映画速報 TV、VIDEO 私のペット FAQ トップページ
MINさんの「あたふたチュニジア訪問記」
08/05/09
MIN
あたふたチュニジア訪問記14(最終回)
 チュニジア7日目は、チュニスの空港からミラノまで向かった。昼過ぎにミラノを発って、成田に向かうのだ。そしてチュニジア8日目とは、飛行時間に時差8時間を加えるから、時計のうえでは20時間以上も乗っている飛行機の中のこと。翌日の午前11時25分に成田空港に到着するのである。だから8日間といっても実質は5日間で、行きの1日と帰りの2日は飛行機の中という訳。
 ところで、ミラノから成田に乗り換えるとき、背負っていたリックを荷物として預けるハメになってしまった。本当はそのまま機内に持ち込み、成田に着いたらサッサと帰宅するはずだったのだ。ところが、荷物検査の処で「重量を量るから、そこに置け」と身振りで言われ(イタリア語も喋っているだろうが、理解できない)、考えもなく置いたらそのままエスカレーター式にリックは流れていってしまったのだ。ここで、英語でも話せれば「それは担いで機内に持っていく」と言えたのだが、哀しいかなそれが言えなかったのだ。あえなく、リックは帰らぬ人(モノ)となってしまった。
 長時間の機内にも耐えられるようにと、本もリックの中に準備していたが、それも手に入らない。添乗員に苦渋を訴えたら、「イスラム本」を1冊貸してくれた。長い長い機内のなか(12時間10分)で、この本は読了。やっと、成田に着いたのでありました。
 (終わり)。


08/04/28

(写真説明)
町の市場の風景

MIN
あたふたチュニジア訪問記13
 チュニジアにいるのも、今夜が最後である。あとは《市内観光》とは名ばかりで、土産物を買う最後のチャンスなのだ。私とko氏は、スークことチュニスの狭苦しい市場のなかに入っていった。色々とひやかしたが、ko氏がko夫人に頼まれたネックレスを買った。12ディナールのところ10ディナールに値切った。交渉は英語である。その店の店主は、英語でやりとりができたのだ。
 結局、観光立国であるチュニジアは、英語か仏語でやりとりのできる者が恩恵を受けるが、それ以外の者との格差は広がるばかりなのだ。砂漠の地で、「砂漠の薔薇」を押しつけた馬方ならぬラクダ方の現地人は、英語が話せなかったから一銭も貰うことができなかった。ただ押しつけられたモノに、金を払う人はいない。その点、チュニスの売人は目聡い。交渉にも応じられるのである。
 私とko氏は、市場の奥まで巡ってきたが土産物に買うようなモノがなかった。このままでは、私は何も買わずに帰ることになる。思い返して、ko氏と同じネックレスを買うことに決めた。再びネックレス屋に訪れ、今度は私が買うと英語が話せるko氏が交渉。英語を話せない私は手も足もでなかったが、同じモノを同じ値段で買えたのである。これで、一安心であった。なにも買わなかったら、妻に会わす顔がないのである
 お土産も買ったので、あとはホテルで飲む酒を捜した。道ですれ違ったツァー仲間から、スーパーの奥で「隠れるように売っていた」と聞き、そのスーパーをめざした。なるほど、飲酒がタブーなイスラム国である。一番隅の方で、それも一般の商品棚で目隠しするように売っていた。そのレジの傍には、酔っぱらった男がたむろしていた。チュニジアで初めて見た酔っぱらいである。なにやらブツブツ言っている。日本なら至る所で見かける風景であるが、チュニジアでは異様であった。ともあれ、赤ワインを買ってホテルに引き揚げることにしたのだ。
 最後に泊まったホテルは、世界的にも有名なシェラトンホテルだ。東京でも泊まったことのない立派なホテルで、チュニジアに来て始めて「熱い風呂」にも入れた。さらに、ワインのコルク抜きも常備されてあった。ワインは買ったが、コルク抜きにまで頭が回らなかった。色々と算段を考えていたので、正直ホッとした。これで、チュニジアの最後の夜はゆっくり酒を飲んで寝られたのであった。
 
