくりと錨をおろしていた。
 目付助役中村六次郎ら役人たちは

艦長室に通され、その中の低い、浅黒い男が鮮やかな日本語で話し始めたのには一同驚いた。



「これは、これはお役人さま方お役目大義に存じます」

「そういうお前はだれじゃ、日本人か」


「いかにも、まぎれもなき日本人。しかし、手前の身柄はただ今、ぶりたにや国人別(英国に帰化)に入り、

役目は通詞でござる」

「さて、貴艦入港の目的は」

「この軍艦はロシア船を追跡中のもの。日本でいえば、追手船でござる」


 草速、通詞オト(乙吉)という日本人の仲立ちでスターリング提督との交渉が始まった。去年のプチャーチン

のそれに比べて、装備なども一見して段違いに優れた旗艦で、このスターリングという男もスラリとした優男

に見えた。

しかし、追手船と聞いてさすがの中村も顔色が変わった。交戦国軍艦の立ち入りうを厳重に拒絶するのが、

中立国管理者の心得である。 このスターリング隊は開戦と同時に、プチャーチン隊を追いかけたが、

ペトロパウロスク港に逃げ込んだことがわかった。しかし、その配下のポシェット隊が長崎近海から沖縄辺り

をうろついていると見て、これを血祭りにあげようと入港して来たのであった。



(2)重大な申し入れ


 なにはともあれ、中村はすぐ漕ぎ返して奉行と上役の永井に報告した。 江戸表へ早馬や早飛脚が飛ぶ。

ノロシもあがった。去年のプチャーチン隊の入港より、港はぐっと緊迫した動きをみせた。当初の入港目的は

ロシア船の追跡だったスターリングだが、ポシェット隊もまたペトロパウロスク港に無事逃げ込んだとの確報

が入り、さぞがっかりしただろうと思いきや、本来江戸へ回航して行うつもりだった開国の申し入れを長崎で

行うことに切り替えたのだった。


「改めて貴国に対し、重大な申し入れの命令を受けてきていることを、お伝え申す」

「いずれ、江戸より回訓があるまで相当な日数を要すること。ゆるゆる英気を養って下さい。それよりお国

にて何か日本の特産品でも欲しいとのご希望があれば、できるだけご満足のいくように尽力します」
 

 まさに狐と狸の化かし合いである。 しかし、「去る3月、アメリカと結ばれた和親条約と同様の条約を

この港で調印したい。江戸湾に入るよりもお互いに長崎の地で交渉した方が円満に事が運ぶのではないか」

と主張するスターリングの方がどうも一枚上手だったようだ。一方、奉行側の対応はというと「こちらは手の内

を見透かされているようだし、幕府としても江戸や京、大阪での交渉より、この長崎で交渉を行った方が

無用な邪魔が入らなくてよいかもしれない」とまったく弱気であり、再度早飛脚を出している。



(3)扉が開いたその時

 イギリスの当時の新聞記事から、その時を振り返ってみることにしたい。


 スターリングが最初に長崎奉行の水野に面会したのは1854年10月4日のこととされている。それから

わずか5日後の10月9日には、長崎奉行は将軍からの回答を受け取っていた。それは、英文で書かれた

長い一巻の巻物であり、次のように記されていた。(以下、原文を和訳)

「私は長崎の主たる役人に、わが国の法律と利害とが許すような条約を自分の名において締結するように

任命した。また、私はオランダ・中国の両国民に限られた特別の商業特権だけは除くが、最恵国により享受

せられる全ての便宜をイギリス人に譲与する」


 それから、なお5日が条約起草のため費やされた。日本の役人が1日数回も艦上に来て、あれこれ

細部にわたって調整を行った。

扉が開いたその時とは、10月14日(嘉永七年八月二十三日)のことである。スターリングが長崎来航後、

ちょうど38日目での調印であった。その日の朝、スタ^リングは以前のように随員を伴って西役所に赴いた。

条約は長崎奉行によって読み聞かされ、午後2時ごろ2通ともに署名を行った。

それから、全文が正確であることを確かめるためにオランダ商館に送った後、長崎奉行水野筑後守、目付

永井岩之丞がそれぞれ署名を行い、1年以内に批准を行うことで合意した。

 条約の内容そのものは次のようにいたってシンプルなものであった(意訳)。

一、ぶりたにや国軍船の提督スターリングに対し長崎奉行水野筑後守、目付け永井岩之丞は日本国政府

   の命を受け、燃料、飲料水、食糧など船中必需品を用立てる又、破船修理の為に長崎と函館両港に
   
   ぶりたにや船が入港する事を許す

一、長崎は今からすぐ入港を認める。函館は長崎を退帆してから五十日以上を経て寄航すること

一、難風に遭った場合の外、船が破損せずして函館、長崎両港以外の港にみだりに立ち入ってはならぬ

一、この後とても渡来する英船がもし日本の法律を犯すことがあれば函館、長崎両港にも寄航を禁ずる

一、今度約束した函館、長崎両港以外、今後他の外国船へ寄航を許す港ができれば、その国の船同様、

   ぶりたにや船も取り扱う



おわりに

 この長崎で調印された条約には、商業貿易についての条項は何も含まれていなかった。しかし英国に

とって、この重要な点については以後交渉の機会を持つための道筋は残されており、暴力も脅威もなく

目的が達成されたことに意味があるのではないだろうか。また、日本国民にとっては、世界の利害が次々に

押し寄せる時代背景の中にあっては、これまでの鎖国という孤立した状況から、『他国民と同様に文明化

された慣例の方に向きを変えて進まざるをえなkなった」ことを理解させるきかけとなったのだろう。

 最後に、ひとつのエピソードを紹介して、今回の話を終わりにしたいと思う。

スターリングがビクトリア女王に献上するために奉行に所望した物の中に、日本の狆(チン)のつがいが

あった。

形もよく白地に少し黒い斑点があって首の周りには赤い絹のケープをしていた。これは、永井が長崎中を

探して雌雄十両で買い求めた名古屋産の最良種であった。このチンも長崎でのこの交渉に大きな役割を

果たしたのだろう。 スターリングはこの可愛いチンに頬ずりをしながら、10月20日、来航から6週間後に

長崎を出港した。



                                                        (石橋  隆幸)

(参考) 「開港四百年 長崎の歴史」 松浦直治緒 株式会社長崎文献社発行
     「描かれた幕末明治」 金井圓編訳 株式会社ティービーエス
ブリタニカ発行
(協力) 株式会社阪急コミュニケーションズ
 書籍編集部



上記の文章は、株式会社長崎経済研究所様のご許可を頂き、『ながさき経済』2004年10月号より

『日英交流150周年 扉が開いたその時』石橋隆幸著を転載させて頂きました。









2011年5月20日(金)

ポストカードの犬は


イギリスでは1895年~1896年にリバプール地方で、狆の愛犬家たちに拠って 『ジャパニーズ・

スパニエル・クラブ』 と言う小さな愛犬クラブが結成されたそうです。



それから15年程経ったころの 『スパニエル犬』 と言うことで譲って頂いたイギリスの絵葉書が、

私の手元にあります。

1910年ごろアメリカで印刷され、ロンドンで発行された、女性に抱かれた可愛い鼻ぺちゃの犬の

絵葉書です。

譲って頂いた絵葉書には、 『別嬪さん達』 とでも訳したら良いのでしょうか 
『BEAUTIES』 と

書かれていて 、どこにも 『スパニエル犬』 とも 『狆』 とも書かれていません。

この犬は、耳の毛が少しばかりウェーブがかかっている様にも見えますが、私には狆を描いた絵に

間違い無いと思えます。



欧米では 狆は当初 『ジャパニーズ・チン』 では無く 『ジャパニーズ・スパニエル』 と 呼ばれて

いたそうです。

欧米の方には 『狆』 はスパニエル系の犬に見えたのかもしれません。

そう言えば、ペリー提督の日本遠征記に書かれている 『狆』 も 『小さなッスパニエル種の犬』

となっていましたよね。



イギリスのスターリング提督が1854年に日英和親条約締結時に長崎奉行へ所望して、ヴィクトリア女王

への献上品として持ち帰った狆が、それから50年後のイギリスでは狆がポストカードに登場するほど

ポピュラーで人気のある犬種になっていたと言うことは嬉しい限りです。




大分前に読んだ本には、大正の初めごろ横浜港から欧米に行く船の多くに、輸出用の狆が積み込まれて

いたと書かれていた様に記憶しています。

明治、大正を通して、日本からこの絵の様な愛くるしい狆が、どこの国にどの位の数が

輸出されていたのか、また輸入された国々で、どの様な繁殖・飼育がされていたのか、

非常に興味を感じる処です。




           







