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| MINさんの「あたふたポルトガル訪問記」 |
| あたふたポルトガル訪問記17・最終回(MIN) <1月13日・成田へ> 今日は。朝4時起床で5時出発。日本に帰国するのだ。作晩は、ホテルの私たちの部屋で「最後の晩餐」を開 く。参加したのは、私の隣の町内のAさんと一番若いCさん。事前に、Cさんから教えてもらったデパートで「最後のみやげ物探し」と夜食の「サンドイッチと ビール」を探した。みやげ物としてそれぞれ家族用に長いスカーフを買ったが、みやげ物というのは最後に買うものではないことを痛感した。時間がないからで ある。 ところで、サンドイッチとビールである。デパートの広い地下売り場で探しても、見当たらないのである。店員に「サンドイッチ」と言って も、通じないのだ。面倒になった店員は、「アッチ」とあらぬ方を指さす。指された方に行っても、もちろんなかった。結局、サンドイッチはなかったのであ る。やっと見つけたパンを買った。それにビールである。ビールだと思って買った(随分安かった)のは、飲んでみたら「梅酒の炭酸割り」であった。妙に甘た るかったが、ないよりはマシであった。 「最後の晩餐」には、AさんCさんが日本から持ってきた珍味、カップ麺、インスタント白米などが出た。さ すが、旅慣れた人は違う。カップ麺も、外国で食べると美味しいのであった。日本で作った食べ物は、何でも美味しいことがよく判った。次からは、日本のイン スタント食品を必ず持参しようと誓ったのであった。 リスボン空港に着いた。飛行機の券は、発券機にパスポートを入れて、自分で座席まで選ぶ方式 なのである。うまく発券される人と、されない人がいた。すると係員が来て、発券の手伝いをしてくれる。JRの駅で乗車券を買うのと同じなのにはビックリし てしまった(但し、飛行便ごとに発券機が決められている)。 飛行機は、イギリスのヒースロー空港に着いた。着陸したとたん、パチパチと拍手が起 こった。「何事だろう」と思ったら、「雪のため着陸できないかもしれない」と事前にアナウンスがあったのだ。機長は、「着陸できてラッキーだった」と言っ ていた。 飛行機は40分も遅れて到着した。成田行きの便は、発着まで30分しかない。添乗員に「走って下さい」とせっつかれ、大急ぎで発着ロ ビーへ。入口での、身体検査や荷物検査があった。若い女性の係員が、先頭にいた私に向かって早口の英語で何か喋っている。日本語で「分らない」と大声を出 すと、慌てて添乗員を探していた。なんと、帽子も上着もベルトも靴も身体に着けているもの全部外せ、と言っていたのである。私は、事前にベルトを外してヒ モでズボンを縛っていたので大丈夫だと思っていたが、まさか靴まで脱がされるとは思ってもいなかった。 ゲートを潜って、最後に出てきたK氏が 「携帯がない」と騒ぎ始めた。受け取った手荷物の中じゃないか、と添乗員に言われ隈なく中を見てもないのである。空港の係員に言っても、「分らない」と言 う。そんなことをやっている内に、「手荷物入れ籠」のなかに携帯が見つかった、と係員が携帯を振って見せた。「それだ」ということで、どうやらトラブル解 消。テロ対策で、身に付けているモノ全部をカゴに入れろと慌てさせられたため、ゲートを出てカゴの上の荷物を取っている間に、カゴが携帯を乗せたまま流れ て行ってしまったのである。 成田行きの飛行機に乗り込んだが、時間になっても一向に飛ぶ気配がない。なんと、主翼に凍って固まっている雪を溶か す作業で3時間も待たされたのであった。ヨーロッパを襲っていた寒波は、イギリスを直撃していたのだ。 帰りの飛行機の中は空いていた。4人掛け に2人程。2座席分を1人で占有して、丸くなって寝ることも出来た。行きの飛行機とは大違いで、楽であった。1月14日9:10、成田到着。外気温は3℃ であった。日本は、この1週間でいっきに寒くなっていたのであった。 空港で最後の用事は、荷物扱いとなったバックを回収することだ。ツアー客全 部が回収を終えたのに、私のだけはいつまで経っても出てこない。添乗員が「最後にトラブルか」と肩を落とし、空港の係員に届けに行こうと足を踏み出したそ の時、なんと私のバックがポツンと1つだけ出てきたのである。添乗員も笑顔になって、私たちとお別れである。ということで、ツアー客の皆がそれぞれの方向 に別れて行ったのであった。(終わり)。 あたふたポルトガル訪問記16(MIN) <1月12日・リスボンで自由行動> 昼食後は自由行動である。各人が、好きなと ころを散策する。私たちはBさんを誘って出発。昼食のレストランの近くに、K氏が好きな「軍事博物館」があるので歩いて行く。徒歩10分以内の範囲にあっ た。5分程で、それらしき施設が見つかった。しかし、いくら探しても入口が見つからない。それらしき処は、ドアが堅く閉じられている。まさかここが入口の はずはない、ということで施設をグルリと半周した。そこに、陸軍の迷彩服を着込んだ衛兵がいる入口があった。入ろうとすると、「ノー」と拒否された。軍事 博物館の入口を聞くと、さっきの閉ざされていた方向を指す。もう一度、施設を半周して元に戻ったが、閉ざされた扉しかない。近くのレストランの入口にたむ ろしていた男性に聞くと「そこだ」と言う。もう一度衛兵の処に戻って聞くと、「今日は休みだ」と言う。パンフでは「月曜休館」とあったが、今日は火曜日で ある。そこで、庭に展示してある大砲を指して「撮影させてくれ」と頼むと「ノー」と言う。まったく取り合ってもくれなかった。それにしても、休みでもない 日に休館にしたりと、なんともルーズな公共施設であった。 <1月12日・路面電車に乗る> 軍事博物館の側に、サント・アポ ローニア駅があった。ここは地下鉄の出発駅である。窓口で「1日有効・共通チケット」を2.85ユーロで買う。このチケットで、リスボン市内のバスも地下 鉄も路面電車も、ケーブルカーも乗り放題になるのだ。通りがかりの人に「地下鉄の入口」を訪ねると、地上に電車が停まっている方を指す。そちらに向かう が、どう考えても地下鉄ではない。どうやらこの駅はターミナル駅で、普通列車の終着駅にもなっているらしい。 やっとのこと地下の入口を見つけ、 地下鉄に乗車。外国で地下鉄に乗るのはドキドキものである。2つ目の駅で降りれば、路面電車に乗り換えることが出来る。目的地に着くかどうかドキドキした が、乗客は穏やかで危ない雰囲気はどこにもなかった。 バイシャ・シアード駅で降りた。路面電車で一番人気は12番線と28番線である。28番線 は観光客が多く乗るのでスリなどに狙われる路線だと云われていたが、やはり28番線を探すことに。しかし、ここには28番線は通らないようである。地図で 調べると、1つ先のロシオ駅から出ていることが判った。ロシオ駅は、歩いてもすぐのところなので歩いて行った。ということで、やっと28番線に乗車したの である。 路面電車で、リスボンの街並みをゆっくり見学する。街の人々の様子も、ゆったりした感じである。次の目標は、ケーブルカーに乗ること。 28番線に乗っていると、そのケーブルカーの駅に着くことになっているのである。乗客に駅を尋ねると、「今、通り越した」と言う。「歩いてもすぐだよ」と 言われ、そこまで歩く。あったあった、銀色に輝くケーブルカーが停車しているではないか。 ところで、どうしてリスボン市内にケーブルカーがある かというと、リスボンは7つの丘で出来た起伏の激しい都市なのである。上と下は歩いても短い距離なのであるが、高低差が激しいのでケーブルカーが3つ設け られたのである。若者なら、この位の高低差(50b程)はなんでもなくても、年配になるとこたえる。なんとも優しい気配りの施設なのだ。 ケーブ ルカーの両脇は、商店の裏口が多かった。何か、リスボンの裏側を見るようで寂れた感じである。発車間際になると、地元の人がわらわらと乗り込んできた。