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MINさんの「あたふた南米の旅」
あたふた南米の旅23(最終回)
 
市内観光が終わって、早めに空港に向かう。チェックインするまでの手続きが煩雑で、何が起こるか分からないからである。手続きの開始と同時に、マリアさんは「ここからはガイドも口出し出来ないから」と見守ってくれていたが、係員が何やらスペイン語で質問しだしたのである。「分からない」と日本語で言うと、全ての荷物を取りあげられ裏側までひっくり返して調べ始めたではないか。「オォーー」と見ていると、それは私だけではなかった。スペイン語を解しない人全員が、同じ目にあっていた。
 こうして、バックの中の下着まで念入りに調べ上げていったのである。アメリカ(中継地のヒーストン空港)に行くのにはここまでやるのだ、というみせしめみたいな徹底ぶりであったが、検査はこれで終了。ここで、マリアさんとはお別れである。
 8時間近くの空旅の後、ヒューストンに着いた。1月12日の6時20分、まだ早朝であったためかあの忌まわしい税関での指紋と写真の撮影はスムーズに運んだ。来た時みたいに、2時間も待つことはなくホッとしたのであった。成田行きの発着は10時55分、4時間強を再びヒューストンで待機した。これでも、来た時の半分の待ち時間ですんだ。

(アルゼンチン空港で眠る筆者)
 ヒューストンから成田までは日付変更線を跨ぐことになるから、ここからは一気に時間が進むことになる。成田着は1月13日の15時45分。なんとか、事故もなく帰国を果たすことが出来た。これも、ご一緒してくれたKさんHさんのおかげである。機内にいる間中、私はほとんど眠っていてその間の記憶が定かではない。「眠ってばかりで、何のために旅行したんだろう」と、首を傾げながら自宅へと帰ったのでありました。(終わり)

あたふた南米の旅22
 
大統領府の近くの大聖堂に向かう。大聖堂の前には、家族連れと思われる浮浪者たちが昼日中だというのに寝ていた。10人以上いて、目立つのであった。マリアさんによると、彼らはアルゼンチンの周辺国から来て浮浪者となった人々なのだそうだ。大聖堂はネオ・クラシック様式で、1827年に完成。教会内は広くて厳粛な空気が漂い、ステンドグラスがとても目を引く処であった。
 車に乗って次に向かったのは、レコレータ墓地という公営墓地。公営といいながら、大物政治家や富裕層や有名人が集まる最高級墓地である。墓地に入って驚いた。墓地だから墓石でもあるのだろうと思っていたら、なんと石造りの豪華な家をミニチア化したのが1つの墓石(納骨堂)なのであった。墓地だと知らずに入ったら、石造りの家が並んでいるとしか思えない処であった。
 その家々には、生前の彫像まで飾られている。ここには6400の納骨堂があり、その内70の墓は国の文化財指定を受けているのであった。エビータの墓も、ここにあった。さすが有名人、エビータの墓の前には人だかりができていたのであった。
 次に向かったのは、有名なポカ地区のカミニート。ここはアルゼンチン最初の港があった所で、ヨーロッパからの移民が最初に足を踏み入れる土地であった。この労働者や船乗りがたむろする薄暗いバーから、官能的なタンゴが生まれた。つまり、アルゼンチンタンゴ発祥の地である。
 カミニートに入って最初に目についたのは、色とりどりのペンキで塗られた家々だった。これは貧しかった移民たちが、船で余ったペンキをもらい建物に塗ったのだ。余ったペンキを次々に塗ったものだから、とてもカラフルな色づかいとなった。今ではこのカラフルさが名物となり、観光化したのである。マリアさんに最初に見せられたのは、壁に貼ってあるアズレージの拳銃の弾痕であった。ここで銃撃戦があったとのこと。それも、最近の事なのだそうである。
 カミニートは、表面は観光地化して賑わっていたが、とても治安が悪い処としても有名であった。最近、日本人女性が1人で来て白昼堂々とバックを奪われた。抵抗したため大怪我をしたが、周りの人は知らん振りをするのだ。私たちは、緊張して街の中に足を踏み入れたのだった。


アルゼンチンの国花、海紅豆(かいこうず)
 マリアさんに案内された土産物屋で、「マテ茶を飲む道具」を買った。それに家族の土産も買った。これで、私のアルゼンチンでの目的の1つが果たせた。土産物屋の前の通りは、レストランが並んでいた。店の前に張り出したテーブルでは、タンゴを踊っている男女がいた。各店で、客にタンゴを観せながら食事を摂らせているのだ。
 私たちがこのレストラン通りを抜けようとすると、大柄なボーイらしき男が「コンニチハ」と言いながら握手を求めてきた。いかにも「オォ、獲物がきた」というそぶりで、怪しげである。手を握られたら、自由を奪われかねない。それに、拒否しても執拗に握手を求めてくる。無視してレストラン通りを抜けると、それ以上追いかけてこなかった。
 ところがこのボーイらしき人物、帰りにレストラン通りを抜けようとした時は、もっと執拗に私たちを追いかけまわした。それも、仲間に目配せして3人がかりで追い回し始めたのだ。どこまで本気で、どこまでからかっているだけなのかは判断できないが、行き過ぎである。一歩間違えれば、強盗まがいの行為をしでかしてもおかしくないのである。
 ともかく私たちは、彼らを振り切って最初の土産屋に駆け込んだ。ここなら、ガイドが紹介してくれた客の難儀を見過ごしにはしないだろうと思われたからだ。彼らも、ここまでは追いかけて来なかったのであった。


あたふた南米の旅21
 
大統領宮殿の方に行くと、バリケードが主要道路に直ぐ掛けられるように置いてあり、機動隊員が待機していた。道路と道路の間にある公園はバリケードで分断され、通れないようになっていた。「これはどういう訳か」とマリアさんに尋ねると、この通りは「毎日のようにデモがある」との事。今は夏休みで、たまたまデモがないだけだったのだ。だからこの通りは、その都度閉鎖されて渋滞になるのだそうである。
 アルゼンチンは第2次世界大戦後、ペロンによる軍事クーデターで第1次ペロン政権(1946〜55年)が実現した。ペロンの支持団体は、労働組合であった。ペロンは、戦前から労働組合の育成と拡大をおこない全国組織をつくり上げた。労働者の待遇改善を行って、政権の支持母体としてきたのだ。しかしそれは、様々な弊害も生んだ。何か不満があれば、労働組合はすぐストライキを打ったのだ。
 特に、それが著しかったのが教員組合であった。先生がストに出掛けてばかりで、学校教育が成り立たないほどであった。アルゼンチンでは、大学まで授業料が無料なのに中途退学者は後を絶たず、充分な学力を付けるに至らないままに学校を辞めていくと云うのである。
 そのペロン政権も、政権末期には独裁化し恐怖政治を敷くに至った。もともとエリート将校であったペロンは、戦前にイタリアに行き、ムッソリーニに共鳴してアルゼンチンに帰ってきた人物でもあったのだ。ペロンは、軍部に追放された。ヨーロッパに亡命したのである。

(カフェのメニュー)
 ペロンが復権したのは、18年後の1973年だった。第2次ペロン政権の樹立である。再び、労働組合や零細企業寄りの政策が実施されるが、1974年7月にペロンは突然死亡した。79歳であった。後を継いだのは、大統領夫人兼副大統領であったイザベル・ペロンであった。彼女が大統領に就任したのである。
 1976年3月、ビデラ陸軍司令長官がイザベル・ペロン大統領をクーデターで倒した。翌日から左翼狩りが始まった。「マルクスの本を持っていた」「ペロン派だ」というだけで、白昼堂々と保安隊や秘密結社によって拉致され、それっきり帰ってこなかった。
1979年までに蒸発した者は3万人をも数え、今でも行方不明のままである。家族は、30年以上経った今でも、この時の行方不明者を捜している。日本に帰国した直後に、この時代の処刑者リストの一部が発見されたことがテレビ報道され、知ることができた。
 アルゼンチンでは、軍政と民政とがコロコロと替わった。その間の失政に対しては誰も責任をとらないという無責任体制であった。民政の時代にはテロが横行(貧困層を救うと称して)し、軍政ではテロ撲滅を行う。軍政は、いわゆる将軍の「族長支配」がはびこり、戒厳令下で全ての民主主義は否定され、議会もなく、裁判もなく人が殺されていたのだ。
 その軍政も1982年のマルビナス戦争で崩壊し、今日に至っているのであった

