八尾町 |
最終更新日 2010/08/29 |

「八尾町」は、富山市・大沢野町・大山町・婦中町・山田村・細入村と合併し、新「富山市」に。
合併時の新・富山市の面積は1,241.85平方km、人口は420,804人(2000年の国勢調査)でした。
2005(平成17)年の国勢調査の速報によれば、新・富山市の人口は421,156人になりました。
富山地域合併協議会(http://www3.city.toyama.toyama.jp/union/tgpi/)

新「富山市」での旧「八尾町」の住所表示は、富山県婦負郡八尾町から富山県富山市八尾町になりました。
町名・字名の前に「八尾町」を残し、諏訪町は富山県富山市八尾町諏訪町、福島は富山県富山市八尾町福島などのようになりました。
新「富山市」誕生までの報道記事へのリンクはこちら
「八尾」の「八」は数の多いことを、「尾」は山の尾根を意味し、地形に由来する名前だと思います。
読み方は、大阪府中西部にあるのは八尾市は「やおし」ですが、富山県富山市の南部にあるのは八尾町は「やつおまち」です。
350年以上の歴史を持つ八尾町は、飛騨山地と富山平野が接する交通の要地に位置し、養蚕・和紙などの商いで大いに栄えました。
「富山藩の御納戸」とまで呼ばれ、財力による貢献から、富山藩からの統制も緩やかだったといいます。
蚕の卵である蚕種の販路が全国に広がるとともに、1813(文化10)年頃には八尾の蚕種が全国の四分の一を占め、1861(文久元)年頃には輸出量も日本の五分の一を占めていたといいます。
1916(大正5)年に「富山県原蚕種製造所」が設置されたことからから、「げんさん(原蚕)の坂」「げんさん(原蚕)通り」などの名称が残っています。
また、1788(天明8)年の「紙値段付書上申帖」には紙宿(紙問屋)が34軒あり、その下に宿子(漉家)が約1000軒あったといいます。
1985(昭和60)年、八尾町の和紙文化をふまえ、国内外の紙文化を紹介する和紙文庫が、廃校になった校舎を井田川右岸に移築して開設されました。
桂樹舎 和紙文庫(http://www.keijusha.com/)
939-2341 富山県富山市八尾町鏡町668
tel 076-455-1184 fax 076-455-1189
養蚕・和紙、ともに衰退してしまいましたが、土蔵造りや格子戸に往事のたたずまいを偲ばせます。
八尾町の財力が育んだ独特の文化が「おわら風の盆」であり「曳山祭」なのでしょう。
2005(平成17)年の国勢調査の速報によれば、旧・八尾町の人口は21,810(男10,560、女11,250)人でした。
2000(平成12)年の国勢調査によれば、八尾町の人口は22,327(男10,812、女11,515)人、世帯数は6,453です。
1950(昭和25)年の国勢調査での人口28,419人が最大で、以降は漸減状態のようです。ちなみに、1920(大正9)年の人口は22,294人で、現在とほぼ同じです。
八尾町の税務課・農地林務課の資料(2000年1月1日現在)によれば、総面積は236.86平方kmで、東京都最大の区・大田区(59.46平方km)の約4倍と広いのですが、そのうちの80.6%が山林で、宅地は2.1%にすぎないようです。
八尾町は、浄土真宗の聞名寺(もんみょうじ)と真言宗の蓮勝院(れんしょういん)という二つの寺の門前の集落として生まれたようです。
聞名寺は、1468(応仁2)年に飛騨国吉田村(岐阜県神岡町、現・飛騨市)から越中(富山県)に移り、各地を転々とした後、1551(天文20)年に霧山下野(現・富山県富山市八尾町)に寺基を構え、現在に至っています。蓮勝院は、1576(天正4)年に八尾瀬戸山に修験所を設けたのが始まりで、隆盛を極めたといいます。しかし、明治の神仏分離令で蓮勝院は解体され、現在の八幡社(下新町)となりました。
門前町が形成され始めると、八尾村の肝煎・米屋少兵衛(1584-1658)が、1636(寛永13)年に加賀藩三代藩主の前田利常(1593-1658)から「町建て」の御墨付を受けました。ここに、経済活動を認められた町としての八尾町が開町しました。
前田利常の次男利次(1617-1674)による富山藩創設が1639(寛永16)年ですから、それよりも開町は古いことになります。