08/05/06


(写真説明)
扉の菊の紋章とモザイクの絶品。

MIN
あたふたチュニジア訪問記12
 ケロアンからチュニスにバスが向かい、昼食はチュニスで摂ることに。今回のチュニジア観光も、チュニスに戻っての市内観光、バルドー博物館観光で終わりである。ところがこのバス、朝から降る雨の影響で雨水が荷物棚と席にドッと落ちてきたのだ。バスの中は、一時大混乱に。あわてて、棚の荷物と乗客を他に移動させ、運転手とガイドが応急処置をする、という一幕があった。私の目の前で雨水がドッと落ちてきたのには驚いたが、アフリカは雨には弱いのかもしれない。
 それはさておき、懐かしいチュニスに戻った。この前にチュニスを発ったのは、4日前の朝だったから僅かな時間である。しかし、妙に懐かしいのであった。最初に立ち寄ったのは、世界遺産の《バルドー博物館》である。この博物館は、もとはベイと呼ばれるオスマン帝国支配下におけるチュニジアの統治者の宮殿だった。オスマン帝国と聞いて、喜んだのは私である。立派なオスマン帝国時代の記念物が、いっぱい見れると期待したからだ。
 ところが中に入ってみると、古代ローマの像やモザイクばかりで、オスマン帝国時代の展示物はなにもなかった。あるのは、建物そのものだけなのだ。なかで扉の菊の紋章が、日本の皇室のモノに似ているのを発見。これが、トルコの様式なのを確認できたのであった。
 しかし、ここに集められた各種のモザイクは見事であった。バルドーは、世界一のモザイクコレクションが見られる博物館として評判のところだ。とくに、古代ローマの墓地などから集められたというモザイクは、色彩といい意匠といい絶品であった。だが、これまで何度も古代ローマの遺跡を巡らせられた私としては、少々食傷気味になっていたのであった。
08/04/27



(写真説明)上から
ケロアンの貯水池、霊廟の回廊、グランド・モスク。

MIN
あたふたチュニジア訪問記11
 チュニジア6日目。昨日の夜は、ケロアンのコンチネンタルホテルに泊まった。だんだんと、首都のチュニスに近づいている。ところでケロアンであるが、なんと町全体が世界遺産に登録(1980年)されているのである。ケロアンは、北アフリカにおけるイスラム発祥の地で、9世紀にはアグラブ朝が、10世紀にはファティア朝が、11世紀にはズィーリ朝が首都を置いた処だ。アラブ化(7世紀)して、最初のイスラム寺院「グランド・モスク」も建立され(北アフリカ最古のモスク)、イスラム世界の4番目の聖都とされたのである。
 朝起きると、雨が降っていた。アフリカなのに、雨が降ると寒いのである。そんな雨の中、ホテルの前の観光案内所の屋上に案内された。なにをするのだろうと思ったら、そこからアグラブ朝時代の大小4つの円形の貯水池が一望できたのである。水のないケロアンに都を築くため、歴代の王朝が山から水を引いて貯水池に溜めたのだ。
 次に訪ねたのは、「シディ・サハブ霊廟」である。シディ・サハブは、モハメッドの同志でこの地で没して聖者に列せられた。もともとは7世紀に建てられたものだが、17世紀には巡礼者の宿、モスク、ミナレット、そして神学校などが付け加えられた。まさか我々異教徒が廟の中に入れるとは思っていなかったのに、ガイドは平気な顔をして中に案内してくれた。中に入って、中庭のある回廊へと出た。そこは、色彩美も豊かな美しいタイルと透かし彫りの装飾が施された厳かな場所で、アラブの老女が孫に手を引かれてやってきていた。孫は、祖母の病が癒え長生きできるようにと、この霊廟に祈りを捧げに連れてきたのである。
 次に訪れたのは、グランド・モスク(640年建立)である。ここには、イスラム諸国からの巡礼者が訪れる。メッカには行けなくとも、ケロアンに7回巡礼すれば、メッカへの1回の巡礼に値する、といわれているのだ。ムスリムの「実行すべき5つの行動」として、@信仰告白、A礼拝、B喜捨、C断食、D巡礼があるが、この巡礼月(イスラム暦の12月8日から10日)に、メッカのカーバー神殿とメッカ東方の聖地を巡礼するのが「D巡礼」なのである。世界中から、300万人近くのムスリムが集中してやってくるのだから、その混雑ぶりはすさまじいとのことである。


