踊り 最終更新日 2008/07/17

「おわら演技発表大会」(2003年7月13日)での「四季の踊り」
向かって左から、春(東新町)、夏(西町)、秋(諏訪町)、冬(天満町)の所作です。

「おわら演技発表大会」(2007年7月8日)での「四季の踊り」
向かって左から、春(東町)、夏(上新町)、秋(下新町)、冬(西新町)の所作です。

「おわら演技発表大会」(2008年7月13日)での「四季の踊り」
向かって左から、春(今町)、夏(鏡町の児童)、秋(福島)の所作です。
●踊りの種類
「おわら風の盆」の歴史は長いのですが、今の踊りはそれほど古くはありません。
踊りには、「豊年踊り」(男女、同じ)、「四季の踊り」(女踊り)、「かかし踊り」(男踊り)の三つがあります。
成立時期から、「豊年踊り」を「旧踊り」、「四季の踊り」と「かかし踊り」とを「新踊り」とも呼びます。
●「豊年踊り」
1919(大正8)年の「おわら研究会」設立が契機となり、八尾町の三味腺の師匠・江尻せき子を中心にまとめられ、1920(大正9)年に現在の形になりました。

「おわら演技発表大会」(2008年7月13日)での八尾小・中・高の合同出演
「豊年踊り」の踊り方
(呼び出し)
1.右足を左足の前に出し、左の肩の前で手を三回軽く打つ
2.右足を左足うしろに引いてトンと打つと同時に左の胴前で手を一回打つ
(ふるい)
3.右足前へ、右手の掌を下に左手の掌を上にしながら肩の前へ出す
4.左足前へ、両手の掌の反対にしながら(右掌上左掌下に)膝に下ろす
5.右手の掌を下に左手の掌を上にしながら肩の前へ出し、右足を左足のかかとにつけてトンと打つ
(種まき)
6.左手はそのまま、右手の掌を上にすると右の前方へひらき、右足前へ、左足でトンと打つ
7.右手はそのまま肩の前に戻し、左手の掌を上にすると左の前方へひらき、左足前へ、右足でトンと打つ
(確認)
8.右手の掌を下に左手の掌を上にし、両手を右へ流し、右足前へ、左足でトンと打つ
9.右手の掌を上に左手の掌を下にし、両手を左へ流し、左足前へ、右足でトンと打つ
(笠脱ぎ)
10.両手の掌を上にして、胴前に下ろし、右足はそのまま、左足でトンと打つ
(合掌)
11.トンと打った左足を更に前へ踏み出し、右足の膝を少し曲げて上げ、両手は顔の前方へかざす
(直り)
12.前に上げた右足を左足うしろに下ろし、左右の掌を下にして、右手は右斜め前方へ左手は左横にひらいて決める
「素踊り」は1から12を繰り返します。
「豊年踊り」には、「宙返り」「稲刈り」と呼ばれる所作が加えられることがあります。
囃子が「唄われよ わしゃ囃す」と誘うと、歌い手は上句を唄います。この上句で踊られる所作が、春のツバメを表す「宙返り」です。1から5までは同じで、6と7の代わりに踊る所作です。
囃子の「キタサノサ ドッコイサノサ」で、歌い手は下句を唄います。この下句で踊られる所作が、秋の収穫を表す「稲刈り」です。1から10まで同じで、10と11の間に入る所作です。
八尾町(現・富山市)の関連会社・八尾サービスの下記ページから、「越中八尾おわら風の盆」「富山市八尾おわら資料館」「越中八尾観光会館(曳山展示館)」「おわら歌碑めぐり」「富山市観光ガイドマップ」などのパンフレット(JPGとPDFの2種類)がダウンロードできます。
「越中八尾おわら風の盆」のパンフレットに、「豊年踊り」の踊り方を12コマの写真で説明した部分があります。JPG(158KBと174KB)と PDF(587KBと652KB)です。
観光パンフレット一覧(http://www.cty8.com/yatsuo-s/index005.htm)
●「四季の踊り」(女踊り)と「かかし踊り」(男踊り)
「越中おわら中興の祖」といわれる医師の川崎順二(1898.03.14-1971.11.13)が、1928(昭和3)年正月に、日本画家の小杉放庵(1881.12.30-1964.04.16)を八尾町に招きました。そこで小杉放庵(1935年頃より、放庵を放菴と署名)が作詞したのが、次の「八尾四季」です。
春 ゆらぐ釣橋 手に手を取りて 渡る井田川 オワラ 春の風
夏 富山あたりか あの燈火(ともしび)は 飛んでゆきたや オワラ 灯(ひ)とり虫
秋 八尾坂道 わかれて来れば 露か時雨か オワラ はらはらと
冬 若(も)しや来るかと 窓押しあけて 見れば立山 オワラ 雪ばかり
翌年の1929(昭和4)年5月、「八尾四季」に合わせた「新踊り」が生まれました。振り付けは、小杉放庵から紹介された初代・若柳吉三郎(1891.11.15-1940.01.28)でした。
この「新踊り」は、1929年6月、東京の日本橋三越で開かれた富山県特産品陳列会で披露されました。披露に先立ち、5月23日と24日に八尾町鏡町の八尾劇場(今はありません)で舞台稽古が行われました。舞台稽古でも日本橋三越でも、踊ったのは芸妓だけでした。
上の写真は、2008年7月13日の「おわら演技発表大会」で、富山県民謡越中八尾おわら保存会の演技指導部の女子が日本橋三越での踊りを再現したものです。
「新踊り」、特に女性の、川辺で蛍と戯れる優雅で美しい振りはとても魅力的で、この振りが付いていなかったなら、私が八尾町に通うこともなかったでしょう。
若柳吉三郎は、川崎順二の家に40日滞在し、芸妓たちと青年団員に踊りを指導しました。その振りを説明するのは私には難しく、是非ご覧になることを勧めます。
普通、町流しでは「八尾四季」の歌詞が省略され、春夏秋冬に振り付けられた所作は見ることができません。ステージでの踊りや、「花」(寄付)をもらって踊る「花踊り」などで見ることができます。