開町以前は、桐山(きりやま)村、八尾(やつお)村、川窪(こくぼ)村の三村がありました。
八尾町の中では、まず今町(初めは中町と呼ばれた)が生まれ、続いて
1637(寛永14)年秋までには、現在の東町と西町
1664(寛文4)年に南新町(後の上新町)、けれども取りつぶしの命令で元の田畠に
1672(寛文12)年に鏡町
1677(延宝5)年に下新町
1690(元禄3)年に再び南新町、上新町と改名
1745(延享2)年に諏訪町
1793(寛政5)年に西新町と東新町
1798(寛政10)年に川窪新町、1890(明治23)年に天満町と改名
1874(明治7)年に茶畑町、1876(明治9)年に鏡町に編入
というように、江戸時代の中期には現在の八尾町の中心部の姿ができ上がっていたようです。
この十の町から成る地域を、旧町(きゅうちょう)とも呼びます。
1953(昭和28)年12月1日、八尾町と、保内(やすうち)村・杉原(すぎはら)村・卯花(うのはな)村・室牧(むろまき)村と黒瀬谷(くろせだに)村の一部が合併し、面積103.54平方メートル、人口21821人、世帯数4272世帯の新しい八尾町が生まれました。
その後の1957(昭和32)年11月1日、八尾町と、野積(のづみ)村・仁歩(にんぶ)村・大長谷(おおながたに)村とが合併し、面積135.42平方メートル、人口27333人、世帯数5261世帯なりました。

坂の町・八尾の最も高い所に位置します。
世帯数が22(2010年)と十一町内で最も少なく(2006年は24、2003年は26、1983年は39世帯)、東新町出身者などの応援にも支えられています。
早乙女姿は、この町の少女だけの衣装で、いつまでも残してほしいものです。
道の両側の溝を、水が心地よい音を立てながら、勢いよく流れています。
蚕養宮(養蚕宮)(かいこのみや)とも呼ぶ若宮八幡社があり、養蚕が盛んだった頃は参拝者で賑わったそうです。
比較的歴史が新しく、平行する東新町とともに「新屋敷」と呼ばれます。
勇壮な男踊りに特徴があります。
JR越中八尾駅から遠いため観光客が比較的少なく、東新町よりも道幅が広いので、踊りも見やすいと思います。
2009年に亡くなられた伯育男さん、生まれは西新町です。
もとは職人町で、かつての町屋の姿を見ることができます。1986年8月10日、「町道諏訪町本通り線」(約500m)が「日本の道百選」に選ばれました。以来、電柱を埋め、石畳にするなど、景観の修復に務め、最も町流しが映える町といえます。特に夜は、ぼんぼりが坂道を美しく飾り、情緒深い景観になります。1992年には、郵便局の諏訪町に面した部分も改装されました。
道幅が5m未満の細い通りですので、たいへん混雑します。
2007年の居住人口は263人で、1989(平成元)年より140人減りました。
2007年4月15日、新しい公民館の竣工式が行われました。
50軒あまりの店舗がある商店街で、道幅も約7mと広いため、観光客を交えた大輪踊りが行われます。
ぼんぼりの「おわら風の盆」という文字は、1992年から高橋治氏の書いたものに替わりました。
1980年、富山県蚕業試験場(富山県原蚕種製造所を改組)跡地に、「越中八尾観光会館」(曳山展示館)が建設されました。
「越中八尾観光会館」前の蔵並通りは、蔵などの高い家が多くあるために音が反響し、ここで流したり聴いたりするのを好む人も多くあります。
2007年5月1日、上新町の開祖・信濃屋喜右衛門をしのぶ石碑の除幕式が行われました。
2009年8月8日、越中八尾観光会館前で、おわら中興の祖・川崎順二氏の銅像の除幕式が行われました。
花街の名残りを見ることのできる町です。道が少し入り組んだ町、迷うのも楽しいです。
その踊りには、昭和の初期の姿を残すといわれ、多くの愛好家がいます。
新建坂(しんだちざか)の石段「おたや階段」は、かっこうの観客席になります。
おわら演舞などで披露する、男女の混合踊り(1968年から)に特徴があります。
2005年3月27日、新しい公民館が竣工しました。
富山藩時代、大店が並び、「旦那町」と呼ばれました。
「越中おわら中興の祖」といわれる医師の川崎順二氏は東町の人で、宅地跡に「おわら資料館」が建設されています。「おわら資料館」横の石碑の「越中おわら發祥の地」は川崎順二氏の書です。