2011年5月5日(木)

狆の絵がある美術館・お墓があるお寺


狆は江戸時代から大正時代の初め頃まで人気があり、人間と寝食を共にして来たにもかかわらず、

その存在を絵画や浮世絵などの中に求めようとしても、なかなか出会うことができません。


江戸時代は、狆と言っても、多くの小型犬が全て狆であり、その中に現在私達が狆と呼んでいる犬も

いたと言った方が良いぐらいですので、他の小型犬の方がが多く色々な絵や浮世絵の中に出て来る

ことは仕方が無い事かもしれません。


幕末に欧米人がやっ来ると、それまで狆と呼ばれた小型犬が沢山いた中でも大名家や大奥などで

好まれていた最上級の口吻の詰まった、目が大きく毛がふさふさとした東洋系の小型犬のみが

欧米人の目にとまり、人気、売れ筋となり、そのタイプの狆のみが狆を商う『ちんや』などで唯一

盛んに交配・繁殖・量産され、幕末から明治初期の短期間の間に狆イコール現在狆と認識される犬に

なったと想像されます。

江戸から昭和にかけて描かれた狆の絵が所蔵されている美術館や狆のお墓があるお寺を上げてみま

したが、現在私達が認識している狆の絵はほんとうに少なく、下記の中にも狆と名前が出てきますが、

洋犬か雑種犬ではないかと思われる狆の絵も含まれています。



江戸から昭和にかけて描かれた狆の絵がある美術館・狆のお墓があるお寺

①下関市立美術館 鏻姫像 
狩野芳崖
山口県下関市長府黒門東町1-1
②五島観光歴史資料館 犬の絵
白濱徴
長崎県福江市池田町1-4
③茨城近代美術館 緑衣
熊岡美彦
茨城県水戸市千波町字東久保666-1
④河鍋暁斎記念美術館 寛永時代美人図
河鍋暁翆
埼玉県蕨市南町4-36-4
⑤東京国立近代美術館 狆(木版画)
高橋弘明
東京都千代田区北の丸公園3-1
⑥奈良県立美術館 遊女図屏風
山口素絢
奈良県奈良市登大路町10-6
⑦港区教育委員会 狆の墓石
大圓寺跡地より出土
東京都港区芝5-28-4港区立港郷土資料館
⑧長崎県大村市本経寺 ハナ丸の墓石
大村藩藩主墓所
長崎県大村市古町1-64
⑨太田記念美術館 狆大判団扇絵
葛飾北斎
東京都渋谷区神宮前1-10-10
⑩板橋区立美術館 狆と芸妓図
水野蘆朝
東京都板橋区赤塚5-34-27
 
 (注)狆大判団扇絵狆と芸妓図は小型犬の絵で、現在狆と呼ばれている犬の絵ではありません。

  








2011年4月28日(木)

大正時代のポストカード


神田美土代町の美術工藝会発行の絵葉書を入手しました。

ここに描かれている油彩画は、大分前になりますが、ネットの検索で見掛けた絵です。

茨城近代美術館所蔵 の熊岡美彦画伯の『緑衣』(別名 三井夫人)と言う絵です。

この絵は1925年(大正14年)に第6回帝展で帝国美術院賞を受賞した作品です。

別称の如く、大正時代の三井家の夫人を描いた作品と思われますが、そこに2頭の狆が、

1頭は夫人の足元で安心しきって眠りについていますし、もう1頭はソファーの上で夫人に

可愛がられている作品です。



 



大正14年と言えば、洋犬の人気におされ、狆の人気が無くなって来たころだと思いますが、

この絵から感じられることは、上流家庭のご婦人の間では、まだまだ狆の人気は健在だったのか、

また、この様なご婦人たちが、狆を愛でながら、先の大戦まで、そしてその血をひく子孫を

現在まで伝えてくれたのかなとも想像を膨らますことも出来ます。








2011年4月27日(水)

キャバリアそれともキングチャールズ


先日、何気なくネットオークションを見ていると、頭部が丸く 鼻・口は短吻で、バタ臭いけど

どことなく狆の顔つきに似た3頭の犬の絵ハガキが出ていました。

ウェーブのかかった耳の毛、そして悪玉3人組の様な眼差し、ちょっと興味をひく存在でした。

説明には1907年の消印があるイギリスの古いキャバリア犬の絵葉書と書かれていましたが、

狆の血をひく古いタイプのキャバリア・キングチャールズ・スパニエルの写真ではと思い、

終了まで残り30分を切ったオークションに参加してしまいました。




なにせ、犬のことには詳しくない私ですので、キャバリアとキングチャールズ・スパニエルの違いも

分かりませんでしたが、色々教えて頂いた結果
以下の通りの様です。

① キングチャールズ・スパニエル  イングリシュ・トイ・スパニエル
② スパニエル犬:  昔からイギリスに居た鼻吻の長い犬
③ キャバリア:    昔の本来の姿に戻そうと作り上げた犬種
④ キングチャールズ・スパニエル
: 東洋から来た短吻犬とスパニエル犬との混血により短吻で
                      丸顔の犬を作出




 



この絵葉書には、今から100年以上前の1907年の消印が押されていましたが、この犬たちは

イギリスに居た小型のスパニエル犬に狆などの東洋の短吻犬の血が入れられて作り出された

キングチャールズ・スパニエルなのでしょうか?

三頭とも口吻のつまった顔や丸いアップルヘッドの頭など、日本の狆と何らかの縁を感じさせる

のに十分な犬達の様な気もします。








2011年4月16日(土)

フォルテコール
 

ほんとうに久しぶりに更新します。

ハナも昨年8月に抜歯してから、暫く元気を取り戻していましたが、
13歳を迎えた2月頃より


家の中でも、フローリングはもとより畳の上も滑って歩くことも儘ならない状態になってしまいました。

行動範囲は、日常の自分の塒の座布団2枚分のスペースと畳の上に敷いた長めのキッチンマット、

そしてフローリングの上に敷いたカーペットのみです。

今日も、前脚を八の字に開いて座布団の上でお昼寝をしています。

このままでは歩けなくなってしまうと思い、毎日朝晩、200メートル程の距離を一歩々々、

ハナのペースに合わせて、時間をかけて散歩をするのが日課になっています。



ちょうど1週間前の日曜日の早朝、『キッ キッ・・・』 と助けを呼ぶような甲高い泣声と共に

ハナが倒れてしまいました。

何が、起こったのか。

飼い主夫婦は突然のことで、どうして良いか分からず、右往左往。

身体もダラーとして冷たく、舌も真っ青、瞳孔も開いている様、呼吸、心臓の鼓動も無いみたい、

もう駄目かと・・・・。

『最初の5分で助かるかどうか決まる。15分経っても蘇生しない場合は無理。』と、何かで読んだ

記憶を思い出し、無我夢中で心臓マッサージらしき事をを繰り返していると、 ピックとハナの耳が

動いた。

『しめた!』 と思い、すぐ家内が口の中に指を入れ『気道を確保』。

『チュー・チュー』とハナの舌が、指に吸いついて来た。

間一髪のところでハナは蘇生しましたが、ハナの倒れていた後には少量のオシッコの溜りと

親指の先ほど便が残っていました。   


     
                                         花總13歳( 2011年4月16日)


後日、掛り付けの獣医さんで検査をしましたが、エコーでの検査で心臓の動きに異常が見つかり、

フォルテコール錠を処方され、様子を見ることになりました。

ハナの母親の風花も心臓が悪く、空咳をしていましたので、エナカルド錠を処方されていましたが、

同じ心臓の薬だと思いますが、フォルテコールとエナカルドとでは、どの様な違いがある薬なので

しょうか。

獣医さんからは、今後同様な発作が起こった場合は、舌をつまみ出して気道を確保すると共に、

1秒に1回の間隔で、心臓の上を押してやる様にと言われましたが、慌てている時に、

それも素人がちゃんと出来るかどうか不安です。

 