08/04/23

(写真説明)
左からミネルバ、ジュピター、ジュノーの神殿。

MIN
あたふたチュニジア訪問記10
 5日目の午後は、スベイトラムに向かう。南部のサハラ砂漠から、中部の都市部へと戻って行くのだ。途中、道路の一車線を占拠して行進する一群に遭遇した。それは、葬儀の列だった。添乗員は、「写真を撮らないように」と注意したあと、全員にバスのなかで起立することを求めた。死者に敬意をはらったのである。その葬儀の行進の人の多さは、驚きであった。
 そんななかで、スベイトラムに着いた。ここにはスフェトゥラ遺跡群があるが、我々が行ったのは古代ローマの神殿群のある処だった。ローマ帝国の滅亡時(476年)、北アフリカはバンダル族に征服されたが、その後、ビザンチン帝国(東ローマ帝国)によって失地回復がなされた。
 7世紀半ば、ビザンチンのチュニジア最高責任者・グルゴアールは、コンスタンチノーブル(現在のイスタンブール)からの独立を宣言し、自らを皇帝と名乗った。首都をカルタゴからこの地に移し、スフェトゥラに首都を築いた直後、2万人を超えるアラブ兵に襲われた。グレゴアールは処刑され、都市は略奪しつくされた。チュニジアのビザンチン時代はこの地で終結し、新たにアラブ時代が始まったのだ。
 さて神殿群である。ここにはフォーラム(公共広場)、アントニウス・ビウスの門(139年建造)、ミネルバ、ジュピター、ジュノーが祀られた神殿が並んである。ビザンチン時代は、完全にキリスト教が国教となっていたから、多神教の神殿は顧みられなかった。そればかりか、要塞の壁の一部としてこの神殿群が使われていたのである。
 ミネルバは、アテナのローマ名で知恵の女神。ジュピターは、ゼウスのローマ名で全能の神。ジュノーは、ヘラのローマ名でジュピターの妻かつ最高の女神である。ミネルバとジュノーの神殿には階段がついているが、ジュピターの神殿には階段はない。階段を登って全能の神に近づくなど、畏れ多いという訳である。
 この地は、第2次大戦中に連合軍の空爆を受けたが、この神殿群は爆撃を逃れたという。しかし近寄ってみると、かなり破壊されている。それが、自然破壊か空爆によるものかは分からないが、観光資源として修復されていることがわかる。ここは、《カルタゴ遺跡》より整ってみえるが、世界遺産ではない。だが、神々のオーラが漂っているような雰囲気が感じられる処なのであった。
08/04/21


(写真説明)
オアシスの滝と、水源の岩山。

MIN
あたふたチュニジア訪問記9
 チュニジア5日目。今日の午前中は、4WD(トヨタのランクル)でアルジェリアとの国境に近いシェビカの《オアシス観光》である。ランクルを走らせていると、歩哨所が見え始めた。それは、いかにもモノモノしい様子である。アルジェリアの国境に近いため、越境者に警戒しているのだ。
 この旅の前に、アルジェリアでの自爆攻撃事件があった。知人が、「エッ、北アフリカは危ないんじゃないの」という。「いや、それはアルジェリアでチュニジアは観光立国だから大丈夫だよ」と応えていたが、「本当は、危ないかも」と思ってしまった。しかしそれは、日本のような国境がない国から見た見方で、あんがい国境近くとはこんなものかもしれないのだ。
 それはともかく、4WDはシェビカに向かった。このオアシスまでの道路は整備されるまでは、4WDでなければ行けなかった。したがって、この地の観光にはいまだに4WD以外は許可されていない。つまり、4WDを運転し案内する「業者」の権益が守られているのだ。それで、4WDに乗った意味を観光客に味あわせてやろうと、S字形に整備された道路を直線に走って(つまり、起伏のある砂漠の中を)、スリルを味あわせてくれた。一種のサービスである。観光客は、キャーキャー叫ぶこと請け合いである。
 シェビカは小高い岩山であった。4WDを降りて、観光客はこの山を登って行く。ちょっとしたハイキングである。砂漠にあるオアシスであるが、その水源を山まで辿って行くことができる。そこには、小さな滝もいくつも見ることができた。
 この山では貴石がとれるらしく、ピカピカ光る石を子どもたちが売りつけに来る。なかには、アンモナイトの化石もあった。ここは昔々、海だったのが隆起してできた山だったことがわかった。山肌を見ると、到る所にアンモナイトの化石を見ることができたのであった。