5 分もかからず下まで降りる。なんともノンビリしたものである。そこで15分程待って、再び上の駅に戻り、路面電車に乗り込むことに。 <1月 12日・夕焼けが奇麗なサン・ジョルジュ城へ> 夕暮れが近づいてきた。ホテルに戻ろうと思っていたら、Bさんがサン・ジョルジュ城に行き たい、と言う。サン・ジョルジュ城は、リスボンの東にある山の頂に聳えている古城で、最初はローマ人によって要塞として建立されたと云うのだ。そこは、リ スボン市内を一望できる頂でもあった。 そこで、路面電車からバスに乗り換えることに。バスは細い路地のなか、対向車を上手に避けながら急な石畳 の坂道をスイスイ登って行く。ちょっとした、アトラクションのようであった。約20分で城に着いた。入場料5ユーロ。小雨がぱらつくなか、暗くなる前にい そいで見学。夕焼けが広がるリスボン市街が一望できて良かった。尚、ローマの痕跡は、今はまったく見えなかった。 そういえばサン・ジョルジュ城 は、今回のツアーメンバーで1番若いCさん(20代)が「行きたい」と、1人でタクシーで向かったところであった。その時は、誰も賛同者がいなかったが、 Bさんが行きたいと言い出したのには訳があった。途中のバスの乗り場で、他のツアーで来た長野県の老夫婦が「いい処だった」と話してくれたからだ。この老 夫婦は、事前にサン・ジョルジュ城をチェックしてバスを乗り継いで戻ってきたところであった。なんともバイタリティーのある人であった。 さて、 バスでホテルに近い駅まで来た。外はもう暗くなっていたが、駅からホテルまでの道が分からない。Bさんは、「見たことがある処だ」とサッサと霊感がおもむ くまま歩いて行く。しかし、どうみてもホテルには辿り着かない。もう1度元に戻って、近くの商店で道を尋ねた。だいたいの方角が判ったので、再びホテルを 探しに行く。そこでもBさんは、サッサと行ってしまう。結果的に、Bさんの進んだ方向にホテルがあったが(霊感があたった)、ホテル探しに苦労してしまっ たのである。 (写真説明)上から路面電車28番線、ケーブルカーからの風景 ![]() ![]() あたふたポルトガル訪問記15(MIN) 日本に帰国してすぐに、ハイチ大地震があった。テレビの解説で、250年前のリスボンでマグネチュード 8.5の地震の例が取り上げられ紹介されていた。そのリスボン大地震のことである。1755年11月1日に発生した。イベリア半島南西沖の、マイクロプ レートの沈み込み帯で発生したのだ。その被害は、ポルトガルはリスボンを中心に津波による死者1万人を含む6万2000人と推定されている。モロッコで も、津波で1万人が死亡した。リスボンは地震の後、津波と火災によりほぼ灰燼に帰した(建物の85%は破壊)。リスボンの中心部には5m幅の地割れがで き、北アフリカ沿岸は高さ最大20mの、アイルランド西部でも3mの高さの津波が押し寄せたのである。リスボン中心部のロッシオ広場には、当時最大の公立 病院があったが、数百人の患者もろとも火災にのみこまれた。地震の爪痕は、今もロッシオ広場に残されている。 この地震で国王・ジョゼ1世は、怪 我ひとつしなかったが、その後、死ぬまで閉所恐怖症が治らなかった。そこに立ち上がった男がいた。のちにポンバル侯爵となった、宰相のセバスティアンであ る。彼は、「さあ、死者を埋葬して生存者の手当てをするんだ」と命じたのである。遺体は、教会の意見や当時の慣習に反し、テージョ川河口より沖に水葬され た。これにより、疫病が広がるのを防いだのだ。1年以内にリスボンから廃墟が消え、至るところが建築現場になった。新しいリスボンは、大きな広場と直線状 の広い街路をもつ完璧に秩序だった街に変貌した。 宰相の指揮下で建てられたポンバル様式建築は、世界最初の耐震建築であった。宰相は、国中の全 ての教区に質問状を送り、地震とその影響を回答させた。客観的かつ科学的に地震の原因と結果を調べようとしたポンバル侯爵は、近代地震学の先駆者と評価さ れたのである。 地震以前、宰相は王の寵臣であったが、貴族たちは彼を郷士の息子からの成りあがりと軽蔑していた。宰相のほうも、古い貴族たちを 腐敗した無能な集団として嫌っていた。しかし地震を境に、有能な対応を示した宰相の権力は貴族たちを上回った。このことが、宰相を重用するジョゼ1世に対 する恨みを貴族たちに募らせ、1758年に「王暗殺未遂事件」が起きた。これを機に宰相は、貴族の一掃に乗り出し、有力貴族に加担していたイエズス会もポ ルトガルの領土から追放されることとなったのである。 以後、敵のいなくなった宰相は啓蒙主義的専制政治を行い、ポルトガルを独裁支配することと なったのである。 <1月12日・リスボン市内観光> 今日の午前中は、ベレンの塔、発見のモニュメント、ジェロニモ 修道院、ロッシオ広場の市内観光である。朝から雨であった。コインブラで買ったフリースを着ていると、暑いくらいだったので脱いだ。 まず、テー ジュ川の河口にあるベレンの塔にバスで出かけると、外は海風を受けて暴風雨状態である。私は、防滴レインコートを着込んでいたから苦にはならなかったが、 外は傘も差せない状況であった。ベレンの塔は、16世紀の初め、船の出入を監視する要塞として建てられた。暴風雨を突いて、数人が写真を撮りに行った。私 以外は、アッという間にビショビショになっていた。 次は、ベレンの塔の傍にある「発見のモニュメント」である。歩いてもすぐ傍なのだが、歩いて 行けないのである。暴風雨のなか、バスで移動。これは、1960年にエンリケ航海王子の500回忌を記念して造られたモニュメントである。大海に乗り出す 勇壮なカラベラ船の、先頭に立っているのがエンリケ王子である。 モニュメント前の広場には、大理石のモザイクで世界地図と各地の発見年号が記さ れている。日本が「発見された」のは1541年となっている。どうやら、ポルトガル船が豊後に漂着した年のことらしい(種子島到着は1543年)。ともか く、身体が風で持っていかれそうになり、バスで見ていた人はハラハラしたそうである。 次に行ったのは、ジェロニモス修道院。ところが、河口が暴 風雨でろくに見学出来なかったので早く着いてしまった。開場までの時間、リスボンで有名な菓子店が側にあるというので入ることに。この菓子店のエッグタル トは、リスボン1と評判なのである。エッグタルトは半生で、日持ちがしないからその場で食べるよう注意を受ける。そういえば、ポルトガルのカステラも卵が 半熟だからみやげ物にならないと言われていた。ツアー客は、争うように食べていたが、私は遠慮させてもらった。 ジェロニモス修道院が開場した。 ここには、ヴァスコダガマの石棺(左側)があった。また右側には、ポルトガル最大の詩人・カモンイスの石棺もあった。カモンイスは、ヴァスコダガマの偉業 を一大叙事詩としてうたいあげたのである。 この後、バスはロッシオ広場に向かった。ロッシオ広場は、250年前の地震の爪痕が残されていたが、 最近になって再開発が始まり工事中であった。そんな説明を受け、ロッシオ広場は通り過ぎていった。尚、ポンバル様式の耐震建築は今も残っていた。それは、 急拵えする必要もあって装飾を排した簡素な木造(外見では木造に見えない)だった。しかし地震から250年、その後に建てられた建物には次第に耐震構造が なされなくなった。今、マグネチュード8.5の地震がおきたら大変なことになるらしい。「喉元過ぎれば熱さ忘れる」ということなのである。 (写真 説明)上からベレンの塔、発見のモニュメント ![]() ![]() あたふたポルトガル訪問記14(MIN) 1974年に40年間の独裁政権が倒れたが、この革命をつうじてポルトガルの風土というものが垣間見ら れるのであった。1つは、チューリップ革命が「報復なき革命」として無血(衝突時に、双方で何人か死亡したが)で成し遂げられたこと。2つは、前政権の主 立った人物がブラジルなどに亡命するのを黙って見ていた(むしろ亡命を望んでいた)事、などである。 