(一)地獄谷と心平寺 

 

 建長寺が建てられる以前、この地は地獄谷≠ニよばれ、罪人の処刑場になっていました。延宝六年(1678)の「建長寺境内図」に地獄谷埋残∞わめき十王像≠ネど記されていて、地獄谷が後世まで伝承されていたことがわかります。極楽寺のある谷も地獄谷とよばれ、化粧坂の瓜ヶ谷地獄やぐら、名越坂のまんだら堂跡など、鎌倉の境界にあたる所は、多くの庶民の墓地や葬送の場でもありました。建長寺の地もまさしくそうだったわけです。そのため、この地には地蔵菩薩坐像を本尊とする伽羅出陀山心平寺がありました。この寺は、のちに衰えて地蔵堂だけのこっていましたが、北条時頼公が建長寺を開創するにおよび、巨福呂坂が開通したおり、堂はその直前まで存在しましたが、いまは横浜の三渓園にあり、本尊の地蔵さんは、建長寺の仏殿に千体地蔵とともに安置されています。この本尊にまつわり済田地蔵≠フ話が有名せす。無実の罪で斬首されようとした済田佐衛門金吾は、日ごろ信仰していた一寸八分の地蔵尊の身代わりで救われました。そのかわり、地蔵の背にはくっきりと刀傷がのこりました。左衛門は感謝して小像を心平地蔵の頭中におさめ、さらに建長寺が創建されると、仏殿本尊の胎内に移しました。現在は玉塔に納まり別に安置されています。

 

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