おわら風の盆 最終更新日 2009/04/27

雪洞(ぼんぼり)と幔幕で飾られた八尾町の上新町(1991年9月3日)。
上新町の雪洞の文字は、1992(平成4)年に高橋治氏の書に変わったため、
現在はこの書体の雪洞を見ることはできません。
●「おわら風の盆」の始まり
八尾町の開祖・米屋少兵衛*は、御収納銀請負を業としていました。定められた時期までに藩への御収納銀を収めることができない者には立て替えてやり、後日に利子を付けて取り立てるという業でした。だんだん貸し倒れが多くなり、四代目少兵衛の時には御収納銀請負業が困難になり、野積の水口村へ移ってしまいました。米屋少兵衛が加賀藩三代藩主・前田利常(1593-1658)から拝領した、八尾「町建て」の書類なども、すべて持っていきました。
それから数十年後、八尾町役人から水口村の米屋へ「町建て」の書類の返済を求めましたが、貸していた金を返してくれるなら返すとして、返してもらえませんでした。
そこで八尾町役人らは、1702(元禄15)年3月、花見だとして多くの酒肴と芸人を伴って水口村の米屋を訪ね、座敷を借りると大酒宴を開きました。宴に人の目を集めている間に、米屋の様子を知っている者に土蔵から「町建て」の書類を探し出させると、そのまま密かに持ち帰りました。
その後、数日を経て八尾町役所から、「町建て」の書類を取り戻した祝いに、3月16日の例祭日を中日として三日間、歌舞音曲はもとより、いかなる賑わい事も咎めないから、面白く町内を練り回れという触れが出されました。八尾町の老若男女が浄瑠璃・仁和加・仮装行列など、三味線・太鼓・胡弓・尺八などの楽器で、3日間昼夜の別なく町内を練り回りました。
それまでは7月の盂蘭盆の三日間は川崎踊りで賑わっていたのですが、この年から川崎踊りをやめ、3月に行ったような三味線・太鼓などで町内を練り回るようになりました。廻り盆です。
富山藩が盆の三日間に町練りを許した背景には、無視することのできなくなった八尾町の財力があったように思います。
八尾町内を練り回るのは1702(元禄15)年から始まり、全盛を極めたのは天保(1830年〜)の頃から明治(1868年〜)の初めまでだったようです。1874(明治7)年頃には、変装をして昼夜町内を騒ぎ回るのは風俗壊乱・安眠妨害だとして、警察から差し止められるようになり、回らないようになりました。
*米屋少兵衛
1584(天正12)年−1641(寛永18)年。八尾村の肝煎り。
八尾村と桐山村とで町建てを考えた少兵衛は、加賀藩の元勘定奉行・佐々木左近の助力を得て、桐山村の肝煎りの佐五右衛門との間で、両肝煎り家の息子と娘との婚儀を成立させ、八尾町建てへの下地をつくりました。
1636(寛永13)年2月晦日には、加賀藩より町建許可が下り、少兵衛が八尾町肝煎り・町年寄となり、八尾町が成立しました。
写真は、諏訪町の裏手の城ケ山(じょうがやま)公園に立つ銅像で、八尾「町建て」の御墨付を手に、金沢から八尾へ帰る少兵衛の姿です。保内村(現富山市八尾町)出身の日展審査員・横江嘉純が、1933(昭和8)年に製作しました。毎年4月、この像の前で米屋少兵衛顕彰祭が行われます(2009年は第56回が19日に)。
横江嘉純(よこえ・よしずみ 1887-1962)の作品を常設する「八尾町美術保存展示館」(現、「八尾美術保存展示館」)が、2002年10月10日、八尾町福島183に開館しました。休館・火曜日。入館料は大人200円、高校生以下無料。
八尾美術保存展示館(http://www.city.toyama.toyama.jp/yatsuo/kyoiku/bijyutu/index.html)
●「おわら」の意味
よく分かっていません。
1812(文化9)年の秋、遊芸の宮腰屋半四郎・茶屋新助・石戸屋源右衛門らが、滑稽な風体で、歌に「おわらひ」という言葉を挟みながら、町練りを行いました。その後。「おわらひ」が省略されて「おわら」に変わったという、「おわらい」(お笑い)説があります。
また、「おわら」の語源は、豊年を意味する「大藁」(おおわら)という説もあります。藁も大きくなり、稲もよく実ったというのです。
歌の合間に「おわら」「おはら」という囃子句を入れる民謡は、青森県津軽の「小原節」、島根県隠岐島の「おわら節」、鹿児島県の「小原節」など、各地にあります。
●「風の盆」とは
暴風を吹かせて農作物に災厄をもたらす悪霊を、「二百十日」に歌や踊りで鎮める行事というのが通説のようです。けれども、八尾町は、養蚕や紙などの交易で栄えた町で、農作物に依存する割合は大きくありませんでした。