「ポルトガルの芸能」では、スペインと同 じ闘牛がある。しかしポルトガルでは、最後に牛を殺さないのである。雌牛を10頭ちかく闘牛場に乱入させて、傷ついた雄牛を「知らぬ間」に退場させてしま うのだ。こういう風土が、ポルトガルにはあるのであった。 <1月11日・ナザレの朝> 朝は7時に、Bさんを誘って散歩に 出た。ところが、外はまだ真っ暗。砂浜を海の方に向かうと、漁をしている漁船の明かりが見えた。朝早くから、もう仕事をしているのである。そればかりか、 海辺でモノを拾って歩いている人がいる。それも1人ではない。よく見ると清掃員で、揃いのユニホームを着ていた。 ポルトガルの海岸には貝殻とい うものがない。聞くところでは大西洋の波が激しく、海岸から30m先は、海底が波に削られて深く落ち込んでいるのだそうだ。だから、夏だからといって海で 泳ぐ人はいないのだ。避暑客は、のんびりとデッキチェアに坐って日光浴をするだけなのである。 プライア地区を歩いてみた。少しづつ明るくなって きた。細い路地をアッチコッチと歩いていると、個人の家の壁にアズレージョの装飾が沢山ある。海辺の町らしく、漁をテーマにしたアズレージョがいくつも あった。その中に、ヒラメを天日干ししているアズレージョがあるではないか。こんなに魚が豊富に獲れるのだから、干物があってもおかしくはない。ところ が、残念ながらポルトガルにいる間中に干物に巡り合うことはなかったのである。 ところで、朝7時にホテルを出たにはもう1つ理由があった。ホテ ルの前の市場が7:00から13:00まで開いているという情報があったからだ。ところが開いていない。後でパンフをよく読んでみると、「月曜は休み」と あった。今日は月曜だったのである。本当に残念。 <1月11日・アルコバサへ> ナザレからアルコバサ、オビドスを経由して 今日はリスボンに入る。アルコバサには、サンタマリア修道院がある。この修道院に入場して、なぜかホッとした。それは、これまで観て来た教会のように華美 な装飾が排されていたからだ。この修道院は、アフォンソ1世がポルトガル建国のお礼として1153年に創設。シトー会の禁欲的な規約に沿って建てられたの である。こういう教会なら、日本の神社仏閣を巡るような気持ちで参拝できる。正直言って、もう教会見学はアキアキしていたのである。 内部に、悲 恋の物語で知られているというペトロ1世とイネスの石棺というのがあった。その石棺には、6頭のライオンなど様々なレリーフが刻まれていた。それは石の材 質のせいか、真新しい石棺に見えた。しかしナポレオン軍の侵入で、金目のものが略奪された時に削り取られた部分があると、その部分を説明されたのであっ た。 <1月11日・オビドスへ> 次にバスが向かったのはオビドス。オビドスは、城壁に囲まれた人口800人の小さくかわい らしい町。世界遺産に登録されている。この城壁は歩くことができる。ツアー客が城壁の上にいたので、追いかけたが途中で通路が途切れてしまった。どうや ら、別の登り口があるらしい。声はすれども姿は見えぬツアー客に声をかけ、ようやく登り口を見つけて城壁の上に。なんと、町をぐるりと一周できるではない か。とりあえず半周して、入場門にたどり着いたので降りることにした。城壁の上からの景色はよかったが、高所恐怖症の身にとっては気がやすまらないところ でもあった。 その後、この地方の特産品を並べたみやげ屋を覗いたりしながらバスに戻ったのであった。 <1月11日・リスボンの ホテルへ> リスボンのホテルに着いた。なんと、リスボンの気温は14℃である。これまでの寒さが嘘のように暖かい。今晩の夕食はなし。自 由行動で、各人自由にやってくれというのだ。そこで用意されていたのがオプションツアーで、食事つきでファドのプロ歌手の歌を聴くというもの。1人88 ユーロ(11.800円)と高額である。もっと安くファドを聴ける店があるのだが、夜も暗くなり、案内をしてくれる人はいない。だから、ツアー客は必然的 にこのオプションに参加させられる仕組みになっているのだ。それでも不参加者もいて(ホテルで休んでいた)、13人がリスボンの夜の街に繰り出したので あった。もっとも、現地の日本人ガイドとともにバスで店まで送られただけだったが。 ファドを聴かせる店は半地下のホールのような処で、ローソク の灯かりのなか食事とデザートが出る。ワインは飲み放題と言われたが、疲れて追加などできなかった。ファド歌手は、最初に若い女性が出演。情感込めて歌い 上げるあたりは、日本の演歌に似ている。次は中堅どころの女性で、その次がベテランの女性と、だんだん上手くなっているのが判る。謡う時はローソクも消し て、仄かな灯りのなか、声を震わせ息詰まるような身振りを真近で感じると、雰囲気にのまれてしまう。最後は男性歌手が唄うと紹介があったが、一向に現れな い。と思ったら、これまでギターで演奏していた男性が、突然に唄いだした。なんと、この演奏家がプロのファド歌手でもあったのである。しかし、女性3人の あとの男性では、興味が失せてしまっていた。 ということで、ファドは夜中の11時に終わった。もう眠くて、早々にホテルに戻ってベットに潜り込 んでしまった。 (写真説明)上からアルコバサの装飾を排した修道院、オビドスの城壁 ![]() ![]() あたふたポルトガル訪問記13(MIN) ポルトガルは、第1次世界大戦後の1933年から1974年まで独裁政権の国だった。その独裁者とは、 アントニオ・サラザールという。ポルトガルは、第1次大戦では連合国側につき戦勝国となった。しかし、その後の労働運動の激化や大恐慌により政治経済が混 乱を極めた。そこで登場したのが、コインブラ大学の経済学教授のサラザールだった。サラザールは、1932年に首相に就任したのだ。彼は、若い時は聖職者 を目指した敬虔なカトリック信者でもあった。 サラザールは、国民の圧倒的な支持を得た。「社会の安定」を政権の基礎にすえたこと。社会の安定の ため「財政の安定」を図ったこと。このことが、成長をもたらしたのである。サラザールは、共産主義勢力に対抗する手段として秘密警察を用いた。ゲシュタポ を模して組織された秘密警察は、共産主義者だけでなく反体制派への弾圧にも用いられたのだ。 そのサラザールも、第2次世界大戦では中立を宣言。 これは、サラザールのしたたかな政治判断であった。枢軸国側に立てば、ポルトガルの植民地はイギリスの攻撃を受ける。連合国側に立てば、ポルトガル本土が 危険に晒されるからだった。こんな事情から、第2次大戦中のポルトガルを舞台にした逢坂剛の小説では、各国のスパイがポルトガルで暗躍する様が描かれてい た。ポルトガルは中立を保つことによって、第2次大戦の戦火を免れたのであった。 1945年の時点で、ポルトガルはアンゴラ、ポルトガル領ギニ ア、モザンビーク、カーボヴェルデ、サントメプリンシペ、ポルトガル領インド、マカオ、ポルトガル領ティモールなど広大な植民地を領していた。サラザール の基本方針は、これらの植民地を維持することだった。 しかし時代遅れな植民地経営は、結果的に植民地の独立戦争によってポルトガルを疲弊させる 原因となった。1974年に、青年将校によるクーデターが勃発。チューリップ革命を引き起こしたのだ。この革命によって、40年間の独裁政権は打倒され た。ただちに、秘密警察や検閲を廃止する民主化政策が矢継ぎ早に断行された。「20世紀最長の独裁政権」は、ここに終わりを告げたのである。同時に、植民 地は次々に解放されていったのであった。 <1月10日・ナザレへ> 昼食は名物の「タコ雑炊」だった。これも、「アンコウの 雑炊」と同様に旨かった。タコも米も、日本人にはたまらないご馳走である。またお代わりが出て、食べ過ぎてしまった。昼食の後は、今晩のホテルがあるナザ レへと向かって南下した。ナザレは漁師町だが、夏はポルトガル国内はもとよりヨーロッパ中からバカンス客が訪れる保養地なのである。 