長講会 最終更新日 2008/06/05

浄土院
平唐門の扉が開かれた浄土院(1994年6月4日)。後ろの建物が拝殿。

浄土院
比叡山は、組織的・地勢的に、東塔(とうどう)、西塔(さいとう)、横川(よかわ)の三つに大きく区分され、さらに十六の谷(渓)と二つの別所に区分されます。

   東塔(東谷、西谷、南谷、北谷、無動寺谷)
   西塔(東谷、南谷、北谷、南尾谷、北尾谷)(別所黒谷)
   横川(兜率谷、香芳谷、戒心谷、解脱谷、般若谷、飯室谷)(別所安楽谷)

根本中堂のある東塔から、釈迦堂のある西塔に向かって徒歩15分ほど、坂を下った谷に、木立に囲まれてある小さな建物が浄土院で、最澄(767.08.18-822.06.04)の墓所です。
比叡山の中道院(現在地は不明)で亡くなった最澄は、山上で茶毘にふされ、弟子たちの手により東塔西谷の現在の墓所に埋葬されたのでしょう。
現在のような廟墓は、慈覚大師円仁(794-864)が854(斉衡元)年に、中国五台山の竹林寺の廟墓にならって営んだといいます。
天台宗では、最澄の墓を御廟(みみょう)と呼んでいるようです。
御廟の前には拝殿、左には阿弥陀堂があります。拝殿には政所(まんどころ)が隣接しています。
現在の御廟は、江戸中期の建物で、石の玉垣内に宝形造、銅板葺の簡素な廟堂です。

  わがために仏を作る勿(なか)れ わがために経を写す勿れ わが志を述べよ

と遺言して亡くなった最澄の言葉のまま、一般の礼拝を受ける御影堂や開山堂としての大きな堂に発展させることなく、簡素な姿のままにしていることに、清々しさを感じます。私が比叡山の好きな理由の一つです。

御廟
御廟(1990年11月24日)。色が青いのは、早朝に撮影したために色温度が高いからです。

長講会
最澄は822(弘仁13)年6月4日に亡くなりました。
最澄は大乗戒壇の建立を切望していましたが、生前には認められず、死後一週間たって戒壇建立の許しが伝えられました。
最澄の念願がかなえられた翌年、残された弟子たちが一周忌の6月4日に法要を行いました。これが今に伝わる長講会で、論義法要です。その廟供や法儀なども円仁によって整備されたものだといいます。
この日、御廟正面の扉が開かれて、いろいろな供物が霊前に献じられます。
長講会に出仕するのは、天台座主以下、門跡寺院や大寺の高僧ら約二十名です。下記は、ある年の出仕の僧。

   探題天台座主大僧正法印惠諦大和尚位
   探題毘沙門堂門跡大僧正法印圓了大和尚位
   已講妙法院門跡大僧正法印義周大和尚位
   望擬講滋賀院門跡大僧正法印円信大和尚位
   望擬講善光寺大勧進大僧正法印義薫大和尚位

出仕僧が入堂する前に最澄の霊前に献茶が行われます。
献茶がすむと、出仕僧が袍裳七条の盛装で、御廟の前の拝殿に入堂します。
全員が定まった席に着くと、唄役が始段唄を唱えます。続いて出仕者全員による散華の斉唱が一時間ぐらい唱えられます。
散華が終わると、論義が始まります。
講師が、神分、表白、勧請、経釈を読み上げ、続いて読師が「法華経」の経題を唱えます。ここから講師と問者との間で問答が重ねられていきます。散華、論議とで、およそ二時間続きます。
問答が終ると、天台座主による判定があり、磐を一打する音で法要が終わります。
全員が退出し、拝殿内が改められると、袍裳七条の盛装から衣を改めた出仕僧が再び拝殿に入堂します。
天台座主から、その年の「戸津説法」の説法者が発表されます。
さらに、来年度の長講会の役も示されます。
出仕僧は再び政所へ退くと、衣を改めて遅い昼食となり、長講会は終わります。

私は山田惠諦・天台座主(1994.02.22、死去)の1984(昭和59)年と1985(昭和60)年、梅山圓了・天台座主(1997.01.20、死去)の1994(平成6)年に、拝殿内の幕で仕切られた一隅で拝聴したことがあります。
平安時代から絶えることなく続けられてきた論議法要、私には聞こえてくる論議の内容は分かりません。けれども、出仕者全員による散華斉唱は、感慨深いものでした。狭い堂内に響く声明(しょうみょう)に包まれていると、千年の昔の比叡山にいるような不思議な思いにとらわれました。声明を専門とする色衆(しきしゅ)という僧たちのような美しくまとまったものではありませんが、老齢の高僧たちの真摯な声明は、心に響くものがありました。

