(七)禅宗流布の礎 

 

 建長五年(1253)十一月、建長寺は創建され、ここに、宋朝風の臨済禅を修行とする、きびしい専門道場≠ェ誕生したのでした。ここにいう専門道場の意味は、中国杭州の径山万寿禅寺で修行するのと同じように、禅宗だけを研鑽する浄刹ということです。およそ、中世をつうじての寺院は、一ヶ寺で、天台宗と真言宗・浄土宗などを兼ねている例が多かったので、建長寺のような道場は、たいへん珍しかったわけです。建長七年(1255)二月に造られた、国宝のつり鐘の銘文に、「巨福山建長禅寺鐘銘」とか、「建長禅寺住持宋沙門道隆」とみえる禅寺≠フ呼び方は、わが国で最初の例となりました。こうして、禅宗は、建長寺を中心として、次第に全国へと流布していくことになったのです。かつて、寿福寺で修禅をかさねていたにほん臨済宗の開祖、明庵栄西が他界してから、ほぼ、四十年の歳月が流れていました。栄西が鎌倉の地に蒔いた禅≠ニいう種子は、建長寺が創建されたことで、やっと実を結び、開花したともいえましょう。さらに、嘉元三年(1305)に無住道暁が著作した、鎌倉時代の仏教説話集である『雑談集』は、「隆老僧、唐僧にて、建長寺、宋朝の作法の如く行はれしより後、天下に禅院の作法流布せり」とのべ、これより先にまとめられた『野守鏡』も、「禅宗の諸国に流布することは、関東に建長寺を建てられしゆへなり」とつたえています。これら禅宗の普遍ぶりを記しているのは、建長寺が創建されてから、およそ五十年後の姿だったのです。その根基をなした開山禅師のきびしく門弟を教育する労苦は、はかりしれないものがあったのでした。

 

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