あたふた南米の旅20
 
昼前にマリアさんがホテルに迎えに来た。これから昼食を摂って市内観光。その後、空港に直行して帰路についてしまうのである。慌しいアルゼンチンの滞在で、余裕がないのであった。昼食は「牛肉の炭火焼」で、300cのステーキがドンと出てきた。もっとも、これは普段は500cなのだそうだ。日本人は、500c食べる人がいないので、日本人用に減らしたのだった。
 牛肉はアルゼンチンの主食である。パンパという大平原で、牛は勝手に育ってくれる。自然の中で育てるから、アルゼンチンの牛肉は赤味が多くて脂身が少ない。少し硬いが、これが自然な味わいで美味しかった。牛肉はヨーロッパへの主な輸出品になっているが、日本には輸出されていない。それは、口蹄疫などの検査(日本が指定する)をしないからである。
 アルゼンチンでは、牛肉とワインは安価である。それは、庶民の主食であり主な飲み物だからだ。ワインには、酒税がかけられていないのだ。だからアルゼンチンは、2001年に経済破綻したとはいえ、日本人からみれば牛肉を一杯食べ、毎日ワインを飲んでいて、結構優雅に暮らしているように見えるのだった。
 300cの肉を、それでも100cも残してしまった。昼からワインも飲まなかった。これにはマリアさんも吃驚。ほとんどの日本人は、食事のたびにワインやビールを飲むからだ。その日本人の行動も分からなくなない。なぜなら、レストランでは水もワインもビールも同じ値段だからである。それなら、水を注文するよりビールを飲もう、ということになる。日本人にとっては、「水はタダ」という感覚だからである。
 市内観光に車で出ると、大統領宮殿の前の公園に立て籠もっている人々がいた。横断幕に何やら書いてあったので、マリアさんに聞いた。これは、マルビナス戦争(イギリスではフォークランド紛争)に従軍した兵士とその家族が、年金などの待遇改善を求めているのだった。

(食べきれなかったステーキ)
 マルビナス戦争は1982年4月2日に始まった。失政に喘いでいた軍事政権が、国民の不満を逸らそうと甘い見通しで英領マルビナス諸島を占拠したのだ。「マルビナスの主権はアルゼンチンにある」という、民族感情に訴え国民の絶大な支持を得た。しかし、英国の反応は機敏だった。ただちに大艦隊を派遣して攻撃してきたのだ。「真冬のマイナス20℃もあるマルビナスに、英国艦隊が来れる訳がない」と思っていたのだから、アルゼンチン軍部の見通しが甘過ぎたのである。
 そして6月14日には、降伏文章にサイン。でも、「敗北した」とは絶対に言わないのである。こうなると、国民の熱狂もすぐ覚めてしまった。国民の熱狂は、始まったサッカー試合に移った。アルゼンチン人には、戦争そのものがサッカーと同じ娯楽であったかのようであった。 しかし、このマルビナス戦争によって軍政の幕が下ろされたのだ。軍事政権はこの戦争で大打撃を受け、以後、軍政はアルゼンチンから影をひそめた、という訳である。


あたふた南米の旅19
 
タンゴショーが終わったのは零時近く。アルゼンチンでは、夜中の2時、3時は当たり前。つい先日の「孫の1歳の誕生会」が終わったのも2時だった、とMi氏は言っていた。ともかく、アルゼンチンでの付き合いは「体力勝負」なのだそうである。ホテルに帰って恒例の宴会を始めたが、さすがにタンゴショーでワインを空けていたのでビールで軽く乾杯。早々にベットに潜り込んだのでありました。
 翌日の午前中は「自由行動」。Mi氏から預かったブエノス市内の地図を頼りに、まずコロン劇場に向かった。コロン劇場は、ホテルから10分位の処にあった。コロン劇場は1908年に開館され、20世紀の最も有名な指揮者、歌手、バレリーナが活躍した処である。長い間、全体のリニューアル計画のため閉館となっていたが、最近になって改装を終えた。ところが、その途端に組合員のストライキが起こって、未だに開館しないのである。ということで、中には入れないのでコロン劇場の周りをグルリと眺めてきたのであった。
 次に「カフェ トルトーニ」である。地図を頼りに進むが、よく分からなかった。そこで、住所を頼りに人々に尋ねながら目的地に向かった。なかには、とんでもない方向を指し示す人もいたが、通勤時間の忙しいなか概ね親切に教えてくれたのであった。

(カフェの人形)
 20分程で「カフェ トルトーニ」を探し当てた。中に入ると、そこはカフェに関係した道具や資料が沢山ある重厚なつくりの処であった。Mi氏からは、ここの「チュロス」という揚げパンが美味しいと教わっていた。「チュロス」という私達の発音に、ボーイはまったく反応してくれなかった。そこで持ってきてくれたのが、どう見てもただのクロワッサンなのであった。「これ違うよね」とブツブツ言いながら、「これで良し」としたのである。店内には、誰だか分からない実物大の人形3体が置かれていた。どうやら、カフェに関係する歴史的人物のようである。他の観光客が写真に収めていたので、私もシャッターを押してしまったのである。
 朝の喫茶店でコーヒーとクロワッサンを食べ、ホテルの方角に戻ることに。フロリダ通りで「お土産」を買うといい、と教わっていたのだ。途中、道に迷ってホテルを行き過ぎたようなので、目安になるコロン劇場に戻った。コロン劇場からホテルまでは、一直線なのだ。フロリダ通りは、コロン劇場とホテルの間にある。フロリダ通りは、華やかな通りであった。各店が出店準備を終えて開店したところであったが、もう人だかりがしていた。その中をブラブラ覗きながら、各自がお土産を探したのである。

あたふた南米の旅18
 
タンゴショーの送迎のマイクロバスがホテルに到着した。Mi夫婦とは、これでお別れである。バスはあちらこちらのホテルから客を集め、タンゴのライブハウスである店へと向った。今晩のオプションは、食事とワインが付く。これで値段は、リオのカーニバルショーより安いのである。カーニバルショーが大舞台なら、タンゴショーは小舞台という感じである。薄暗い室内のテーブルに就くと、壁に掲げてある写真が目に付いた。何人かの写真の中で、私にも判る人物が2人いた。ゲバラとエビータであった。
 ワインとステーキが出てきた。ワインも肉も美味しかった、とても満足である。ショーは、最初にフォルクローレの曲でも有名な「コンドルが飛んでいく」の演奏から始まった。この曲を聴いただけでも身震いがした。やがて、次々と男女の踊り手が現れ、何かのストーリーを語るかのようにダンスが踊られてゆく。アルゼンチンタンゴの最大の特徴が、その足捌きにあることが見て取れた。おそろしく速い足捌きである。それによって、男女の出会いから別れまでが表現されているのであった。見事の一言に尽きる。 やがて舞台は演劇のようになっていった。エビータの最後の演説の場面だ。歌が唄わ
れたあと、エビータの実際に行った演説の一部がテープで流され、人々の歓声までが聞き取れた。言葉は分からなかったが、何故か感動してしまったのである。
 エビータといえば、マドンナがエビータ役の映画製作が問題になったことがある。「マドンナはエビータを貶めている」という抗議の声が、アルゼンチン中であがったのだ。しかしマドンナは、アルゼンチンの指導者層を説得して、この映画を完成させたのである。
 ところでエビータである。エビータとは、1946年〜55年の第1次ペロン政権の大統領夫人である。当初は、ペロンの愛人であった人物だ。ペロンが大統領に就任した際、エビータは「エヴァ・ペロン財団」という新しい社会活動団体を設立した。財団の長であるエビータは、資産家や企業から強制的に寄付を集めた。アルゼンチンの全企業から、従業員に応じて「給与の2日分」を徴収する法律まで作ったのだ。