薬の説明に以下のことが書かれていました
【フォルテコール錠2.5mgフレバー】
成分名       ベナゼプリル塩酸塩
適応・効能効果  このお薬は、ACE阻害剤です。血管を拡張させることにより心臓と肝臓の負担を
           軽減させたり、心臓の肥大を抑制するお薬です。
注意事項     本剤投与後、嘔吐や下痢が持続したり悪化した場合や、その他の異常があらわれた
           場合はすぐ獣医師にご相談ください。
保存方法     直射日光や高温多湿を避け、機密容器に入れて保存して下さい。








2010年9月20日(月)

狆のお墓

9月23日は、わが家の初代の狆『風花』の命日です。

風花は両国の回向院で眠りについています。



       
                          
2006年8月の風花(12才)とハナ(8才)



回向院は、将軍家綱の愛馬が葬られたことなど、江戸時代から動物に所縁があるお寺ですが、


現在ではペットのお墓として有名です。

お彼岸には大勢の人が亡きペットの霊を弔うため、お参りに来て塔婆を立てます。



   
     



また、長崎県大村市の本経寺には世界で最古と思われるペットのお墓があります。

大村藩の藩主の墓所の一隅に立つ高さ90センチ程の小さな狆の墓です。

1650年(慶安3年)大村藩主大村純信が江戸表で急逝した時、守役であった小佐々前親は

追腹して殉死しました。
            

その荼毘の際に愛犬の狆『ハナ丸』が後を追い火中に飛び込んで命を果てたそうです。

家人がその心を哀れんで、『ハナ丸は、いつも前親の抱かれていた。慶安3年 純信の後を

追って
殉死した前親の荼毘の火に飛び込んで死んだ。』と碑文を刻んだ小さなお墓を建てた

そうです。


余談ですが、小佐々家の一族には1582年(天正10年)に少年使節としてローマに派遣された

中浦ジュリアンがいます。



     
                                           
                                      小さなハナ丸のお墓







2010年9月4日(土)

備前焼の狆


先日届いた備前焼の狆の置物です。

岡山の窯元に電話をかけて色々教えていただきました。

『狆の置物は、戦後になってから6回
ほど作った事があるが、手間がかかるために、それほどの

数は作って居ない。』とのことでした。

6回作った狆は、それぞれ容姿が違うようで、私が購入した狆の置物は何時作った作品かは、見て

みないと分からないそうです。

電話を切った後、思ったことは12年ごとに遣ってくる戌年は、ちょうど戦後6回ありますし、戌年に

その年の干支として作っていたのではと・・・。


        


備前焼のコレクションは初めてですが、窯の中で降り注いだ松の木の灰によって、狆の背中や手鞠を

自然釉が胡麻模様に作り出して、何とも渋い色合いに仕上がっていて魅力的です。

この備前焼の作品は庶民的ですが、狆の特徴を良くとらえていますし、狆の伸びの姿勢、表情が、

とても愛くるしくて気に入っています。







2010年8月29日(日)

“狆“を飼育して16年目の雑感


私は狆と言う犬種を飼い始めて、まだ16年しか経っていません。

1年半も待って、わが家に遣って来た狆のために、急遽ペット可マンションに引っ越したことに始まります。

このマンションで、3頭の狆を育て、初代の狆『風花』の最後も看取りました。

飼育した頭数も風花に始まり、その娘の花總、そして風花の孫の姫花の3頭のみです。


                  


この美しくて賢い犬種の魅力に引かれて
色々とこの犬種のことを調べもしましたし、犬の団体にも所属して

みました。

ジャパン・ケンネル・クラブ、日本狆クラブ、国犬狆保存会と、それぞれ所属させてもらったことがあります。

色々な事を教えてもらったし、経験もさせてもらいました。


ある団体の会報の創刊号には非常に興味を引く記事が載っていましたし、この犬種を復興させようと情熱を

もって真実を追及するような意気込みが感じられました。

狆を飼う前から国会図書館に、その会報を順次読むために足繁く通ったものです。


その会報に記されたある古老の評を何回も読み直しました。

私が疑問に思っている色々な事へのヒントが出て来るような気がします。



現在の様なネット社会では、情報を得るのに本当に便利になりました。

一昔前までは、一冊一冊こまめに調べて行かなければならなかったことが、どの本にどの様な情報が

載っていると労せず知ることが出来るようになりましたし、それぞれのサイトの管理者の意見を読むことが

出来るようにもなりました。



私が狆を飼おうと思った16~18年前は、ほとんどと言って良いほど街中では狆を目にすることは無かった

と思いますが、近頃は、結構見掛けるようになりました。

最近見掛ける狆は、私が子供のころ見掛けた狆の様な大きさで容姿も似ている様に思えます。

ある団体に所属している時、その団体の上の方の方と知り合うことができ、狆の事で少しお話をすることが

ありましたが、その当時、日本の狆の大きさが急激に小さくなっていることに危機感を持っていた様に思われ

ました。


その当時は、狆の人気がイマイチ無かったので、繁殖専門のブリーダーさんも狆の繁殖には力を入れて

いなかったし、
少数の狆の熱狂的な愛好家が繁殖した狆も、手に入れるには容易では無かった様に記憶して

います。


その当時、繁殖している方々は、皆ラインブリードを心がけていた様でしたが、皆考えることは同じで、賞歴の

良い牡狆に交配の依頼が殺到し、気が付けば、周りにいる狆は、皆親戚になっていたと言う具合だった様に

思われます。


その当時読んだ本に、『イギリスの犬のブリーダーは、何代かラインブリードの繁殖が続くと、一度、他の系統

の犬とアウトブリードの繁殖を行い、・・・・・・・・。』と書かれていた様に記憶しています。


私は、繁殖を行っていませんが、健康で可愛く、その犬種の特徴を立派に表している犬を作り続けることは、

大変なことなのでしょう。




            




第2次世界大戦後の狆の輸入数が知りたくて、色々なデーターを探しましたが、探すことはできませんでした

が、私の想像では、戦後の壊滅的な数まで減った狆の復興に、欧米からのある程度の数の狆の輸入があった

のでは無かったのかと考えています。

また、最近の状況を見てみますと、10年程前に100頭ほどのアメリカ産の狆が台湾経由で輸入されたと

聞いたこともあります。



その一方で、愛狆家が高じて、趣味の範囲で繁殖を心がけていたブリーダーの方も、年齢とともに一人減り、

二人減りと、本当に少なくなって来た様に感じ、寂しい限りです。






2010年8月8日(日)

ハナ復調、朝の散歩♪♪





抜歯後1週間も経ち、
ハナも以前と同じ様な元気を取り戻し、昨日、今日と早朝に2キロ程を1時間かけて

散歩をして来ました。


毎日、猛暑が続き、朝5時から6時位の時間が散歩にはちょうど良い時間帯です。



ハナの歯ぐきからの出血があってから犬の歯の数について調べたところ、成犬では上顎の歯は20本、

下顎の歯は22本の計42本だそうで、ハナやヒメにはそんな数の歯は生えてなさそうです。

歯と歯の間に隙間があり、抜けてしまったのか、初めから生えてこなかったのかは分かりませんが、欠歯が

ある様です。

上顎は前歯6本、犬歯2本、前臼歯8本、後臼歯4本の20本、下顎には前歯6本、犬歯2本、前臼歯8本、

後臼歯6本の22本が生えているのが正常だそうです。

犬によっては、多かったり、少なかったりすることもあるそうです。







2010年7月31日(土)

あ~! 怖かった!”


