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MINさんの「あたふたインドの旅」
写真の提供はDUKE
あたふたインド訪問記24(最終回)
<1月13日・さよならインド>

(デリー市内の茶葉の店)
これで、インドとはお別れである。よく、インドに行くと「人生観が変わる」と言われる。それは、インドの厳しい現実に自分の人生を振りかえさせられるから、と思われる。その一例として、ガンジス河の沐浴の場面がしばしばテレビなどで放映されていた。ところが私たちの今回の旅行では、ガンジス河がなかった。カルカッタのカーリー女神寺院にお参りする巡礼は、早朝にガンジス河で沐浴してから参拝するとのことであった。何故ガンジス河にガイドが寄らなかったか、今では分からない。もしかしたら、インドの厳しい現実を見せると、日本人は拒否反応を起こしてしまうので避けた、ということが考えられる。デリーでのFガイドは、「もっと酷い場所があるが、私は案内しない」と発言していたのを思い出す。
 カルカッタのホテルで、早朝に目覚めてカーテンを開けると、目の前の道路の側溝の排水口で、少年がウンチをしているのを目撃した。まだ、陽が明けない薄暗闇の出来事である。たぶん、彼は路上生活者なのであろう。そうでなければ、この時刻に側溝にいるはずがないからである。
 インドのカーストは悪しき慣習だと云われる。しかし、今の現状でカーストが廃止されたら、彼らは明日からどうやって生活するのだろう。私には、彼らがカーストによって棲み分けをして、かろうじて生活の糧を得ているようにみえるのであった。インドにとって、私たちはお気楽な旅行者に過ぎない。何も分からない外国人に、とやかく言われる筋合いはないと思われるのだった。
 夕方、デリー空港に着いた。成田行きの便は、午後9時15分発である。空港で最初にしたことは、インドのルピーをドルに交換することであった。ルピーの海外持ち出しは「厳禁」と聞いていた(書かれていた)からだ。ところが、これが失敗であった。空港の検査で、水ものを持ち込むことはできない。だから、手続きを終えて空港内に入ってからミネラルウォーターを買った。ルピーがないから、ドルを出した。すると店員が、「釣りはルピーでいいか」と言う。「ルピーはダメだ」と拒否すると、「それなら水は売れない」と仕舞い込む。「何を言ってるのだ」と抗議する。というスッタモンダを、言葉が通じないから身振りでした訳である。店員は、「では、○○に寄付してくれ」と寄付箱を持ってきた。憤然とした私は、「いいだろう」とお釣りを寄付箱に入れたのである。何だかハメられた気分であった。
 ということで、1月14日午前8時に成田に到着。病気にもならずに帰国を果たすことができた。メデタシめでたし。(終)
あたふたインド訪問記23
<1月13日・ムガル帝国>

(デリーの道路と街並み)
2代皇帝のフマーコーン廟は、5代皇帝シャー・ジャハーン1世が王妃のために建てた白大理石のタージ・マハルと外観が似通っている。この廟を建てたのは、3代皇帝アクバル(在位1556〜1605)である。もともとムガル帝国は、中央アジアで勃興したティムールの5代後の直系子孫であるバーブル(在位1526〜30)が、アフガニスタンからインドに移って建国したものである。ムガル帝国は、中央アジアからイラン、イラク、アフガニスタン、北インド等を征服した、偉大なるティムール王朝の後継者なのである。
 しかし2代のフマーコーンの時代(在位1530〜40、復位1555〜56)、アフガン系の王朝に攻められ一時崩壊している。1555年、フマーコーンはデリーに返り咲きを果たした。ムガル帝国と呼ぶにふさわしい国家に発展させたのは、3代のアクバル(在位1556〜1605)である。フマーコーン廟を建てたのもアクバルであった。この廟は同時に、北インドにおける中央集権国家が確立したことの証左となったのだ。
 ムガル帝国の最盛期は、4代ジャハーンギール、5代シャー・ジャハーン、6代アウラングゼーブの時代であった。デカン高原方面の領域拡大は、アウラングゼーブ(在位1658〜1707)の時代に達成され、帝国の最大領土を実現した。こうして17世紀のインドは、経済的にも繁栄の時代を迎えていたのである。
 しかしアウラングゼーブの死後、ムガル帝国は衰退の道を辿ることとなった。18世紀に入ると、貴族階層の没落と繁栄を支えた軍事構造の崩壊が起こったのだ。崩壊の原因は、@新興の豪族・部族の長の台頭、A帝国内の小王国の君主たちの離反、B地方長官の帝国からの離反であった。こうして19世紀には、ムガル帝国はデリー周辺を支配するのみの小勢力となっていたのだ。
 ムガル帝国の消滅は、1857年のインド大反乱に82歳の老皇帝が担ぎだされたことにある。イギリスは、老帝を裁判で有罪とし退位させたのである。こうして、ティムール王朝から数えて500年、ムガル帝国からは350年にわたるインドにおける歴史は閉じられたのであった。ちなみに、ムガルとは「モンゴル」を訛って附けられた名称である。
 フマーコーン廟の見学では、廟を巡ってその建築様式を見た。もちろん、中には入れない。素敵だったのは、廟の庭園である。これは、初代のバーブルの庭園に対する嗜好が子供たちに受け継がれ、ムガル建築の特色となっているのだ。緑の芝生に、豊かな水路が張り巡らされている。空には鳶が舞い、木々の間ではリスが走り回っていた。Fガイドは、案内をそっちのけに芝生に寝ころんで休んでいた。こうして、デリーでのオプションも終わったのであった。
あたふたインド訪問記22
<1月13日・亡命チベット人>

(デリー市内の街並み)
 シィク教寺院の後は、ヒンディー教の新しい寺院(インドの富裕層が個人で建てた)などをお参りし、ムガル帝国第2代皇帝フマーコーン廟へと向かった。
 廟の入口に入って、日本でいえば女学校の修学旅行みたいな風景を見た。ただし、彼女たちは全員丸坊主だったのである。僧侶の袈裟を着て、キャッキャッと言いながら互いにデジカメで撮りあっている。Fガイドが「チベット人だ」と言う。そんなことは私にだって判る。ただ、中国領のチベットから女僧侶が修学旅行にフマーコーン廟に訪れる訳がない。もちろん彼女たちは、インドに亡命したチベット人の子弟たちなのである。
 1951年及び59年、チベット仏教を否定した共産中国のチベット侵略で、とうとうダライラマはインドに亡命した。この亡命には、政治的理由だけではなく経済的理由もあった。新しい檀家を見つけない限りチベット仏教の未来はない、ということである。もっとも、亡命しなかったら60年から始まった文化大革命でもっと悲惨な目に遭わされることとなったのだが。
 亡命したチベットの高僧たちは、欧州にそして米国にと赴き精力的な布教に務め、大きな成功を収めている。かっての中国(元朝及び清朝のモンゴル人及び満州族)に替わる、大檀家を欧米人のなかに見つけたのである。チベット仏教に帰依すること、チベット難民をサポートすることは、西欧の知識人の間ではいまや一種の社会現象となっている。政治家、映画監督、俳優、ロック歌手、はてはイギリスのチャールズ皇太子に至るまで、ありとあらゆる分野の人間が、チベット問題に取り組み、そのサポートを表明しているのだ。
 アメリカにはチベット仏教の一大センター(膨大な仏教の聖典が集められ、それらが翻訳されている)が造られている。これら、各国から集められた資金によって、インドにあるチベット亡命政府は、チベット人の子弟たちを教育している。その教育水準は非常に高く、識字率も高い。彼らは、母国語は当然ながらヒンディー語や英語も使いこなす。また、国際社会の動向にも関心が非常に高い。かっての、チベット高原にいたときには考えられない変化なのである。
 その子弟たちが、無邪気にフマーコーン廟を参拝していたのであった。
あたふたインド訪問記21
<1月13日・シィク教寺院>