08/04/16


(写真説明)
 塩湖と、塩で作った馬。

MIN
あたふたチュニジア訪問記8
 昼食のあとは、バスでトズールに向かう。トズールはアルジェリアとの国境の近くで、サハラ砂漠のなかでもある。その途中、ジョット・エル・ジュリドという塩湖に立ち寄った。立ち寄ったというよりも、この巨大な塩湖を横断する道をとおって行き、途中でトイレ休憩したのである。
 湖といっても、見えるのは塩だけ。近くに製塩工場もあるが、これだけ巨大だと永遠に取り尽くすことはなかろうと思われた。この湖のなかに、塩で作った馬があった。その上に人形を乗せていたが、これが何もない湖の上での唯一の見せ物であった。塩を手で掬ってなめた。甘みがある塩であった。お土産にと、一塊りを自宅に持ち帰ったが手に余った。結局、庭に棄てるハメとなった。失敗々々。
 現地ガイドの説明では、この塩湖を横断する道路は、第2次大戦のときに北からはイギリス軍が、南からはアメリカ軍が造ってつなげたのだという。するとこの道路は、連合軍がイタリアへ攻め上るために造られたことになる。連合軍は、チュニジアからシチリア島へ上陸し、シチリアからイタリア本国へと進軍した。ここから、ファシズム国家に占領されたヨーロッパ大陸に、初めての一歩を踏み出したのである。イタリアはこうして破れた。次にドイツ、日本と枢機国が敗れていく端緒がこの道路にあったことになるが、真贋の程は分からない。
 そうこうするうちに塩湖の道路を抜け、バスはトズールのラムラホテルに着いた。ホテルの夕食では、牛肉の壷焼きなるものを食した。イスラムの国だから豚肉は一切でなかったが、思い返してみると肉は牛と鶏だけで、チュニジア名産の羊肉は1度も出なかった。南部に下る程、道路沿いの売店で羊が皮を剥かれてまるごと吊るされているのを到る所で見た。チュニジアの庶民の常食は、羊肉であることが窺がわされるのであった。
 ところが、我々には羊肉は供されなかった。それには、どんな理由があったのだろう。日本人には羊肉が不評だった過去の例を考え、ツァー会社が安全を期して出すのを止めにしたのだ、と推察された。チュニジア料理の1つとして、羊肉を期待していたので、残念なことであった。


08/04/15

(写真説明)
 ラクダに乗ったわたし。

MIN
あたふたチュニジア訪問記7
 ベルベル人の穴倉式住居のあとは、ドゥーズで《サハラ砂漠観光》である。ラクダに乗って、砂漠の中を45分程度往復するのだ。ツァー客1人1人が、1頭づつラクダに乗る。馬方(ラクダ方)が3〜4頭分の綱を引いて砂漠の中に入って行くのだ。ラクダに乗ったとたん、1人1人がポーズをとらされて写真撮影。また馬方が、1人1人に「砂漠の薔薇」という、砂が固まって薔薇の形になったモノをウムをいわさずに手渡した。さて、やっと砂漠の中に騎馬(騎ラクダ)して行く。思ったより背が高いし、上下の動きが激しい。暫くすると、ラクダの動きに合わせて、こちらも躰を動かすのがコツであることがわかってくる。
 砂漠の中に入り、往復地点に着くと、現地のアラブ人が待ち受けている。勝手にターバンを巻き付ける。それで、「3ディナール(300円弱)」と要求する。もちろん、ターバンなど必要ないので「ノー」と答えると、さっさとターバンを解いてしまった。なかには、突然にコーラを渡され栓を抜かれたので飲むと「3ディナール」と要求されて、支払っている人もいた。
 ラクダ乗り場に戻ってみると、騎ラクダ姿の写真が出来上がっていて、「10ディナールで買え」という訳である。ちなみに馬方は、ラクダを降りた我々に「1ディナール」と請求する。どうやら、押しつけた砂漠の薔薇の代金らしいのだが、ツァー客は訳が分からない。添乗員に訴えると、「払わなくていいです」との返事。誰も払う人はいなかった。このように、観光客に金を払わせる方法がシステム化されているのであった。
 金を払うといっても、僅かな金額である。イスラムでいうところの「喜捨」だと思って、又、この地にやっかいになっている迷惑料と思って、素直に払えばいいとも思う。だが、「喜捨」しても感謝される訳ではない。思わぬ贈り物を得たときムスリムは、アッラーの神に感謝するのであって、喜捨した人にするのではないのである。「喜捨」と思おうにも、その思想に日本人は馴染みがないのである。
 この騎ラクダ、初めての貴重な体験といえなくもないが、ラクダは涎を流して近寄ってくる。ある独身女性は、ラクダがボタボタ落とす糞を尻尾で振りかけられ、背中が糞だらけという悲惨な目にあっていた。だいたい、徒歩なら20分もかからずに往復できる距離を移動しただけ、というシロモノなのであった。情緒もなにも、あったものではなかった。


