
陶芸の現実は、雨ときどき笑い
<土は残る>妻は焼き物づくりにほとんど興味を示しません。本焼きの日は、「くさい」だの「危ない」だのと言います。電気代もばかになりません。一回の本焼きで200円から300円はかかると言われています。昨年4月から私はもう60回くらい焼きました。おかげで我が家の電気代は以前より6千円くらい高くなりました。家計簿も逼迫しているさまを示しています。妻の機嫌がいいはずがありません。
一昨年の夏、神戸市の農業公園で私が初めて焼き物の体験をしたときに、しり込みしていた私をその気にさせてくれたのは妻でした。家族4人分で5千円でした。(このお金が惜しかったのです。ついに私が出しました)。40日後、ひどい形の湯のみや皿が宅急便で送られてきました。その喜びといったらありません。おもちゃの届いた子供と同じでした。すぐ記念に写真を何枚も撮りました。いまでは妻は、私に焼き物の趣味を持たせた功労者だと自任しています。
ただ優しいと思うのは、毎朝、私の作ったいびつな皿に秋刀魚や目玉焼き、納豆などをのせて出してくれることです。変な形になった徳利は花瓶としてコスモスを生けて洗面所の上に飾ってくれたりもします。妻は図書館に勤めているのですが、私の作ったマグカップを持って行って、皆に陰口をいわれながらも必死で使ってくれているようです。
小6の息子はこれまた焼き物にまったく興味を示しません。変な皿に載ったおかずを黙って食べるだけです。呉須で絵を描かせてもさっさと魚の絵を描いて終わりです。それを父がへたくそに焼いて何度もダメにしました。
娘は少し興味を示します。小3なのですが、泥まみれになって成形している私に向かって「おお、やってるねえ」と大人びた褒め方をします。いつだったか、私が素焼きした湯のみの高台を紙やすりで削っていたときでした。ぼろぼろとこぼれ落ちる土の粉を娘が手でかき集めて、小さい瓶に入れました。そしてこう言うのです。「これで、もしお父さんが死んでも焼き物を作っていたこの土だけは残るね」。私は口をあけたまま唖然としていました。焼き物の神髄を言い当てているではありませんか。(まあ、この場合は土の粉ですが)。焼き物は割れない限り後世に残るのです。人間は残りません。
私の親が秋の運動会にきたときに、リビングで抹茶茶碗を選び合い、お茶会をしました。抹茶はうまくできたのですが、まず茶碗を誉める必要があるという議論になって、義母、実母、妻、私ともただただ沈黙しているばかりでした。器の形に従って茶溜まりで抹茶が楕円を描いているのですから誉めようもありません。ことほどさように、我が家では焼き物は笑い者、迷惑者と同義です。
白マット釉の作品群
<落選の連続>昨年6月、西宮市展に応募しました。信楽特コシ白土に油滴天目釉を施した抹茶茶碗とぐい呑み、白マット釉を掛けた抹茶茶碗の3点を出品しました。作品を自転車に乗せて、ルンルンと市教育文化センターへ持っていきました。私としては自信満々の作品で、展示はもとより西宮市長賞くらいはいただけるのでは、と期待していました。ところが後日、市の文化振興財団からハガキで「選外」という丁重なお断りの通知を受けました。このショックは大きく、しばらく口もきけないほどでした。(というのは大嘘で、搬入した時点で、ほかの人の作品のレベルの高さに驚かされ、入選は半ばあきらめていました)。落選したこと自体はあまり恥ずかしいことではなかったのですが、「選外」作品の受け取りにいかなければならないのは苦痛でした。引換券を係の人に見せると、やおら倉庫の鍵を引出しから取り出し、暗い倉庫に眠っている私の作品群と対面させてくれました。「ごくろうさまでした」と私の背中に係の人は言ってくれましたが、顔から火が出る思いでした。