バスはナザ レ市街に入る前に、断崖絶壁の頂上へと向かった。どうしたことだろうと思ったら、この地が「マリア様出現」の地だというのである。昔、貴族が馬で鹿を追い かけていたところ、突然マリア様が現れた。「待て」と停めたのである。気が付くとそこは、断崖絶壁。あと一歩で、谷底に転落するところだったのである。と いうことで、この地の由緒ある教会を見学。ここオシティオ地区は高級住宅地で、次々と住宅が建設中だった。それも、隣国スペインの不動産会社が投資して造 らせているのである。ちょっとした不動産バブル、といったところであった。 今晩のホテルは、この断崖の下の海辺の町・プライアン地区にある。プ ライアン地区からオシティオ地区へは、ケーブルカーが設置されていた。この断崖の上は、風光明美な絶景ポイントだったのだ。 ホテルに着いた。夕 食前に買出しをしようと、フロントでスーパーの場所を聞いた。嫌がると思ったら、あっさりと教えてくれた。なんと徒歩5分、ホテルの裏側にあった。そこ で、ワインとビールとツマミを買ったのだった。安かった。 <1月10日・ナザレで夕食> 夕食は「イワシの炭火焼」である。 ワクワクしながら待つと、出てきた。それは、日本のイワシと長さは同じでも、寸胴が丸々としたイワシであった。それが3匹も皿に並べられていた。日本でも 1匹で充分だったのに、丸々が3匹である。旨いので食べた。3匹食べたら腹が一杯になり、もう他のものが食べられなかった。それなのに、「モットモット」 とボーイがやってくる。とても食べられたものではない。 (写真説明)絶景ポイントからの風景 ![]() あたふたポルトガル訪問記12(MIN) ポルトガルの植民地のことである。最大のものが、ブラジルである。1500年、探検家カブラルがブラジ ルに上陸した。ポルトガル人が永住し始めるのは、1532年である。永住前は、染料として用いられたパウ・ブラジルという実が交易品となっただけだった。 ブラジルの名称は、この実の名からとったのである。永住により、サトウキビ産業が興された。その労働力として、アフリカから多くの奴隷を輸入したのだ。 1501年と1502年に、北アメリカへの入植も試みられたが5年で失敗して放棄されている。 1488年にアフリカ最南端に到達したポルトガル は、インド洋に進出して沿岸各地に拠点を築いた。インド洋の覇権を握ったのである。これによって、東洋の香辛料貿易独占とキリスト教布教がすすめられたの だ。 ポルトガルは、マレー半島のマラッカ(1551)を占領した。以後、東南アジアや東アジアにまで貿易網を拡大し、世界的な交易システムを築 き上げたのだった。 この間アフリカでは、アンゴラ、モザンビークなどを植民地化。インド以東では、ゴアとディウ、マカオ、ティモールなどなどと 植民地化したのだ。 これらの植民地も第2次世界大戦後、1960年代に独立戦争が勃発し、ヨーロッパのなかで最後まで植民地独立に抵抗したポル トガルも、最終的に1974年のカーネーション革命で植民地の独立を承認したのである。マカオは1999年に中国に返還された。東ティモールの独立承認は 2002年で、これでポルトガルは最後の植民地を公式に喪失したのである。 <1月10日・ポートワイン工業> ワイン工業 は、ドウロ川沿いにあった。昔は、ドウロ川を使ってワイン樽を運んでいたが、最近では陸上輸送に切り替えられている。工場の前のドウロ川には、その当時の 様子を再現して、ワイン樽を積んだ船(帆船)が浮かべられていた。 雪が降ってきた。積ることはなかったが、ポルトガルで雪が降ることは珍しいこ となのだそうだ。慌ててワイン工場に入った。この工場は、ポルトガルで最初にできたワイン工場で「サンデマン」という。トレードマークのサンデマンは、映 画「怪傑ゾロ」の服装とそっくりである。映画のほうが、サンデマンを真似たのである。サンデマンの服装は、元々はコインブラ大学の学生服を使ったものであ る。 サンデマン姿の女性に、工場の中を案内してもらう。工場の中には、10年前から20年、30年前のワインがズラーと並んでいた。その値段 は、飛び上がるような高値である。工場案内の最後は、日本語によるビデオ鑑賞である。そこに、サンデマンの歴史が描かれていた。 ポルトでワイン 造りが盛んになるのは17世紀。スペインに対抗する手段として、関税特権を与えられたイギリスのワイン企業が進出したのだ。ポルトガルでは、ワインを醸造 する技術がなかったのである。サンデマンは、イギリスの技術を学んでポルトガルで最初に出来たワイン工場である。 ポートワインは、ドウロ川上流 域で収穫されたブドウから造られる。山の斜面に広がる段々畑で育てられたブドウは、9月に人手で摘み取られる。機械で絞り出されたブドウ液は、樽に詰めら れて冬を越し、帆船で運ばれて工場で熟成・ビン詰めが行われていたのだ。ちなみにポートワインとは、一次発酵の途中でブランデーを加えて発酵を止めるワイ ンの一種のことで、酒精が強化されている。日本の「赤玉ポートワイン」に対し、ポルトガルが抗議して「ポート」の名を取り下げさせたのには、本場のポート ワイン造りの矜持からである。 さて、いよいよワインの試飲である。試飲といっても、赤と白のワインがグラスに注がれているのを飲むだけ。ツマミ がある訳でもないので、アッと言う間に終わってしまった。試飲場所はサンデマングッツの売り場で、試飲がおわったら買い物をするように仕向けられているの だった。ツアー客は、争うようにワインを買っていた。記念にと、私が買ったのはチョコレートである。サンデマンの袋が素敵だったからだ。 (写真説 明)上から帆船、サンデマンの袋 ![]() ![]() あたふたポルトガル訪問記11(MIN) ポルトガルが大航海時代に乗り出すにあたって、その先導役となった人物がいる。エンリケ航海王子 (1394〜1460)である。1414年、21歳となったエンリケは、父王とともにジブラルタル海峡に接しイスラム勢力が立てこもる都市、モロッコ北端 の要衝セウタ攻略戦に参加。1415年、セウタ攻略が成功。この出征で武功を立てたエンリケは、騎士に叙せられ、ヴィセウ公の位に就いた。この間、サハラ 砂漠を越えるイスラム貿易の実態を垣間見、イスラム商人を介することなく金と香辛料を求める活路を見出し、アフリカ西岸航路の開拓、ひいてはインド航路開 拓への野望を抱いたのであった。その後エンリケは、「王子の村」を建設。この村に、造船所、気象台、航海術や地図製作術の学校を建設するのであった。 1419年、エンリケが派遣した船団がマデイラ諸島を「発見」。翌年から植民地化が始められた。これは、エンリケの事業の最初の成果となった。1420 年、エンリケはキリスト騎士団の指導者となり、莫大な資産を保有する騎士団の援助により、自らの探検事業の強力な資金源とした。エンリケは、その死に至る まで指導者の地位にとどまり、騎士団の重責を務めるのであった。 1460年、エンリケは66年の生涯を閉じるが、その生涯において、エンリケの 派遣した船団はアフリカ沿岸の実に2400キロもの距離を踏破した。エンリケの事跡は、ポルトガルの海外進出への道筋をつけたのである。エンリケの死後の 1488年、ポルトガルはアフリカ最南端の喜望峰を極めることとなったのである。 <1月10日・ポルト観光出発> ポルト観光のバスの出発は9:30であった。サンフランシスコ教会、大聖堂、ポートワイン工場を見学する。サンフランシスコ教会に向かう途中、エンリケ航 海王子の生家(今は市の文書局)の前にバスが止まった。エンリケ王子のモロッコ攻撃は、ここポルトの港から出発していたのだ。元々ポルトは、8世紀にポル トガルを支配したイスラム教徒から、11世紀にフランスの貴族が国土を取り戻した地である。つまり、ポルトガル発祥の地なのである。ここから、南に広がっ て現在の大きさとなった。ポルトは、ポルトガルの最北部の地であり、ポルトガルの語源となる「ポルトゥス・カーレ」(ドウロ川河口の街にある港)がある所 なのであった。 