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「二河白道の話」P36
<たとえ>
ひとりの旅人が、西に向かって歩きつづけていました。だれ一人いない広々とした、さびしい所に来たときです。急に大ぜいのどろぼうや、猛獣たちがあらわれたのです。そして一人ぼっちの旅人を発見すると、われがちにおそってきました。
「ああ、おそろしい」
旅人は身ぶるいして、西にむかって走って逃げました。ところが、思いがけなく、行く手には恐ろしい二つの河につきあたったのです。
その河というのは、一つは、火の河で南にあり、もう一つは、水の河で北に流れています。二つの河は、底しれぬ深さで、ゴォーッとものすごい音をたてて流れています。広さは百歩ほどですが、水は、さかまき、火は、くるったようにもえつづけています。ところが、この火と水の中間に、十五センチぐらいの、せまい白い道が一本、東岸から向こう岸の西岸へとつづいています。この道の長さも百歩ほどです。しかし、この道には、はげしい波がおしよせてきたり、もえくるう火が道を焼いたりして、火と水が休みなくおそってくるのです。旅人は困りました。
「この河は、南へも北へも、はてしなくつづいている。まん中に一つの白道があるが、とてもせまい。むこう岸まで百歩だから、けっして長くはないが、いったいどうして行くことができるだろう。今日はきっと死なねばならぬだろう。もどろうと思っても、どろぼうや猛獣が、しだいにせまってくる。といって、南や北に行こうとすると、やはり猛獣や毒虫が、われがちに向かってくる。いっそ、西へ向かって道をすすもうとしても、きっと、火や水の河に落ちて死なねばならぬだろう」。それは口で言うことのできぬ、おそろしさでした。旅人は、ついに決心をしました。
「わたしは今、もどっても死ぬだろう。じっとしていても死ぬ。進んでも死ぬしかない。どうしても死ぬしかない。三定死だ。それなら、わたしはぐずぐずできない。一歩ふみだそう。白道があるからには、かならず渡りきるのだ」
そのときでした。どこからともなく声がしました。
「さあ、ぐずぐずせずに、この道をすすみなさい。こわくなんかないよ。ぐずぐずしていては死にますよ」と。すると、西の岸にも人があらわれてよんでくれるのです。
「おまえは、必死になって、はやくおいで。わたしがまもってあげましょう。水の河も火の河も、少しも心配しなくてもいいのだよ」と。
旅人は、東の岸からのすすめる声や、西の岸からの呼び声を聞くと、すっかり安心しました。もうこわくありません。火も水もおそれません。まっすぐに足をふみ出しました。一歩二歩と進んだとき、後ろからどろぼうや猛獣たちがよびました。
「おい、きみ、もどれもどれ。その道はあぶないぞ。とても渡りきれずに、きっと死ぬぞ。ぼくらは、きみの味方だ」と。でも、旅人は、ふりむきもしません。何も考えないで一心に進み、ついに西の岸に到着しました。旅の目的をはたした旅人は、もうおそろしいめにあうことなど、すっかりなくなりました。そしてよい友だちとめぐりあい、たのしい生活をおくることができました。
<その意味>
さて、これは一つのたとえ話です。「東の岸」というのは、この人間の世界にたとえたのです。「西の岸」とは、極楽のことです。「大ぜいのどろぼうや猛獣たち」(群賊悪獣)とは、体や心と、そしてその体や心でつくる、いろいろな罪のことです。「だれ一人いない広々とした、さびしい所」というのは、いつも悪い友だちと遊んでいるが、仏法を教えてくれる人には、会えないという意味です。「二つの河」のうち、水の河は、わたしたちの欲の心で、火の河というのは、わたしたちの怒りの心をたとえたものです。「せまい白い道」(中間の白道)というのは、欲と怒りのこころの中から、清らかな信心が生まれてくることをいうので、火と水のはげしさにくらべて、信心が、かすかですから、白道というのです。「この道には、はげしい波がおしよせ」るというのは、欲の心がいつも信心をこわそうとすることをいい、「もえくるう火が道を焼」くというのは、怒りのこころが、信心をだいなしにしようとすることを、たとえています。「わたしは、ぐずぐずできない。一歩ふみだそう」というのは、あれこれまよわずに、阿弥陀さまにすくっていただこうと、決心することです。「どこからともなく声がしました・・・」というのは、おしゃかさまは、もうなくなられていて、お姿を見ることができないけれど、教えがのこっているので、聞くことができることをいっています。「西の岸にも人があらわれてよんでくれる」というのは、阿弥陀さまのご本願のおこころにたとえています。「一歩二歩と進んだとき、後ろから、どろぼうや猛獣たちがよぶ」というのは、いろんな宗教の人や、まちがった信心や、無宗教の人たちが、かってな意見を言って、まどわすという意味です。「旅人は西の岸に到着し、旅の目的をはたし・・・」というおしまいのところは、わたしたちは、長いあいだ迷いつづけ、苦しみばかりをくりかえすばかりで、さとりを開くことができませんでした。それを、あわれと思われたお釈迦さまが、西方の極楽浄土の信仰を、教えて下さり、そして阿弥陀さまが、「はやく来い、救ってあげよう」とよんで下さるおかげで、今はじめてこの仏さまたちにしたがって、火の河、水の河もなんのその、こころを一つにして、阿弥陀さまのおすくいをよろこぶ身になれば、いつ死んでもだいじょうです。死ねば極楽浄土に往生して仏さまをおがみ、自分も仏さまと同じさとりをひらいて、よろこびいっぱいの生活がおくれるようになる、そのことをたとえたものです。 (おわり)
(「二河白道の話」より)
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「らいはいのうた」(十二礼) P2
(増井悟朗師の調声=リード役でYoutube音声をおききいただけます。
こちらのブログにアップされた時のものです↓
http://keko-kaikan.at.webry.info/200908/article_2.html
ぜひ音声を聞きながら歌詞に目を通してみてください)
●●二打
われ今 さいわいに
まことのみ法を聞いて
かぎりなき命を たまわり
如来の大悲に いだかれて
やすらかに 日日をおくる
つつしんでふかきめぐみを よろこび
とうとき み教えをいただき まつらん
●一打
みんながうやまい たてまつる
(同音)
おあみださまを おがみます
平和な国で みほとけは
あまたのみ子らに とりまかれ
けだかい姿は 富士の山
静かなこころは 象のような
やさしいおん目は 蓮ににた
おあみださまを おがみます
きれいなお顔は月のような
光は月日に こえすぐれ
み声はわれらを すくいます
おあみださまを おがみます
観音さまは かんむりに
おあみださまを いただかれ
悪魔外道も ふしおがむ
おあみださまを おがみます
すぐれた広い きよらかな
大空のような み光に
おもいのままに すくわれる
おあみださまを おがみます
み名がきこえて どこまでも
ぼさつ悪魔も つねにほめ
われらをおすくい くだされる
おあみださまを おがみます
たからの池に さく花の
仏のこころ よりできた
うてなのうえに おわします
おあみださまを おがみます
ここにあつまる み子たちは
仏のちからで まいりきて
よろこびうやまい たてまつる
おあみださまを おがみます
まよいのこころを たとえたら
水に月かげ いなびかり
なんにもないと ときたもう
おあみださまを おがみます
悪い名もない み国には
こころのよわい ものもない
仏をうやまう ひとばかり
おあみださまを おがみます
みんながあこがれ したう国
悪い友だち さらにない
まことの道を すすみゆく
おあみださまを おがみます
南無阿弥陀仏の おまことは
大海原の 水のような
(ゆるく)
そのおめぐみを いただいて
みんなと平和に 生きましょう
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