(朝飯を食べるFガイド、左)
ガンジー廟の次ぎは、旧デリー市街地へと向かった。車を降りて市街地を歩いていると、突然Fガイドが路地に入って行く。そこで、「少し待っていてくれ」と言うのだ。
何をするのかと思ったら、屋台で食事を始めたではないか。このガイド、朝食を摂らずに私たちを迎えにきていたのだ。食べていたのは、粉ものを油で揚げたような、いかにも油ぽいものであった。私たちにも「食うか」と誘われたが、断った。見た目にも、マズそうであったのだ。
 それが済んで連れて行かれたのが、シィク教寺院であった。朝早くから大勢の人がお参りに訪れている。寺院といっても、街中のビルの1階にある。最初、デパートにでも入るのかと思ったら寺院だったのである。ここでも靴を預け、入口では足を洗って内に入った。音楽が奏でられ、歌が唄われていた。坊さんのような人が1人、お経をあげている。暫くその様子を見学した後、私たちは五体投地のような礼をして引き上げた。帰り際に何やら渡された。それは、天ぷらの様な揚げ物で、資料によるとパコラというインド料理であった。Fガイドに「これは何」と聞くと、「食べ物を振る舞っている」のだと言う。一口食べてみたが、あまりにも油っぽいので外に棄ててしまった。バチ当たりな所行であったが、許してほしいものだ。
 シィク教は、16世紀にグル・ナーナクという人物が興した宗教である。ヒンディー教と同様に、輪廻転生を肯定している。カーストを完全否定しているが、これはイスラム教の影響であると考えられている。儀式、偶像崇拝、苦行、ハタ・ヨーガ、カースト、出家を否定し、世俗の職業に就いてそれに真摯に励むことを重んじている宗教なのである。18世紀には、シィク教国(1764〜1848)という宗教政治国家をインド北部に興したが、イギリスとの第1次シィク戦争(1845)、第2次シィク戦争(1848)で滅んでしまったのである。
あたふたインド訪問記20
<1月13日・ガンジー廟>

(カンジーの石棺)
今日の午後には、デリーの空港から成田に帰る。夕方まで自由行動であるので、デリー最大の名所「タージマハル」に行こうとしたが、毎週金曜日は休みで入館できないとのことだった。しかたがないので、適当に「デリー見学、半日コース」を有料オプションで組んでもらっていたのだ。
 早朝8時にホテルに迎えに来たのは、日本に留学経験のあるF観光ガイド。デリーの街中は、まだ朝が早いせいか渋滞になっておらずスムーズに車を走らせることが出来た。最初に行ったのは、広い公園を有する「ガンジー廟」であった。廟の前に行くと、1人の男が石棺に頭をつけて祈っていた。ガンジー廟に入るには、裸足にならなければならない。だいたい、ヒンディー関係の施設(お寺等)は裸足にさせられる。それが礼儀なのである。冷たい石畳を歩いて、ガンジーの石棺に。すると、祈っていた男が私たちに興味でも持ったのか、いつまでも付いてくるではないか。あまりにも真近に寄ってくるので、なんとも薄気味悪い。「距離をとれよ」と、言いたくなってしまうのだった。
この公園には、小さなリスがあちこちにいて、木と木の間を走り回っていた。ほとんど人がいず、静かな朝の雰囲気を楽しむことが出来たのであった。
 インド独立史にガンジーが登場するのは、1918年に制定された「ローラット法」反対の国民運動の新しい指導者としてであった。ローラット法は、令状なしに逮捕、裁判なしの投獄、即決裁判で上告を認めないという暗黒法であった。
 ガンジーの闘いの特徴は、非暴力(無抵抗ではない)と不服従である。どんな崇高な目的のためとはいえ、暴力や欺瞞に訴えるのでは達成されないというのだ。不服従運動ではイギリスの綿製品を着用せず、伝統的なインド綿製品の着用と不買運動が知られるようになった。だから、インド独立史には「第1次独立戦争(インド大反乱)」はあっても、第2次独立戦争というものはないのである。暴力によらず、第2次世界大戦の後に独立を勝ち取ることとなる。
 しかしそのガンジーも、ヒンディー原理主義者によって「イスラム教に寛容すぎる(パキスタンの分離独立を認めた)」として暗殺されてしまったのである。
あたふたインド訪問記19
<1月12日・ホテルを変更>

(デリー空港)
 今日の予定は、カルカッタからデリーまで飛行機で移動するだけである。でりーでは、初日に泊まったホテルに行くという。しかし昨日、「ホテルが気に入らなければ変更する」と、Bガイドが言っていたのを思い出す。そこで、デリーのホテルがいかに最悪だったかを説明する。「あんな所には泊まりたくない」ということで、ホテル変更を求めたのである。Bガイドは、「本社に連絡して手配する」と請け負ってくれたのである。
 ホテル変更の手配をしてもらってから、早めに空港に向う。出発の2時間以上前に空港に着いて、手続きしようと空港にはいると、Bガイドが入口から入ろうとしない。「ボクは電車で20時間かけてデリーに戻る」と言うのである。つまり、ガイドの費用を節約するのが会社の方針なのであった。
 ということで、8日から行動を共にしてきたBガイドとはここでお別れである。何だか、突然に知らない所に放り出されたような感覚である。これまで、いかにBガイドに頼っていたかが判った。別れを惜しむ間もなく、空港の入口で左右に別れた。私たちは、チェックインの時間がくるまで、ロビーで待機したのであった。
 手続きは順調に済んで、2時間の飛行時間でデリーに着いた。空港の出口には、様々なプラカードを掲げて出迎えの人々で溢れていた。そのプラカードを端から探し回っても、私たちを出迎えている人はいなかった。「どうなっているんだ」と、私だけゲートの外に出て探したが見当たらない。しかたがないのでH氏の処に戻ろうとすると、ライフルを持った警官にストップをくらった。もちろん言葉が分からない。そのうち「パスポートを見せろ」と言っているらしいのだが、言葉が分からないふりをして知らんぷりをした。出迎え人がどこから現われるか分からないので、私は外で、H氏は内で待つことを大声で打ち合わせをする。警官があきれ顔をして笑っていたが、気にしてはいられない。
 その内に、出迎えのガイドが現われた。「前に来たけど、いなかったので外にいた」と言い訳をする。遅刻してきたことは、歴然としていた。「他の出迎え人は皆待っているのに、何でお前だけ違う行動をするんだよ」と言いたかったが、面倒なのでH氏を呼んだ。
 そのことはともかく、ホテルへと案内してもらった。そのホテルは、ダージリンほど趣はなかったが、立派なホテルであった。「ホテルを変更しろ」と、言ってみるものである。早々お風呂に入った。お湯は充分に出るし、ダージリンみたいに途中でぬるくなることもない。やはり首都の一流ホテルだけあった。充分お湯を使って、インドに来て初めて日本と同じように身体を洗うことが出来たのである。
あたふたインド訪問記18
<1月11日・インド大反乱>