侍真(じしん)
政所には、侍真と呼ばれる一人の僧がいます。
「侍真」というは、伝教大師最澄の真影に侍って、最澄が今も生きているように仕えるからといいます。
侍真は、献膳・勤行、清掃という日々を、浄土院から一歩も出ずに十二年間続けます。
侍真となるためには、好相行(こうそうぎょう)を満行したと認められなければなりません。
好相行は、過去・現在・未来の一千仏、合わせて三千仏を礼拝し、仏の姿を観得したと認められるまで無制限に続きます。「仏名経」を用い、仏の名を唱えながら、三千の仏それぞれに五体投地の礼を行い、五種香の焼香、樒の葉を供えることを、不眠不臥で繰り返します。
私は、1985(昭和60)年5月8日、浄土院の拝殿の一角で行われていた好相行を、堂外で聴いていたことがあります。北沢宏泰さんの好相行でした。低く、仏の名を唱え続ける声がいつまでも続いていました。
好相行を満行した北沢宏泰さんは、高川慈照さんの後を引き継いで侍真となりました。
天台宗の僧になるには、横川にある行院で60日間の行をしなければなりません。北沢宏泰さんと瀬戸内寂聴さん、年齢はかなり違いますが、行院での同期生だそうです。
北沢宏泰さんは1996(平成8)年で十二年の満期でしたが、好相行の満行者が出なかったため、1997年2月まで侍真を務めました。現在は宮本祖豊さんが侍真を務められています。

最澄の「山家学生式」に基づく浄土院籠山制度は、1699(元禄12)年、霊空(1652-1739)によって確立されました。以後、宮本祖豊さんまでで116名の侍真の名が残っていますが、満期の十二年に至らずに病死26名という厳しい修行でもあります。

●中野英賢さんが死去
2002年2月26日、侍真を務められた中野英賢さん(1970年5月26日に十二年籠山行を満行)が亡くなられました。68歳でした。長命な僧の多い中で、若過ぎるような気がします。

戦後の侍真は、堀沢祖門さん、中野英賢さん、尾崎大顕さん、高川慈照さん、北沢宏泰さん、宮本祖豊さんの6名です。

戸津説法
最澄が琵琶湖の戸津浜で法華経を民衆に広めたことにちなみ、大津市下坂本の東南寺で8月21日から25日まで営まれ、天台座主への登竜門とされます。
私は、1984(昭和59)年8月23日、誉田玄昭さんの説法を聴きに出かけました。将来は天台座主にと願っておりましたが、残念ながら1999年12月11日に亡くなられました。84歳でした。

説法者
2008年  大角光徹 延暦寺長臈・厳王院住職
2007年  稙田惠秀 霊山寺住職
2006年  小林隆彰 延暦寺学問所長・千手院住職
2005年  谷 玄昭 深大寺住職
2004年  山田能裕 延暦寺長臈・瑞応院住職
2003年  藤 光賢 曼殊院門主・金乗院住職
2002年  堀澤祖門 叡山学院院長・泰門庵住職
2001年  菅原信海 妙法院門主
2000年  井深観譲 滋賀院門主・法曼院住職
1999年  大樹孝啓 圓教寺住職

千日回峰
●藤波源信さんが千日回峰を満行
2003年9月18日、酒井雄哉さんの弟子の藤波源信さんが、荒行として知られる千日回峰を満行し、大阿闍梨となりました。1994年10月18日満行の上原行照さんに続く、9年ぶりの大阿闍梨の誕生です。

戦後の大阿闍梨(千日回峰行を満行)は、叡南祖賢さん、葉上照澄さん、勧修寺信忍さん、叡南覚照さん、小林栄茂さん、宮本一乗さん、光永澄道さん、叡南俊照さん、酒井雄哉さん、光永覚道さん、上原行照さん、藤波源信さんの12名です。
現在は、星野圓道さんが千日回峰に挑んでいます。
2007年10月21日未明、星野圓道さんが「堂入り」を満行。2008年は赤山禅院を往復する「赤山苦行」、2009年は京都市内を回る「大廻り」です。

●光永澄道・大阿闍梨が死去
2005年11月30日22時2分、光永澄道さんが蜘蛛膜下出血のため亡くなられました。70歳でした。光永澄道さんは、1970年に千日回峰を満行し、戦後7人目の大阿闍梨となりました。弟子の光永覚道さんは、1990年に千日回峰を満行し、戦後10人目の大阿闍梨になりました。

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