(ワイナリーの膨大なワイン)
 そのため財団は、国家予算をはるかに超える資金を運営するまでになった。エビータはその資金を、貧困者や労働者階級への福祉サービスに次々と注ぎ込んだのである。だからエビータは、保守勢力からは「強引な福祉活動」として軽蔑されたが、労働者階級からは「神様、仏様」と崇められたのである。
 しかしそのエビータは、1952年にガンで亡くなった。33歳であった。亡くなる直前のメーデーの大集会で、遺言とペロンに対する忠誠心を訴えて、大統領府のバルコニーから最後の演説を行っている。同年7月、息を引き取った際には、労働総同盟の本部で告別式が行われ、何十万人という市民が涙しながら慰問に訪れたのである。


あたふた南米の旅17
 
Mi夫妻は、孫が保育園に入る2月には日本に帰る。この半年間、彼氏は英語の無料教室(夜間に学校の教室で、外国人のために開催)に、彼女はアルゼンチン語(スペイン語)の教室に通っていた。彼は、教室だけでは足らずに個人レッスンまで受けた。若くて、美人の先生だったそうだ。その費用は、1回千円に満たない額なのであった。Hさんが、学校で「英語を勉強している」と知って、「アルゼンチンに来るといい」「無料で教えてくれるんだよ」と言うのであった。
 彼女の方は、アルゼンチン語の教室をさぼってフォルクローレの教室や手芸教室に通ったようだ。フォルクローレといっても、民謡ではなく民族舞踊なのだそうである。教室に入った途端に発表会に参加させられて、とてもスリリングな体験もしてきたようだ。彼女のブログで紹介されていたのだ。日本にいながら、このブログでアルゼンチンの様子を知ることが出来たのである。

(ブエノスアイレスで一番有名なカフェで)
 ブログの紹介の中で、1番多かったのはブエノスの街並みのことであった。ブエノスは、何もなかった大草原に手を加えて築かれたヨーロッパ移民の街である。彼らはこの地に、ヨーロッパを造り上げようとしたのだ。こうしてブエノスは、「南米のパリ」と称される大都市となり繁栄を謳歌してきた。その為、ブエノスにはヨーロッパ風の街並みが残されている。街を歩いていても、100年前の建造物が多く残されている。ヨーロッパに憧れたアルゼンチン人の想いが偲ばれるのであった。Mi夫妻には、もっとも有名なコロン劇場や洒落た喫茶店「カフェ トルトーニ」へぜひ行くように勧められた。
 さてアルゼンチンである。国土は日本の7.5倍。人口4013万人である。ブエノスアイレス州の北方には、日本列島がスッポル入ってしまう広大な「パンパ」という大平原がある。500年前に植民に入った西欧人は、広大な荒れ地とそこでの自然の猛威に手を焼いて、一度は植民を諦めてしまった。ところが、このパンパに捨てていった馬が野生化して、何万頭も育っていたのである。牛も又、この平野で野生化して育っていった。パンパに住んでいたインディオは、この野生馬を乗りこなすようになり、広大な平原を行き来できるようになった。
 さらに牛は、まだ冷凍技術がなかったので皮だけ剥がし(生肉は捨てられた)ヨーロッパへの輸出品となった。冷凍技術が導入されて以降は、アルゼンチンは世界的な牧畜業の国となったのであった。
 このパンパに、草原の自然児ガウチョが誕生した。ガウチョとは、スペイン人の父とインディオの母との間に生まれた混血児である。父親から、スペイン人の持つ誇り高さと独立の精神を受け継いだ。母親から、自然を友として生きる民族の知恵と技と頑強な肉体を受け継いでいた。
 ガウチョは、アルゼンチンの歴史の上で大きな役割を果たした。アルゼンチンが独立に至る戦争で、ガウチョの果たした役割は計り知れないものであった。さらに「荒野の征服」(インディオにとっては侵略)において、インディオと争ったガウチョは国民の称賛を浴びることとなった。その70年間が、ガウチョの黄金時代であったのだ。
 しかし、皮肉にも「荒野の征服」が終わると、もうガウチョの居場所はパンパにはなくなっていた。パンパは有刺鉄線で囲まれてしまったのだ。ガウチョは浮浪者となってしまった。日本の、明治10〜20年頃のことである。

あたふた南米の旅16

 ブエノスアイレス空港に着いた。出迎えてくれたのは、マリアさん。日系4世で、曾祖父は鹿児島からやって来た。4世にしては日本語が流暢。日本にも、何度か行っているそうである。顔つきには、ヨーロッパ系が少し入っている様子。とても淑やかな感じの美人で、旦那は「医者をしている」との事。「家では家政婦を雇っていて、ガイドは趣味でしている」という雰囲気なのであった。もっともアルゼンチンのインフレは激しく、庶民の生活はそんなに楽ではない。

(アルゼンチンの朝食)
 2001年には国家的な経済破綻を引き起こした。長年の失政と無責任体制の結果である。日本をふくめたヨーロッパの債権国は大迷惑を被ったが、一言の詫びもない。知らんぷりして、債権をチャラにしてしまったのだ。しかし、そこに済んでいる国民にとっては大変なことであった。インフレ率は02年に30%になった。その後、10%前後に落ち着いてきたが不安定なのであった。マリアさんも「どうしてこんな国に住んでいるのか」と嘆いたが、それでも「アルゼンチンが好き」と言うのである。
 そうこうしている内にホテルに着いた。大都市のど真ん中で、人々の往来が激しい処であった。「スーパーが近くにないか」尋ねると、ホテルの前にあった。中国人経営のスーパーだ。シャッターが半分閉じられていても営業していて、ドルの支払いもOK。近年、中国人が急速にアルゼンチンに進出してきて、このスーパーの経営者も各地で店を広げている遣り手なのだそうである。
 ホテルに入った。都市型の立派なホテルである。早々に、アルゼンチンに来ている友人夫婦に電話をかけた。Mi夫妻とは、40年来の友人である。次男が、アルゼンチンの女性と結婚して初孫が生まれた。彼らは、その初孫が保育園に入るまで面倒を見るために半年以上前からアルゼンチンに来ていた。勿論、孫に会いたかったのだ。そのため夫の方は、経営していた「貸本漫画店」を畳んでしまった。もう、客足も途絶えていたからだ。ちなみに、アルゼンチンでは日本のマンガは人気が高いのである。
 電話をすると、「40分でホテルに行く」と。新鮮なメロンを、それも一口で食べられるようにして持ってきてくれた。時間があったら、ブエロスの町を案内してもらい、お酒でも一緒にしたかったが、残念ながらその余裕がなかった。今晩は「タンゴショー」のオプションが組まれていたし、明日は市内観光のあと空港に直行して帰国の途につかなければならなかった。1年ぶりの再会であったが、まさかアルゼンチンで再会するとは1年前には思ってもいないことであった。



あたふた南米の旅15
 
「悪魔ののどぶえ」を見学して、再び遊歩道橋を渡ってトロッコ列車駅に戻った。トロッコが来るまで駅前のベンチで休んでいると、見たこともない鳥が枝に留まっている。それも、色鮮やかな鳥がアチコトにいた。やがて、列車でもと来た処に戻った。そこからゲートまで歩いていると、アナグマの一種だというハナグマやイグアナみたいなトカゲなどが、人を恐れる様子もなく道路沿いに姿を現すではないか。さすが、国立公園である。
 昼食は、イグアスの国内線の空港のレストランで摂った。スペイン語のメニューを見るけど、サッパリ分からない。分からないけど、パスタを頼む。すると、「ソースはどれにするか」ときた。パスタとソースは、別々に書かれていたのだ。ソースは「トマト」を頼んだ。それで、やっと「トマト味のパスタ」を食することが出来た。やれやれ、言葉が通じないと食事をするのも一仕事である。パスタは旨かった。

(空港で食べたトマト味のパスタ)
 ここからは、アルゼンチンの国内線でブエノスアイレスまで行く。レストランで待ち時間まで粘ろうと思ったが、昼時で混んできた。そうそう長居をする訳にもいかない。そこで、搭乗受付前で待つことに。そうやって待っているうちに、入場時刻になった。ところが、一向に受付を開始する様子がない。「入場時刻が過ぎているけど」とチケットを示して聞こうと、スペイン語が分からない私が日本語で受付嬢に話しかけた途端、「ペラペラ〜〜」ともの凄い勢いで捲し立てられた。私がかざしたチケットなど見向きもしないのだ。そのあまりの迫力に気をのまれ てスゴスゴと退散してしまったのである。
 暫くして、私と交代してKさんが英語で問い合わせにいった。すると、飛行機は「40分程遅れている」ということであった。彼女は、私がチケットを持って来た時点から、ハナから何が聞きたいか判っていたのだ。しかし、アルゼンチンの国内線は4〜5時間遅れることなどあたりまえで、「40分遅れ」など遅れたうちにも入らないものだったこと。アルゼンチンでは、遅れた理由も説明しないし謝りもしないことは、後になって知ったのであった。