昨日の朝起きると、ハナの座布団に6~7ヵ所 血の染みが付いていた。

何処から出血したのか点検するが分からない。

おそらく、口から吐いたのだろう思っていると、カーペットの隅にも大量の唾液の泡状になったものと共に

血の塊が・・・・・・。


この年齢で大変なことになったと思い、急いでかかりつけの獣医さんに連れて行くと、前歯がグラグラで、

そこからの出血している様だった。 

検査中にも出血し出して、なかなか血が止まらない。 

貧血状態だ。

この歳なので、麻酔は使いたくないとのことで、再度、今朝から半日入院をして抜歯をしてもらうことにした。

夕方の5時頃帰って来たが、
1本だけの抜歯かと思っていたら、3本も麻酔なしで抜かれて怖かったのか、

帰るや尻尾を丸めて一目散に自分の座布団の上に直行。


上あごの左右の犬歯の間の6本の前歯の内の3本が無くなってしまった。

少ない歯が、また減ってしまった。

犬は、基本的には餌を飲み込んでしまうので、さほど心配は無いとのことだが・・・・・。


大きな病気で無かっただけでも、飼い主は一安心。

 
抜歯した歯を獣医さんより頂きましたので、帰ってから良く洗ってみると、一本は歯の上の部分が欠けて

いました。

他の2本は、歯ぐきに隠れていた部分の歯の根っこが朽ちて大きな穴が開いていました。


他の歯も歯周病でグラグラで、同じ様な状態になった時は抜歯しなければならないとのこと。

                      
自宅に帰って2時間もすると、ようやく落ち着いて来たみたいで、うとうとと居眠り・・・・・・・。

昔から口の中をいじられただけでパニックを起こしていたハナには、恐怖のため随分なストレスがかかった

に違いありません。







2010年7月23日(金)

ブロンズ風の狆


数ヵ月前、銀座の骨董屋さんで、イギリスより探して来たと言う明治時代の狆の置物を見かけました。

その時は、明治時代にこんなものが欧米に輸出されていたのかと感心した程度で帰って来ましたが、

先日Yahooのオークションで、その狆の置物と良く似た物が出品されていました。

画像を良く々々見ると、わが家に祖父の時代から伝わる日本犬と思われるコロコロとした愛くるしい子犬の

置物とそっくりなことに気が付き、衝動買いをしてしまいました。

残念ながら、作者印の名前は違う様でしたが・・・・・・・。

また、銀座の骨董屋さんで見掛けた狆の置物は、この作品より少し小振りで頭はもう少し丸味をおび、

台座には堅木の木材が使用されていました。

このブロンズ風の狆の置物の制作された時代は分かりませんが、今ではこの様な物は作られることは無い

であろうと思われる代物です。

高村光雲の木彫の狆とは言わないまでも、関義平さんの彫金の狆の様な愛くるしい作品が何時かは欲しい

ものです。
 
                             






2010年7月6日(火)

宴 遊 日 記


宴遊日記とは、柳沢吉保の孫の大和郡山藩主、柳沢信鴻が、主に大和郡山藩の駒込下屋敷(染井の別邸)

での隠居後に記した日記です。

信鴻が50歳で隠居した安永2年(1773年)から他界する天明5年(1785年)まで13年の間書き続けられ

ましたが、安永2年5月23日に染井の別邸に移る以前の3月より狆のことが日記に記されていますので、

狆に関する記録を抜粋してみます。

この染井の別邸とは、現在の六義園で、祖父の柳沢吉保が築造した別邸です。信鴻も、ここで悠々自適の

隠居生活を送りながら、狆を繁殖にも関わりました。




 



【安永2年】
1773年

 3月 3日 豆(狆の名前)、徳水廻(交配期の分泌がある)

 3月 4日 
福(狆の名前)、徳水廻。  

        鬼次(狆の名前)、福と初めてつるむ。


 3月12日 
福、徳水(交配適期)。 

        日かずよきにつき、兼て約束ゆへ、猿屋(木挽町芝居茶や)黒水犬かりに、五加蔵遣せしに

        此程脇坂隠居の望みにて連行し由。 
   
        帰告。


 3月13日 
畠屋市郎兵衛申遣し、白栗毛長狆 ちよこ(狆の名前)来。

        甚小狆、福とつるむ事成らず、昼方返す。


 3月15日
 計(?)来り、手紙・旧年所写二対画、表装出来見せに来。

        海鮮貰ふ。

        雄狆(かき班)此ほど かりに遣りしも来。

        直に返書、かけ物かへし、狆はとむる。

        狆福とかける、程なく返し。


上記の記録は、柳沢信鴻が安永2年(1773年)5月23日に染井の別邸に引っ越しをする以前の日記から

抜粋したものです。 

下記の信鴻が大和郡山藩の染井の別邸(現在の六義園)でも悠々自適な隠居生活の中で記した日記の中の

狆に関する項目は、『三樹書房発行 花咲一男著 柳沢信鴻日記覚え書』 及び 『三一書房発行 日本庶民

文化資料集成第13巻』より『宴遊日記』の記録を2次使用させて頂きました。

  

【安永2年】1773年
 6月 4日 豆児、耳根に大成(おおきなる)だに有りしを取、灸を居る。

 6月 7日 
滝内蔵進が飼ふ黒小狆を、ほの持参、暫く置き狆共 吼るゆえ返す。

 7月11日
 豆、この頃絶食、今日乳も飲まず。

 7月13日 豆、余程心よく物をくふ。

 7月17日 春峨(四男)かたへ、豆がのむ乳を貰いに、お隆より文つかはす、七前返書来る、

        おっつけ来るべきよし。

        森右衛門を半左衛門へ、狆の薬取りにやり、夜に入り持参。

 7月19日 暮に豆絶気。程なく正気になる。

        豆が事にて暮より誠・せの 龍花庵観音百度参、五前帰る。

        四過、豆また絶気、鍼治にて正気になる。

        甚だ疲れたる故、住・誠看病。

        豆勝れずゆえ夜半過ぎ就寝。

 7月20日 四半過ぎ頃、豆倒没。首玉(衣偏辱)と共に龍花庵の西原に埋む。

 8月 1日 竜花庵麓に豆が印(墓標)あり、今夜かえりがけに立ちより見る。

 8月23日 十八日より鬼(狆の名前)治煩ふ。

10月29日 
鬼(狆の名前)、あま(狆の名前)と噛合ふ。

12月 4日
両国にて鳥屋の狆を見る。

12月16日 
帰る頃、花(狆の名前)、屎を巨燵へ落し、大嗅気。

12月23日
 宵、鬼児絶気、忽平復。

【安永3年】1774年
 1月 2日 鬼児、州日より足不立、暁に倒。

 7月 1日 此頃、花児煩ふ。

【安永4年】1775年
 1月21日 谷中、町家に豆児に彷彿の狆有り、しばらく弄し山内に入。

 7月15日 広小路梅本に涼む・・・・・・茶屋の子ね気をヒ(女偏卑)等抱き弄す。南風大に涼し・・・

        向ふの床机の人、黒狆を抱有しを仙宅かりてお隆等抱きなどし・・・・・。

 8月29日 花児、終日不吼故、お隆水を飲ませるうち如眠に死。


上記から分かったことは、当時 狆を商っていた鳥屋などから交配相手の牡狆を借りて来て交配を行って

いた事や、その中に黒狆や白栗色の毛の長い狆がいた事など、そして何の乳か分かりませんが食欲の無い

病気の狆に乳を飲ませていた事、病気の治療には薬の他に灸や鍼も使っていた事などです。


また、この時代の狆の交配は、血統などと言う概念が全く無かったため、交配適期の中でこれと思う

牡狆を借りて来ては交配し、交配に失敗すると次の牡狆をと言った具合だった様です。

日記の中から抜粋してみますと、以下の事が分かります。

① 3月4日に『福』と言う名の狆が交配期に入ると、『鬼児』と言う狆と初めて『交尾む』。

② 3月12日に前々より交配を頼んであった『黒水犬』を借りに行ったが、脇坂家の御隠居の頼みで

  譲ってしまい、もう猿屋にはいなかった。

③ 3月13日に白栗色で毛が長い小型の狆『ちよこ』(牡の狆ですので千代児とでも言ったのでしょうか)

  と交配を試みたが上手くいかなかった。

④ 3月15日『かき班の狆』と交配する。

3月4日が交配適期で無かったにしろ、自分の処で飼育している『鬼児』と言う牡狆との最初の交尾のあと、

交配適期の短い期間に、目に叶った牡狆を順次探して来て、最後に3月15日『かき班』の牡狆と交配に

到っています。

血統で管理されている現代では血統証で調べ特定の牡狆とのみの交配と言うことにになりますが、

そう言う概念が無かった江戸時代でも、外見が立派な狆からは似たような子が生まれるのではないか

と考えていたのでしょう。 

信鴻も、黒水犬・白栗毛長狆・かき班の狆などと特徴を持った牡狆を交配相手として選んでいた様に

感じられます。

この時代でも、手取り早く狆ならどんな牡狆でも良いと言う訳には行かなかった様です。



信鴻は『豆』と言う名前の狆をよほど可愛がっていた様で、病気で明日をも知れない時には病気治療

の他にお百度参りもして貰っていました。

また、『豆』が亡くなった後、夜にも関わらず竜花庵麓にある『豆』の墓標にお参りをしていますし、

上野の谷中で『豆』に似た狆を見たと、いつまでも『豆』のことを忘れられ無いでいた様に思われます。


『福』と言う狆の交配相手の牡狆として『黒水犬』や『かき班』と言う言葉も出て来ますが、どの様な容姿

だったのかも興味を引く処です。

また、ここに出て来る全ての狆が、今と同じ容姿の狆であったのかどうか、本当に知りたい処です。

この日記に出てくる『豆』と『花』は、、病気になって死んでしまいますし、『鬼』も病気になっている様です。

安永2年から安永4年の3年間の出来事ですが、この当時の狆は、こんなにも ひ弱だったのでしょうか。

現在の様に、ワクチンもフィラリアの薬も無かった当時としては、仕方が無かった事なのかも知れません。






2010年6月18日(金)