サンフランシスコ教会と大聖堂に着いた。14世紀のゴシック様式の教会が、17世紀にバロック様式に改装された。教会に入ると、 内部は「金泥細工」と呼ばれるバロック装飾でキンキラリンであった。そこら中に、金箔が貼られているのだった。ポルトガルは、大航海に乗り出して巨万の富 を得た。その冨がポルトガルに運ばれて、これら教会につぎ込まれたことが嫌でも判った。有り余る冨は、国のインフラや産業を興すことには使われなかった。 王族や貴族の奢侈に使われたのだ。彼らは、競って教会を建立したのだ。だから大航海時代が終わり、植民地がこぞって独立すると、ポルトガルは貧しい農業国 に戻ってしまったのである。サンフランシスコ教会と大聖堂を見学して、そんな感慨を抱いたのであった。 (写真説明)上からエンリケ航海王子の像、サン フランシスコ教会、 ![]() ![]() あたふたポルトガル訪問記10(MIN) ポルトガルとスペインが、ヨーロッパ以外の新領土を2分する取り決めをしていたことは、よく知られてい る。それをトリデシリャス条約という。1494年、当時ポルトガルとスペインの両国が盛んに船団を送り込んでいた「新世界」における紛争を解決するために 結ばれたのだった。 トリデシリャス条約は、西アフリカのセネガル沖にあるカーボベルデ諸島の西1770kmの海上において、子午線にそった線 (西経46度37分)の東側の新領土がポルトガルに、西側がスペインに属すると定められた(ローマ教皇の承認を得て実効)。随分かってな取り決めである が、コロンブスが「インド」(実際は西インド諸島)に到達(1492)し帰還したことによって、両国での冒険的航海がブームとなり、船団の到達先での両国 の争いが絶えなかったからである。 トリデシリャス条約によって、スペインはアメリカ大陸全域に優先権を持つことができた。ただ現在のブラジル は、1500年にポルトガルのカブラルが到達したためにポルトガルに与えられた。ポルトガルはこの条約により、「アジア」におけるスペインの影響力を抑え ることに成功した。なおトリデシリャス条約の眼目は、領域支配より交易のための海上覇権が中心にあった。 当然フランス、イギリス、オランダと いった、少し遅れて大航海時代に乗り出すこととなる国々は、領土獲得の優先権から締め出されて面白くない。これが後に、これらの国が海賊行為を行う動機と なっていくのである。但し、トリデシリャス条約は教皇によって1506年に廃止されている。 それに、マゼラン艦隊の世界一周航海によって地球が 丸いことが判った。地球が丸いなら、もう1本線を引かなければ分割の意味をなさない。そこで、1529年にサラゴサ条約が締結された。第2の子午線は、 ニューギニア島中央部を通るものだった。サラゴサ条約で、アジアにおけるポルトガルの地位保全のため、ポルトガルはスペインに賠償金を支払った。ポルトガ ルのマカオにおける権益は、サラゴサ条約によったのであった。 <1月10日・ポルトの朝> 今日は日曜日、朝の散 歩にBさんと待ち合わせてホテルを8:30に出た。近くに見事なアズレージョの壁面で飾られた教会があったので入ってみた。なんと、町の人々が集まって日 曜礼拝の真っ最中であった。最後列の壁にはりついて、厳かな説教を聞いていたがサッパリ分からない。と思っていたら、ミサは終了して皆さんゾロゾロとお帰 りになる。あわてて外に出た。 早朝の街並みを歩いていると、カメラ修行中のDさんに会う。重い望遠レンズを抱えてバチバチ撮っている。Dさんと K氏は、ポルト市街で有名な路面電車を撮ろうと線路を辿って広場の方に向かったが、30分たっても一向に電車は来ない。その内、線路上に役場の車が堂々と 駐車していることから、どうやら日曜早朝には電車は走っていないことに気づいた。 (写真説明)上から見事なアズレージョの教会、ポルト市街の街並み ![]() ![]() あたふたポルトガル訪問記9(MIN) ポルトガルの建国は1143年だったが、これは、カスティーリャ王国(スペイン)の宗主下にあった。この カスティーリャ王国から独立したのが1385年であるが、1580年に再びパプスブルグ朝スペインに併合されてしまう。以後60年間、ポルトガル王はスペ イン王が兼任したのだ。併合の原因は、ポルトガルのアヴィス朝が後継争いの末に断絶してしまったことにある。この60年間に、植民地の利権のほとんどをス ペインに握られてしまうのである。 1640年、ポルトガルの王政復古戦争によりスペインから再独立を果たす。ところが1807年のナポレオン戦 争のとき、王室はブラジルに逃れてしまった。以後、半島は戦争状態となり、これに介入したイギリス軍によりポルトガルは占領されてしまうのである。国王の 逃亡で、ポルトガルの首都はブラジルのリオ・デ・ジャネイロに13年間(1808〜1821)置かれた。1820年、ポルトで革命が勃発。占領していたイ ギリス軍の放逐に成功し、ジョアン6世がポルトガルに復帰。ポルトガルは、立憲君主制国家となるのである。その後、ブラジルが1822年の独立戦争によっ て独立。ポルトガルは、最大の植民地まで喪失してしまうのである。 <1月9日・ポルトのホテルで> ホテルの夕食に は、「ポークメニュー」が出た。テーブルには、F夫婦とAさんとBさんが同席した。Aさんは、行きの飛行機で3人がけの席で一緒になり親しくなった。なん とAさんは、私の隣の町内にお住まいであった。Bさんは、1人で世界各地の旅行をしているベテランで、話題が尽きない人であった。話題が健康維持の話に なった。とかく、旅行先での食べ物は「毒だらけ」だ。Bさんは、野菜中心の食事に注意を払っていると言う。そして話は、だんだん神がかってくるではない か。K氏が、「もしかして、念力をお使いでは」と水を向けると、「そのとおり」と、Bさんはさっそく実演を始めた。ビールにパワーを送ると味が変わると、 F夫妻のビールに念力を送り出した。F夫人がそのビールを飲んで、「本当だ、まろやかになった」と言うのである。本当かよ!。そこで、ワァと大笑いとなっ た。 食事の前に、ビール1本をK氏と半分に分けて飲んだ。さて、ポークに手をつけようかと思ったが、食欲がわかない。実は、アベイロでツアーの 女性たちが大量に甘いお菓子を買って、そのお裾分けに預かって腹がいっぱいになっていたのだ。せっかく美味しそうなポークだったのに、前菜を食べただけで もう食べられなかったのだ。 夕食前に、K氏と買い出しに出ていた。ホテルの近くに、ショピングセンターがあると教えらたのだ。最初に、パソコン 類の店に入ってしまった。「ここではない」と、外に出る。目の前に、大きな店があるので入ってみると、奥にコンビニ風なショップがある。「MINI」とい う看板があったので、「あれ、日本にあるコンビニのチェーン店か」と思いながら入る。ここで、1.5リッター0.6ユーロのミネラルウォーターが置いて あった。安い!と思わず買ってしまう。そればかりか、ワインとおつまみのサラミソーセージ、チーズを買ったのである。今晩の、宴会用なのであった。 あたふたポルトガル訪問記8(MIN) ザビエルは日本人を「理知的で礼節に富んで論理的な民族」だと見込んだのだが、それを信じなかった宣教師 がいた。イエスズ会東インド管区長代理として乗り込んできたカブラル(1570年来日)である。彼は、日本のどこを眺めても野蛮で文明度低い、人間として 一段低い種族だと思ったのだ。だからカブラルは、日本語を憶えることも日本の習俗に従うことも拒否した。そればかりか、日本人修道士にポルトガル語を習得 させることも禁じたのだ。ポルトガル人同士の対話を聞かれることを嫌ったのだ。食事も牛を買ってきて肉食し、赤ワインを食後に1杯飲んだ。料理にはオリー ブ油を使用させた。これが、イエスズ会の清貧の食事であるとしたのだ。日本人従僕に牛を殺させたカブラルは、従僕に「悪魔」と罵られたが、意にもかえさな かった。