あたふた南米の旅14
 
今日は、アルゼンチン国境のゲートを朝1番でくぐるため、ガイドは7時半に迎えにくる。6時半にレストランで朝食を摂る。チェックアウトをすると、私とKさんはそれぞれ25jを払いこととなった。昨夜の夕食代とビール代である。そこに、Hさんが明細書を覗きながら不審顔をしている。請求された全額を払ったのだが、額が多いのだ。なんと、Hさんが払ったのは75jであった。私の3倍である。私達が「何だ、おかしいな」と騒いでいるのを見ていたフロントの女性が、どうやらHさんの分だけ3分の1にするのを忘れたことに気付いたようである。ということで、Hさんは50jを返金してもらった。なんとも、初歩的なミスをするものである。それに、間違いなどなかったが如く彼女らは平然としているのであった。
 私達を乗せた車は、アルゼンチンへと向かう。国境ゲートでは、3人のパスポートを預かったガイドが通関手続きに行った。ゲートでは、アルゼンチンからブラジルに渡る人々が列をなしていた。そこには、銃を構えた女性兵士が立っていた。私達の通関手続きはスムーズに終わったが、列に並んでいる人々の手続きは遅々としてすすめ様子がない。個人で国境を越えるには、厳しい検査があることが窺えるのであった。
 ゲートをくぐると、そこはプエルト・イグアスという町である。昔は栄えた町だそうだが、今は閑散としている。道路には信号がない。設置しても、交通量も少なく誰も守らないからである。その代り、信号機の手前に段差をつくって車がスピードを出して走れないような工夫がしてある。これは、東大構内にもある仕掛けで馴染みがある細工であった。
 プエルト・イグアスから30分程で、イグアスの滝の入口に着いた。今回は、滝の上に張り巡らされた遊歩道から、「悪魔の喉笛」を眼下に眺めることとなるのだ。遊歩道は、滝の下まで張り巡らされているようであるが、全部歩くと4時間もかかってしまうので、上しか案内されないのであった。ということで、入口からトロッコ列車でイグアスの滝を上から観るポイントへと向かう。

(満員のトロッコ列車) 
トロッコは満員で、日本人客の姿も見える。首にタオルをまいている若い女性がいたので、日本人だとすぐ判った。若い女性のタオル姿は、やはりカッコよくはない。しかし、この蒸し暑さの中ではタオルは最善のアイテムなのであった。
 列車を降りて、遊歩道を歩く。遊歩道といっても、滝の上に架かっているから「遊歩道橋」である。途中、打ち捨てられた橋桁の残骸が見えた。これは、前の洪水で押し流された遊歩道橋である。私達が歩いているのは、新たに造り替えたものだったのだ。
 駅から「悪魔の喉笛」までは、1.5qであった。メインポイントである「悪魔の喉笛」には、観光カメラ屋が待機していた。ここには、いくつかの滝の流れが集中して、滝の下り落ちる豪快な様が見えるのだ。ここでもガイドは「観光写真を撮りませんか」と、カメラ屋のために勧誘する。「写真は自分で撮るからいい」と断る。このガイド、最後まで私達に金を出させようとする。断ると、すぐ白けた顔をするのである。
 遊歩道橋の床は、丈夫な金網で出来ていた。そのため、下が覗けるのである。さすがに空中高くには架かっていなかったので、高所恐怖症の私でも安心であった。ところが、この金網にHさんの靴底がひっかかり、剥がれてしまったのでありました。


あたふた南米の旅13

 ブラジル側の滝見学の最後は、エレベーターで滝の下から地上に昇って終わり。今度は、今晩泊まるホテルへと向かう。スーパーでもあれば寄って行きたいと思っていたが、イグアスの周辺は国立公園で店がない。随分走ってホテルに到着。木造平屋の2階建てで、とても風情のある佇まい。部屋に入って、まず設備をチェック。ここのクーラーは静かでよく効いていて合格。リオのホテルとは、比べものにならなかった。その上、湯船付きのバスルームがあった。この日は、4日ぶり(実質5日)に風呂に入れたのである。
 
(イグアスのホテル)
このホテルにもプールがあるということで、Hさんに断りにいく。その際、Hさんの部屋にはバスタブがないと。プールに行っている間に入って貰おうと、鍵をHさんに手渡す。さてプールである。プールは室内ではなく、室外にあった。それもかなり広く、すでに多くの人が集まっていた。ここでも、ごく普通のこととして水に浸かるか日光浴をする人がほとんどである。でも子供は違った。日本と同じで、泳いでいたのである。
ところがこのプール、深さが2.6bもあった。入ってみて吃驚である。それなのに、監視員など配置されていない。まあ、「自己責任で泳げ」ということである。さすがに、小さな子供には親がついていた。そこを私たちは、せっせと泳ぐ。なかに青年3人と、大人が少し泳いでいるのを見かけた。青年はともかく、大人が泳いでいるのを見るのは海外では珍しいことであった。
 プールをあがって部屋に戻った。Hさんは、とっくにバスタブを使って満足そうであった。思い切り泳いで疲れも出て、気持ちよく一眠りしたら夕食の時間であった。3人でビールを頼んで乾杯。レストランで酒を飲むのは珍しいことであったが、近所にスーパーもないことから仕方がなかったのでありました。

あたふた南米の旅12

 
イグアスの空港に着いたのは昼過ぎ。飛行機を降りたとたん、ムッとした熱気に驚いた。36℃を超え40℃近くに感じる。その上、湿気が高いのである。ジッとしていても汗が滴り落ちる。これは、どうしたことだろう。イグアスはリオより南である。南半球だから、南に行けば温度が低くなるのではないのか?。という疑問を余所に、暑さが襲ってくる。そこで私は、タオルを首に巻くことにした。日本人スタイルであまりカッコ良くないが、そんなことは云ってられない。
 空港に着くと、男性ガイドが待っていた。年の頃は30代後半か。少しメタボの丸々とした人であった。彼は、自分のことを「ナベヤマ」と紹介しただけであった。車に乗ると早々に、ガイドは「お疲れ様」の一言もなく、「昼食はどうしますか」「ヘリコプターツアーに行きませんか、100jです」「ボートツアーはいかがですか、100jです」と、矢継ぎ早に勧める。まるでガイドではなく、商売人のようであった。


(イグアスの滝の前の筆者)
 「昼食は機内食を食べたのでいい」「ヘリは、飛行機で上空からイグアスの滝を見たからいい」「滝の下で水に濡れても困るので、ボートはいい」と断ると、「何だ、詰まんネー」といった感じでガイドは黙ってしまった。とくにボートツアーは、濡れるばかりではなく空港から直行したので全財産を身につけたままなので、落ち着かないことこのうえない。このガイドは、安全の注意を一言も言わない。確か南米は、どこでも危険ではなかったのか。出歩く時は、カードと小銭以外は持たないようにするのではなかったのか。と、疑問に思ってしまった。
 さてイグアスの滝である。全長が約4q、落差80b。大小約300の滝が段を成して連なっているものだ。落差だけみるとそれ程のものでもないが、それが4qも様々に連なっている処が圧巻なのだ。イグアスの滝は、ブラジルとアルゼンチンとの国境線にもなっている。ブラジル側から見えるのは、アルゼンチン側の滝で全体の3分の2である。それを、下から仰ぎ見ることになる。従って、アルゼンチン側から見る場合はブラジルの滝ということになるが、それを上から見下ろす形になるのであった。同じ処を、違った角度から見るのである。
 イグアスの滝は、古くから先住民の聖地であった。西洋人が発見したのが16世紀。1986年に世界遺産に登録された。イグアスの滝一帯はブラジル側17万f、アルゼンチン側22万5000fが国立公園になっている。ここは、貴重な動植物の宝庫でもあるのだ。