黒狆って



まれに骨董屋さんやネット上のオークションで黒狆の土人形を目にすることがあります。

何とも斬新で、興味をそそるものです。

そもそも土人形は、江戸時代に始まる郷土玩具だと聞いたことがあります。

『庶民には狆を飼いたくても高嶺の花で、とても手が出ません。そこで、狆に見立てた土人形を飾って

満足していた。』 と言う話を聞いたこともあります。


しかし、画像をお借りしたホームページの管理人さんからは、 『古くから豪華な前掛けをした羽衣狆と言う

土人形があり
柏の葉で犬の首の周りを覆い安産の象徴の犬と子孫繁栄の象徴の柏の葉を組み合わせて

子孫繁栄・家門繁栄を念じた。』 と教えて頂きました。


それで、この黒狆も首周りの前掛けに柏の葉を何枚も付けているのか分かりましたし、江戸時代の庶民は

縁起物として、土人形を飾っていたと言う方が説得力がありそうですね。


今でも土人形は、各地で綺麗なものや、独創的なものを含めて色々作られていますが、黒い神秘的な黒狆は

珍しいそうで、どこから黒狆の発想が起こったのでしょうか。

ただ、招き猫の様に白黒で並べて飾ると言う発想から作られたものなのか、現実にいた黒い狆をモデルに、

江戸時代から作られ続けて来たものなのか、色々と想像が膨らみます。





      
       『なかむらさんちのホームページ』 三河旭土人形 高山八郎コレクション より



江戸時代は弘化2年(1845年)薩摩の島津斉彬が水戸の徳川斉昭に薩摩産の黒狆を贈っています。

『島津斉彬文書 上巻』には、徳川斉昭から島津斉彬への礼状が次の様に書かれています。

『御国産の黒狆、特にご秘蔵のものを分けていただき、感謝にたえません。お知らせのとおり、

良く慣れていて、私の膝もとを離れません。手入れも良く、毛並みも格別です。』

また、ペリー提督が日米和親条約締結時に幕府より贈られた狆の内1頭は1854年6月にニューヨーク

の画家W.T.ピーターズに拠って描かれた絵から真っ黒な黒狆であったと分かっています。

そして、オランダ商館長ブロンホフがシーボルトのお抱え絵師川原慶賀に描かせ、現在ライデン国立

自然史博物館にあるメチン・オチンの図のオチンも真っ黒な黒狆ですが、この絵の狆はサマーカット

の様に毛を刈ってしまったものなのか、それとも短毛種の犬の絵かと思われるものです。

しかし、水戸の徳川斉昭に贈られた薩摩産の黒狆やペリー提督に贈られた真っ黒な狆から想像して

みますと、江戸時代には、黒っぽい狆どうしを選抜交配して、全身真っ黒な黒狆を作り出す様な試みが

なされていたかもしれないと、この黒狆の土人形を見ていると色々と想像が膨らんで楽しくなって来ます。






2010年6月12日(土)

狆に似たペキニーズの古い写真
           
もしかしたら、狆かも?
         



以前、神田の古本屋で購入した1951年にロンドンで発行されたTHE PEKINGESE HANDBOOK

と言う本があります。

しばらく、見ることもなく、本棚の隅に積まれていました。

毛がふさふさとした立派なペキニーズ達の写真の中に、ペキニーズよりも狆に見えてしまう犬の写真が

2枚載っていました。

どちらかと言えば、身体や顔の班が白黒のためか、狆に近いかなと思ってしまう2枚の写真です。


1枚は、1914年生まれの『Verity Luvli-Boi』と言う名のペキニーズです。 おそらく、由緒正しい

ペキニーズだったのでしょうね。
  

このペキニーズが生まれた1914年は第一次世界大戦が勃発した年です。和歴では大正3年になります。

それにしても、狆に似ていますね。




      
                                       "Verty Luvli-Boi"born1914 
     The Pekingese Handbook by Clifford L. B. Hubbard  Nicholson&Watson London



もう1枚の写真は1864年ダブリンで行われた第1回アイルランド・ドッグショーのウイナー犬です。

名前も
『Chin-Chin』と、狆であると偽ってしまいたくなる様な名前のペキニーズです。

1864年と言えば、日米和親条約や日英和親条約締結から10年、日本では幕末の京都で、新撰組の

池田屋騒動が起きた年です。

この時代に、アイルランドのダブリンで第1回目のドッグショーが開かれていたのですね。

写真の犬は、写真なのか絵なのかよく分かりませんが、『チンチン』と言う名前が面白いですね。



       
        “Chin-Chin”、a winner at the first Irish dog show、Dublin,1864.
     The Pekingese Handbook  Cliford L.B.Hubbaed Nicholson&Watson London



ペキニーズ ハンドブックに載っているペキニーズ達の写真にも、狆で言う処の袖毛や筆毛が立派なくらい

生えていました。
 チベタン スパニエル、ペキニーズ、狆と飾毛の一致点から、この三犬種の繋りを調べて

見たい気持ちを起こさせます。



                              
                                               The Pekingese Handbookより


この犬種達の他にも、チベット・中国がルーツと思われる興味深い犬達がいます。

ラサ アプソ 、チベタン テリア 、シーズー 、パグ そして、パグと深い関係があったと思われる

ハパ ドッグ 、ローツ 、オールド パグ など。




もう一犬種、興味をそそる犬がいます。  英国のキャバリア・キングチャルズスパニエルです。

キャバリアには、アジアの短吻犬の血が入っていると聞きます。 

また、欧米の狆の中にも、キャバリアの血が入っていると言う方もいます。

その欧米の狆を逆輸入して、現在の日本の狆が出来上がったと言う方もいます。

その逆輸入した時期は何時だったのでしょうか、また数はどの位だったのでしょうか。

第二次世界大戦の前だったのででしょうか、それとも、戦争で壊滅的な数にまで減った日本の狆の

再生・復興のために、戦後多数の狆が欧米から輸入されたのでしょうか。


昭和30年代前半に、狆愛好家に拠って数頭の狆が、アメリカより持ち込まれたことは、本で読んだことが

ありますが、その他 何頭ぐらいの狆が輸入されたのでしょうか。


そもそも、日本国内で何頭ぐらいの狆が、戦火をかいくぐって生き延びたのでしょうか。

知りたい処です。

                               
                                                        hime@p.kiba






2010年5月28日(金)

チベタン スパニエルって?
      
ご返事のメールより



先日、チベタン スパニエルを飼われている方に、厚かましくも沢山の質問をしました。

画像を添付して、丁寧なご返事を頂きましたので、私だけが知っているのも勿体無いことと思い、

頂いたメールより抜粋して、紹介させて頂くことにしました。

5月9日(日)『狆とチベタン スパニエルは親戚?』の文章と重複する内容ですが、

チベタン スパニエルを飼われている方のご返事ですので、参考になると思います。




以下メールを抜粋したものです


 以前にコメントで頂いていたご質問のお返事です。

 私の知っている限りでお答えしますが、チベSの専門家から見ると間違っているところが多々あるかも

 しれません。  ご了承ください。




質 問a  毛の質は、チベタン スパニエルも狆もダブルコートの直毛で、絹糸のように滑らかですよね。

ご返事a  そうですね。  ダブルコートですべすべとした手触りです。ただ、直毛ではありません。

        湿気が多いと特に顕著に表れますが、耳の後ろの細い毛やお尻の毛、尻尾、前脚の飾毛

       などが ソバージュの様にくにくにしています。




質 問b   チベタン スパニエルにも狆と同じ様に前脚の後ろ側に狆で言う袖毛の様な長い毛が生えて

        いますよね。

ご返事b   はい、生えています。



               
                    チベタン スパニエル (チベS)
    
               
                   狆(Japanese Chin)

質 問1   チベタン スパニエルには狆と同じ様に足のつま先に狆で言う筆毛の様な長い毛が生える

        のですか?