東インド巡察師のヴァリニヤーノは、そんなカブラルを解任し、いち宣教師に身分を落とした。九州肥前の領主・大村殿から厳しい批判を受けたのだ。 「ヨーロッパ人は皆、あのように傲慢なのか」「われわれの国には、われわれの習慣があるのだ。なぜ、それに従わぬのだ」というのだ。それは、カブラルのこ とであった。 <1月9日・コニンブリカのローマ遺跡> バスはコインブラ大学を後に、近くのコニンブリガムに向か う。ポルトガルにあるローマ遺跡だ。「またローマ遺跡か」と思った。チュニジアでもトルコでも、ローマ遺跡だらけだった。トルコはローマ帝国の首都があっ た処だから、壮麗な遺跡群だった。しかしポルトガルは、ヨーロッパ大陸の最西端である。それでもローマ遺跡が残っているのだから、ローマ帝国の偉大さがわ かろうというものである。ここは、1世紀にケルト族の集落の跡に築かれたローマ帝国の都市だったのである。しかし規模は、チュニジアと比べても小さいモノ であった。これくらいなら、何も観光地にするほどでもない。この感想は、トルコの豪華な遺跡を観ていたからで、初めてローマ遺跡に触れた人には、2000 年前の遺跡がいまだに残されていることに感銘を受けるかもしれないのであった。 <1月9日・アベイロ> バスはアベイロに向 かう。大西洋沿岸に戻ったのである。ポルトガル第2の都市ポルトに向かう途中の町(人口5.5万人)である。この町は、運河と水路が有名だ。20分の休憩 で見学したのは、アベイロ駅舎のアズレージョ(装飾絵タイル)だった。ポルトガルは、このアズレージョがとても有名なのである。アズレージョはもともと、 イスラムのアラブ人がもたらしたものだった。レコンキスタ完了後も、これらアズレージョ職人のアラブ人を留めおいて、技術を承継したのである。ポルトガル 人は、アズレージョが大変気に入ったようで、教会等の公共施設はもちろん個人の家の壁にも至る所にアズレージョが嵌め込まれているのを目にすることができ る。アズレージョの色は、コバルトの青が圧倒的に多い。なかには、カラーで美しく飾ったものもあった。これがポルトガルの街並みを、落ち着いた奇麗なもの に見せているのであった。 (写真説明)上からアベイロ駅舎のアズレージョ、アベイロの運河 ![]() ![]() あたふたポルトガル訪問記7(MIN) アンコウの雑炊は旨かった。ところで、ポルトガルが日本にもたらした食べ物は、何と言っても「テンプラ」 が有名である。一説には、「徳川家康はテンプラにあたって死んだ」そうである。日本のテンプラの語源はポルトガルから来たものだが、「元祖・テンプラ」と はタラの衣揚げのことなのである。大西洋(西)と地中海(南)に囲まれたポルトガルは、魚が豊富である。「塩ダラを水に戻した肉厚の衣揚げ」が、絶品なの だ。 カトリックの宗教行事では、肉食が避けられる。そこで、肉に代わって食べられたのが魚であった。その肉食を避ける日を、ポルトガル語でテ ンポラスという。だから、テンポラスの日に食べていた魚の揚げ物がテンプラと呼ばれた、という話である。 <1月9日・コインブ ラ> 昨日のファティマは寒かった。しかし、コインブラはファティマより北方の内陸にあり、今回のツアー先でもっとも寒かった。ポルトガル の大西洋岸は、海流の関係で1年中寒暖の差が少ないが、内陸に入ると別である。防寒着を持ってこなかったので、新聞紙を身体に巻き付けることにした。これ は、昨日の夕飯時にツアー仲間のBさんが教えてくれた防寒対策だった。ところが、コインブラはそれでも寒かった。早々に衣料品店に飛び込んでフリースを 買った。値段は14ユーロ(約1800円)。ユニクロと同じ値段だが、布地が厚めだった。これで、やっと人心地がついたのだった。 さてコインブ ラである。コインブラは、政治のリスボン(人口56.5万人)、商業のポルト(人口26.3万人)に次ぐ第3の都市で、文化の中心地である。もっとも、人 口は10万人で、人口では7番目の都市となる。 ここは大学都市で、コインブラ大学は700年前(1290年)に創建された大学である。またコイ ンブラは、昔の首都でもあった。ここの学生は、市民に優遇されている。学生が群れる軽食屋兼居酒屋では、安い値段でいつまでも学生たちが飲んで食べてお しゃべりをして過ごしていたのである。したい放題の乱脈(ただし、彼らなりの伝統的な戒律はある)ぶりは、梁山泊状態なのである。かってあまりの乱脈ぶり に、大学がリスボンに移されたことがあった。だが、また同じ理由でリスボンからコインブラに移されてしまったそうである。コインブラでは学生証を持ってい れば、図書館でも劇場でもほとんどの文化施設をほぼ無料で出入りできるのだ。 図書館に入った。但し、学生ではないので有料である。ここには、分 厚い飾表紙のラテン語の原書が30万冊あるという。本は、部屋中の本棚に吹き抜けの2階まで隙間なく収蔵されていた。学生は1人もいなかった。現代では、 蔵書の内容はインターネットで調べられるので、わざわざこの図書館に来る学生はいないのである。 図書館は、ポルトガルでは珍しく木造である。湿 気対策のため、木造にしたのだ。石造りでは、本の劣化が進んでしまう。又、図書館見学の時間も限られていた。それも、本を護るためだったのだ。尚、図書館 のなかでの撮影は禁止であった。 (写真説明)上からコインブラの商店街、大学構内、木造の図書館入口扉 ![]() ![]() ![]() あたふたポルトガル訪問記6(MIN) 1540年当時、ポルトガルの「海の帝国」とは、南アフリカ、インド、東南アジアの港に城塞を設け、武装 艦船に大砲を積んだ武力による支配が点でのみ存在しただけだった。それを面にして安定した支配を確保するには、原住民をカトリック化するしかないと考えた のだ。人口120万人余の小国だったポルトガルが、広大な海域に「海の帝国」の体制を築くことは至難の業だったのである。 そこで当時の国王 ジョアン三世は、使命感に燃えてストイックに人生を貫き通すイエズス会創立メンバーであるザビエル(1506〜1552年)に期待を寄せた。原住民のカト リック化のため、ザビエルを東南アジアへと派遣したのである。1541年のことである。 ザビエルが鹿児島に入港したのは、1549年8月であった。ザビエルは、鹿児島から山口の大内氏の許へ行き布教を続けるが、日本での布教に失望すること になる。ミヤコに出向いたが、天皇にも足利幕府の実力者にも会えなかったのだ。 なぜなら、当時のミヤコは応仁の乱で焼け野原だったからだ。天皇も将軍も逃げて隠れていたのである。しかし、そんなザビエルも日本人を絶賛した。「日本人 は、黒人ではなくて白人」だと言い、理知的で礼節に富んで論理的な民族だと見込んだのだった。この島国こそ、キリスト教を布教すべき地だと。 <1 月8日・ファティマ> シントラからバスは北東に向かった。つぎの目的地は、少し内陸にあるファティマである。第1次世界大戦前までは、 ファティマは寂れた寒村だったのが、この地に「聖母マリアが出現」するという奇跡がおこった(1917年)というのだ。どうやらポルトガル人はマリア様が 好きで、あちこちで「マリア様が出現」という奇跡譚の地がある。ファティマは当時、オリーブの樹が点在するだけの荒れ地だったのが、今では、収容人数30 万人という広場を有する大聖堂が建ち、カトリックの聖地となっている。毎月13日、特に5月と10月の大祭には10万人の巡礼者で埋め尽くされるというの だ。 マリア様の「出現の礼拝堂」というのがあって、その礼拝堂の周りを五体投地ならぬ膝歩きで廻っている信者がいた。寒い中(やたらに寒かっ た)、裸足で膝歩きしている姿は苦行である。最初は、若い男が跪いて何をやっているのか。頭がおかしいのかと思ったが、ここは聖地だったのである。異教徒 にはとかく、初めて触れる他教の作法に違和感を憶えるが、郷に入ったら郷に従えである。そこで、マリア様に手を合わせて拝したのであった。 な お、前ローマ法王ヨハネ・パウロ2世が、1981年5月13日にバチカンで狙撃された。