(デリーの映画館)
 イギリスによるインド征服は、シィク戦争(1845〜49)の勝利で完了したが、その立役者となったシパーヒー軍が1857年に反乱を起こした。イギリスにとって約20万のシパーヒー軍は、インド支配の最終手段かつ暴力装置であることかとから、飼い慣らし、手なずけておかなければならなかった。しかし、シィク戦争の終結によりシパーヒー軍への待遇が悪化する。さらに、ヒンドゥー教のタブーに係わる命令が出され、シパーヒーの不満が募ったのだ。上級カーストでは、インドの外に出ると「身分が穢れる」として、海外派兵に反対だったのだ。
 反乱のキッカケは、新式銃を使った演習を拒否したために起こった。軍法会議の結果、問題の兵士たちが辱められ牢に入れられた。残りのシパーヒーたちがこれに反発し、仲間を救うために蜂起したのだ。これが、瞬く間に各地に広がり民衆をも巻き込んだ。そこには、日頃からイギリス人のインドの伝統文化に対する無理解、さまざまな風俗習慣を野蛮と見下すことに対する怒りが溢れかえっていたのだ。こうして、インド全体(反乱の勢力は、一時国土の3分の2に及んだ)が反乱状態となった。これを、「インド大反乱(第1次インド独立戦争)」という(1857〜58)。
 この反乱には、当初、ムガル皇帝バハードゥル・シャー2世が与し、皇帝復権を宣言して対イギリス戦争開始を表明するが、わずか4ヶ月でイギリスに投降してしまう。結局、反乱は失敗に終わる。その最大の理由は、反乱側内部の不統一だった。初めから、反乱軍は烏合の衆で指導部がなかった。加えて地域間の対立、カースト間の対立によって、インド人同士が1つにまとまれなかったのだ。イギリスは、このようなインド人の対立を巧妙に利用した。同時に、同じインド人であるシィク教徒はイギリス側について、この反乱を鎮圧したのである。又、ネパールのグルカ兵も鎮圧で活躍したのであった。
 この反乱の失敗によって、ムガル帝国の権威は完全に消滅。東インド会社は責任を問われて解散させられ、イギリスは直接統治に乗り出すことに。やがて、1877年にはインド帝国(皇帝ヴィクトリア女王)を成立させ、形式的にも本国政府のが統治することとなったのである。
 インド博物館の見学で、観光ガイドのDさんとはお別れ。流暢な日本語のDさんから、ベンガル州のインド共産党のこと、仏教遺跡のこと、カーリー女神寺院のことと詳しく教えてもらった。
 この後、昼食を摂ってから、BガイドにH氏が前から頼んでいたCDショップに案内してもらった。そこは街の中心地で、高層ビルの立ち並ぶオフィイス街であった。東京のオフィイス街となんの遜色もない所で、CDショップもオシャレであった。
 ホレルに戻る前に、ワインを買うため酒屋に入った。そこはなんとも殺風景な店舗で、展示棚は埃だらけだったが、ワインを注文すると奥から次々と取り出してくるではないか。品揃えは十分あるようであった。ここで、インド産のワイン(安い)を買ってホテルに。今日は、夜行寝台列車で早朝にカルカッタに着いて、慌ただしく観光をして疲れた。ワインとつまみの落花生(デリーで買った残り)を食べ、眠りについたのだ。途中、「夕食ができている」とホテルのスタッフが呼びにきたが、「食べない」と断ったのであった。
あたふたインド訪問記17
<1月11日・インド博物館>

(ミュージアム入り口)
 インドを支配したイギリスは、インドをイギリス産業の原料供給地兼製品消費市場としてきた。東インド会社はインドから木綿を買い付け、本国に輸出。折からの産業革命で、機械制大工場で生産された綿織物が、今度はインドに輸出。インドは世界有数の綿織物生産国だったが、手工場であった。結果、インドの綿織物工場は大打撃を受け、「世界に冠たる織物の町」ダッカの人口は、わずかのうちに15万から3万に激減した。インド提督の1834年の年次報告では「職工たちの骨がインドの平原を白色に化している」と、その惨状を報告している。
 徴税権を持つ東インド会社の搾取の仕組みは、@まず税金をとる、Aその金で、農民から原綿を買う(つまり、タダで原料を手に入れる)、Bそれを加工してインド人に売る、というもの。富は一方的にイギリスに流れ、インド人は最大限搾り取られていったのである。
 カーリー女神寺院の次は、インド博物館に行った。かって小型の仏像が盗まれたことがあって、以来、館内にはバックもカメラも持ち込み禁止である。入口も出口も決められていて、それ以外の出入りはできない。入口近くには、紀元前のインド人の立像が飾られていた。これを指して、Dガイドが「これがアーリア人の面貌だ」という。Bガイドも自分の面貌もアーリア人の特徴が顕著であるとして、「ほら似ているでしょう」と誇らしげに言うのであった。私には、さっぱりわからなかったが。
 館内に入った。最初の展示物は、仏教説話の浮彫がある紀元前2世紀頃の欄楯(らんじゅんーー玉垣と呼ばれる垣根のようなもの)から始まって、1〜2世紀頃のガンダーラ仏像の誕生、4〜7世紀の最盛期の仏像と、仏像の歴史を辿ることができた。ここで、観光ガイドであるD氏の仏像に関するウンチクが披露されたのであるが、仏像ファンにとっては1度は見ておくべき遺品の数々であることに間違いなかった。これらは、インド博物館を代表する展示物で、全世界に常時貸出されていた。空白部分には、どこに貸出ているかが表示されているのであった。
 インド博物館は、1814年創設のインド最古にして最大規模を誇る多目的博物館なのだが、考古部門のパールフト欄楯等を観たあとでは、他の部門の展示物は色あせてみえてしまう程であったのだった。
あたふたインド訪問記16
<1月11日・カーリー教徒>

(祭に集まった人々)
 カーリー女神のことである。カーリーは、シヴァ神(ヒンディー教の主神)の妻の1人である。血と酒と殺戮を好む戦いの女神で、その姿は全身黒色で3つの目と4本の腕を持ち、チャクラを開き、牙をむき出した口からは長い舌を垂らし、髑髏をつないだ首飾りをつけ、切り取った手足で腰を被った姿で表されているのだった。
 カーリーは、シヴァ神の怒りにふれて5つに分断され殺された。カルカッタのカーリー女神寺院には、その1つが祀られていてカーリー教の聖地となっている。5つの遺物はインド全国に散って、それぞれが聖地となっているのだ。
 カーリーは日本の鬼子母神と同じ女神で、殺戮と破壊の象徴であり、南インドを中心とする土着の神と習合してきた。特に、ベンガル地方での信仰が篤いが、インド全体で信仰されているポピラーな神でもあるのだ。
 インドにおいて19世紀半ばまで存在していたとされるタグ(タッグ団とも)は、カーリーを信奉する宗教的暗殺集団で、善意の殺人を信じる者たちだ。現世で生きる価値のない人間を抹消し、輪廻の思想によって新たに生まれかわらせて正常な道に戻すこと。それが自分たちの使命だと狂信する集団で、10年間で数万人(500年で100万人とも)を殺している。
 このタグの最後の大首領はイギリス軍に捕えられ、30年間牢獄につながれていた。彼の最後の言葉とされるものが残されているそうだ。それは、タグよりイギリス人の方がはるかに巧妙で、タグなど足元にも及ばないこと。この100年間にイギリス人はインドの土地を奪い、綿織物の仕事を失わせ、飢餓を引き起こした。その犠牲者は、優に2000万人を超えること。だから、「出会う者をことごとく殺す」という教義は、いたずらに庶民の心を乱し、イギリス人を利するのみであること。殺すなら、我らの風習・文化・人間性を否定する外国人を殺せ。同国人を殺す者は、カーリー教徒ではない。という言葉である。
 ここには、イギリスのインド支配によって苦しむ庶民の実態がある。
@まず税負担である。1765年のベンガル太守時代の徴税額は82万ポンドだったのが、1770年の東インド会社時代には234万ポンドへ。1790年には340万ポンドへと、増加しつづけるのだ。
A次に飢餓の激増である。東インド会社は、農民に綿布の染料の藍や、アヘンの原料のケシなどの栽培を強要。小麦などの食糧をつくるべき畑で、食糧を作らせなかったために飢餓を激増させたのだ。それは、18世紀に3回の大飢餓(死者不明)。1800〜25に5回の大飢餓で100万人死亡。1826〜50に2回の大飢餓で40万人。1851〜75に6回の大飢餓で500万人。1876〜1900に18回の大飢餓で1600万人死亡。という統計が出ているのだ。実に19世紀だけで2000万人以上が餓死しているのである。
 イギリスの支配によって、インドはすさまじい貧困に追い込まれていったのである。
あたふたインド訪問記15
<1月11日・カーリー女神寺院>