ご返事1   はい、前足と後ろ足に長い毛が生えます。 ついでに両足裏も毛が伸びます。




                 
              チベSの足の先の毛                チベSの前脚の後ろの毛


                 
                   狆の筆毛                        狆の袖毛



質 問2   チベタン スパニエルも、狆で言う袴の処、お尻の後ろに長いふさふさした毛が生えるのですか?

ご返事2  
 はい、生えます。  便が緩いと付いてしまう事も・・・



質 問3   チベタン スパニエルの尻尾の毛はふさふさと腰から背中に背負う様に生えるのですか?

ご返事3   
そうですね。 尻尾は柴犬の様にくるっと上に丸まっています。



質 問4   チベタン スパニエルの耳の後ろの毛はどの位長くのびるのですか?

ご返事4   これは個体差が激しい様です。 長く伸びる子は、胸の近くまで伸びています。

        うちの子は、すぐに毛玉になって切ってしまうため、そんなに長くないです・・・・。



質 問5   チベタン スパニエルの顔の毛は身体の毛が伸びても、伸びることは無いのですか?

ご返事5   伸びません。




質 問6   全てのチベタン スパニエルの頭は平らなのですか? 狆の様なアップルヘッドの犬はいない

        のですか?  単に、耳付きが高いので、平らに見えるだけですか?

ご返事6  
アップルヘッドがどの様な形を指すのか解らないのですが、ドーム型がスタンダードとされていま

       す。




                       
許可を頂き、メールより抜粋して掲載させて頂きましたが、私が見ても狆とチベタン スパニエルの全体の

姿からは、全く異なった犬種としか見えませんし、どこが狆の祖先・親戚なのと思う方も多いかも知れません。

しかし、両方の犬種とも細部に、まったく同じ特徴を備えています。

全体を覆う絹糸の様な毛質、前足、後足の先に筆先の様に生える毛、前脚の裏側に長く生える毛など。

また、中国の古い宮廷画の中には、両犬種の中間ぐらいに思える犬やチベタン スパニエルに似ている犬、

そして狆やペキニーズに似ている犬、すでに絶滅してしまったハパ ドッグかパグの祖先では無いかと

思われる犬達が描かれています。



世界中のチベタン スパニエルが見られるアメリカのサイトを教えて頂きました。       

http://www.tibbies.net/forum/index.php?action=magallery






2010年5月24日(月)

朝鮮王朝の狗図


随分前から、妻は韓流ドラマに夢中です。

さほど興味の無い私も、朝鮮王朝の時代のドラマになると、つい目が行ってしまいます。


大分前に見たチャングムにはシーズー犬が出ていたし、今見ているイ・サンにはラサ・アプソが

出て来ます。




文禄・慶長の役の時、朝鮮半島に渡った加藤清正等武将が、狆を日本に連れ帰ったと書かれている

本もあります。

以前から、色々調べてみましたが、未だにそれを証明する様な記録には、たどり着きません。





十年ほど前に読んだ本に山内長三著『朝鮮の絵 日本の絵』があります。

そこには、朝鮮王朝の王族である世宗の第4皇子の曾孫にあたる李巌が描いた『花下遊狗図』と言う

絵が載っていました。

狆には見えませんでしたが、宗達や若冲、無村の狗図に非常に影響を与えたことが分かりました。

昨日、ネットで李巌や朝鮮の絵画を検索していました処、一昨年の暮に栃木県立美術館で開催された

特別展に李巌の『花下遊狗図』が展示されたことが分かり、大きな画像で朝鮮王朝時代の狗の絵を

見ることが出来、満足でした。



また検索の過程で見つけたハングルのサイトに、茶系のチベタン・スパニエルに似た母犬のそばで、

2頭で戯れる子犬の絵が載っていましたが、そのうちの1頭が狆の子犬に似ている様に見え、

見入ってしまいましたが、金弘道 『母狗養子図』と漢字で書かれている部分のみしか解らず、

後のハングルで書かれた説明文には何が書かれているのか解らずじまいでした。



                                  

                                  李巌作『花下遊狗図』は、日本民藝館所蔵です。





2010年5月9日(日

狆とチベタン・スパニエルは親戚?


狆はチベタンスパニエルに非常に似ている所があります。

まず毛質ですが、両者ともダブルコートで シルクの様に柔らかくサラサラした毛質をしています。

前脚の後ろ側に狆に袖毛がある様にチべタン・スパニエルにも同じような長い毛が生えます。

また、狆で言う足の先に筆毛がチベタン・スパニエルにもフェザリングと言う毛が生えています。

尻尾の毛も腰の上でカールして長い毛が生えていますし、また耳の毛、お尻、首、胸の毛が長く伸びる

所もそっくりです。

顔の毛と手脚の毛(狆で言う筆毛や袖毛を除いて)が長くならない所もそっくりです。



私的にはマズルが長いことと耳付きの位置が高いこと、胴の長さ、顔及び身体の班・模様が違うことが

大きな違いの様な気がします。

正しいかどうか分かりませんが、マズルの長さは欧米での改良の過程で長く固定されたと、

以前、チベタンスパニエルを紹介した本で読んだことがあります。

また、ペキニーズも欧米で改良固定される前は、今の様にずんぐりしていなく、チベタン・スパニエルの

様な細身であったと、書かれている本やサイトを見かけろことがあります。




上記の事実から考えて、チベタン・スパニエル、ペキニーズ、狆は同じ祖から出た犬に思えてなりません。

私的には、ペキニーズも狆もチベタン・スパニルから派生した犬種ではないかと思っています。



 参照 『まめ日記 /チベタンスパニエルって?』より
     http://azusoy.hp.infoseek.co.jp/contents/ts/ts.html


        
  チベタン・スパニエル前足のフェザリングと前脚の後ろの毛    狆の筆毛と袖毛






2010年4月24日(土)

狆の班や模様の呼び名       [しばらく 旧『風花荘へようこそ』と重複する記事が続きます。]


狆には、顔の班や身体の模様そして毛に洒落た名前が付いています。


いつの頃から、顔の班に『短冊』、『奴』、『撥』など、また身体の模様にも『くらかけ』、『尾止』など、そして毛

の呼び名として『筆毛』、『袖毛』、『袴』等々と、こんなにも洒落た名前が付けられる様になったのでしょうか。



色々な書籍には江戸時代から名前が付けられていたとされていますが、なかなかそれを示す出典に

辿り着くことができません。


部分的には、島津斉彬文章 上巻には1845年(文化2年)に薩摩の島津斉彬が水戸の徳川斉昭に

薩摩産の黒狆を贈った記述が出て来ます。

この黒狆自体でも、どの様な黒狆だったのか、顔だけが真っ黒だったのか、全身が真っ黒な毛で覆われて

いたのかも
想像するしか術はありません。



私が知る限りでは、狆の顔の班について書かれてある書籍は昭和40年に三和図書株式会社より発行された

「狆 犬の遺伝と繁殖」、長倉義男氏、吉田清光氏、魚井弘一氏の共著と昭和53年誠文堂新光社発行の

犬種別シリーズ「狆」愛犬の友編集部編集の中で園江稔氏が書かれている文章です。

その他、長倉義男氏が書かれていたと思いますが「日本犬」と言う分厚い本にも載っていた様な

気がしますが、この本は手元に無いので不確かです。




風雅な遊び心で、江戸のお姫様や大奥のお局さま達が、愛狆の班に名前を付けて楽しんでいたと想像した

だけでも、わくわくしてしまいますが、いま一つ江戸時代から名前が付けられていたことを証明する出典や

言い伝えがはっきりしません。

しかし、いつの頃から色々な趣のある名前が付けられたかが分からなくても、その様な名前を付けて愛でる

気持を起こさせること自体が、狆が優美な犬である証です。


            

 
 風花                      花總                    姫花
  
       めがね奴                   奴(やっこ)                 撥(ばち)






2010年4月18日(日)

風 花 (ふーか)