5月13日は、ファティマにマリア様が出現した日だ。その後、法王 が奇跡的な回復を果たしたのはマリア様の御加護だったということになり、翌年の5月13日に法王は御礼参りにファティマを訪れた。この時、30万人以上の 信者がここファティマを埋め尽くしたのである。 (写真説明)上からファティマ大聖堂、マリア様の礼拝堂、広場に立つ意匠の十字架 ![]() ![]() ![]() あたふたポルトガル訪問記5(MIN) 日本とポルトガルの関係で有名なところは、種子島に鉄砲を持ってきたゼイモト(1543年来日)、日本に 布教に訪れたザビエル(1549年来日)、信長とも親しかった宣教師のフロイス(1563年来日)。あと、明治維新後に神戸大坂領事館の総領事となって日 本紹介をした、作家のモラエス(1889年に最初に来日)も有名である。反対に、日本からポルトガルに行ったのは天正遣欧少年使節団(1582年出 国〜1590年帰国)である。 天正遣欧少年使節団は、東インド巡察師だったヴァリニヤーノ(1579年来日)の企画で、九州のキリスタン大名の 使節としてローマ教皇グレゴリウス13世に謁見した。彼らが最初に訪れたヨーロッパがポルトガルなのである。ヴァリニヤーノの意図は、日本でのカトリック 布教の資金をローマ法王庁から捻出すること。未開の日本国にも、こんな知性的な少年たちがいるのだから有望だ、と実見させたかったのである。 あ と余り知られていないが、日本に初めて西洋医学を伝え様式病院まで建設した人物にアルメイダ(1555年来日)がいる。アルメイダは本国ポルトガルで外科 医となったが、ある事情で本国にいられなくなってアジアへと向かった。アルメイダは、商人となって巨万の富を得た。彼と同じように商人となってアジアに向 かった者でも、途中で船が難破したり海賊に襲われて命を落とした者は多かった。アルメイダは、そんな困難をくぐりぬけた数少ない1人であった。 南アジアで王侯貴族のような暮らしをしていたアルメイダは、次第にそんな生活にアキアキしてきた。生きることへの懐疑が生じたのだ。その迷いを払拭すべ く、アルメイダはイエズス会に近づいた。当時のイエズス会のインド管区では、日本から帰航したポルトガル人により、日本布教の有望なることが示唆されてい た。アルメイダは、自分の資金を使って日本渡航を企てたのである。 <1月8日・シントラ王宮> ロカ岬の次は、シ ントラ山の山の上にあるシントラ王宮である。ここは、14世紀末に王家の離宮として建てられたらしい。イギリスの詩人バイロンが「エデン東」と讃えたこと で有名である。なおシントラとは、「月の女神」の意味である。ただこの王宮から、更に山の頂を観ると「ムーア人の砦」なるものがあった。ムーア人は、こん な山頂にも砦を造っていたのである。 シントラ王宮見学の後、自由時間となった。王宮前の土産物屋を覗いていたら、路地にスーパーがあった。試しに入ってみると、ミネラルウォーターが0.5 リッター1ユーロだったので買った。安い! と思ったのだ。なにしろ、乗り継ぎ駅だったパリ空港では2.7ユーロ、リスボン空港では1.75ユーロしたの だ。レストランやホテルでは2〜3ユーロ、バスの運転手がアルバイトで売っていたのが1ユーロだったから、本当はもっと安く庶民は手に入れているはずであ る(あとの町で、1.5リッターを0.6ユーロで売っているスーパーがあった)。シントラのスーパーでは、ワインとソーセージも安かったのに、すっかりホ テルの夜食用に買うのを忘れていた。大失敗である。 <1月8日・アンコウの雑炊> シントラ王宮観光の後は昼食である。名物 の「アンコウの雑炊」である。アンコウの雑炊は、日本でも食べたことがない。食べてみると、白身のサッパリした味であった。「日本食」だ、と言われても納 得してしまう味である。こんなに口に合う食事は、海外で初めてお目にかかった。さすがは、海産物の豊富なポルトガルである。今後の食事にも、期待が高まる のであった。そのうえ、ここの年を取ったボーイは「もっともっと」(日本語で)と雑炊を追加してくれるではないか。こんなことも、これまでの海外ではな かったことである。もちろん、追加の雑炊も平らげた。いっきに、ポルトガルの印象が良くなってしまったのだった。 (写真説明)上からシントラ王宮、 ムーア人の砦、シントラの路地、アンコウの雑炊 ![]() ![]() ![]() ![]() あたふたポルトガル訪問記4(MIN) 建国のそもそもがレコンキスタであったこともあって、ポルトガルは歴史的に軍隊の力が強い国であった。第 2次世界大戦(中立国であった)後、ヨーロッパ諸国が植民地主義を止めているなかで、最後まで植民地に拘った国でもあった。その当時のポルトガルは、サラ ザール独裁体制であったが、植民地での解放闘争(ゲリラ戦)の高まりのなかで、軍事費が国家予算の50%にもなって本国経済が疲弊していった。この独裁政 権を覆したのは、1974年のチューリップ革命といわれる無血革命だったが、これは対ゲリラ戦争を戦っていた青年将校(マルクスなどの文献を読んで左翼化 していた)が加わって起こした軍事クーデターなのであった ポルトガルは、40年以上続いたサラザール独裁体制をチューリップ革命によって倒し た。この革命で、いきすぎた左翼化(国有化等)があったが、それらも是正されEU加盟を果たしたこと。EUの援助で、経済成長が続いてきたこと。それが今 も続いていて、リスボンはヨーロッパの都市の中でも豊かな都市となった。そのためか、市内は落ち着いている。野外広告も少なく、日本みたいなケバケバしさ はないのであった。 <1月8日・ロカ岬> ユーラシア大陸の西端、北緯38度47分、西緯9度30分、高さ140b の断崖の上がロカ岬である。この地に立ってみて判ったことは、大西洋というのは九十九里のような遠浅な優しい海ではないということ。波頭轟く厳しい海であ る。もう1つは、ポルトガルはイギリスより西側にあり、間違いなくヨーロッパの西端であるということだ。なにしろ、海からの風が凄い。身体が浮く程であ る。それに、風が吹きさらすので寒い。ここで、最西端到達証明書を貰って(自分の名前と日付が花文字で書かれている)早々に退散である。しかし、この寒さ ですっかり目が覚めてしまった。 最西端到達証明書の裏には、各国の文字が書かれている。日本語では、「ポルトガル国シントラにあるロカ岬に到達 したことを証明します。ここは、ヨーロッパ大陸の最西端に位置し、『陸尽き海はじまる』と詠われ、新世界を求め、未知の海へとカラベラ船を繰り出した航海 者たちの信仰と冒険魂が、今に尚、脈打つところです。」とあった。『陸尽き海はじまる』は、ポルトガルの詩人ガモインスが詠んだ詩の一節である。十字を掲 げた西端モニメントの石碑にも、この詩の一説は書かれてあった。 (写真説明上から下へ) ![]() ![]() ![]() 西端モニメント石塔・モニメントの石碑・最西端到達証明書 あたふたポルトガル訪問記3(MIN) ポルトガルは、世界の海に乗り出した。大西洋ぞいのアフリカ西海岸を経由して、最初に南端の喜望峰に辿り 着いた。この海域は、自然の力が厳しく苦難の多い海域だったのだ。しかし喜望峰の発見により、ペルシャ湾・インド洋への道が拓けた。それはアジアの香辛料 を紅海を通じて独占していたヴェネチアの力をもぎ取ることでもあった。 ところで、この南アフリカに行くよりも南アメリカのブラジルに行く方 が、距離も時間も航海の安全の面でも楽であった。そもそもブラジルの発見が、アフリカ西海岸を航海中に遭難した友船を探している最中に、航路を誤って辿り 着いてしまったから、というのである。しかしブラジルを自領としても、そこには染料の実(これがブラジルの語源)しか利用価値がなかった。だから相変わら ず喜望峰経由でインド、東南アジアへの開発が熱心にすすめられたのだ。 大航海時代に最初に躍り出た国。