(滝の前の観光客)
 さてブラジル側から、イグアスの滝の下の方から観光コースに従って進む。約4キロを歩くのだが、すでに観光客でごった返していた。やがて、膨大な水しぶきと白煙をあげる世界最大の大瀑布が出現。オー! と思わず歓声をあげる。最大の見所である「悪魔ののどぶえ」の下では、水しぶきを浴びながら見学。この日のため、わざわざカッパの上着まで持参してきたのだ。暑い中、万全な装備でカメラを守りながら進む。もう、汗と水しぶきでビショ濡れである。とくにこの地は、亜熱帯性の密林の中にあるのだから、尚更なのであった。


あたふた南米の旅11
 
リオとは今朝でお別れである。早朝から、空路でイグアスに向かう。今朝は、キチンとホテルのレストランで朝食を摂ることが出来た。エレベーターは、いまだに1台しか動かない。レストランに着いたが、職員は知らん顔。まだ時間前なのだ。その内、レストランのマスターが裸足でエレベーターから現われた。別室で、靴下と靴を履いて登場。ルームナンバーを聞かれて、扉が開けられた。時間前に開店する気は微塵もないようである。

(リオのホテルのチェックアウト)
 朝食を終え荷物を持ってフロントに行くと、すでに西山さんが待っていた。車はまだ到着していない。外に出てみると、公園の方が騒がしい。野菜などの荷物を持って、公園に向かう人がいる。日曜朝市が出ていたのだ。早速Kさんは写真を撮りに飛び出していった。1人で大丈夫かと思っていたが、揚々ととして戻って来た。
 車は一路空港に向かう。今回は国内線で、クリチバ経由のイグアス行きだ。西山さんから、「途中クリチバで乗り換えがあるが、そのまま乗っていて下さい」と念をおされる。降りたらアウトである。さて、リオの空港でパスポートを出して手続きをすると、「リオ→イグアス間」の料金が振り込まれていない、と言う。通常、海外旅行の航空券は「Eチケット」と云って、パスポートに全ての情報が取り込まれている。だから、パスポートをかざすだけでチケットを手渡してくれるのだ。しかし、主要航空会社(今回はコンティネンタル航空)からの振込みがされていないという。

(リオの朝市準備風景)
 西山さんから、「Eチケットの控を出して」と言われる。控には、「リオ→イグアス行き」の記載がされている。係員の男性が席を外して確認に行った。西山さんは、こんな場合に女性係員だと融通が気かず「交渉の余地がない」場合がある、「男性でよかった」と胸を撫で下ろしていた。10分程で係員が戻って来た。「OK」だと言う。こうして、無事に国内線に乗車することができた。これで、西山さんとはお別れである。親身にお世話していただき、感謝々々でありました。


あたふた南米の旅10

 登山電車で麓に戻ると、電車待ちの長蛇の列があった。やれやれ、本当に早く来てよかった。「買い物がしたい」というKさんの希望で、西山さんが案内してくれたのは日本人経営の麓の土産屋だった。50台の女性が経営者だったが、ブラジルの地でなんとも逞しく商売をしているものであった。もっとも見た目はどこかの主婦のような人で、とても商売人には見えない。この地でショップを開くには、もしかして感動のドラマがあったかもしれない。ここでKさん、曲を口ずさんで「この曲のCDありますか」と。すると「ああ、あれね」と、CDを取り出してきたではありませんか。このあたりの機微は、言葉が通じる日本人でなければ伝わらなかったかもしれない。私は、南米に来たら買おうと思っていた「マテ茶」を求めたら、「マテ茶はブラジルでも南部と、アルゼンチンに行かなければ売っていない」との事であった。

(サンバの衣装を着けるHさん)
 次に向かったのは、リオのカーニバルの会場。3月の本選に向け、現在観客席の工事中であった。工事現場の近くに、カーニバルのグッツやDVを販売しているミュージアムがあった。3j出すと、カーニバルの衣裳を着て写真を撮ってくれるという。これにHさんが挑戦したが、なにせ小柄なHさんだから、それに合う衣裳を見つけるのが大変であった。大きい衣裳になると、2.5bを超えるものまである。とても重くて、着れたものではない。
 次に案内されたのは、世界最大級の大きさを誇るサッカースタジアム。ところが、私たち3人はサッカーに興味がない。興味がないなら中に入ってもょうがないと、車は入口で引き返したのであった。
 ということで、早めに昼食を摂ることとなった。もっとも私たちは、朝食は非常食しか食べていないから、本格的な食事は今日初めてとなるのだ。時刻は11時半頃。まだレストランは開いていない。それを、西山さんの顔で開けさせてしまったのである。昼食は、ブラジル名物の肉料理「シュラスコ」である。
 シュラスコとは、一抱えもある肉を串刺しにして炙り、表面の焼けたところを客の前で切り落として出す料理だった。肉の種類は色々で、牛、豚、鶏、羊、それに特大のウィンナーまであった。ボーイが、「もっと食べろ」とばかりに次々と持ってくるが、とても食べきれないので、断るのがやっとであった。日本では、せいぜい一種類の肉を少し食べる程度であった。いくら美味しくてもこんなに肉類の攻勢に出られては、ギブアップであった。食事の後、調理場に案内された。「写真を撮ってもいい」というので、調理人さんと一緒にパチリ。大きな肉を抱えさせられたのでありました。

(シュラスコ料理を切り分ける)
 こうして、本日の市内観光は終わり。後は「車窓観光」で、リオの市街地を車の中から眺めるだけ。印象的なのは、廃墟同然の住宅があちこちにあったこと。どうやら、取り壊す費用を惜しんでそのままにしているようだ。そこに貧困者が移り住んでくる。なかには、レンガで家を手作りしている風景も見れた。こうして彼らには居住権が発生し、そこはスラム街となっていくのだ。
 ホテルには早めに帰った。夕食には、再び量り売りのレストランで食事。今回はスムーズにカードを使えた。私とHさんは署名をして。Kさんは暗証番号を入力して。昨日と同じスーパーに寄って、ワインとビールを買う。今晩も、3人による宴会が始まるのでありました。


あたふた南米の旅9
 
コルコバードの丘に向かっている間に、リオの市街地の全貌が見えてきた。私たちが泊まった南地区のホテル・オセアノコパカバーナの近くに、ビーチリゾートのコパカバーナ海岸とイパネマ海岸がある。イパネマ海岸は、有名なボサノヴァの曲「イパネマの娘」の舞台である。さらに内陸に少し行くと、ロドリコ・デ・フレイタス湖がある。
 この海岸と湖によって、南地区は有名な観光地となっているが、少し高台から眺めるととても風光明媚な所であった。又この湖には、1995年より高さ70bのクリスマスツリーが飾られるようになった。これが世界最大の湖上クリスマスツリーとして、市民だけでなく世界中の観光客をも楽しませているのだ。私たちがこの湖の周りを車で走らせていた時、ツリーの解体作業が始まろうとしていた。西山さんは、もう少し早く来れば綺麗なイリミネーションが見せられたのに、と残念そうであった。

(コルコバードのキリスト像)
 リオがブラジルの首都(現在はブラジリア)であった歴史は古い。18世紀前半にミナスジェライス州で金鉱が発見された時は、リオは金やダイヤの積出港となった。1763年にはブラジル総督府がリオに移され、ブラジルの植民地首府となった。1808年には、ポルトガルがナポレオン軍に襲われたため、ポルトガル宮廷がリオに遷都されたこともある。この時は、リオがポルトガル・ブラジル連合国の首都となったのだ。1822年ブラジルが独立、リオはブラジル帝国の首都となった。
 首都がブラジリアに移されたのは、1960年のことである。リオは現在、サンパウロに次ぐブラジル第2の都市であり、2016年夏季オリンピックの開催地にもなっている。南米でオリンピックが開催されるのは、初めてのことである。
 コルコバートの丘は、リオの南西部に位置する観光スポット。麓の駅から登山電車に乗る。出発が早かったので、楽に乗り込むことが出来た。遅くなると、電車に乗るのに長蛇の列ができるのだ。登山電車を降りてから頂上まで行くには、徒歩だと222段の階段を登らなければならない。私とKさんは歩いて。Hさんと西山さんはエレベーターで行くことになった。西山さんは、「エレベーターが出来た為、体重が増えてしまった」と言いながら、歩こうとはしないのであった。
 標高709bの頂上に、両手を広げた巨大なキリスト像が立っている。両手の幅が28b、高さ30bで、1931年の建立である。表面は厳しい気候と風化に耐えるため、滑石(ソープストーン)で覆われている。日本で云えば、千葉県富津市の東京湾観音(高さ56b)みたいなものだ。丘の頂からは、コパカバーナ海岸等が見渡せるのであった。東京湾観音は、内に入って頭の処から東京湾が見渡せたが、このキリスト像の内には入れなかった。頂上は、瞬く間に観光客で埋め尽くされてしまった。なるほど、リオのシンボルと云われるだけのことはあるのでありました。
 