4月21日は、わが家の初代の狆である風花の誕生日です。存命なら16歳を迎えたところです。

風花は、3年半も前に12歳5か月で亡くなり、両国の回向院で眠りについています。


風花は、現在わが家にいる2頭の狆、花總と姫花の母そして祖母であり、花總とは8年半、姫花とも3年半

ほど仲良く生活をしていました。


輪廻転生があるならば、また狆として生まれ、どこかで可愛がられているかもしれません。



風花は、わが家に来た初めての狆と言うこともあり、いまだに時々家族の話題に上ります。

私達が狆を飼おうと思った頃は、狆はペットショップで見掛けることはほとんど無く、

長いこと待って日本橋のペットショップからやって来ました。

夫は、待ちに待った宝物がやって来たと思ったに違いありません。

しかし、夫婦二人とも、狆はもとより犬を飼うのが初めてで、全てが如何してよいか分かりませんでした。

困り果てて、何かあると、すぐ日本橋の獣医さんの所に相談に行ったものです。

獣医さんも、こんなことぐらいで相談にと思っていたと思いますが、丁寧に相談に乗ってくれましたので、

ほんとうに頻繁に病院に通いました。



当初、妻は風花を触ることもできないで、逃げ回っていました。 家に帰るのも怖くて、公園で時間を調整

してから帰って居たようです。

しかし、その吃驚するほどの賢さは、夫婦の気持ちを引きつけるのに時間は掛りませんでした。

2度のお産の後、一年ぐらい経ったころ心臓が非常に悪いことが分かり、それ以後、外での散歩は控え

ずっと室内だけの生活をおくることになりましたが、自分なりに納得して、それを受け入れていた様な

節もあり、飼い主の思い込みかも知れませんが、その健気さに涙してしまいます。

また、嬉しい時に、くるくる回って全身で喜びを表現するその姿は、今でも懐かしく思い出されます。

機会があれば、また風花のことを少しずつ書いてみたいと思っています。


* * (祖父)
鈴良荘五月丸 
* (父)
真紀舎蘭丸
  
*
* * (祖母)
淑久荘蘭子     
真紀舎風花
【平成6年4月21日生】
* *
* * (祖父)
柏ノ森荘敦平
* (母)
阿由知荘由貴 
*
* * (祖母)
夢ロマントシ夢の姫


(長男) 嶺花荘富士冠
風花荘蘭丸
(長女) 嶺花荘富士冠 (孫) H10.2.24生 真紀舎風花
風花荘花總 真紀舎姫花 H6.4.21生
H10.2.24生 真紀舎風花 H15.1.23生 柏ノ森荘唐鹿
H6.4.21生 真紀舎夕美
真紀舎夕鈴

平成6年4月21日生/平成18年9月23日没

  


                   
                                                  





2010年3月6日(土
                                                   
写真の中の明治~昭和初期の狆                     


        

日本の狆は、大正時代と第二次世界大戦で激減してしまったと言われていますが、

それ以前の狆はどんな狆だったのか知りたくて古い写真を探してみましたが、

なかなか見つけることができません。

ここに1882年(明治15年)に日本にやって来たフランス人ウーグ・クラフトが写した

芸者おらくに抱かれた2頭の狆の写真があります。

被写体が動いて不鮮明な画像になってしまっていますが,128年も前の貴重な狆の写真です。

                                

また、パソコンの検索サイトから偶然見つけた狆の写真が3枚あります。

説明には昭和6年夏と書かれてありました。

関東大震災から、まだ8年しか経っていない時期の写真です。

クモチノ系と言う狆の一系統を確立した下川稲子さんが、神戸より東京の小岩に越して来る

10年も前に、上野桜木で可愛がられていた狆の写真です。 

写真からは、のんびりとした生活の中で、家族として可愛がられていたことが伝わってきます。

街場に並ぶ民家の佇まいも、趣があり素敵ですね。

掲載サイトの管理人様の許可を頂き掲載させて頂きました。


                   


     
http://ohoshisama.info/
『お星さまの贈りもの』の内 『昭和からの贈りもの』第4章3.昭和6年・狆・言問通り より







2009年6月5日(金)

浮世絵から見る江戸の狆


江戸時代、狆は大切に愛玩されていた犬にもかかわらず、

その資料を探してみると、少ないのに驚かされます。


幕末に日本を訪れ、「ちんや」で狆を見た複数の欧米人の記述からは、そこに居た狆の容姿は

正に現在の狆そのものを示していますが、シーボルトがオランダへ送った狆の剥製は、

現在ライデン自然史博物館に収蔵されていますが、今の狆からは想像できない犬の剥製でした。

写真から見た全体の感じからは狆の血が入っている雑種犬かとも思わせるものですが、

口吻の出たその顔は、純粋な狆とは言いがたいものです。


しかし、狩野芳崖の描いた長府毛利家のお姫さま鏻姫の肖像画に出てくる狆は、

今の狆と比較しても遜色なく非常に愛嬌のある顔をしていますし、素晴らしい狆が居たことを

裏付けています。


薩摩の島津斉彬が、水戸の徳川斉昭に薩摩で繁殖した黒狆を贈った記録があります。

黒狆がどんな狆だったかは、顔面が全て黒班で覆われた面かぶりの狆だったのか、

身体を覆う毛も全て黒班だったのか、想像することしかでませんが、シーボルトがオランダに送り、

現在ライデン自然史博物館そして民俗学博物館に収蔵されています雑種と思われる狆の剥製や

、毛植人形と思しき狆のミニチュアの顔面も黒毛で覆われていました。

少しずつ出てくる資料を繋ぎ合わせてみると、薩摩藩は狆との係わりは深く、

長年 狆の飼育・繁殖を手掛けて来たことは事実の様に思われます。

また、東京港区三田の大圓寺の跡地より薩摩藩島津家で愛玩されていた狆のお墓も

発見されています。


江戸時代の浮世絵、掛け軸そして屏風図等に描かれている狆の中で、

現在いる狆と同じ狆と確認できたのは10枚にも達しておりません。

しかし、雑種や洋犬ではないかと思われる狆まがいの犬が、狆として描かれている絵は、

結構 目にすることができます。




以上の現状から考えて、江戸時代でさえも、純粋な狆は、大名家や大奥の深窓や

狆の繁殖・販売を手掛けていた「ちんや」や「鳥屋」で、細々と命脈を繋いでいたのかもしれません。


幕末に多くの欧米人が来訪するまでは、小型犬の中でも最高級とされた純粋な狆は、

将軍家、大名家、そして一握りの禄高の高い上級武士や街場の大富豪にしか

買い求めることができなかったと思われます。


一握りの大富豪には、大名家や大奥で飼われていたものと同じ純血種の狆を手に入れ

愛玩することができたと思いますが、江戸時代に描かれた浮世絵を見ていると、

富豪に囲われていた女性や吉原の女性たちを慰めた狆は、多くの場合、

小型の洋犬や雑種の狆であったのではないかと思われてなりません。

江戸時代、色々な小型犬を総称して狆と呼んでいましたので、狆という言葉だけで、

全てを現在いる狆と同じ狆と思うことは早計かもしれません。





また、先に少し触れましたシーボルトは、日本の狆のことを興味を持っていた様で、

その著『日本』のなかで、室町時代から江戸時代にかけて、ポルトガル人に拠って、

北京狆がマカオから導入され、現在の狆に改良されたと述べていいますが、

それを裏付ける資料の確認には到っておりません。


しかし、当時、石見の銀と中国の絹・他色々な物産をマカオ経由で、ポルトガル人が仲介し

明国商人と交易が盛んに行われていたのは事実ですし、ザビエル他イエズス会の宣教師は、

日本での布教を行う時に、マカオで調達した土産を持参して諸大名達に布教の許可を

得ていた様です。

この土産の中に中国産の北京狆がいたとしても、否定はできないと思いますが、

あくまでも想像の世界のことです。





2009年4月12日(日)

小型犬の年齢


我が家の愛狆、花總も耳や目の周りの毛に白髪が目立ち、目も白濁し始めました

1998年2月24日生まれですので、11歳と少々です。

人間の年齢に換算すると60歳少々と言ったところです。

小型犬でも犬種や飼育状況などによって個体差があるそうですが、60歳にしては

少し老けっぽい様な気もします。

姫花の方は、2003年1月23日生ですので、6歳と少々です。

こちらは、40歳少々と言ったところです。

40歳にしては、幼すぎる様に感じてなりません。

2005年1月12日の読売新聞に、東京農工大の林谷秀樹先生が、

『犬の平均寿命は11.9歳、12年前より3.3歳延びた。純血種の平均寿命は11.4歳、

雑種の犬の平均寿命は13.3歳』と書いています。

犬の寿命もワクチン摂取などによって延びているとは言え、その一生は人間に比べ

本当に短いものです。
 

小型犬 人 間 小型犬 人 間
1ヵ月 1歳 8年 48歳
2ヵ月 3歳 9年 52歳
3ヵ月 5歳 10年 56歳
6ヵ月 9歳 11年 60歳
9ヵ月 13歳 12年 64歳
1年 17歳 13年 68歳
1年半 20歳 14年 72歳
2年 23歳 15年 76歳
3年 28歳 16年 80歳
4年 32歳 17年 84歳
5年 36歳 18年 88歳
6年 40歳 19年 92歳
7年 44歳 20年 96歳
参考資料: 「小動物の臨床栄養学」 Lewis Morris Hand著
        KAO PET HOME 愛犬と暮らす生活辞典 犬学