08/04/13


(写真説明)
マトマタの穴倉式地下住居と、そのなかに住んでいるベルベル人。石臼をひいていた。

MIN
あたふたチュニジア訪問記6
 3日目のホテルは、マトマタのクセイラホテル。このホテルの近くは、映画「スターウォーズ2」のロケ現場だった。チュニジアの砂漠と、ベルベル人の穴倉式地下住居が使われたのだ。近くの別のホテルは、ロケ隊の宿舎兼ロケ地となった。そしてそのまま、そのホテルが観光地となっているのだ。マトマタのあるホテルなのだが、半分は穴倉式なのである。部屋の一部が、土壁に入り込んでいるのだ。
 当日は、午後5時頃にホテルに着いたのでゆっくりとくつろいだ。夜空を眺めると、星が大きく見える。それで、ツァー客がホテルの屋上に集まって、星の鑑賞会が始まった。北斗七星も見つけることができたのである。
 この頃になると、ツァー客同士の交流もかなりすすんでいる。話しを聞いてみると、世界を50〜60ヶ国と巡っている人たちがいる。1人旅の男性が、70歳までに全ての国を訪れる計画をたて実行している。旅先で親交を深めた女性の2人組や夫婦の方も、もう50ヶ国巡っている話しをしていた。
 4日目、これからは砂漠へと向かって行く。最初に訪ねるのは、ベルベル人の穴倉式地下住居である。さて、ベルベル人である。彼らは、北アフリカの先住民である。すると、アラブ人はアメリカでいうところの白人で、ベルベル人がインデアンということになる。現にベルベル人は、どんどん砂漠に追われ穴倉式住居に生活するようになっているのだから。
 ベルベル人は、日本人が想像するところの黒人ではない。黒にちかい赤褐色の肌をしている。首都チュニスからこの砂漠の地に近づく程、住民の肌の色がみるみる黒味が増してくる。それは、バスのなかで外を眺めているだけでわかった。アラブ人は、かなりベルベル人と混血がすすんでいるようである。
 ところで、穴倉式地下住居である。小高い丘を下から横穴を掘り進み、ある程度のところで上に大きな穴を開ける。そして、穴の下に広場をつくる。広場を中心に、横穴をいくつも掘って部屋を造っていくのだ。人力さえあれば建築費はかからず、砂漠の暑さ寒さをふせげるのである。
 もう1つ、アフリカは暑いところだと想像していたが、夜は寒いのである。ホテルでは、いつも暖房を使った。ただし、チュニジアはこの時期(4月初め)が一番寒い季節なのであったが。