これには、イスラムの航海術を継承した ことや、ヨーロッパの西端にある立地だったことがあげられる。アフリカから大量の黒人を拉致して、奴隷貿易で潤った国。ブラジルを植民地にし、そこで金鉱 を発見して黄金時代を築いた国。ポルトガルは、大航海時代の先駆者となった。そのことにより莫大な財宝を本国にもたらしたが、すでに始まっていた産業革命 の時代に対応するのではなく、王家や富者の奢侈に費やされるだけで、貧しい農業国のまま工業化は一向にすすまなかった。だから、大航海時代が終わり植民地 の独立が盛んになると、いっぺんに貧しい農業国に戻ってしまったのである <1月8日・リスボン> 待望のリスボンに 着いた。リスボンに到着して、すぐさまバスに乗り込んだ。バスの出発が9:40。いつもだったら夜中に現地に到着してホテルに一泊し、翌日、観光バスで市 内観光が始まるのだが、今回は、現地に到着してすぐに観光が始まった。14時間も狭い飛行機に閉じ込められ、一睡もしないで「さあ、観光です」と言われて も、その気にはなれない。しかし、バスは出発である。現地ガイドは、日本人とポルトガル人の2人の女性。もっとも、ポルトガル人ガイドは日本語が話せな い。なにをするのかと思ったら、各施設に入場する際の現地要員みたいなことであった。リスボンの最高気温は11℃、最低温度は3℃と寒かった。 ともかく、バスは世界遺産を目指して移動する。リスボンは、ティージョ川というポルトガル1の大河の河口にある。ティージョ川は、ポルトガルを南北に二分 する大河である。このティージョ川を下ると、大西洋である。この河口の最大巾は12`もあるというのだ。これでは海である。だから、見た目ではリスボンは 海のすぐ側にあると錯覚してしまうのだっだ。最初に向かったロカ岬は、リスボンの西のシントラ山脈を越えた大西洋沿岸にあった。 あたふたポルトガル訪問記2
イベリア半島が、カトリック教国となった後のことである。スペインの頑ななカトリック化政策によっ て、ユダヤ教徒やイスラム教徒は一時ポルトガルに逃れてきた。イスラム勢力を駆逐したといっても、追い出したのはアラブ人やムーア人(北アフリカのイスラ ム教徒)等の支配階級である。一般庶民を追い出すことはできない。もともとイスラム教は他の宗教に対して寛容であったから、ヨーロッパ中からユダヤ教徒の 多くがイベリア半島にやって来ていた。その上、イスラム教国下で多くの住民はイスラム教徒になっていたのだ。なんといっても、スペインは800年間、ポル トガルは550年間はイスラム教国だったのだ。 そこで、キリスト教への改宗政策がとられるのだが、どうしても改宗できない人が出てくる。それら の人々がポルトガルにやって来たのだ。ポルトガル国王は彼らの力を借りて、国の成長を図ってきた。彼らの資金力が、貧しいポルトガルをして海洋帝国へとの し上げていく力となったのだ。その後、代替わりした国王はスペインに追随してユダヤ教徒やイスラム教徒を弾圧した。異端審問所が設立されたのだ。 なおスペインでは、キリスト教に改宗したにもかかわらず、ユダヤ人を迫害し追放するのである。当時のトルコに、数十万人のユダヤ人が移住したということで ある。 <1月7日・成田空港> 当初の予定は、ヒースロー空港に向けて9:30に出発する予定だった。ツアー会社本 社と航空会社本社の交渉で、11:20にドイツ経由でポルトガル行きが決まったから、そのまま待機してくれと言われる。大田さんは、窓口で手続きを始めた が一向にラチがあかない。11時になっても手続きは進まない。とうとう、出発時刻が過ぎてしまった。航空会社の現地窓口は、「本社が承認しても手続きがで きない」と事実上の拒否をしたのだ。散々待たされたあげく、結局、日航ホテルに一時移動することとなった。そこで待機である。ひたすら、ツアー会社と航空 会社の交渉の結果を待つだけである。「旅行をキャンセルする人は申し出て下さい」との事だったが、ツアー客19人の中でキャンセル人はいなかった。結局、 先行きが分からぬままホテルで昼食を摂り昼寝をしてしまった。ああ! 疲れた。 午後も暫らくして、21:50発のパリ経由リスボン行きが決まっ たとの知らせが入った。11時間遅れの出発である。この事件で、良かったことが1つだけあった。同じ状況に置かれたツアー客19人が、出発前から親しくな れたことだ。普段は、現地の観光バスのなかで段々と親しくなるのだが、それが早まったのだ。こうして、臨時にチャーターしたジャンボ機に乗り遅れた乗客が ギュウぎゅう詰めになって14時間の空の旅が始まった。朝の予定が夜になって、14時間の空の旅の心構えが変えられたことや、狭い座席のこともあって、地 獄のような辛い旅となった。ホテルで寝たせいか、いつもは寝むれた飛行機の中も、とうとう一睡もできず意識モウロウのままパリへ。それだけではない、機内 で飲んだワインにあたったのか、冷汗がでてきた。気分が悪くなったのだ。慌てて便所に駆け込んだが、満員で入れない。待っている間に一瞬気絶して、床に伏 せてしまった。傍で待っていた婦人が、「大丈夫!」と声をかけてくれた時には気がついたのだが、焦ってしまった。その後気分は持ち直し、事なきを得た。 パリ着4:30(現地時間)。パリはマイナス7℃で、雪が降っていた。ヨーロッパには、寒波が襲っているのだった。ここから、リスボン行きに7:20に乗 り替えである。 あたふたポルトガル訪問記1 <はじめに> 2010年1月7日から14日まで、ポルトガルツアーで同地を訪れた。ヨーロッパ は初めてである。もっとも、昨年のトルコ旅行でイスタンブールに寄ったから、ヨーロッパの一部にはすでに触れたことにはなるが。 さて、事前にポ ルトガルのことを調べた。国土が日本の4分の1で、人口が10分の1であること。紀元前にはカルタゴの植民地だったが、その後ローマ帝国に組み入れられ た。ゲルマン民族の侵入とローマ帝国(西)の滅亡で、ゲルマン系の西ゴート王国に組み込まれた。ゲルマン民族はこの当時、キリスト教徒となっていた。その 後、711年に北アフリカを席巻したイスラム勢がイベリア半島に上陸。イスラム王朝に取って変えられたのである。 と、ここまではスペインと同じ イベリア半島の事情である。ポルトガルが建国するのは、このイスラム勢との戦いであるレコンキスタ(キリスト教徒による、国土回復運動)による。現在のポ ルトガル地域は、スペインより250年も早くイスラム勢力をこの地方から駆逐していた。ポルトガルの初代王アフォンソ・エンリケスは、イスラム軍との戦い で勝利した1139年、早々と独立宣言をする。それが、ローマ教王の口添えで承認されたのは1143年。ここに、ポルトガル王国が誕生したのだ。但し、ポ ルトガル全土でのレコンキスタの完了は1249年まで続いた。スペイン王国の誕生は1479年。そして、イスラム勢力が完全に駆逐されたのは1492年。 レコンキスタの終結である。これで、イベリア半島は完全にカトリック教国となったのである。 さて、今回のポルトガル行きである。ネットでは北京 が-16℃で、36年ぶりの寒波だという。リスボンの気温を調べると、この先一週間の最高温度が14℃、最低温度が7℃という予想だった。リスボンはこの 日、雨となっていた。14℃は、出発日の東京と同じ温度で暖かい。ポルトガルは日本より暖かいし雨が多いと言われているので、嵩張る防寒具はやめて、ジャ ンバー代わりになる雨具の上着を着用することにしたのだが、これが大失敗となるのである。 <1月7日・早朝> 京成 津田沼でK氏と待ち合わせて成田空港に。到着早々、各航空会社のカウンターに長蛇の列が見えた。異様な雰囲気である。さっそくツアー会社の添乗員の大田さ んを捜すと、ロンドンから成田に来る予定の飛行機が来ていないとの事。ヨーロッパを襲った寒波のため、イギリスのヒースロー空港が閉鎖されてしまったの だ。さあどうしよう。初日早々、とんでもないことになった。今日どころか、明日になっても出発できる保証はないと言うのである。 |