演舞場に近いため、観客の入退場の時間、混雑します。
2003年6月10日、観光客も利用できる「八尾ふらっと館」が誕生しました。二階ベランダは「おわら」を披露する舞台としても利用されます。
2008年、「オレンジマート東町店」が解体・撤去、北陸銀行八尾支店が町屋風に改装されるなど、景観も変わってきました。
平行する東町とともに、かつての「旦那町」です。
造り酒屋や呉服屋など、大店の面影を今に残しています。米屋少兵衛宅跡もあります。
2007年、史跡・通り名の由来・伝説を紹介する木製看板が設置されました。
降雨の時は、公民館で踊り、通りから踊りを見ることができた公民館も、2009年4月26日に新しくなりました。空き家を観光施設にという「いしがき亭」も誕生しました。
聞名寺の門前町で、初め中町と呼ばれました。
東新町に次いで小さい町で、32世帯(2005年)しかないようです。そのため、1999年に、風の盆を支える「今町おわら後援会」が今町出身者や有志らで結成されました。
聞名寺境内での踊りには風情があり、以前のように今町が踊れるようにしてほしいものです。
1960年までは、聞名寺境内で、競演会やのど自慢大会が行われていました。
2004年12月23日、新しい公民館が竣工しました。
2005年、今町に住む小中学生の数が 0 になったとのことです。
八尾町の鎮守の八幡社があります。
男女の浴衣の色が鮮やかで、少し驚きました。
八幡社境内、鎮守の森での踊りは、美しいだろうと思います。
住民たちの組んだ舞台に替わって、2001年から運営委員会が八幡社前に特設してきたステージ。2010年には、混雑して危険ということで廃止になり、再び地区住民の自主運営によるステージに。
天満宮があり、町名の由来だと思います。
「天満町おわら」には、「聞名寺おわら」よりも古い「コクボ(川窪)おわら」の名残があります。「聞名寺おわら」は上句・下句をそれぞれ一息で優美に歌いますが、「天満町おわら」は上句の途中で中断、「こらしょっと」と囃子が入り、音程を下げて力強く歌います。
めがね橋は、富山県で最初に作られた永久橋だといいます。
1998年に、町建て・天満宮鎮座200年を祝い、天満宮境内に歌碑を建立しました。
2007年8月末で、62世帯、居住人口231名だそうです。
旧八尾町から移り住んだ人たちが中心になって、始まりました。
歴史は浅いのですが、居住人口は増えており、旧八尾町といわれる上の十の町の合計よりも多いかも知れません。
「風の盆」期間中、JR越中八尾駅のホームでは、上下線の始発が発車する際におわら踊りを披露しています。1955年頃からの「見送りおわら」です。
2006年3月21日、伝統的工法による「福島一区コミュニティセンター」が竣工しました。二階は「おわら」の舞台としても利用します。
2005年4月1日施行の「富山市景観まちづくり条例」により、諏訪町・上新町・鏡町・西町の四町が「景観まちづくり推進区域」に指定され、2008年10月1日から、条例に基づいた建築規制が始まりました。空き家を含めた約500軒が対象となります。新たな建築物を造る際、階数、外壁の色、広告設置など細部にわたって規制されます。
指定を前に、2007年7月に「八尾地区まち並み修景等整備事業補助制度」も創設され、建築物外観等の維持・保全や復元を行う場合に限度額100万〜500万円が補助されます。補助対象は昭和初期以前に建てられた伝統的家屋が主ですが、一般建築物についても調和を図った景観形成を進めるため、伝統的家屋より限度額を下げて補助が行なわれます。
四町では、屋根は音の反響も考慮して妻入りの切り妻、出入り口は格子戸、窓には格子や手すりを設けるなどの合意があるようです。早期の改修を促すため、補助は2010年度から半減、2011年度から更に半減、2012年度以降はなくなります。
「修景」という言葉が遣われていますが、かつての八尾町には無かった景観で、「創景」に近いかもしれません。
このページにあった「八尾曳山祭」は、別のページ八尾曳山祭にしました。(2005年4月27日)
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