08/04/08


(写真説明)
エルジュムの円形闘技場
MIN
あたふたチュニジア訪問記5
 チュニジア2日目の夜は、地中海沿いのマハディアのホテルだった。3日目は、いよいよサハラ砂漠の近くのマトマタへと向かう。途中、世界遺産であり《エルジュムの円形闘技場》を観光する。この円形闘技場は、世界のコロセウムのなかでも3本の指に入るという大きさで、保存状態もよい。コロセウムは、ローマ皇帝がローマ市民へのサービスとして無料で娯楽を提供した場所である。ここでは動物同士の戦いはもちろん、動物と人間、人間同士の戦いも見世物としておこなわれた。コロセウムの地下には、動物の控室や剣闘士の控室が今でも当時のままに残っているのを見ることができた。
 ところで、なんで北アフリカの地にまでローマ市民を対象にしたコロセウムなど立派な施設が建造されていたのか、という秘密である。それは、期限193年にアフリカ出身のローマ皇帝が誕生したからなのである。セプティミウス・セウェルスは、現在のリビアに生まれた。地元の名家出身だった。シリアで軍団の司令官となり、その後フランス、シシリア、パンノニア(現在のハンガリー)などの総督職を歴任していた。
 193年、当時のローマ皇帝が殺された。セプティミウスは、ライン川やドナウ川付近に駐屯していた軍団の支持を受け、皇帝の名乗りをあげたのだ。皇帝を名乗ったのは、彼だけではなかった。シリアでも、ブリテン(現在のイギリス)でも、地方の軍団に支持された司令官がいたのだ。セプティミウスは、彼らを破って唯一のローマ皇帝となったのである。その彼が、出身地である北アフリカに恩恵を施したのはもちろんのことである。
 もともとローマ皇帝とは、ローマ軍の総司令官のことであった。だから、軍団の支持でローマ皇帝となった人物は多い。ローマの地を一度も踏まない間に、各地を歴戦して亡くなった皇帝さえいるのだ。なかには、蛮族出身のローマ皇帝まで出現した。それは、少しもおかしなことではなかったのである。
 2日目の観光は、エルジュムのコロセウムだけだった。後は、マトマタへ5時間かけてバスで移動するだけだった。それで、バスの窓から見える風景なのだが、5時間走っても延々とオリーブ畑あけなのである。いったい、この国の農業はどうなっているのだろうか。砂漠に近づいているから、当然に水の確保が難しくなる。だけれども、オリーブ樹だけとは恐れいいってしまった。ちなみに、チュニジアのリーブの収穫量は世界第3位だそうだ。これも、フランスの植民地主義によるチュニジア経営の影響なのであった。
 18世紀以降、フランス、イタリアの経済的進出によって、これまでの農業、国内商業と手工業が打撃をうけた。かわりにフランス、イタリア系農業植民者による、ブドウ、オリーブ栽培を軸とした商業的農業が発達したのだ。チュニジア人は、この植民者の利害に抵触しない分野でしか、経済活動に従事できなかったのである。
 この日は、マトマタのホテルに午後5時過ぎに着いた。久しぶりに、落ち着いてくつろぐことができたのであった。

08/04/07


(写真説明)
 ローマの水道橋の遺跡と、スース旧市街のミナレット

MIN
あたふたチュニジア訪問記4
 カルタゴ遺跡見学、といっても残っているのは礎石だけである。その上に、ローマ人が建てたアントニヌス共同浴場などの遺跡があるから、一見するとローマの遺跡としか思えない。それにしても、ローマ人の石の建造物は見事なものである。2000年経っても、立派にその痕跡をたどれるのであった。これは、この後に行ったローマ水道橋遺跡も見て思ったことだ。水のない地で、どうやったら水を確保するのか。山から引いてくればいい、と延々と水道橋を建造してしまうのだから凄いものだ。
 昼食後、ジディ・ブ・サイドという処で散策をした。日本でいうところの、「お土産」街がある。女性たちは、売り子とあれこれ交渉して「半分も値切った」と喜んでいたが、別に欲しくって買った訳でもなさそうだった。買う素振りをみせたために、売り子が何としても買ってもらおうと値下げしていくものだから、とうとう買う羽目になってしまった、というのが本音である。
 その後、チュニジア第3の都市スースへと向かった。チュニジアの人口は1000万人。首都チュニスには200万人が。すると、スースには100万人はいるのだろうか。都市に人口が密集しているようである。スースは、地中海からの爽やかな風が吹き抜ける一大観光地である。ここには、世界遺産のメディナがある。メディナとは、旧市街のこと。周囲は、9世紀アグラブ朝時代に建て直された高さ8bの城壁に囲まれている。ここぞイスラムだ、という処である。グランドモスクも聳えていて、6時過ぎになってミナレット(呼び出し台)からは唱うような呼びかけが行われていた。アザーン(礼拝への呼びかけ)が始まったのだ。これが聴きたかったのだ。
 アザーンは当初、キリスト教徒のように鐘がよかろうということだった。ややあって「人間の声はどうか」という人が出て、それをムハンマドが喜び、肉声でおこなうと定められのだ。祈りの呼びかけをする人は、アッズィンとよばれ、美声のもちぬしが選ばれた。そして、このアザーンが多くの人々の心をつかまえ、イスラム教が普及していくことに一役かっていったのであった。しかし、残念なことにアザーンはスピーカーをとおしての呼びかけで、肉声ではなかった。アザーンも、近代化してしまったのである。