(女神寺院に並ぶ人々)
 カルカッタのことである。ムガル帝国時代(1526〜1858)、ガンジス河河口のベンガル地方(現在のバングラデシュを含む)は綿、絹織物、藍といった特産品で知られていた。またガンジス河は重要な輸送路で、河と海との中継点にあったカルカッタは、要衝の地であったのだ。
 ムガル帝国第6代皇帝アウラングゼブ(位1658〜1707)の死後、帝国は衰退していき、各地で在地勢力が自立していく。そこにイギリス東インド会社が登場。ムガル帝国と入れ替わっていくのだ。17世紀以降、東インド会社はマドラス、ボンベイ、カルカッタに商館を建設していく。1757年のブラッシーの戦いでベンガル太守を破ったイギリスは、インド政策を「貿易」から「統治」へとシフトを変更していく。こうしてカルカッタは、英領インド全体の拠点となったのである。
 1765年、東インド会社はベンガル地方の徴税権を獲得する。事実上、ベンガル地方を支配するに至ったのだ。この後イギリスは、インド各地の地方政権を次々と支配下に置いていき、シュク教国とのシュク戦争(1845〜49)の勝利で、イギリスによるインド征服は事実上完了したのである。
 マザーテレサホームの次ぎに向かったのは、カーリー女神寺院である。この日はカーリー女神の祭日で、全国から信者が巡礼に来て大混雑であった。いつもの駐車場には入ることが出来ず、車はあらぬ所に停まって私たちを降ろした。そこからは徒歩で、寺院に近づいて行く。混雑のなか前にはDガイドが、後ろはBガイドが護衛する形で進んでいく。この寺院に入りため、何万という信者が列をなしているのだが、その服装が列毎に違っていた。それだけでDガイドは、巡礼がどこから来たか説明していたが、遠く南インドからはるばる来ている集団もいたのだ。しかしこの巡礼たち、全員が裸足(寺院には裸足でないと入れない)で、私の目からは物乞いの集団にしか見えない。寺院に入るがために、身体をくっつけて列をなしている姿は、まるで狂信者の群れのようで怖ろしかった。
 Dガイドはこの列を無視して、秘密の入口にと入っていった。そこの門番とおぼしき男と何ごとか交渉し、なんと私たちを入れたのである。そこは、寺院のすぐ近くへ行く近道であった。私たちが外国人であることをパスポートで証明し、許可されたのである。この寺院は、信者以外は入ることが出来ない。寺院に入らないなら、「近づいていい」ということなのである。もっとも、寺院に入る何万人という列が出来ているのだから、私たちが入れる状況にはなかったのだが。
 どうやらDガイドが私たちに見せたかったのは、カーリー女神に捧げる生け贄の子ヤギを殺す場面だったらしい。ところが、その現場では片付けが行われていて、血の跡しかなかった。その場面というのは、ヤギの首を刎ねる前に体を水で清め、人々が跪いて祈りを捧げる。その後、ヤギの両前足を背中にくくり、首を2本の木の間に差し込んで一気に斧をふるう、というものである。「もう少したつと生け贄の首切りが始まるが、見るか」と聞く。「とんでもない! 」と、私たちは逃げるようにその場を離れたのであった。
あたふたインド訪問記14
<1月11日・カルカッタ到着>

(マザー・テレサの石棺)
寝台列車は、貴重品は全て身につけたまま寝た。そうするようにと、注意されたからである。合席のインド人たちは夜中まで携帯で大声でしゃべっていた。寝るのは得意である。寝ようと思った瞬間に、もう私は寝入っていたのだ。
 早朝にカルカッタに着いた。出迎えた車に乗って、ホテルに向う。カルカッタのホテルはデリーほどではないが、ダージリンのホテルからは3ランクは下のものだった。部屋に入ると、2つのベットがくっ付けてあり、大きなシーツ1枚で2つを覆っているではないか。「別々にしてくれ」とクレームをつけた。Bガイドは、「気にいらなければ言ってくれ」と云う。ホテルを変えてくれる、と言うのだ。「オ! 文句を言えばホテルが変えられるのか」と思ったが、もうそんな気力もなくなっていて、ともかく休憩したのだった。
 10時過ぎ、地元の観光ガイドD氏がやって来た。流暢な日本語を話す61歳。鉄工場を経営しながら日本語の観光ガイドをやっているのだ。奈良に留学経験して、やたらと仏教に詳しい人であった。
 最初に、ホテルの近くにあった「マザーテレサホーム」に向った。ところがその路地には、「ハンマーと鎌」のソ連旗がはためいているのだ。「何だこれは?」と思ったら、ホームの先にインド共産党の施設があったのである。カルカッタのあるベンガル州は、34年間、共産党の政権下にあった。2年前の選挙で、ついに政権の座を共産党は追われた。共産党政権下ではコンピューターも導入されず、役所の事務は手書きだったと云う。そのためか事務手続きも遅く、職員の数も多かった。今、近代化策が次々と打たれて、住民の評価も良いようである。目抜き道りは道路工事が行われており、カルカッタは観光地としての整備もすすめられているのであった。
 ホームへと入った。中での写真撮影は禁止である。ただ、テレサの石棺はOKとの事。ホームはそんなに大きなものではなかった。見学できたのは、テレサが使っていた簡素な室と、石棺とテレサの業績が展示されている室だけである。この室に常備されたノートの書き込みを読むと、日本からボランティアに来た女子大生の感想などが書かれていた。少なからず、日本からボランティアに訪れている様子が窺えたのであった。
 マダー・テレサ(1910〜97年)は、マケドニアに生まれた。本人の希望で、18歳でカルカッタへ赴くことになった。主に聖マリア学院で教師をしていて、34歳で校長に任命されている。スラム街の中に入って活動し始めたのは1948年(38歳)の時で、手始めにホームレスの子供たちを集めて街頭で授業を始めた。やがて、インド政府の協力でホスピスを開設。以降、ホスピスや児童養護施設を開設していくのだ。それにしても、ホームの規模は大きなものではなかった。これで、どれほどの人々を救うことができたか分
からない。しかし、マザーの活躍によって多くの貧しい人々は救われていったのである。テレサの葬儀は、インド政府によって国葬として盛大に行われた。宗派を問わずに、全ての貧しい人々のために働いたことが、インド国民に評価され、その偉大な働きを追悼されたのである。
あたふたインド訪問記13
<1月10日・さよならダージリン>