二百十日の風害の厄を除き、豊作を願うというのは、風俗壊乱・安眠妨害だとして警察から差し止められていた経緯もあるのではないでしょうか。
古くは「回り盆」と言っていたようです。歌や踊りで町を練り回るからです。
「回り盆」といい、「風の盆」といい、「盆」という言葉を含んでいるのは、「盂蘭盆」(うらぼん)との関係があるからだと考えさせます。
太陰暦の「盂蘭盆」は、太陽暦では8月7日から9月6日の間になります。
「二百十日」は立春から数えて二百十日目で、太陽暦では9月1日(希に8月31日)になり、「盂蘭盆」と「二百十日」は時期的に重なります。
また、「盂蘭盆」から続く魂祭の最後の行事が「風の盆」、という考えもあります。
現在の「おわら風の盆」は、日本古来の祖先信仰の「魂祭」、中国の『盂蘭盆経』の「盂蘭盆会」、豊作祈願の「習俗」、それらが結合したものだと思います。
若衆や娘たちの踊りが不文律のようになっているのも、地域共同体の宗教行事であった名残のように思います。

諏訪町の坂(1991年9月3日)
雪洞(ぼんぼり)の明かりだけだった諏訪町や、明かりもない裏道で体験した深夜の町流し。あの不思議な時間と空間を振り返ってみると、八尾町の坂を上り下りするというのは、気持ちに微妙な変化をもたらしているようです。
坂は、別の世界を結び往来する、能舞台の橋掛かりに近いようにも思います。八尾町の旧町へ入るには橋を渡らなければならないことも、そう思わせる一因でしょうか。
宝塚歌劇のファンが、「宝塚」駅ではなく「宝塚南口」駅で下車して、武庫川に架かる宝塚大橋を渡って宝塚大劇場に向かう行動と、似通うものがあります。
●「雪洞」(ぼんぼり)と「万灯」(まんどう)
「雪洞」が道の両側に立てられるようになったのは、1988(昭和63)年頃からだといいます。それまでは、通りの頭上に、長さ2メートルほどの横断幕のような提灯が下げられていたといいます。この横断幕のような提灯を、八尾町では「万灯」と書いて「まんど」と呼ぶようです。現在、「万灯」は落下の危険防止のために数を減らし、上新町に形を変えて少し残っていたものも無くなりました。
●私が思っていること(2005.02.16、追記)
「風の盆」は、おもしろおかしく町内を練り回ったことに始まりました。民衆の娯楽的要素が多かったのですが、それが社会的行事へと変化してきた底流には、宗教的感情があると思っています。
「風の盆」には、大晦日の夜から元旦にかけて行われていた「魂祭(たままつり)」の名残りを感じます。その根底に流れるのは、仏教とも神道とも違う、日本古来の宗教的感情です。
家ごとに仏檀を設け、家族で死者を祭るのは、比較的新しいことです。地域の人々が集まって、合同の先祖供養をするのが古くからの姿でした。死者の魂は、地域共同体に災いをもたらすこともあると考えられ、速く遠くへ去ってほしいものでした。魂祭は、いとしい故人の魂であっても去らしめなければならない、悲しい宗教的行事でもありました。それが、時代を経ると共に、去らしめられる魂に対する愛惜の情が増し、別離を悲しむ社会的行事へと変化したように思います。
『後拾遺和歌集 第十 哀傷』で和泉式部が「十二月の晦の夜、よみ侍りける」歌に
「なき人の来る夜と聞けど君もなしわが住む宿や魂なきの里」
『徒然草 第十九段』で吉田兼好が次のように
「亡き人のくる夜とて玉まつるわざは、この比都にはなきを、東のかなたには、なほする事にてありしこそ、あはれなりしか」
大晦日の夜から元旦にかけて、魂祭が行われていたことが分かります。
「盆と正月」という言葉があります。七月(八月)も正月も魂祭、すなわち先祖をまつる神事であったのが、いつ頃からか、七月(八月)の魂祭のみが仏事の盆となりました。大晦日の方は、魂祭の色彩を薄めた神事の正月となりました。七月(八月)の方だけが中国伝来の盂蘭盆会と結合して仏事となったからだと思います。
「風の盆」は、七月(八月)の魂祭だけでは何か足りない感情と経済的余裕から生まれたように思います。雪に埋もれて活動が制約される暦の上の正月ではなく、もの悲しい秋を感じる九月に行われるのも、いかにもふさわしく思われます。
「風の盆」は、「浮いたか瓢箪 かるそに流るる 行先ァ知らねど あの身になりたや」の歌で終わります。
浮いた瓢箪と共に「あの世」に流れて行くのは供養された魂であり、自分も死後は供養を受けたいという願望が込められているようにも思います。顔を隠すためだった踊り手の編み笠も、魂の依代のように感じます。
盆は、ふだんは通うことのできない、あの世とこの世を結ぶ道が現出する季節です。その道は、山へ向かい、あるいは海へ向かいます。山裾の八尾町では、山は身近であるため他界という意識が薄く、井田川の川筋を通って彼方に繋がる海が他界(常世)と意識されたようにも思います。