あたふた南米の旅8
 
朝の6時半になった。エレベーターで、食堂のある階に行こうとした。箱の中に入ると、何とも云えない異変を感じた。壁に結露と思われる水滴が、無数にあるのだ。3人で「何だか変だ」と言い合っていると、食堂階のドアが開いた。足を踏み出そうとすると、そこは水浸しであった。女性職員が、モップで一生懸命水を拭き取って(水を寄せて)いるではないか。彼女は「ノー、ノー」と、私たちが入ってくるのを拒否するのである。仕方がないので、どうなっているのか聞こうとフロント階に降りたが、そこも水浸しであった。とても、足を踏み入れる状況ではない。
 部屋に戻って、ガイドの西山さんの自宅に連絡。「ホテルが水浸し」と言うと、「え! 何のこと」と状況を理解しかねる様子。ともかくホテル側と連絡を取る、とのこと。やがて西山さんから電話があって、4階の客が夜にシャワーの水を出しっぱなしで寝たため、水浸しになったと言う。そのため、朝食はいつ摂れるか分からないのであった。こういう事情なので、市内観光の出発を遅らせようかと言う。私たちは、携帯食を摂るので時間どおり出発しようと、打ち合わせしたのである。
 3人で部屋に集まって携帯食を食べることに。Hさんの「サバイバル」という危惧が的中したのである。海外では何があるか分かったものではない。携帯食を持参して正解であった。今回、私が食したのは「カレー味の炒飯」である。昨日の「山葵茶漬け」の3分と違って6分待たなければならなかったが、やはり旨かった。満足である。

(いよいよコルコバードの登山鉄道に乗る)
 食事中に西山さんから電話があり、「8時には食堂が開けられるが、食べるか」とのこと。「もう食べた」ということで、予定どおり8時出発となった。8時にフロントに行こうと、エレベーターのボタンを押したが、何の表示もしなくなっていた。どうやら、エレベーターが動かなくなったようだ。仕方がないので、階段で下まで行く。照明には問題がないようで、なんとか安全に降りることが出来た。西山さんは律儀に、時間前に待っていてくれていた。どうやら、エレベーターは2台のうち1台は動くようであった。西山さんにとって、ホテルが水浸しになるなど、初めてのことであったようだ。
 さて市内観光であるが、市内に出るにあたっての注意事項は事前にあった。パスポートや時計などの貴重品は持たないこと。カードと小銭をポケットに入れ、ウェスト・ポーチも狙われるからダメだという。リオが危険なのではなく、南米全てが危険(勿論、アルゼンチンも)だと認識してもらいたいと注意される。そい言えば、日本を発つ前のニュースでは、リオのスラム街で警官隊とマフィヤとの衝突事件があり、多数の死傷者が出ていると報道されていた。西山さんは「それは、リオでも山の方で市街地ではない」と説明。それに、「50人の死者」というのはデタラメであると。さらに、「地球の歩き方」等の紹介記事で、安全でない所を気軽に訪ねて興味本位で紹介しているが、「そこは危険だ」とハッキリ言うのであった。昨日も、空港からホテルに向かう車の中で、Kさんが「中央駅から木製の路面電車に乗りたい」という希望に対して、「中央駅はとても危険だから、諦めて欲しい」とハッキリ断られていたのであった。

(登山鉄道の眺め、中央下は競馬場)
 ビ−チについても昼間は比較的に安全だが、朝1人で散歩するのは危険だと言われていた。道を歩くにも、浮浪者がたむろする側(公園の周りに多い)を避けること等々。そういえば、公園には囲いがしてあって夜に鍵がかけられるようになっていた。公園内を、浮浪者の住居にさせないようにしてあるのだろう。リオの浮浪者について、西山さんは面白いことを言った。それは、ビーチ近くの浮浪者は「ブラジルで一番きれいだ」と。昼はコパカバーナ海岸の綺麗な海水で身体を毎日洗い、傍のシャワーを無料で使えるからだそうだ。そんなことを話しながら、自動車は市内随一の観光名所・コルコバードの丘のキリスト像に向かったのである。


MIN
あたふた南米の旅7
 
いよいよサンバカーニバルショウが始まった。その豪華なこと。一言で云えば、全編サンバの踊りと音楽による歌のないオペラ。日本の宝塚歌劇団以上の、ド派手なショーと言ったところ。ショーにはシナリオがあって、最初に先住民が現れ、ポルトガル人に征服される。黒人奴隷が連れてこられ、奴隷の抵抗運動が起こる。奴隷は、カポエィラという武術を編み出し、それで抵抗する。やがて奴隷解放が実現し、人々の間にカーニバルというお祭りが盛んになる、というもの。

(サンバショー3)
 カーニバルは、もともと「謝肉祭」のこと。キリスト教の復活祭を祝うイースター(復活祭)の前40日間、一切の肉類を絶つ苦行が始まるが、その前に思いっきり肉を食べ、目一杯楽しもうというので行われたのだ。
 リオのカーニバルのルーツは、ポルトガル人が持ち込んだキリスト教の儀式と、黒人奴隷たちの儀式が融合したもので、奴隷である黒人が農場主から許された数日間に、自由な宴を楽しんだのだ。奴隷解放後、もともとサンバを楽しむ人々の輪がリオの貧民街で生まれた。それが1935年以降、政府が公式にサンバとカーニバルを援助するように。政府は、多民族国家ブラジルのナショナリズムの形成と高揚を意図して利用したと言われている。一方でカーニバルは、国と州の大々的なバックアップにより貧民を主役に変身させるカーニバルという場で、一時でも平等感を与えることで、日常の反抗を和らげようと意図したのである。
 こうして現在では、その規模、迫力ともに「世界最大の祭典」と称されるまでに発展してきた。2011年のリオのカーニバルは、3月初めの土曜日から火曜日までの4日間に、サンボドロモという会場で行われる。総勢5万人もの参加者たちが、優勝を狙い競い合うのである。その他、パレードは大規模なものになると総勢5000人にもなるのだ。なんとも恐ろしい程の規模の大きさであり、人々の熱狂ぶりが伺える。過去の優勝チームには、このカーニバルに「4億円を投じた」という熱狂ぶりである。

(サンバショー4)
 ところでこの豪華なサンバショー、私は途中の記憶が途切れている。なんと、途中で居眠りをしてしまったのである。私ばかりではない、隣のHさんも首を傾けて眠っていた。元気だったのは、Kさんだけ。さすがに、32時間の移動時間には体力の限界だったのである。
 夜中の零時をとっくに過ぎ、サンバショーは終わった。私など、普段は20:00には布団に入ってしまうのに、ブラジルでは零時など当たり前なのであった。ホテルに帰って宴会を始める。宴会といっても、3人でワインを1本空けるだけ。明日は8:00にフロントに集合し、リオの市内観光である。6:30から朝食が食べられるというので、クーラーの騒音のなか、ベットに潜り込んだのでありました。

MIN
あたふた南米の旅6
 
今夜は、いよいよサンバカーニバルショーのオプションである。このオプション、値段が2万1千円もするのに食事がつかない。今更レストランに行く気にもなれず、持参したインスタント食品を皆で食することになった。海外で現地の食事に飽きた時に、日本食のインスタント食品がすこぶる美味しいことは、昨年のポルトガル旅行で知った。同じグループのツアー客に教わったのだ。その時は、インスタント食品をご馳走になった。そこで、今年はKさんより各自に4食分を持参するよう指示があったのだ。Hさんはこの指示に、「サバイバルをするのか」と恐れおののいたようである。