(駅のプラットホーム)
 さて、これでダージリンともお別れである。午後は4WDに乗って、ダージリンに上がってきた道を、今度はひたすら下りることとなった。これからニュージャイパイグリまで行って、寝台列車に乗り込むのだ。そうすれば、翌朝にはカルカッタに到着することとなる。
 4WDに乗り込むと、後ろの荷台の中に大学生位の娘が乗っていた。ドライバーの娘で、街に本を買いに行くので同乗しているという。本1つ買うのに、街まで4時間(往復8時間)かけて下りなければならないのだから、大変である。途中、紅茶の茶畑と乾燥工場を見学する。但し今は季節ではないので、茶摘みもしていないし、工場の中も機械の修理中であったのだが。
 夕方5時頃、ニュージャイパイグリの駅前に着いた。凄まじい雑踏である。私達が車から降りたとたん、物乞いがやって来た。その中には、14歳位に見える女の子が、1歳位の赤ん坊を抱えている。子供が子供を産んで抱えている、という図である。ドライバーが、激しい叱責の言葉を浴びせて彼女らを追い払っていた。インドの物乞いには胴元がいて、貰ったお金を集金していると聞いたことがある。もしかしたらこの赤ん坊も、誰かの子を「ハイ!」と預けられて抱えているだけかもしれないのであった。ともかく、その光景は凄まじいもので、正視に耐えないものがあった。
 この雑踏を避けるためにも、ともかく駅構内に入るに限ると、駅に向った。カルカッタ行きのホームに着くと、どうした訳かホームも満員なのである。待合室に入った。ところが、無料の待合室は満席である。そこには、物売りだか物乞いだか分からない人がやって来て、近寄ってくる。Bガイドは暫く思案顔となり、やがて案内されたのは「有料待合室」であった。さすが、こちらは席が空いていた。しかし、ここにも物売りがやって来る。マクラ等々である。
 夕食は駅構内の食堂で摂った。正直、もう食べたくなかった。そこで、ごく簡単なナンのようなものを1枚と鶏肉とコーヒーを頼んだ。列車が到着する前に、ミネラルウォーターを買っておこうと、キヨスクに寄った。10ルピー紙幣は残しておこうと100ルピー札を出したら、「ダメだ」と売ってくれないのである。なぜダメなのかは分からない
。しかたがないので10ルピー札を出すと、すんなりと買えたのだ。荷物の方に戻る途中、ホームのインド人が何か叫ぶので戻ってみると、100ルピーが落ちているではないか。私が落としたのである。誰も100ルピーを拾おうとはせず、わざわざ私に声を掛けてくれたのである。
 夜行列車が到着した。早々に席に着いた。他の人との区切りはカーテンだけである。Bガイドは予算の関係か、他の車両(寝台ではない)である。荷物はベットの下に置くが、「チェーンを持ってきたか」と聞く。Bガイドが言うには、置いただけでは持っていかれるのでチェーンで固定するのだ。「チェーンはない」と言うと、「待っていて」とチェーンを買ってきたではないか。何とも、先行き不安な車中なのであった。
あたふたインド訪問記12
<1月10日・カースト>

(ダージリンのノラ犬)
 レストランで食事をしている時、変なことに気づいた。床だけしか掃除しない人と、テーブルしか拭かない人がいたことだ。この2人、決して相手の領分に手を出そうとはしない。「ハハーン、これがカーストか」と、思い当たった。この店には窓際に花壇があるのだが、こちらの方は誰も手をつける様子がない。だから、汚れがこびりついていて触れたものではない。床やテーブル以外は誰が掃除するのだろう、と思ったが分からなかった。
 カースト制度は、紀元前1000年頃、インド北西部のカピス海周辺地域からインドに侵入してきたアーリア人が、先住民を支配する際に作られた。アーリア人は支配のため神話をつくり、バラモン教をつくり、そしてカーストを正当化・制度化したのだ。カーストは基本的に4つに分けられる(その中でさらに細分化されている)。加えて、この4つのカーストのさらに下に「不可触民(ダリット)」という、カースト外の「指定カースト」なるものがある。ダリットの多くは、ゴミ回収や清掃、食肉処理業に従事するものとされ、その多くは貧困状態におかれている。
 現在インド政府は、貧困解消を最優先課題としている。人口の半数以上(6億人)が被差別カーストであることから、大票田の彼らへの優遇策を次々と打ち出しているのだ。例えば、下層カースト出身の学生に対する公務員の優先就職枠を、1950年の20%から93年には49.5%にまで引き上げている。これが、逆差別として問題になっている。
 ただし、新しい産業であるIT業界には、カーストによる差別が適用されていない。だから、このような優先枠も就職差別も全くない。インドのIT業界は、完全な実力主義を貫いたことによって発展しているのであった。
 現在のインドのカーストである。カースト制度の影響は確実に弱まってきている。結婚問題でも、恋愛結婚も増えつつあり、花嫁・花婿募集新聞広告(インド特有な現象)でも「カースト不問」という言葉が入るようになった。
 一方こうした差別を嫌って、集団でキリスト教や仏教に改宗するケースもある。仏教は統計では0.8%の信徒数になっているが、隠れ仏教徒は1億人に達しているといわれている。なぜ隠れるかというと、下層カーストへの優遇策はヒンドゥー教徒でなければ受けられないからなのである。そういう意味で、スィク教徒が「1億人いる」(統計では1.8%)と言ったBガイドの言葉は正しいのかもしれないのであった。
 このレストランの窓からは、ヒマラヤが見えた。太陽の光を浴びて、ヒマラヤが神々
しく輝いているではないか。なんとも至福の時を過ごすことが出来たのであった。
あたふたインド訪問記11
<1月10日・グルカ兵>

(ダージリンの土産物屋)
1昼食は、広場の近くのレストランで摂った。ダージリンに来て、ほとんど身体を動かさないで車ばかり乗っていた。それなのに三度々々食事は摂るのだから、もう余り食べたくない。そこで、Bガイドがいつも食べるようなインド料理を少しだけ摂ることにした。それは、野菜の入ったナンと辛味だけというものだった。
 3人で食事をしている時、この料理店に入る途中の店で見かけた「グルカナイフ」のことが話題となった。グルカナイフとは、グルカ兵が持っている刀身が内側に湾曲した独特な形状の刃物のことである。銃器・刃物に詳しいH氏ならではの観察眼が見つけたものである。 
 ところが「グルカ兵」といっても、Bガイドにまったく通じないのである。グルカ兵で私の知っていることは、阿片戦争(1840〜1842年)の時にイギリス軍の一員として香港島やその周辺を荒らしまわった勇猛な兵隊のことである。阿片戦争で、何万人という中国人が殺されたが、イギリス軍にはほとんど死傷者が出なかったという記録がある。先頭にたったのはグルカ兵である。もしかして、グルカ兵はイギリス軍として数に入れられていないのではないか、と私は思っていたのだ。
 その内にBガイドは、「グルカ」が「ゴルカ」であることに気がついた。「ゴルカ」のことを訛って、イギリス人は「グルカ」と発音していたのだ。それがそのまま、世界中に通用してしまったのである。グルカ兵とは、ネパール山岳民族から構成される戦闘集団の呼称である。グルカ族という民族は存在せず、複数のネパール山岳民族から構成されているのがグルカ兵なのである。ただし、グルカ兵は徴集製制でも志願制でもない。イギリス人が傭兵としてスカウトして雇い入れた軍隊なのである。
 もともとイギリス東インド会社には、インドを支配するために全兵力23万8千人の軍隊を持った(18世紀〜19世紀)。その内訳は、イギリス人軍人が3万人、残り20万人はインドのシパーヒーと呼ばれる上級カースト出身者から構成された軍人である。上級カーストの者にとって、たとえ支配者がイギリス人であっても、自分達が支配者側の一員になることは抵抗感が少なかったのだ。俺達は偉いのだから、イギリス人と同じ支配者階級になるのは当然と思ったのだ。
 ところが、このシパーヒー兵には弱点があった。ヒンドゥー教徒のインド人には、いくつものタブーがあったのだ。1つは、海外に出てはいけないこと。2つには、東インド会社が採用しようとした新式銃エンフィールド銃の問題である。エンフィールド銃は、火薬と弾丸がセットになって油紙に包まれていた。それを歯で噛み千切り、油紙がついたままで弾丸を落とし込むのだ。この油紙の油に、牛と豚の脂が使われているという噂が流れた。ヒンドゥー教徒にとって、神聖な牛の脂を口にするということは、身分が汚れカーストから追放されることを意味した。だからシパーヒー兵は、エンフィールド銃の使用を拒否したのである。
 ことほどさように、ヒンドゥーのタブーに縛られたインド軍が、近代戦の兵士には向かなかったのだ。そこで、インド人より宗教上の制約が少ないネパール人に、東インド会社は目を付けた。それが、山岳戦・白兵戦に非常にたけた戦闘集団であるグルカ兵だったのである。グルカが「ゴルカ」と判ったBガイドは、「この店もゴルカ族がやっている」と言った。帰り際に店の看板を見ると、たしかに「GORKHA」という文字が飾られていたのであった。
 現在でも退役したグルカ兵は、イギリスとの雇用契約によりネパールへ帰国させられるが、軍の年金だけでは生活できず、様々なビジネスを始めるという。その中には、民間軍事会社の契約社員として現役復帰を果たし、紛争地帯に向う者も多数いるのであった。
あたふたインド訪問記10 
<1月10日・銀行は銃で護衛されていた>