この屈辱に味をしめて、今度は兵庫県展に応募しました。8月のことです。真夏の暑い中を阪急・王子公園駅へ妻と一緒に出かけました。私の成形した水差しの作品に妻が桜の絵を描いたというだけで、妻は「自分の作品」と偽ってこれを出品しました。私は私で今回は変化球を投げてやろうと、いがぐり頭のように変形した、巨大なうのふ釉掛けの抹茶茶碗を出品しました。県近代美術館の係員が「どちらが正面ですか?」と大まじめな顔で聞くので、私はつい噴き出しそうになりました。前も後ろもへったくれもない作品だったからです。逃げるように外へ出て妻を待っていると、妻は妻で、私の作品を自作と偽り「春の宴」と命名して出品した後ろめたさもあったのか、歯ぐきをむきだしにして笑いながら美術館から出てきました。後日、二人に「選外」の天誅が下ったのは言うまでもありません。
兵庫県展が始まると、入選作品を見学するのと自分たちの落選作品を受け取る用事とで、家族揃って出かけて行きました。日本画、洋画などすばらしい作品を見て回ったあと、出口のチラシに審査員の評が載っているのを見つけました。そこには「陶芸には冷やかし半分の未熟な作品が目立った」と書かれていて私たちは愕然としました。このときです。私が「この世界では戦っていけない」と自覚したのは。
日本伝統工芸展も応募要項だけは取り寄せました。出品料は1万円で、自力で千葉・幕張に搬入しなければならないと知り、「これは難しい」と感じました。このことを会社の部長に話したのがもとで、いつのまにか私が日本伝統工芸展に出品して落選したといううわさが社内に広まってしまいました。実際は、応募要項をコピーして部長に見せてあげただけなのです。まったくの「不戦敗」でした。
10月、夕刊で見て阪神百貨店の「手作り作品展」にも応募しました。素人の作品を百貨店で売ってみようという試みです。11月12日に百貨店の文化センターで審査会がありました。私は徳利とお猪口を持って行きました。応募者は440人、審査を通過できるのは180人とのことでした。審査はデパートの店員と思われる女性5人くらいが順番に見て回って採点していくものでした。日本人形、デコパージュ、刺繍と上品な中年女性ばかりが作品を持ち寄る会場でした。なかには「夫の赴任先カナダで学んできた」という女性までいました。私はすっかり気後れしてしまいました。審査員は、私の前に立ち止まりこそすれ、熱心に尋ねてくれることはありませんでした。「これはおいくらでお売りになりますか?」と聞いてくれる人はまだいいほうで、ただただ笑って立ち去った人物もいました。私は謙虚に「1000円で構いません」と安めに言ってみたのですが、これが裏目に出たようです。安く見られてしまったのです(まあ人物ともども安いのですが)。もし「3万円だ。照明と警備員1人をつけてくれ。だいたい君たちは頭が高い。私をどなたと心得る? 時の馬鹿者、みと、ミトコンドリア公にあられるぞ。あられは何と言っても亀田のあられだ。そんなことはどうでもいい。この殿山焼が目に入らぬか。目に入れても痛くなくもないか?」とでも言えば、殿山焼のあまりの偉大さにひれ伏して、審査員一同、「ハハー」と私の前にひざまずいていたかも知れません。
その日は「落選者には失礼ですがハガキで、出品していただく方には封書でご連絡さしあげます」と言われて帰りました。1カ月後の12月18日、ハガキがひっそりと我が家のポストに入っていました。トホホ(会社の先輩・安中進氏ふうに頭をポリポリ掻く)。1月31日、阪神百貨店に「手作り作品展開催中」の垂れ幕が下がっていました。私は梅田の歩道橋を歩きながら、「来年の今月今夜、再来年の今月今夜、僕の涙で誰かに3万円で売りつけてやる」と心に誓っていました。(そんなこと誓うな!)