かかし踊り 「おわら演技発表大会」(2007年7月8日)での演技指導部
●初代・若柳吉三郎と若柳流(わかやぎりゅう)
初代・若柳吉三郎(本名、新井真護)は、1891(明治24)年11月15日、東京・京橋の木挽町で生まれました。若柳吉之輔に初歩を習った後、若柳吉松(後の若柳寿童。本名、若林勇吉。1846.06.23-1917.07.22)
に師事し、18歳の時に若柳吉三郎の名を許されました。東京・柳橋に稽古場を構え、若柳寿童の没後も、日本各地、朝鮮、満州(中国東北部)に門弟を増やし、1924(大正13)年には若柳流舞踊研究会を設立しました。1940(昭和15)年1月28日に亡くなりました。妻は若柳光(本名、新井吉美津)。
八尾おわら資料館のHPのここ(http://www.city.toyama.toyama.jp/yatsuo/kyoiku/siryokan/SIRYOU/7_7.html)に、1929(昭和4)年に八尾町城ヶ山の料亭藤乃家の前で撮影された記念写真があります。中央の腕組みをした男性に向かって右が初代・若柳吉三郎、向かって左の洋服姿が川崎順二です。
初代・若柳吉三郎の弟子の若柳吉市郎(1908-1973。
本名、小田切才一)が、1940(昭和15)年に二代目の若柳吉三郎(1954年に佶三郎と改名)を襲名しました。
若柳流は、若柳吉松(若林勇吉。1846.06.23-1917.07.22)が創始した日本舞踊の流派です。花柳界を中心に発展しました。
若柳吉松は初代・花柳寿輔(1821.02.19
-1903.01.28)に学び、二代・花柳芳松の名を許されました。1893(明治26)年に花柳流を破門となったため、若柳吉松と名を改め、若柳流を興しました。1905(明治38)年、若柳寿童と改名しました。
若柳寿童の没後、息子の市太郎に若柳流を継ぐ意志がなかったため、弟子の初代・若柳吉蔵(本名、竹内幸太郎。1879.06.21-1944.01.25)が若柳流二世家元を継ぎました。初代・若柳吉蔵は、若柳舞踊研究会や日本舞踊研究会を設立しました。
二世家元の初代・若柳吉蔵の没後、養子の若柳吉正蔵(本名、竹内正次。1921.08.11-1989.07.17)が三世家元を継ぎ、二代・若柳吉蔵を襲名しました。1962(昭和37)年、若柳吉蔵を若柳寿邦と改名、さらに1988(昭和63)年に若柳寿童と改名し宗家若柳流を称しました。三世家元の若柳寿童の没後、長男が日本舞踊若柳流家元・若柳寿延、次男が若柳流宗家家元・五世若柳吉蔵となり、二派に分かれました。
1951(昭和26)年、家元制ではなく理事制の正派(せいは)若柳流を興し、初代・花柳寿童の弟子だった若柳吉登代(本名、中村千世。1877.10.22-1954.10.10)が総務・理事に就任しました、
1955(昭和30)年、初代・若柳吉蔵の姉の吉世が分家として関西の一門を統率していましたが、独立して若柳流西家元となりました。1974(昭和49)年、若柳吉世の没後、娘の吉世童が後を継ぎ若柳吉世を襲名しました、
正派若柳流は、若柳吉登代の没後、若柳寿慶(本名、五十嵐庸浩。1891.08.27-1971.12.23)が総務となりましたが、1971(昭和46)年に総務を退き、直派(じきは)若柳流を興しました。若柳寿慶に代わって理事長となっていた若柳佶三郎の没後、若柳美東理樹、若柳鵬翁(本名、幸岩元三郎。1912.08.26-2007.08.11)を経て、現在は若柳吉千与が正派若柳会の会長になりました。
直派若柳流は、若柳寿慶の没後、若柳吉駒(本名、定方いく。1897.01.30-1996.05.21)を理事長とする会、若柳慶を代表とする会に分かれました。さらに1974(昭和49)年に若柳寿広が直派分家家元、1975(昭和50)年に若柳汎が汎栄会家元を名乗り、四派に分かれました。
●踊りの変化
かつては、「おわら」は芸妓が踊るもので、町娘は踊りませんでした。
川崎順二は、「おわら」を広めるために、五人の娘を率先して踊りに出したといいます。
芸妓の「おわら」から、現在のように、町娘が踊る「おわら」への変化は、「富山県民謡おわら保存会」三代目会長の長瀬一郎(2000.06.15、死去)などに負うところも大きいといわれます。
初代・若柳吉三郎が八尾町に残した踊りは、多くの人の手を経て、若柳流の踊りというよりも、八尾町の踊りになったと思います。
●おわら踊り方教室
「おわら風の盆」期間中、1日と2日の14時から16時まで、越中八尾観光会館(曳山展示館 八尾町上新町2898-1 tel 076-454-5138)で「おわら踊り方教室」が行われます
越中八尾観光会館(曳山展示館)館への入館料(大人500円、小人300円)が必要です。
参加希望者が多い場合は、入場が制限される場合もあります。
越中八尾観光協会発行の「おわら踊り」(VIDEO)と「おわら風の盆」(DVD)に踊り方、「おわら風の盆公式ガイドブック」に振り付けの説明があります。

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