(広場を眺めてくつろぐ筆者)
今日の午前中は、フリータイムである。朝から、Bガイドと共にダージリンの市場に行く。ホテルに荷物を預けて、徒歩で市内を下って行った。ダージリンは高地にあるので、高低差の激しい処であった。市場といっても、ほとんど露天である。その姿は、日本の戦後の闇市(映画でしか見たことはないが)のようであった。ともかく、おびただしい商品が至る所に展示され売られているのだ。それも、早朝だというのに沢山の人が繰り出している。インドという国は、「どうしてこうも人が多いのか」と思う程に人が多いのである。それも、貧しい格好ではない。もっとも、ダージリンは観光地だからインド人観光客が多いのである。私の着ているオーバー(中国製)より、立派なオーバーを皆が着ていた。Bガイドは、「日本製はいいが、中国製はダメ」という。そのダメな中国製を私は着ているのであった。
 ここでインドの経済成長について一言。近年、中国に次ぐ経済成長をしているのがインドである。マスコミによると、インドの中間層は人口の5割弱になるという。そして、中間層の平均年収は200万円になるという。物価の安いインドの200万円は、日本では1000万円以上になると思う。この中間層が、観光客としてダージリンに来ているのだ。人口の5割弱とは、5億人ということである。もっとも、あとの6億人が最下層の貧困層となる、ということでもあるのだが。
 ところで町を歩いていると、人混みに紛れて旧式の猟銃を持った人が建物の廻りにうろついている。それも、1ヶ所ではなく何ヶ所も見かける。Bガイドに「何で彼らは銃を持っているおか」と聞いた。「あれは銀行のガードマンだ」というのだ。「日本の銀行は、ガードマンが銃を持たないのか」と聞くので、「日本では警察官以外は銃を持たない」と答えると、ビックリした顔をするではないか。インドでは、銀行強盗はしょっちゅうあることだというのである。
 市内を今度は上がって行くと、昨晩買い物をした場所についた。そこは中心が広場になっていて、馬の手綱を持った人たちがたむろしていた。観光客を馬に乗せ、広場をぐるりと廻るのだ。子供は乗っていたが、大人で乗る人はいない。ガイドが「乗ってみては」と誘うが、恐いので断る。馬は歩きながら馬糞をボタボタと落としていく。やがて、掃除人が糞を拾って片付ける。そんな姿を、喫茶店で紅茶を飲みながら眺めて、午前中を過ごしたのであった。
あたふたインド訪問記9
<1月9日・ホテルのワインは高い>

(ワインと夕食で満足、満足)
 チベット密教について一言。日本への仏教の流伝は、インドからガンダーラを経てアフガニスタン、中央アジア、中国、朝鮮半島と経て来た。主に、大乗仏教である。東南アジアには、インドからスリランカを経てビルマ、カンボジア、インドネシア、タイ、中央ベトナムと経て来た。主に、上座部仏教(大乗仏教の前の仏教)である。チベットに仏教が流伝したのは、吐蕃王朝時代(? 〜650年)の時である。
 ところで密教のことである。日本に密教を伝来させたのは空海(774〜835年)であるが、その密教というのはインドの前期密教であった。それに対しチベット密教は、10世紀半ば頃に成立したグゲ王朝のもとで、インドからもたらされた後期密教である。後期密教は仏教の最後の形で、以後、インドでは仏教が衰退していくのだ。
 チベット密教は、この後期密教と土着のボン教が習合して出来たものであるが、仏教のもっとも古い形がそのまま残されているとして注目されている。後期密教の特徴は、インドのヒンドゥー教の影響を受けて儀礼化(つまり、より大衆化)が濃厚になったことにある、といわれている。
 さて、今回の主な目的であったダージリン鉄道のトイトレインにも乗ったし、ヒマラヤも観たし、ダージリンの観光地も見学して、再び英国風のホテルに戻った。この後、Bガイドの案内でホテルから徒歩で買い物に出かけることにした。ダージリ茶とスカーフを買ったのだ。ダージリ茶は、グラム何万円もするという高いモノまで扱うという政府認定店で買うことになった。さすがは本場で、どれも高いモノばかり勧められたが、懐と相談して下から2番目の紅茶をゲットしたのであった。スカーフは、チベット山羊の毛で作ったという「絹のスカーフ」をゲットしたが、毛製品がどうして「絹」といわれるのかは分からなかった。
 夜はホテルのレストランで、食事と一緒にワインを1本注文してしまった。酒を飲まずにいるのも限界であった。2人で1本を、アッという間に空けた。明日の請求書が心配でならなかった。なにせ、ホテルの酒は値段が高過ぎるのである。しかし、ワインのお陰でゆったりとした気分で眠りに就くことができたのである。
あたふたインド訪問記8
<1月9日・未来のブッタ? >

(「未来のブッダ」寺院マニ車の前で)
 トイトレインがグム駅に着くと、そこには4WDが待ち受けていた。午後は、ヒマーラヤ登山学校、ヒマーラヤ動物園、チベット寺院などを巡る観光である。登山学校というのは、インドの登山家を訓練するための学校である。この学校の手前には、観光客用のクライミングがあって、何人かが挑んでいた。ガイドに「やるか」と言われたが、断った。無理は禁物なのである。若い女性が、専門家に助けられてクライミングしているのを眺めるだけにしたのだ。ここには博物館があり、エヴェレスト初登頂に使用された装備を始め、エヴェレスト登山の記録の数々が展示されている。日本人では、田部井淳子さんが写真入りで紹介されていた。C現地ガイドも、「タベイ・・」とその名を口にして誉めたたえてくれたのだ。
 動物園は登山学校と一緒の所にあった。入場料はインド人は無料だが、外国人は有料であった。ただしツアー料金の中に入っていたようで、Bガイドが払っていた。動物の中には、ヒマラヤオオカミなど珍しい動物もいたが、「何でこんな処に動物園が・・」と思ってしまう。つまり、自然以外だと見せるものがあまりないのだ。
 Cガイドは、お寺にも案内してくれた。チベット仏教だから憤怒像があるのかと思ったら、御本尊は「未来のブッタ」という若々しい仏像であった。こんな仏像もあるのか、と驚いてしまう。チベット仏教では、「何でもあり」なんだとつくづく思い知った。「未来のブッタ」とは、未来に覚りを啓くお坊さんということである。ブッタ=お釈迦様ではない。仏教を起こしたお釈迦様も、ブッタの1人に過ぎないのである。
 ここでCガイドが五体投地をして敬虔に拝んでいたので、彼がチベット仏教徒であることが判った。もちろん、シィク教徒であるBガイドは五体投地はしない。私達も遠慮した。私達は、日本の仏教徒のように手を合わせるだけにしたのであった。この寺院の内は、料金を払えば写真を撮ってもいいのだそうだ。しかし、料金を払ってまでして写真を撮るのは気が引けるので止めた。但し、その外観だけはカメラにおさめたのである。
あたふたインド訪問記7
<1月9日・世界遺産のトイトレイン>

