伊藤先生の言葉

 仏書紹介


 書  名

 伊藤先生の言葉 残りわずかです!


 著者/編者  吾勝常晃 著

 発  行  華光会

 価  格  1300円 (送料310円)

平日の10:00〜18:00は電話でのご注文もOKです→華光会事務局:075−691−5241


 案  内  著書は伊藤先生の法話はもとより、日常の一言半句に至る言葉を克明にノート記録された。それを「仏法は具体的に」 「後生の一大事」 「求道」 「信心」などのテーマ別に分類され、「御一代記聞書」風に、短く平明な文章にまとめた。真実信の深いお味わいの内に引き込まれる内容。

ページ数:   301 ページ
商品の寸法:  19.3  x 13.1 x 2.0 cm


       伊藤康善師



(本文より)

第1章「人間というもの」P1

1 人間の心

人間の心というものは、目に見えないが、どうもわしには、かたい殻をかむったもののように思う。この中には、無量無辺の、恐ろしい罪業がつめこまれているが、そのそとは、固い殻にかこまれたものに思える。だから仏法を聞いても、ただうわべだけで、なかなか中へはしみこまぬものじゃ。この殻をかむった固い心の中に、ダイナマイトをぶちこまれて、南無阿弥陀仏が、はいりこんで下さるとは、えらいことだと思う。

2 サル芝居

凡夫の生活は、サル芝居やっているようなものじゃ。親方にあやつられて、サルは、いくら上手に芝居をやっていても、バナナ一本投げられたら、もうおしまいだ。仏法を聞くというのは、そういうおバカさんだと、知らせてもらうことですわ。サル芝居に一生だまされていたら、あとで、どれだけ後悔してもおそいですわ。

3 凡夫ということば

「凡夫」ということばは、元来「罪深く、かわいらしきもの」という意味があるそうだ。「愛妻愛子、これを凡と言い、惜身惜命、これを夫という」ということばもあるが、とにかく、まじめくさって、自分こそ正しいように思って生きているが、だれも彼も、さかだちをやっているのが、凡夫の姿じゃ。−−−「夢と思えば何でもないが、そこが凡夫でねえ、あなた」という歌もあるが、いくら理屈でわかっていても、凡夫の執着というものは、どうにもならぬものじゃな。−−−いくら自分でりきんでみても、如来様の御目からすれば、「罪深く、かわいらしきもの」にすぎない。

4 凡夫の心中に仏敵が

(またある時いわく)凡夫はうぬぼれが強く、自分に甘え、如来さんにも甘えて、よい気になっているが、こいつの心の底には、仏敵が住んでおりますぜ。地獄と聞いても、なんともないし、如来さんに向かって、救うなら救うてみろと、うそぶいている心がありますぜ。恐ろしい仏敵が住んでおりますぜ。
          (第1章「人間というもの」より)


第5章「信心」P77

1 宿善の実の熟するとき

信心を求めて、後生の問題に悩みぬくという境地は、実に、われわれの想像を絶するほどの、高い次元であると思う。おそらく、釈尊在世の当時の、聖者たちの大修行に比類するほどの高い境地だろう。それもそのはずで、宿善の実の熟する時には、釈迦弥陀のお導きはいうに及ばず、三世・十方の諸仏ボサツが、一時に群集されるのであるから−−−。それでなくては、凡夫のサルまねにすぎない求道ぐらいで、あれほどに、深い不思議の境地が開けてくるはずもない。後生の一大事とは、たいへんなことだ。われわれは、信一念のところを、決して軽々しく思ってはならぬ。

2 地獄一定(じごくいちじょう)の機

(またいわく、)凡夫が、少しぐらい、無常や罪悪を見たくらいで、地獄一定の機が見えてくる道理がない。それなのに、どうして、あれほどに深い不思議があらわれてくるかといえば、法蔵ボサツの五念門の行の中に、無常観も罪悪観も、封じこめられてあるからだ。地獄の落ち機を、五念門の中に見抜いておられるからだ。

3 信疑の白兵戦

禅でも、「一超直入如来地」の壮絶な戦いがあるように、真宗でも、「自他力廃立」という、信と疑の血みどろの白兵戦がある。このへんのところになると、本を読んでもわからぬし、話を聞いただけで自得することもならぬ。このへんのところは、自ら死にもの狂いになって、壮烈な信疑の白兵戦を、くり返さねばならぬところだ。これをぬきにして、仏法をもて遊んでいると恐ろしいぞ。
  ×    ×    ×
 信心というものを、話として聞いているうちは、まだ演習のようなものじゃ。演習である間は、いくら鉄砲や大砲の音がしても、死ぬ気づかいもなく安心していられる。いよいよ信疑の白兵戦ともなれば、切るか、切られるかの真剣勝負となる。「この信、決定せずんば、無間地獄に堕在すべきものなり」という、どえらい世界が出てくるのじゃ。

4 捨てもの・拾いもの

この肉体は影。この世の悩みも苦しみも、すべて影。念仏だけが真実ですわ。この肉体は捨てもの、信心は拾いもの、この世は捨てもの、後生は拾いもの。自力疑心は捨てもの、一念の信は、如来様からいただく拾いもの。−−−ここが、三世の業障をブチ破る、ギリギリのところですわ。

5 仏法の信

とにかく、仏法の信は、骨のズイまで聞かねばならぬ。そして、その信を得たところは、夏の炎天下に、川に飛びこんで、冷たい水を浴びてきたような、サッパリとしたさわやかさがある。いつ聞いても、同じようなヌラリクラリと、もやもやした信心ではない。「人、もし仏智見に徹すれば、まさに狂死すべし」というほどの覚如上人の激しいお言葉があるほどですからな。