八尾町で9月1日から3日にと、場所と時が固定されているのが「風の盆」。それ以外は「風の盆」の雰囲気を伴った郷土芸能だと思っています。
「風の盆」、誰が名付けたのか、美しい名です。
●「おわら」の普及
越中八尾の「おわら」が全国に紹介されたのは、1921(大正10)年、東京・神田で開かれた第一回全国民謡大会(主催・大日本民謡研究会)で、唄は江尻豊治(1890.09.28-1958.06.16)でした。
翌1922(大正11)年の第二回全国民謡大会では一等になりました。唄は伯兵蔵・森井正太郎、三味線は清水捨次郎・庵谷竹次郎でした。
踊りが紹介されたのは、1929(昭和4)年、東京・日本橋三越での公演でした。
詞を小杉放庵(1881.12.30-1964.04.16)に、曲を初代・常磐津林中(1842-1906.05.06)に、振り付けを初代・若柳吉三郎(1891.11.15-1940.01.28)に依頼したもので、唄い手は、江尻豊治でした。この踊りは、新踊りとして現在も踊られています。
●おわら年表
おわら年表を作成しました。(2005.03.16)
●「おわら風の盆」の運営
「おわら風の盆」は、「おわら風の盆 行事運営委員会」が運営し、「富山県民謡越中八尾おわら保存会」の十一の支部(八尾町の十一の町)が参加する形をとっています。
2004年までの「おわら風の盆 行事運営委員会」は、「八尾町商工観光課」「越中八尾観光協会」「八尾町商工会」から構成されていました。
2005年4月1日、富山地域7市町村合併よる新「富山市」が誕生し、合併前の6町村の役場には新しい行政拠点として総合行政センターが置かれました。総合行政センターで、今まで通りの業務が行われます。旧・八尾町にあった農林課と商工観光課とは統合され、「富山市八尾総合行政センター農林商工課」になりました。
新しい「おわら風の盆 行事運営委員会」の構成
富山市(http://www7.city.toyama.toyama.jp/)八尾総合行政センター農林商工課
939-2376 富山県富山市八尾町福島151
tel 076-454-3111(代表) fax 076-454-3119
076-454-3117(直通)
越中八尾観光協会(http://www.yatsuo.net/kankou/index.html)
939-2342 富山県富山市八尾町上新町2898-1
tel 076-454-5138 fax 076-454-6321
富山市八尾山田商工会(http://www.shokoren-toyama.or.jp/~yy-toyama/)
932-2354 富山県富山市八尾町東町2106-4
tel 076-455-3181 fax 076-455-0606
従来の「おわら風の盆 行事運営委員会」の規約では行政の長(八尾町長)が会長職を務めるなど、行政の占める役割に大きなものがありました。合併後、富山市長が会長となり、行政主導で運営されるのか。行政から独立していた「越中八尾観光協会」などの民間主導へと移行されるのか、他事ながら案じていました。
2005年1月28日、八尾町役場で「おわら風の盆 行事運営委員会」役員会が開かれ、八尾町長が務めていた会長職を、委員の互選による選出へと規約の変更を承認しました。
2005年2月24日、八尾町役場で「おわら風の盆 行事運営委員会」臨時総会が開かれ、規約改正案が承認されました。
2005年5月12日、富山市八尾行政総合行政センター(旧・八尾町役場)で「おわら風の盆 行事運営委員会」の臨時総会が開かれ、新しい会長に福島順二・富山県民謡おわら保存会長を選びました。
2005年4月、「越中八尾観光協会」が法人格の「有限責任中間法人」を取得しました。2005年6月には、「富山県民謡おわら保存会」も法人格の「有限責任中間法人」を取得しました。
2007年5月、「富山県民謡おわら保存会」が「富山県民謡越中八尾おわら保存会」と名称を変更しました。
「おわら風の盆」は、これからも、八尾町という地域の主体性を維持しながら運営されていくと思います。
八尾町商工会について
合併による新・富山市誕生から2年余を経て、2007年9月26日に八尾町・婦中町・大沢野細入・大山・山田の五つの商工会で、2009年4月の合併を目指して富山市南部地域商工会合併協議会が設立されました。その後、八尾町商工会は2008年9月30日の理事会で合併協議会からの離脱を、12月22日の臨時総会で山田との合併を承認。2009年2月25日に富山県から合併認可書が交付され(1月30日付で申請)、2月28日に富山市八尾山田商工会が設立されました。