(トイトレイン、ダージリン駅からバックで牽引する
 ホテルで暫く休憩してから、午前中はダージリン・ヒマラヤ鉄道(100`弱)を走るミニ蒸気機関車トイトレインで観光する。蒸気機関車は観光用で、一般市民を乗せるのはジーゼル機関車である。ただし、昨年5月の地震で途中までしか運行されていない。
 世界遺産になっているトイトレインは、ダージリンから次の駅のグムまでである。インド人観光客や、西欧人が乗り込んでいた。盛大な汽笛を鳴らし煙を吐いて進むトイトレインは、マニアには垂涎もの。途中で水を大量に補給しながら、約40分ほど列車の旅を楽しんだのである。
 幅の狭い線路のすぐ側に、家や屋台が立ち並んでいる。時々しか列車は通らないので、線路上に店を広げている人もいる。そのためか、遠くから盛大に汽笛を鳴らして通過するのを知らしているのだ。窓ガラスは煤だらけ、窓枠には石炭のカスがこびりついて汚い列車であったが、なんとも可愛いイトレインなのであった。又、列車の中から見るダージリンの生活する庶民の姿も、ゆったりと眺められたのであった。
 線路幅が30aほどしかないのは、これがかってダージリンからふもとまで紅茶を運ぶトロッコ線路だったからである。そしてこの線路は、紅茶だけではなく人を乗せるようになった。やがて、周りに道路が造られ家が建ち並んできた。こうして、ダージリンがイギリス人の避暑地となり、西欧人の観光地となっていったのだ。
 ダージリンがイギリス人の植民地となる前、ここにはスィッキム王国というものがあった。スィッキム王国にはチベット系やブータン系の住民が住んでいたが、英領時代に隣のネパール人がこの地に住むようになった。だから現在では、住民の多くがネパール系なのである。今でも、隣のネパールからダージリンへはパスポートなしで住民が行き来を許されている。それに、インドより貧しいネパール人の出稼ぎ労働者が大量にダージリンに来ていた。道路工事などは大半がネパール人で、ネパールの民族衣装を着たまま工事をしているのを見ることが出来たのである。
あたふたインド訪問記6
<1月9日・ヒマラヤの御来光>

(タイガーヒルのご来光)
 本日も早朝4時半にホテルを出る。2日も続けて早朝起きは辛い。本日は、標高2590bのタイガーヒルまで車で行って、御来光を拝もうというのだ。タイガーヒルは、ヒマラヤの展望を楽しむスポットなのである。
 4WDには、昨日のドライバーにBガイド、それに地元のC観光ガイドが加わった。小柄なCガイドは、チベット系なのかネパール系なのかわ分らないが、私たち日本人とほとんど同じ容姿である。20代にみえるが、どうも家庭を持っている様子であった。この観光ガイドというのは、行った先々で必ずつけられる。一種の就労対策のようなものである。日本語ガイドが判っていても、彼らの領域を侵すことはできないのである。
 走ること30分、山頂に着く。タイガーヒルは、早朝だというのに大渋滞である。インドという処は、どこでも車と人で溢れかえっていて驚いてしまう。早々、御来光を仰げる場所取りをする。なぜなら、次から次へと人が押し寄せてくるからだ。
 寒い山頂でひたすら待つ。この時ほど中国製の安物であったが、防寒オーバーを持ってきていて良かったと思ったことはない。Bガイドは、薄いオーバーだけで震えているのである。私のオーバーは裾も長く、背中には何やら奇妙な絵柄が描かれている。その背中に、ピッタリと張り付いた小柄な男がいた。「何やっているんだ」と思っていると、後ろでBガイドが何やら叫んだ。すると、その小男はサーと離れていった。人の集まる処(といっても、どこでも人が溢れているのだが)、スリやカッパライには用心しなければならない、とはBガイドの注意であった。
 やがて山の頂に光が射し始めめると、「オー」という歓声がおこるではないか。それほどの風景ではない。まだまだ、御来光が現れる時刻ではない。ところが、いざ御来光が現れだすと大変なこととなった。大歓声が沸き起こったのである。Bガイドいわく、インド人は太陽信仰の気持ちが大きいのだ、ということであった。やがて、ヒマラヤ山脈の山々が、太陽の光に晒されて見えてきたのであった。
 ということで、夜明けから30分ほどヒマラヤの山々を見学して、ホテルに戻ったのである。
あたふたインド訪問記5
<1月8日・コロニアル風ホテル>
 
 (やっと人心地がついた。)
やっとのことでダージリンのホテルに着いた。このホテルは、旧き英国風のたたずまい。コロニアルスタイルと言うそうである。ロビーには、エリザベス女王の写真など様々な写真が飾ってある。石炭暖炉もあって、とても雰囲気の良いホテルであった。デリーのホテルとは、天と地の差である。
 さて、ダージリンからはヒマラヤが眺められる。5000m級の山々が連なっているので、一見してヒマラヤがどれとは分らなかった。教えられると、成程と思う。このヒマラヤと地震との関係である。ヒマラヤ山脈は、ユーラシア大陸とインド大陸がぶつかって隆起してできた山々である。ということは、この地帯は大地の境目ということになる。今でも、ヒマラヤは少しづつ隆起しているというから、日本と同じでいつ地震が起きてもおかしくない地域、ということになる。
 ホテルに入る前に、Bガイドから書類を手渡された。そこには、様々な注意事項が記されていた。要するに、生水を飲まない等々のことである。なかに、チップについて詳細に書かれていた。ガイドは、チップのことを判ってほしかったのだ。ドライバーには1日100ルピー(1人につき)、日本語ガイドには250ルピー、ホテルのポーターには20ルピー(バック1つにつき)等々である。これまで、私たちはチップを渡していなかった。払おうにも、小銭がなかったからだ。Bガイドに事情を話し、小銭ルピーとの両替を申し込んだ。ホテルでは両替率が悪いので、明日銀行で両替してきてくれると言うのである。Bガイドは誠実で、とても真面目である。安心してドルを預けたのであった。
 インドに来て、やっと寛ぐことができた。シャワー室には浴槽もあった。蛇口をひねるとお湯が出た。しかし、肝心の栓が浴槽についていない。これでは風呂に入れない。早々に、栓を取り付ける交渉をする。暫くして、栓が届いた。これでやっと風呂に入ることが出来た。「極楽々々」であった。
あたふたインド訪問記4
<1月8日・山岳ラリー>

(町中も猛スピードで突っ走るドライバー)
 デリーからバグボグラまでは国内線飛行機で2時間。バグボグラを降りると、空港前には、軍人の姿が目立った。いかにも軍の首脳を迎えに来ている、という出で立ちで高級車が並べられ、軍人がタムロしていた。ここは、基地のある軍隊の町でもあったのだ。
 Bガイドに、「インド人は、軍人になりたい人が多いのか」と尋ねた。答えは、軍人はエリートであること。成績優秀で、身長・体重等の基準をクリアしていなければ入隊できない。さらに、五体に1つでも欠損があっても入れない。運動能力・体力はもちろん、視力が悪いだけでもハネられてしまうというのである。もちろん、皆軍人に憧れているというのだ。
 ダージリンに行くために私たちが乗ったのは、4WDの良い車であった。ドライバーは、一見するとモンゴル人のような中太りの中年男。朝の暗いうちに、ダージリンから4時間かけて降りてきたという。今度は、再び4時間かけて登っていくのである。4WDの出発である。出発して、山道に入ってからは驚きの連続である。ドライバーは、山道をクラクションを鳴らせぱぁなしで突っ走っていくのだ。なんと、この山道がそこら中で渋滞するほど車で混んでいたのだ。
 登って行くほうもそうだが、下ってくる車の量も多いのである。私たちが乗っている4WDは、せいぜい5人乗りである、ところが下ってくる車には少なくとも12人が乗っていたのだ。それでも、車内に乗り切れないと屋根の荷台の上にまで人が乗っている。山道の下は、見るのも怖い絶壁である。その道を、車の荷台に乗って下るなど狂気の沙汰である。「なんだこれは」と、唖然としてしまったのである。
 この狭い山道を、上と下で擦り抜けていく。よく見ると、バックミラーが伏せられたままではないか。バッミラーを立てたままだと、擦れ違う際にぶつかってしまうのだ。だから、最初から伏せたままである。その上、少しでも余裕があると前の車を無理矢理追い越していくのだ。まるで山岳ラリーに参加している気分になってしまう。
 その上になお、道路の工事中の処がいたる所にある。その資材が道路に無造作に置かれている。そのため、いたる所が一直線になる。その一直線の道を、上と下から車が突っ込んでくるのだ。たちまち立ち往生となる。立ち往生が解決するまで、他の車は待っていなければならないのだ。
 後で判ったことだが、昨年、この地方に大地震が襲っていたのだ。ある村では、集落ごと壊滅してしまった。なにせ、インドの家はほとんどがレンガ造りで、鉄筋などあってないがごとき造りなのである。地震には弱いのである。道路工事が多いのも、地震で道路際が崩れてしまっていたからなのだ。さらに、ダージリンからバグボグラまでの鉄道路線が、途中で分断されたまま未だに修復の目途がたっていなかったのである。だから、車が鉄道の代わりに人を運んでいたのである。
 本来、私たちの旅は、このダージリン鉄道に乗ってダージリンまで行く予定だったのが、地震のために4WDに変更されていたのであった。 
あたふたインド訪問記3
 <1月8日・シィク教徒のガイド>
8日は早朝4時半に、Bガイドがホテルに向かえにくるという。今日はデリーからバグドグラまで飛行機で行き、そこから車で4時間かけてダージリンへと向かうのである。4時過ぎにホテルのロビーに降りた。古いエレベーターの乗り方がよく分らなかったので、階段で下った。ところがこの階段、物置状態で訳の分らないガラクタで塞がれているのである。