(先住民族の踊り)
 私はここで「山葵茶漬け」を食した。持参した簡易電気湯沸かし器でお湯を沸かし、待つこと3分。なんとも美味しい味なのでありました。このインスタント物は、千葉のパスポートセンター前の売店で売っていたものだ。どんなものがあるかは、ブラジルビザ取得のため顔写真を撮る時に、この売店で確かめておいた。いわゆる一般のインスタント物とは違って値が張るが(1個250〜350円程)、これまで見たこともない食品が揃っていた。その他、混ぜご飯のお握り、カレー味の炒飯等を買ってきていた。
 3人で腹ごしらえをして、いざカーニバルショーへ。西山さんの迎えで会場に向かう。会場に着く前に西山さんから注意が。会場に入るとサンバダンサーがいるが、「その人たちの写真は撮らないこと」と。それは、その人たちは「写真に撮られる」ことを商売にしているからであった。写真を撮る(専属のカメラマンがいる)と、後で絵皿に焼き付けたり、写真立てに入れて売りつけにくるのである。ただし、ショーが始まったら自由に撮っていい、との事であった。
 いよいよ会場に入場である。21時少し前であったが、会場はガラガラである。少しづつ客が入って来た。21時になっても、一向にショーが始まる様子はない。客が入るのを待っているのである。その会場を、サンバショーの衣裳を着た、2b超の男女のダンサー練り歩いていた。白人と黒人の混血のダンサーである。私などと比べると、それこそ大人と子供である。その圧倒的な姿形に、まず度肝を抜かれる。彼らは、「一緒に写真を撮らないか」と誘ってくる。傍に女性のカメラマンが張り付いていて、OKした客をパチパチと撮っていく。

(ショーの後半ハイライト) 
ショーは一向に始まらない。すると、舞台の中央に小学生高学年と思われる女の子が現れた。サッカーボールを蹴りだしたのである。ただ黙々と、ボールを蹴るだけ。しかし一度も落とさず、頭に載せたり、背中に乗せたり、横になったりしてボールを蹴る。やがて客の間から拍手がわき起こってきた。彼女は、ショーが始まるまでの前座を務めているのだが、なかなかのものである。なかには、チップを少女に渡す客も現れたのであった。


MIN
あたふた南米の旅5

(リオ空港からの眺め)
 食事が終わってホテルに帰る前に、24時間営業のスーパーに寄った。事前に、西山さんに教えてもらっていたのだ。ここで、今晩の宴会用ワインを1本、各自のミネラルウォーターを買う。15時にはまだ時間があったが、ホテルに戻るとチェックインが許された。部屋に入って、設備をチェック。冷房は、大きな騒音をたてるが冷える様子がない。金庫(貴重品入れ)も電話も、使えるようであった。ところが、Hさんの部屋の金庫が故障していた。フロントに連絡すると、「明日直す」というのだ。仕方がないので、Hさんの貴重品は私たちの金庫で保管することにする。
 さて、32時間の空旅から解放されて、やっとくつろぐことが出来た。日本とリオの時差は12時間である。しかしリオは今、夏である。サマータイム制が実施されていて、1時間前倒しとなっている(今までの7時が8時になる)。実質13時間の時差、ということだ。「時差ボケを解消するにはプール」ということで、男2人はホテルのプールに向かう。プールは屋上にあった。水着に着替えて行くと、プールは風呂屋の湯船ほどの狭さ。ガッカリであった。しかし、身体をほぐすためにも泳ぎまくってやった。一漕ぎで向こう側に着いてしまうのだが、それを何回もくり返す。屋上のプールのさらに上に昇ると、ジャグジーがあった。ということで、ひとしきりジャグジーとプールを2人で独占して満悦したのである。

(登山電車の中で)
 暫くすると、チェツクインをした観光客が家族連れで屋上に上ってきた。彼らは、日光浴はするがプールになど入らない。プールに入るのは、子供だけであった。狭いプールに人が溢れ出したので、早々に引き上げることにした。部屋に戻って昼寝である。やっと手足を伸ばしてベットに入ることが出来たのである。その気持ちのいいこと、極楽々々である。今夜のオプションは、21時から24時まで。時間は充分にあり、安心して眠りに就けたのでありました。



MIN
あたふた南米の旅4
 

(リオのホテルから外を見る)
リオはブラジル第2の都市で、人口は1195万人。連れて行かれたホテルは、ビーチリゾートのあるコパカバーナ海岸の近くであった。まだ昼時で、チェックインの15時までは時間がある。そこで、ホテルの近くのレストランで食事をすべく、ホテルに荷物を預けて徒歩で出かけた。ホテルをぐるっと廻ると、コパカバーナ海岸のビーチに出た。そこには裸の男女があふれかえっていた。ブラジルは現在夏休みの最中で、周辺の住民がビーチに押し寄せているのだそうだ。それでは、ビーチの近くの住民はどうしているかというと、涼しい山の方に避暑に行っているのだ。
 真夏の炎天下だというのに、海岸沿いをマラソンする人、パンツ一丁で町中まで裸足で歩き回る人。女性は、ビーチを離れたら短パンとTシャツを着ることになっているようだが、お構いなしにビキニで闊歩している。男も女も、腹の突き出たメタボの多いこと。ブラジル人は、自分の姿形など気にしないのだそうだ。やりたいように堂々と、自分を押し通すのである。肌の色もとりどりで、白、黒、黄に混血と、その色合いが実に様々であった。
 
(昼食は自分で皿に盛り、計測する)
連れられたレストランに行くと、入口で用紙を渡された。これに注文した品がチェックされ、精算に使われる用紙なのであった。ガイドの西山さんに導かれ、バイキング形式の食べ物を自由に皿に確保する。なんと、寿司もあればケーキもある。料金は、重さで決められるのである。もっとも、ビールとか高いモノは注文しなければならない。席に着くと、ビールが各自に配られた。西山さんが手配をして、帰っていたのだ。このビール、西山さんの奢りなのである。なんということでしょう、である。
 料理は、自分で選んだものであるせいか旨かった。ヒューストン空港で不味いサンドイッチを食べたせいもあり、肉類は選ばず、炭水化物は寿司にした。あとはブロッコリーなどの野菜である。寿司は、日本の握りの半分程で、マアマアの味である。ブラジル人からみれば、寿司は健康食であろう。おつまみみたいに軽く口の中に入って、お腹の負担にはならなかった。
 さて精算であるが、USjは使えない。使えるのは、現地の貨幣とカードである。ブラジルはカードの使用が盛んで、なかでもVISAカードの普及率がもっとも高い。幸いにも、私はVISIAカードを持っていたのでこれで精算。受付の人が何やら言ったが、言葉は通じない。諦めたのか、印字された用紙(料金が書かれていた)に署名を要求され、無事に店を出ることが出来た。
 ところが、同じように精算していたHさんに問題が起こった。暗証番号を入力するよう要求されたが、Hさんは憶えていないのだ。日本を出る時、暗証番号はなくても大丈夫と云われて来た、というのである。結局、ゴタゴタしたが私と同じように署名してコトは済んだ。Kさんだけ、暗証番号を入力してスムーズに店を出てきた。この違いは何? と思ったが、以後、私のカードは一度も暗証番号を請求されることなく、署名だけで済んでいる。カードの種類の違いなのであろうか、どうも分からない。Hさんは、別の売り場でカードを使った時、暗証番号でつまずき、結局USjで支払っていたのでありました。


あたふた南米の旅3

(南米向け2度目の機内食)
 