●「おわら風の盆」は登録商標
「有限責任中間法人 富山県民謡おわら保存会」(現在は「有限責任中間法人 富山県民謡越中八尾おわら保存会」)は、2005年8月8日に「おわら保存会」と「おわら風の盆」の商標登録を特許庁に出願しました。「おわら保存会」は2006年4月14日に登録番号第4944891号として、「おわら風の盆」は2006年6月23日に登録番号第4964386号として商標登録されました。
こうした背景には、読売新聞・2006年1月23日の記事 “黄信号 向島版「風の盆」” に見られるような、各地でイベントとして行われる「おわら風の盆」への「富山県民謡おわら保存会」(現・富山県民謡越中八尾おわら保存会)の危機意識があったのだと思います。
「おわら風の盆in向島」は、話し合いがつかないまま、2005年は開催が見送られましたが、2006年は10月14日に「風の盆in向島」という名称で開催されました。
「風の盆」は、洗練されたゆえに、芸能としての一面だけがとらえられることが多いのですが、魂を祭る地域共同体の宗教行事だと私は思っています。
「富山県民謡越中八尾おわら保存会」でも、八尾町で9月1日から3日までの間に「おわら」を披露する行事だけに限定して「風の盆」という名称を使っています。それ以外は、「おわら保存会」が出演する行事であっても、越中八尾観光会館で行われる「風の盆ステージ」という例外はありますが、「風の盆」という名称を使いません。愛知県犬山市の明治村では「越中八尾のおわら踊り」、東京都羽村市では「風のおわら」という名称になっています。
各地で行われるイベント「風の盆」に対して、「富山県民謡越中八尾おわら保存会」や八尾町には、「自分たちさえも使わない名称なのに」という強い思いがあるのだと思います。
イベントに「風の盆」という名称が付いていれば、「富山県民謡越中八尾おわら保存会」に無断で行われているのでしょう。
「風の盆in向島」については、墨田区文化観光協会(http://www.kanko-sumida.com/)のホームページ上に、風の盆in向島実行委員会の会長による
「風の盆in向島2006」を終えて、お礼とお詫び 2006.10.19
が掲載されました。
神奈川県海老名市でも、2000年から「えびな風の盆」というイベントが行われていましたが、こうした事情を理解され、2008年から「海老名おわら」と名称を変えてくださいました。2009年2月7日に行われた、「越中おわら」唄と踊りのつどい(海老名おわら十周年記念特別公演)には、「富山県民謡越中八尾おわら保存会」から福島支部が出演しました。
●新「富山市」誕生までの報道記事へのリンクはこちら
●八尾おわら資料館(http://www.city.toyama.toyama.jp/yatsuo/kyoiku/siryokan/index.html)
2000(平成12)年4月28日、八尾町東町の旧おわら資料館跡地に、「おわら資料館」がオープンしました。
開館時間は9時から17時まで。入館料は一般500円、小学生から高校生までが300円です。休館は年末年始。
旧おわら資料館は、「越中おわら中興の祖」といわれる医師の故川崎順二氏宅を八尾町が買い上げ、1991年に「おわら資料館」として開館していました。けれども、老朽化が進んだことから1996(平成8)年末に取り壊されました。
「八尾おわら資料館」のパンフレット
八尾町(現・富山市)の関連会社・八尾サービスの下記ページから、「越中八尾おわら風の盆」「富山市八尾おわら資料館」「越中八尾観光会館(曳山展示館)」「富山市観光ガイドマップ」などのパンフレットがあります。
「八尾おわら資料館」のパンフレットは、261KB(JPG)・1367KB(PDF)と250KB(JPG)・1241KB(PDF)です。
観光パンフレット一覧(http://www.cty8.com/yatsuo-s/index005.htm)
旧資料館は入館料は無料でしたが、開館が4月から11月の土・日曜日、前夜祭および風の盆期間、利用時間は午後から、と不便でした。その上、私が風の盆に訪ねた時は、混雑と老朽化による危険を避けるためか、風の盆期間は午前中のみの開館と張り紙がしてありました。新館になって、年間を通して利用できるようになり、そうした不便がなくなりました。

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