         読売新聞2005年1月12日版





2009年3月22日(日)

狆の毛植人形


天保2年(1831年)に書かれた『京都商人買物独案内』には、けうゑや並河人形店のことが

『金毛亭吉文字屋並川清右衛門』と書かれています。

天明年間(1781年~1789年)に創業し、昭和初期まで続いた人形店です。

毛植人形は昭和初期まで作り続けられ、その技術は『けうゑや』並河人形店の閉店とともに途絶えて

しまいました。

現在存在する単品での毛植人形の殆どは、江戸後期から昭和初期までに作られたものと考えられま

す。


生糸に撚りをかけず、そのままの『すが糸』を細かく密に植え付ける様に貼り付けたのが毛植え人形

で、地肌の継ぎ目と継ぎ目が分からないことが、毛植えと毛貼りの違いの様です。

江戸後期には、京都の御殿玩具として大変な評判になりましたが、あまりの値段の高さに、大名や

豪商にしか買い求めることはできなかった様です。



上の方の毛植狆は、リアルに出来ていますし、目がプラスチックでできていますので、大正時代から、
昭和初期の作品と思われます。

プラスチックは、明治時代から使われていたそうで、当時は結構高価なものだったそうです。

下の方の毛植狆は、ケープの生地から判断して、明治時代と思われます。
江戸時代の赤い生地の色は、紅花色の赤だそうです。
市松人形館には、下の毛植狆と良く似た江戸時代の40cmもの大きな鈴を引く毛植狆が所蔵されています。







2009年1月12日(月)

取材後記

2009年1月9日の読売新聞 横浜版に狆に関する記事が載った。

その一部は、昨年の暮に自宅で午後2時より5時過ぎまで3時間にも及んだ取材と、
その後、電話で2度に渡って行われた取材の記事である。

横浜在住の方を主体とした地域版との了承の元での取材であったため、
狆の歴史の触りの部分のみの記事となった。


当日の取材は、我が家の歴代の狆の話から始まり、

私たちが住んでいるペット可マンションの話、

狆の魅力について、

そして狆の歴史とその調査活動及び資料についての話など、

結構突っ込んだ取材であった。


取材にあたって、記者の方も随分勉強されて来て吃驚もしたし、
話が盛り上がって楽しい時間だった。

新聞は、多くの人の目に触れ影響力が大きいためか、
しっかりとした事実関係をもとに狆の歴史の話となった。

また、記事にはならなかったが、面白い話も結構あった様に思う。

その一例が、ペリーに贈られた狆がペリー提督の遠征記には狆とは書かれては無く、
小さなスパニエル種の犬と書かれている。

また、今の狆の種としての日本での始まりは、長く見ても室町時代ぐらいからでは無かったのか、
やはり、狆は江戸270年の泰平な世が育てた日本人好みの傑作などの話にもなった。


想像の域を出ない事実が多い中で、箔をつけて話すのではなく、
できる限り事実を求めた取材だったので、とても楽しかった。




取材に来られた記者さんのプロとしての事前の勉強に、敬服しました。










2008年11月3日(月)


茶狆礼賛管理人の溜息)


以前、風花荘へようこそ(日本の犬、狆)に書いたことがありましたが、私は、欧米で茶狆が多いことを不思議に思っていました。

私は遺伝学の専門家でも、遺伝の勉強をしたこともありません。

しかし、私が狆を飼い始めた十数年前、茶狆を見ることは皆無に等しかったものです。


十年程前、1頭の茶狆を目にする機会を持ったことだけでも幸運だったと、思っていました。

以前愛読した狆の書に、狆の先達が茶狆の繁殖に取り組んだが、うまく行かなかったと、書いてありました。


しかし、ここ数年 茶狆を飼われている方が多いのに、驚いています。

どうして、こんなにも茶狆が多く生まれる様になったのでしょうか。

『ふー』  溜息が、でて来ます。


外国から、茶狆の遺伝子を持った狆が、日本に 沢山 入って来たのでしょうか。

日本では稀にしか生まれることがなかった茶狆が、昨今のような頻度で生まれて来るには、なにか理由があるはずです。

理由を知っている方が居るなら、教えていただきたいものです。
 
   






2008年10月19日(日)


大正時代~昭和初期の絵葉書


大正~昭和初期に作られたと思われる、狆の絵葉書です。

手元にある3枚を、掲載してみます。

 
『若旦那と狆』との写真の題名につられて、購入してしまいました。

あちこち万年筆のインクが飛び散った汚れがありますが、また、それが時代を感じさせます。


当時の狆の油絵を、絵葉書にしたものなのでしょう。
当時、狆は、この様に『ケープ』と言うか『あぶあぶ』をしているのが、一般的だったのでしょう。




この写真の狆は、顔の班が微かに『冊』が残る『面かぶり』に近い狆です。
高価な犬であったことをを証明するように、当時高価であった絨毯の上の座っての写真です。








2008年04月29日(火)


狆四方山話 in 神田神保町


東京の神田神保町の古本屋街には、狆の貴重な史料が埋まっています。

浮世絵、古い書籍、そして外国の古い書籍など。

しかし、簡単には目の前には現れてくれません。

沢山ある古本屋に頻繁に足を運び、顔なじみになった店主に頼んでおきますが、

狆関係の浮世絵・古書が出たとしても、高額で手が出ないこともしばしばです。



久し振りに、この街の古本屋の名物おやじさんに、その書店に良く通っていたと云う

狆の大先輩の桃花荘の須永政三さんや園江稔さんの話を拝聴して来ました。

お二人とも狆の浮世絵や資料を探して、このお店に頻繁に通って来ていたそうですが、

その中でも須永さんのコレクションは数・質ともに素晴らしいものがあったそうです。

また、園江稔さんは、誠文堂新光社の発行の『愛犬の友、狆』の中で『狆の歴史』を

書いていますが、インターネットが無かった時代に、一愛狆家が良くここまで

調べることができたのか関心していましたが、この古本屋のおやじさんの話を聞いて、

地道な調査活動に裏付けされたものだったことが分かり、改めて氏に敬服しました。



最近は、猫の浮世絵を探しに来る方が多いそうで、 需要が増えたこともあり

猫の浮世絵の値段が騰がっているそうです。










2008年03月9日(日)


家の子の家系図



  嶺花荘富士冠(祖父)
  風花荘花總(叔母) 
  風花荘蘭丸 (父)
 真紀舎荘風花 (祖母)
真紀舎姫花 
  柏ノ森荘唐鹿(祖父)
  真紀舎夕鈴 (母)
  真紀舎夕美 (祖母)



   姫花 2歳(2005年)           花總 2歳(2000年)         風花 2歳(1997年)

              風花・花總・姫花の2歳の時の写真です。

                    それぞれ若々しく、私の好きな1枚です。





2008年02月23日(土)
狆の登録数
JKCから3月の会報"家庭犬”が届き,

2007年の各犬種の登録数が載っていた。

狆は、1,286頭で101頭の増加.。

最近の登録数を調べて見ると、



2000年   43位    547頭
2001年   40位    650頭
2002年   39位    723頭
2003年   36位    868頭
2004年   35位    843頭.
2005年   34位    955頭
2006年   29位  1,185頭
2007年   29位  1,286頭



この数字ほどには、狆が増えているという実感

が湧かない。

米国、英国、オランダ、ノルウェー、エストニア、

ハンガリー、韓国、台湾、シンガポール、そして

オーストラリア等々から、狆を求めてメールが来る。

『日本にも少ないのに、外国までは・・・・・・。』

との声も。

狆のブリーダーさんは、ほんとうに少ない。

頑強な洋犬に比べ、繁殖が大変なのかも・・・・。

わが家にも貴重な可愛い狆が2頭いる

が、・・・・・・・。


    
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