08/04/06
MIN

(写真説明)
 カルタゴの遺跡。ただし、この遺跡の上に紀元後にローマの諸施設ができた(これも遺跡になっている)から、説明されなければ区別がつかない。

MIN
あたふたチュニジア訪問記3
 チュニジア2日目。今日はバスで南下し、マハディアまで行く。ツァーの総勢35人。1人旅の参加者も2割ほどいた。男性は1人で、あとは女性である。頼もしいのは女性なり、ということが証明された想いであった。
 最初に行くのが、世界遺産である《カルタゴ遺跡》である。カルタゴといえば、ハンニバルである。ハンニバルは紀元前218年、29歳でカルタゴの属州であった現在のスペインから、遠路象を引き連れてアルプス超えをした。イタリアに襲いかかったのだ。そして、16年の長きにわたってイタリアに居座ったのである。ハンニバルの戦術は、騎兵の機動力を生かしたことである。そのため、歩兵中心のローマ軍は各地で破れていった。戦略は、ローマとその属国との離反策だった。そのため、イタリア全土を蹂躙した。みせしめにしたのだ。そうすれば、「ローマ頼りにならず」と属国が離反すると思ったのだ。そのため、肝心のローマそのものへの攻撃は後回しとなった。
 しかし、ローマの属国は離反しなかった。戦線を広げたハンニバルは、補給が困難となった。体制を立て直したローマ軍は、ハンニバルの戦術を学んだ若きスピキオを将軍に押し立てて襲いかかった。かくて、ハンニバルは破れた。その後、勢いをかったスピキオが北アフリカまで渡って、カルタゴを滅亡に追い込んだのである。
 ところで、カルタゴの遺跡のなかには墓地もあった。古代のカルタゴでは、幼児を神に捧げる儀式があった。その幼児の墓があった所だ。神に1番大切なモノを捧げる、それが自分の長子ならなおさら神は喜ばれる、という訳だ。しかし近年、実際にはそんな事実はなかったという学説が台頭している。墓の発掘調査で、幼児の遺骨は僅かしか出ず、それに代わって動物の骨が出てきた、というのだ。人間の代わりに、動物を代用していたという訳だ。真贋のほどは分からない。しかし人間を神に捧げることは、古代では各地で行われていたことだ。日本でも、人柱とかがあった。南米のインカ帝国では、太陽神に人間を捧げていたことは有名である。古来、人間と神の間の関係とはそういうものだったのだ。
〈ハンニバル余話〉
 現在のローマ人(つまり、ローマ世界だった住民たち)の心の中には、まだハンニバルの恐怖が残っている。母親が子どもを叱るときに、「戸口にハンニバルがきていますよ」と言うと、子どもは震え上がるのである。