ヒューストン空港からは、コンチネンタル航空に乗換えてリオデジャネイロへ向かう。発着はEターミナルであったが、何番ゲートで出発するかは空港のテレビモニターで確認しなければならない。しかし、どうも出発の2時間前位でないと表示されないようであった。それまで、Eターミナルで待たなければならなかった。まずはミネラルウォーターを買った。1.99jで、1kの小さなコインをお釣りで貰った。次に食事と思ったが、どこも列が出来ていたので、列のない売店でサンドイッチを5jで買った。5jのサンドイッチは、食いきれない量である。4分の1程に千切って食したが、何の肉か分からないグチャグチャな肉の不味いこと。あとの4分の3は食べられず、ゴミ箱に捨ててしまったのであった。
 そんなこんなしている間に、リオ行きのゲートがモニターに表示された。時間になって、機内へと入った。これから又、12時間の空旅である。ところが、ここでも私は席に着いたとたんにグッスリと寝付いてしまったのである。
 リオに着いたのは昼前。亜熱帯のリオの気温は32℃を超えていた。さっそく着ていた冬服をリックに詰め、Tシャツ1枚の姿になった。リオは、1〜2月が最も暑い季節なのであった。真冬の日本から、真夏のリオへの大転換である。空港では、にこやかな女性ガイドが出迎えてくれた。ガイドは、真っ黒に日焼けした西山さん。私より1つ年下であった。名刺を各自に手渡し、「何かあったら携帯に電話して下さい」と、私たちを安心させてくれる。リオの町は暑いせいか、どこか猥雑で明るい雰囲気であった。車中、おおまかなブラジルの説明があった。
 面積は日本の23倍。人口は1億9180万人。人種は白人55%、混血38%、黒人6%、アジア系・先住民他1%である。ここで西山さんは、サンバダンサーのスタイル抜群の理由を説明。彼女たちは、殆ど白人と黒人の混血であること。白人だけ黒人だけでは、あんなに背が高く尻がキューとあがったスタイルにはならない、と言うのだ。西山さんの娘は、自分とドイツ系の混血で180a近い長身であるという。そう言う西山さんは、160a程であった。

(リオの水着ショップ)
 ブラジルにいた先住民は、白人が持ってきた病原菌でほとんど死んでしまった。脳がとける病気だった、と言う。そんな病気があるのかとおもったが、日本からは地球の裏側の出来事である。そんなこともあり得るのだろう。当初ポルトガル人は、先住民を奴隷にして使おうとしたが、これに失敗する。それで、次々に殺してしまったのだ。それこそ、根絶やしにしてしまった。そのためポルトガル人は、アフリカから黒人を奴隷として大量に送り込んだのである。こうしてブラジルという国は、白人(ポルトガル、スペイン、イタリア系の順に多い)と黒人(及びその混血)によって構成されていくようになったのである。
 やがて、奴隷として連れてこられた黒人の間で抵抗運動が始まる。武器を持たない彼らは、自らの肉体を武器に変えた。カポエィラという足技中心の武術の誕生である。その鍛錬を、ダンスの練習と称して行っていたのだ。その黒人の奴隷解放は、今から120年前(1888年)に実現したのであった。
 ということで、ブラジルの歴史の説明をしてくれたのだが、これが今晩のオプションで観るサンバカーニバルショーの物語の筋書きなのであった。この説明を聞いていたおかげで、サンバカーニバルショーの内容がよく理解できたのでありました。



MIN
あたふた南米の旅2
 
(ヒューストンの行き先掲示板)
3人が会ったのは、1月6日午後の成田空港。早速、旅行社の受付カウンターで成田からヒューストン、ヒューストンからリオまでの航空券を貰う。手続きを終えて、どうも何かが足らない。「あ、パスポート」と気づいて請求すると、何やら書類をガサコソやりながら3人のパスポートを取り出した。こちらが忘れて搭乗手続きをしていたら、もう1度引き返さなければならないところであった。あぶない、あぶない。
 3人の座席は、飛行機の最後部であった。そのすぐ後ろにトイレがあり、とても便利。「これから12時間をどう過ごすか」との話題で、わたしは文庫本を4冊持参したことを話す。ところが話題が、私が「いつでもどこでも、すぐ寝てしまう特技がある」ということになり、Hさんが「どうして眠れるのか」と質問。そこで、私が独自でやっている「自律訓練法」なるものをご披露することとなった。普段、起きている時には自律神経の「交感神経」が優位にたち、副交感神経が下位になる。リラックスして眠りに就くには副交感神経を優位にする必要があるので、まず「呼吸に合わせて数をかぞえる」こと。それによって、呼吸に意識を集中するので副交感神経が優位になる(交感神経が静まる)。そこで眠くなる、という説明をした。ということで、自分でそれを実践したら知らずに寝てしまって、気づいたらヒューストン空港に着いていたのであった。
 飛行機の中で、こんなにストンと眠りに就いたのは初めてであった。昨年のポルトガル行きの時は、寒波で経由地のイギリスの空港が閉鎖され、成田のホテルで6時間ほど待機した。ベットも用意されていたのでぐっすり寝てしまい、飛行機の中で眠れなくなって調子を悪くしてしまったのだ。私でも、さすがに寝起きにまた眠りに就くという芸当は出来なかったのである。
 
(ヒューストンの広々とした待合室)
ヒューストン空港では、アメリカへの入国手続きがある。手続きといっても、空港から出るわけではないのに「両手10本の指紋と顔写真」を撮られ、何やら質問される。この手続きには長蛇の列ができ、なんと2時間も立ちっぱなしで待たされた。なかには、航空券を示して列の先頭に行く人がいた。これは、次の搭乗機の時間が迫っているので優先させてくれ、ということであった。ところがそれを見て、何も言わずに先頭に行こうとするグループも現れた。中には途中で止められ、「俺はアメリカ人だから並ばなくてもいいんだ」というメチャクチャな抗弁を、顔を真っ赤にしてする男もいた。
 そんなこんなでズルズルと後回しになるわ、係員は同僚とお喋りばかりするわで、手続きは遅々としてすすまない。やっとカウンターに辿り着き、係員に何やら質問されたが、「分からない」という身振りをすると、ブスっと指紋手続きを指示され、顔写真を撮られるなどして終わりとなった。やれやれであった。

あたふた南米の旅1・(MIN)



(ヒューストン空港内のコンビニ)
 今回で7度目の海外旅行となったが、今回ほどあたふたしたことはなかった。2011年の16日から13日の間に、南米(ブラジル・アルゼンチン)に行くのにアメリカのヒューストン空港が中継地となった。成田からヒューストンまでが12時間。ヒューストンで入国審査(なんと2時間かかった)を受けながら、8時間待機。ヒューストンからリオデジャネイロ空港まで12時間の空旅である。結局8日間の内、空旅に要した日数が4日間、ブラジル泊が2日間、アルゼンチン泊が2日間という慌ただしい旅となってしまった。それならもっと日数を取ればいいじゃないか、となるがそうはいかない。なにしろ、未だに働いている身だからである。ツアーの日程も、8日間で組まれているものが多いのであった。
 それに、南米に行くための事前の手続きもとても煩雑であった。アメリカは、ヒューストン空港にいるだけで入国ビザを要した。これは、インターネットで申し込めばESTAという簡易ビザを発行してくれるのであるが、費用もかかり面倒であった。さらに、ブラジル入国ビザも必要であった。これには、預金残高証明書(銀行等の発行)が必要だったし、規格外の写真も住民証も必要だった。結局、自分では処理できなくて旅行社に頼む以外に方法がなく、この申請にパスポートを旅行社に預けなければならなかった。

(ヒューストン空港でくつろぐ筆者)
 そのため、出発当日に成田空港のカウンターでパスポートを忘れずに返してもらわないといけなかったのである。
 南米といっても、アルゼンチンへの入国にはビザは要求されなかった。ブラジルビザの手続きが煩雑なのは、日本が、ブラジル人に要求しているビザ手続きが煩雑なことの裏返しなのだ。日系ブラジル人が日本に働きに来ているが、日本はその入国条件を厳しくしている。それと同じことを、ブラジルがしているにすぎないのだ。
 ところで、今回の旅はこれまでと違うメンバーが私たちとご一緒することとなった。なんと女性である。Kさんが講師を勤める学校の生徒で、70歳を超えたHさん。国分寺にお住いである。お会いしたら、とても70歳過ぎとは思えない若々しさ。何度も海外旅行に行っているベテランで、英語を勉強なさっているので逞しい限り。1つだけ心配だったのは、私達のような貧乏旅行に満足していただけるだろうかという点であったが、これは本人次第のことでどうしようもない。本人は、娘さんに「南米の旅などめったに出来るものではない。冥途の土産に行ってきなさい」と肩を押されたとの事。 ということで、3人のドタバタ道中が始まったのでありました。
(写真は全て同行のDUKE提供によるものです)

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