<ここで妻の反論>
まず、どうでもいいことですが(どうでもよくないけど)殿山焼は素晴らしいです。赤土で白い釉薬を掛けた器は、料理映えがしてとても気にいっています。不器用に作られたところが味わいで、毎日使って端が欠けるとすぐ捨てています。難を言えば、電気窯のせいか一般の器よりも脆いことと電気窯のせいで小品しかできないことです。願わくば大皿を。でも確かにいい器です。手作りお猪口でワインを戴くと1.5リットルで900円のカルロロッシというカリフォルニア・ワイン(赤)も味わい深いものです。
さて本題に入ります。私は不満です。殿山焼、いえそれ以前の問題として私の虎の子をはたいて買ったAptivaを本人が使いこなせないのに夫がうれしそうにおもちゃにしていることです。殊に私のパソコンなのにメールのアドレスに自分の名前を入れたり、私のパソコンなのにホームページのアドレスにも娘の名前を入れたりして許せません。
世紀末にあたって、家事・育児・仕事にめげず、何とかパソコンを使えるようになりたい私です。ついでに言うと、陶芸だってテニスだってフルートだって、その他もろもろしたいことはあるのです。趣味にのめりこむ暇人(おっと失礼、ちょっと失言、だけど本音)を憎らしく見ています。
このホームページを閲覧してくださる方は今のところ会社関係者が多いので、これくらいにしておかなければなりません。
最後に強調しておきたいことがあります。どなたか殿山焼に興味を持ってくださって置き場所のある方はご連絡をいただきたいのです。次々と出来あがる作品たちはかわいそうにも重ねて放置され、その存在の虚しさったらありません。とくに初期に作られた油滴天目の作品群。黒光りがとても美しい丼いえ抹茶茶碗の置き場所に困っています。
以上、反論を終わります。
1月12日、妻は、西武の松坂大輔投手が初練習した姿をテレビで見かけて「あの人、天才なの?」と私に聞きました。「江川くらいすごいぞ。150キロ以上出る」と私が答えますと、「そんなに長い距離投げられるの!?」と心底驚いていました。妻は国立大を出て、長男は小学校の野球部員です。
余談を許さない?友人たち
<安中氏の「ひと」>
さて唐突ですが、名古屋の同期生、石飛徳樹氏がいかにも書きそうな安中進氏にまつわるコラム「ひと」欄をお届けします。(「殿山焼の人々」の作者が執筆。関係者の皆さん、お許しを)
歌う教祖、安中進氏
(見出し)おくればせながらパソコンを始めた業界のお笑い芸人、安中進さん
(本文)――新潟県の豆腐屋の息子に生まれた。ヘレヘラ笑う人である。そして眼鏡の奥に戸惑いのある人である。苦しい駄じゃれを思いついては小鼻を膨らませ、それを人に押し付けては閉口させる「困ったちゃん」でもある。が、ただの遊び人かというとそうでもない。小柳ルミ子の「私の城下町」を聞きながら厳しい受験勉強に耐えた体験が、今の安逸な仕事に脈々と生きている。断っておくが、ここで筆者は「変わり者」を紹介しようとしているのではない。親しい友人であり、タフガイの「お人よし」を世に問いたいだけである。
大の機械音痴で知られる。車の免許は取ったが40メートルしか運転したことがなく、パソコンも最近買った。ソリティアだけでパソコンをマスターした気になっている。しぜん、世のキャリアウーマンには頭が上がらない。鎌倉に家を建てたときから生来の「トホホ主義」に磨きがかかり、今やトホホ教の教祖としての地位をゆるぎないものにしている。
1970年代後半、スポニチに入社して旭国や西本幸雄監督を取材した貴重な経験がある。「落合博満や北の湖は同い年だ」と恥ずかしげもなく言う。長じて内勤に移ったころ、風俗小説の読み合わせで「おう、安ちゃん。最近読むのがうまくなったなあ」と同僚に冷やかされたことがいまだに忘れられないでいる。「当時の風俗小説は、筆者が代わっても筆跡は同じだった」。ため息まじりに打ち明ける。
六本木のカフェバーで、不満ひとつ言わずこの取材に応じた健気な姿は、もはや亡き秋田實の風情である。
(文・石飛 徳樹 写真・芳垣文子)
(キャプション)「名古屋の野球大会でバットを折って弁償したこともあります」。花のニッパチ生まれ。45歳。
<安中氏から寄せられた反論>
出来損ないの「ひと」欄、ありがとう。ひととなりがにじみでていて(筆者の) 読みごたえがありました。越智君には、もっと人生に有益なことをいっぱい語っているはずなのですが、あまり理解していないようですね。残念です。冗談の底に流れる真実をくみとってください。老婆は一日にしてならず。命短し恋せよおかめ。こつこつ努力してください。(作者注:このギャグは9年前にも聞かされました。当時は新鮮に映りましたが、哀しいかな、今では安中氏の手垢を見る思いがします。「親しき仲にも冷淡あり」です)