08/04/03
MIN

(写真説明)
 早朝のエル・ハナ・ホテル前の大通り。路面電車が走っており、道の両脇には官公庁のビルもありと、さすが首都のメイン・ストリートでした。

あたふたチュニジア訪問記2
 海外旅行は今回で4回目になるが、私の決定的な弱点がわかってきた。1つは、英語を解さないこと。2つは、食事が合わないことである。4年前の中国内モンゴルでは、バター茶と羊の脂にあたってしまった。旅の後半には、日本食以外は胃が受けつけなくなってしまったのだ。2年前のベトナムでは、フランス仕込みのパンがダメだったことがわかった。パンを2日も食べつづけると、イースト菌の影響で歯が浮いたようになってしまうのだ。その為、ホテルの朝食(朝食代はツアー料金のなかに入っている)時に「ライスはないか」と注文し、パンをなるべく食べないようにしたのであった。1年前のカンボジアでは、香りが濃い香草で料理が口に入らなかった。ベトナムの時は、この香草を取り除いていたが、カンボジアでは私の頼んだカンボジア料理全体が香草まみれだったのだ。
 それはさておき、チュニジアの第1日目は首都チュニスのエル・ハナ・インターナショナル・ホテルに夜中に到着したことから始まる。長時間のフライトと時差の関係で、眠いのだが妙に興奮している。はやく風呂に入って、眠りたいだけだった。ところがこのホテル、お湯が出ない。ぬるま湯だったのである。その上ベットはダブルベットで、男2人が一緒に寝ることになってしまった。毛布が見あたらず、上に掛けるものは1枚のシーツだけ、という有様。しかも、それに気づいたのは夜中の2時近く。文句を云うのも諦めて、泣く泣く眠りにつくことにしたのだ。廊下でツアーの女性客が、「毛布がない」「お湯がでない」とホテルのスタッフに叫んでいる声が聞こえていたが、ホテルのスタッフがどれだけ理解したかは疑問であった。

08/03/30
MIN

(写真説明)
ミラノのマルペンサ空港のロビーに飾ってあった、ハリー・ポッター像。人気があって、旅行客が並んで写真を撮っていた。
あたふたチュニジア訪問記1
 モロッコかトルコかチュニジアか、目的地をイスラム圏にと検討した末にチュニジアに決まった。チュニジアについて知っていることは、紀元前15世紀頃から地中海沿岸に都市国家を築いてきたフェニキア人(現在のレバノンが発祥地)が、紀元前814年に植民地としてカルタゴを建国したことである。このカルタゴが、現在のチュニジアである。
 その後、カルタゴがローマ帝国に滅ぼされ(紀元前264年の第1次から146年の第3次ポエム戦争で)たこと。紀元6世紀には、ゲルマン民族の支族であるバンダル族によって北アフリカ全土が支配されたこと。それを、ビザンチン帝国(東ローマ帝国)が紀元533年に撃破したが、7世紀以降のアラブ軍の征服によって今日に至ったことである。だから、チュニジア人の9割はアラブ民族なのであった。もちろん、近代に入ってフランスの植民地になり、独立したのは1956年なのであった。私としては、バンダル族のくだりに興味があったのであるが、この時代の北アフリカは砂漠化がすすみ散々だったようである。
 さて、行き先をチュニジアに決めたのだがまったく未知の国である。旅行会社の添乗員からは、「便所に紙が用意されていないから、ロール紙を1巻シンを抜いて持参する」とか、「両替は現地でするので、千円札にして持参する」等の注意があるだけであった。もっとも、今回の旅行では8日間とも添乗員が就いている。見学先も、世界遺産を中心に旅行会社で組まれている。食事も3食つきだから、自分たちが頭を使うところは何もない。現地でお金を使うのは、飲料水とお土産を買うだけなのだ。
 成田で出発を待っていると、ロビーでは学生の卒業旅行の集団が目立った。いまでは、国内よりも格安の海外旅行のほうがお金がかからないのである。成田からチュニジアの首都チュニスまでは、片道18時間である。もっとも時差が8時間だから、成田を14時に出発してチュニスに到着するのは夜中の零時である。もちろん直行便はないから、途中でイタリアのミラノで乗り継ぎをするのであった。
 ミラノのマルペンサ空港での待ち時間で、飲料水を買おうと売店で千円札を出したら「ノー」といわれた。考えてみたら、イタリア貨幣はユーロだった。そこで両替所で千円を出したら、イタリア美人がニコニコしながらイタリア語をまくしたてるだけで、手を出そうともしない。パスポートが必要なことを思い出し、パスポートを出したが、それでもペラペラとイタリア語をまくしたてるだけ。まったくのお手上げで、スゴスゴと退散したのであった。同行のKoさんに事情を話したら、Koさんが両替に向かった。暫くして、ちゃんとユーロと交換してきたではないか。Koさんいわく、「為替の関係で2千円以上から両替するそうだ」と。それなら、身振りでも「ツー」といえばわかるものを、イタリア語をまくしたてるだけでは分からない。そこのところをKoさんが聞き分けてきたのは、英語を解するからであった。かくゆう私は、まったく英語も解さないのであった。



トップ映画速報ライブラリー投稿欄
曇りのち時々晴れストライプな日常ペット