聞名寺 最終更新日 2005.10.16

聞名寺(もんみょうじ)

聞名寺
聞名寺(2005.07.29)

浄土真宗本願寺派 桐野山聞名寺       
 正應三年(一二九〇)美濃国各務郡平島村に、本願
寺三世覚如上人の高弟願智坊覚淳が創建。その後飛 
騨に教線を拡げ、應仁二年(一四六八)五代覚玄が 
越中に進出。天文二十年(一五五一)現地に到り、 
濃飛越三州の中本山各となる。          
 神保、斉藤、秀吉、前田、金森氏など歴代武将の 
崇敬厚く、関係古文書類など多し(県文九十五点)。
寛永九年に県下最古の寺子屋を開設、境内に東西町 
など四筋の家並み建設を認め、八尾町の母胎となる。
現本堂は京都の名匠柴田新八郎貞英の傑作(文化九年
完成)。総欅造りの豪壮な作風は、堂内の華麗さと 
ともに、本願寺様式建築としては全国白眉のもの。 
地区住民の誇りである。             
                 八 尾 町
                 
上は、2005年に見た、聞名寺の境内に掲示されていた由緒です。(原文は縦書き)

八尾町は、この聞名寺の門前町として発展しました。
聞名寺は、井田川と別荘川に囲まれた小高い要害の地にあります。町の各所から、江戸時代末期の1812(文化9)年に再建された総欅造・銅板葺きの本堂が見えます。かつては山門・太子堂・鐘楼堂なども在りましたが、明治維新後の合寺令で壊され、本堂のみが天満宮の拝殿(一説には紙会所)という名目で残りました。
1290(正応3)年、本願寺三代覚如(かくにょ)の弟子の願智坊覚淳(がんちぼうかくじゅん)が美濃国各務郡平島村に聞名寺を創建し、その後は飛騨高原郷を中心に、飛騨吉城郡.大野郡、さらには美濃にまで勢力を伸ばしました。やがて、勢力を拡大してきた聞名寺と、飛騨白川郷に勢力をもっていた照蓮寺(現、高山別院)との間に摩擦が生まれるようになりました。
1468(応仁2)年、聞名寺の五代覚玄は、照蓮寺との軋轢を避けて越中の婦負郡土村(現、富山市大沢野町)に移りました。その後、1492(延徳4)年に一旦、飛騨高原郷に戻りました。
1524(大永4)年、再び越中に移り、野積谷乗嶺、田中保福島などを経て、
1551(天文20)年、聞名寺の六代覚照(かくしょう)が現在地に寺基を定めました。
飛騨・越中などの有力者との関係を示す古文書が多く残っています。八尾町(現・富山市)の指定文化財台帳 No.4 聞名寺文書(http://www.city.toyama.toyama.jp/yatsuo/nourin/hikiyama/hikiyamakaikan/bunka/0004.html)です。

「風の盆」石碑の除幕式左の写真は、1994(平成6)年9月3日、聞名寺で行われた「風の盆」石碑の除幕式です。

正面の「風の盆」の文字は、「おわら絵師」と呼ばれた新潟県柏崎市出身の笠原輝芳(下新町。1993年6月に48歳で死去)が生前に書いたものです。側面には竹内勉の詠んだ短歌「姿なく 声も聞けねど 我は待つ 九月三日は 聞名寺にて」と、霧野雅麿住職が揮毫した「南無阿弥陀仏」が刻まれています。
風の盆の時期に、越中八尾郵便局(上新町)前に飾られる大きなパネル絵も笠原輝芳の作品です。

この石碑は、「越中八尾おわら道場」が中心となって建立されたものです。

最近の「風の盆」に聞名寺境内で踊っているのは、「富山県民謡越中八尾おわら保存会」ではなく、「越中八尾おわら道場」を母体とした「聞名寺 風の盆講中」の人たちです。

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