デリー空港の置物の象。

 ようようの体でロビーに降りると、ロビーのソファーで寝ていた人物がムクッと起き上ったではないか。なんとこのホテルの責任者で、「今から朝食を出すから、部屋に戻ってくれ」というのである。待ち合わせ時間にはまだ間があったので、今度はエレベーターで部屋に戻った。すると、パンにオムレツとコーヒーという朝食が届けられた。急いで平らげたのである。
 4時半にやってきたのは、頭にターバンを巻いたシィク教徒のBガイドであった。31歳の彼が、これからダージリンとカルカッタまでの日本語ガイドであった。彼に、シィク教徒の人数を聞いてみると、「1億人」という答えがかえってきた。しかし、2012年版の「地球の歩き方」を開いてみると、「全体の1.8%」とある。インドの人口が12億としても2100万人である。どちらを信じていいか分らないが、1億は多すぎるというものである。
 シィク教は、14世紀にイスラム教の影響を受けてヒンドゥー教を改革して生まれた宗教である。偶像礼拝やカースト制度を否定し、人間の平等を唱える宗教だ。頭髪や髭を切らない掟をもつため、ターバンをかぶり黒々と髭をたくわえているのが特徴なのだ。ついでに言うと、ヒンドゥー教徒は人口の82%、イスラム教徒は11.6%を占めている。最近は、このイスラム教徒の数がどんどん増えているそうである。
あたふたインド訪問記2
<1月7日・デリーは霧でけぶっていた>
 当日の成田の温度は8℃であった。ところでインドの温度である。主目的であるダージリンは、緯度は台湾と同じというから暖かいと思った。しかし、標高2000bの高さにある町である。そこで、防寒着のオーバーを着て行くことにしたのだ。これは旅行用カバンに入らず、機内に持っていったが、かさばってならなかった。
 ところで飛行機である。成田からはデリー(インドの首都)までの直行便が出ていた。時間は10時間で、時差は3時間半である。10時間は、昨年の南米の旅に比べたら楽チンであった。あまり苦にも感ぜずにデリーに着いたのだ。そのデリーである。夕方6時だというのに、真っ暗であった。飛行機で空港に降りるまでは、雲の上は晴れ渡っていたのに、雲の下は真っ暗だったのには驚いた。空港で出迎えに来たAガイドに聞くと、12月から1月のデリーは農務の季節なのだそうだ。

(物騒なホテルの周辺)
 Aガイドが出迎えていたのが私とH氏だけではなかった。2人組の女性と、1人旅の女性の計5人が揃ったところでホテルに出発。案内されたホテルの部屋にビックリである。パックパッカーが泊るのはこんな処か、と思うような狭さと汚さであった。風呂に入るどころか、シャワーがあるだけ。そのシャワーも、お湯が出なかったのである。
 夕食も出なかった。ホテルでミネラルウォーターを買おうと思ったら、「ない」という。チップ用に高額ルピーを「10ルピーに交換してくれ」と頼んでも「ない」と断られてしまった。お手上げである。そこで「水と食べ物」を確保すべく夜の外に出たが、薄暗い所に雲霞のごとく大勢の人間がそこら中にタムロしているではないか。とても危険な感じである。後でBガイドから、カルカッタからデリーに戻る際の注意事項として「デリーの夜は危険だから6時以降は外に出ないこと」と言われた。Aガイドは、一言もそんな注意をしなかったし、私達が出て行くのを黙って見ていただけであった。
 ホテルを出て、道の大きな十字路まで行った。傍に焼肉屋(立ち食いの)があって、大勢の人が立ち食いしているのを見た。しかし、水を売っているような商店はないのである。「これ以上行くのは危険」と感じて、ホテルに引き返した。今度は逆の道を進んでみた。すると、なにやらお菓子と水を売っている1坪程の商店があった。そこで、何とか水と落花生を買えたのである。お釣りで、小銭が手に入った。水の値段は、15ルピー(25.5円)であった。これまでの海外旅行で1番安かった。これで、インドの物価が驚くほど安い(ただし、空港やホテルは別)ことが解った。
 ということで、今晩の食糧は落花生だけであった。持参したインスタント食品でも食べようと、これも持参した湯沸かし器に水を入れたが、いつまで経っても沸騰しない。とうとう、湯沸かし器が壊れていると判断して、諦めて眠りに就いたのであった。
あたふたインド訪問記1(2012年1月7日〜14日)
 はじめに

(デリー空港)
 インドのことで、前から不思議に思っていたことがあった。「インド・ヨーロッパ語族」という言葉である。調べてみるとそれは、インドのサンスクリット語とギリシャ語やラレン語が言語類似性を持っていることが解った(18世紀)ので、使われ出したらしい。そして、その言語の各民族の共通の人種的・民族的な祖先であるのが「アーリア(高貴な)人」という訳(アーリアン学説)である。
 アーリア人というと、ナチスが自民族の権威付に用意いてユダヤ人弾圧を行ったことを思い出す。ドイツ人が、最も純粋なアーリア人の血を引く民族であるというやつである。イギリスの場合は、インドの植民地支配にこの「アーリアン学説」を使った。インドの支配階級であるヒンドゥー教徒とイギリス人は同じ民族であると主張し、自己の支配を正当化しようとしたのである。
 しかし、今日このアーリアン学説 は否定されている。現在の「アーリア人」は、インドに移住してきたインド・アーリア人と、イランに移住してきたイラン・アーリア人及びそれらの祖先のみを指すようになった。
 インド・アーリア人は、インド北西部で発生(紀元前90世紀頃)し、広く欧州東部まで拡散した汎アーリア人の直系子孫のことである。インド・イラン語派の言語を用い、牧畜によって生計を立てていた。インド・アーリア人は、馬曳戦車を駆使し青銅製の武器を使い、鎧を身にまとって戦闘に強かったのである。こうして、ガンジス川上流域を制覇して行くこととなる。
 彼らが持ち込んだ宗教は、当初、イランのマズダー教(世界は、善悪の2つの神のグループの戦いととらえる)であった。やがて、マズダー教からバラモン教という身分制度の厳しい宗教を創り出すのである。バラモン教の影響で生まれたのが、前5世紀に成立した仏教である。仏教は、バラモン教のブラフミン(カーストの頂点に位置する司祭階級)の特殊性を否定したことによって勢力をのばした。前4世紀には、バラモン教を発展・継承するヒンドゥー教が創られることとなる。という訳であった。

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