6 凡夫が信心を得る

真宗は、凡夫に信心が得られるように、成就されてある教だ。だから、この法を求めていけば、必ず、信が得られるように、でき上がった教ですわ。ところが、一般の説教などを聞いていると、「凡夫が、信心を得るなどということは、とうていできないことで、信を得たなどというのは、とんでもないまちがいだ」と、平気で言っているのを聞くが、それこそ、とんでもない誤りだ。そのところを、ゴジャゴジャと、言葉の上でお茶を濁していると、全く救われようがないのだ。実に、恐ろしい聞くものだ。御文章にも、信心獲得ということばが、ハッキリと使われてありますからな。信心は、願も行もない愚痴無智のいかなる凡夫でも、いただけるように成就されてあるのが、名号法だ。

7 仏智不思議の信

善導大師が、「自身は、現にこれ、罪悪生死の凡夫、昿劫(こうごう)よりこのかた、常に没し、常に流転して、出離の縁あることなしと深信す」と書かれている。このご文をいただいてみても、「自身は、『現に』これ、罪悪生死の凡夫」というだけなら、現在の自己を反省して、「罪深い私」というだけでもゆけるが、その次の、「昿劫(こうごう)よりこのかた、常に没し、常に流転して、出離の縁あることなし」というところは、仏智の不思議が出てこなければ、わからぬ世界ですわ。その不思議が知れてくるからこそ、名号六字のお働きであるし、いかなる愚痴無智の凡夫も、仏になるという信心の世界が開けてくるのだ。
 ところが、それほどの体験の世界があることを知らず、このあたりを、ごくあっさりと、話だけ聞いて、「こんなあさましい私を、お助けの慈悲」と、いただいているから、久遠劫来の迷いの根を、たち切ってもらうことができないのだ。
 真宗の説教を、あびるほど聞いている人でも、たいていは、「自身は、現にこれ、罪悪生死の凡夫」と聞くだけの心境しか持っていない。そこをもう一つ、信疑廃立にかけて、"仏智不思議"の知らされてくるところを求めねばならぬ。これは、冷暖自知の体験の世界であって、話を聞いただけでは知れるものではないのじゃ。

9 国に一人、郡に一人

(ある時、「真実信心の者は、国に一人、郡に一人というおことばは、どのお聖教にありますか」と聞くと−−−)
 さあ、あのことばは、どこに書いてあるのかなァ。蓮如上人のお言葉だと書いてあるが−−−。どうもわからぬ。しかし、蓮如上人が言われそうなお言葉じゃな。とにかく、どんな理屈をつけてみても、あの言葉は、痛快な言葉じゃな。仏法というものを、実に端的に痛快に言い表しているな。

10 真実信心の味

(またいわく、)真実の信心には、サッパリと、フロから上がったような、さわやかな味がある。しかめつらして、無理に絞りだすような法の味わいではない。あれこれと、こねまわして味わうような味ではない。きれいさっぱりと、裸になって味わう、爽快な味わいだ。
(またいわく−−−)「わが心を、同行の中に打ち出しておくべし」と、『御一代聞書』の中にある。同行の中に、わが信を裸にして、さらけだして喜べる法である。裸にできないような信ならば、すべてニセモノの信だ。また、裸にして、さらけだしてゆけば、誤りも正してくれるし、たたいてもくれる。その裸の心が、出せないような法座は、すべてうわべだけのものにすぎない。
         (第5章「信心」より)


第8章「法を説く」P190

17 『仏敵』のばあさん

(またいわく−−−)わしが、『仏敵』に書いた野口のばあさんなんかは、女性ながら、ものすごい気迫を持った人だった。あれほどの気迫に燃えていたから、法が広まったのだと思う。少々学問のある坊主が出かけて行っても、とても太刀打ちができなかった。
 このばあさんの葬式の時、熊のような体をした軍服姿の男が、ワァワァと子供のように泣いていたのを覚えているが、とにかく、仏法の上では、大の男も、コロリと参らせるほどの気迫をそなえている人だった。
 わしも、初めてこのばあさんをたずねた時、もう病気で亡くなる寸前だったが、それでも法の話になると、すさまじかったね。わしが、「自力と他力の水ぎわは、はっきりするものですか」と、尋ねたときのばあさんの目の鋭さは、今でも思い出すとゾーッとするネ。「火のように、はっきりします」と言われたときは、思わず心のドン底からふるえあがったものだ。
 あれは、わしの心の底まで、見すかしてしまうほどの、鋭い目つきじゃった。あんなすごい気迫にふれたことおは、わしの一生の間にも、あとにもさきにもないことだった。わしが、本願の白道に、大きく足を踏み入れさせてもらったのは、おそらくその時からだったと思う。
             (第8章「法を説く」)より



目 次

はじめに
(一)人間というもの
(二)仏法は具体的にきけ  
(三)後生の一大事
(四)求道    
(五)信心    
(六)思索    
(七)随想
(八)法を説く    
(九)生活の中の仏法
(十)『仏敵』の思い出
(十一)文学と念仏
(十二)法話
あとがき



関連情報

「伊藤康善師の法話音声」

伊藤康善師の法話音声をYoutubeでお聞きになれます。
法話名「自力の迷情(1)」
クリックして再生してください。

法話名「自力の迷情(2)」
クリックして再生してください。



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 レビュー(感想)  

私の好きな本です。先生のお言葉が心に飛び込んできます。
「執念深く仏法にかじりついてゆけ」
先生の、気迫、痛快さが伝わってきて、
私の仏法へ向かうエネルギー源となります。

(30代、女性、広島県)



私の「カシコイ頭」と「立派な経験」では、どうにも成らない事が在ります。

これを一つ一つ丁寧に、私の化けの皮を、ひん剥いて行かれる想いで読みました。
(40代、 男性、兵庫県) 

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