なお、以下の項目に誤りがありましたので訂正をだしてください。
一、車の走行距離は40bではなく100b。越智君に車のことはいわれたくないもんだ(免許さえ取ってない)
二、小柳ルミ子「私の城下町」→城卓也「骨まで愛して」。
三、駄じゃれの押しつけ→削除。今まで苦情を言われたことは一度もありません
四、安逸な仕事→削除。当たっていなくはないが、越智君に言われる筋合いはない
五、西本監督、旭国に取材→王監督に独占取材、を追加
以上、よろしくお願いします。 安中進
全盛期の安中氏は「校閲の神様」とうたわれました。誤りの発見率は常時3割2分を超え、運動部記者からは「赤バットの川上(哲治)、赤鉛筆の安中」と恐れられました。当時、安中氏は私の取材に対して、川上よろしく「間違いが止まって見える」と供述しています。(まあ、止まっているから間違いなのです。間違いが四六時中ぴょんぴょん飛び跳ねているのなら、新聞に訂正など要りません)
安中氏の特技は眼鏡をかけたまま目薬をさすことが出来ることです。実際に挑戦してみるとけっこう難しい技だったので、あるとき私が誉めそやしたところ、安中氏は「一般の人々には『二階から目薬』だ」とおっしゃっていました。
いつだったか、私がオリゴ糖入りの飴をあげたところ、安中氏は「どうもおりごとう」と言われました。加藤誠亮(かとう・せいりょう)さんのおられた職場では、「コーヒー飲もうか」と言ってカップコーヒーの自販機の前に私を連れて行き、「砂糖増量さんですか」と尋ねてボタンを押し、私に甘い汁を吸わせようとしたこともあります。
←時計の文字盤を焼き物で作り、東急ハンズで買ったムーブメントを取り付けた。今の時刻がよく分からないが、それもまた良し!
<バレンタインデー>
芳垣文子さんは私の二年後に入社した女性記者です。大学院修了後、しばらく教師をして転身されました。年齢は私より二つ上です。(もうすぐ「不惑」の40歳なので四十肩が心配です)。校閲部から水戸支局へ転出、長ずるに及んで出版局に移られ現在に至っています。ヘアスタイルは「なごり雪」のイルカかお菓子のポッキーに似ています。お顔は西武の松坂大輔に似ていると最近言われたそうです。生来の女っ気を感じさせない豪放磊落かつ天使のような性格から誰にでも好かれる人気者ですが、古来、男縁は皆無?でした。夜勤主体の不規則な勤務形態の職場で適齢期を過ごしたこともあって、婚期を逸してしまった?のは返す返すも残念なことです。もし仮に15年前、絶海の孤島に私と芳垣さんの二人だけが漂着する事故があったとして、二人が結婚しなかったと誰が言えるでしょう。(芳垣さんは言えます)
そうそう、あのとき。それは1990年のバレンタインデーの前々日でした。私は職場で自分の過去がいかに女性と縁のないさもしいものであったかを彼女に打ち明けました。「僕は今までチョコレートを三人からしか貰ったことがない。生徒会長をしていた中学時代に下駄箱のところで冷やかしに二人がくれた。あとは女房だけだ。高校、大学と誰一人として振り向いてはくれなかった」。芳垣さんはこれがさも痛快であるかのように、同情しながらも熱心に聞いてくれました。「ところで十四日の芳垣さんの勤務は?」「休みです」
バレンタインデー当日は部会の日でした。芳垣さんは休みを返上して会社に出てきていました。そして部会のあと、モッコリと膨らんだ社名入りの茶封筒を私に差し出しました。「恵まれなかった暗い過去のために」とおっしゃいました。とつぜん交響曲第3番が聞こえてきた私は、お礼の言葉を言うのも忘れてその封筒を自分のロッカーに隠しました。
女性にもてたことのない男の浅ましさ。自宅に帰って中身が「モロゾフ」であることを確認した私は、明朝、起き出してくる妻の目につくように、これ見よがしに台所のテーブルの上にチョコを広げたままにして寝ました。
ところが翌朝、妻は「なによ、これ!」と声を荒らげるどころか、「よかったねえ。誰に貰ったか聞いて欲しいんでしょう?」ときました。やはり、私よりうわてでした。
その日、私は会社で周りにいたほとんどの人に芳垣さんからチョコレートを貰ったことを吹聴して回りました。皆、一様に釈然としない呆れた顔をしてくれました。持って行き場のない怒りを感じていたのかもしれません。
数時間後、私の自慢話を伝え聞いた一年先輩の安中進氏がこの件を評してこうおっしゃいました。「お気の毒に。越智君は芳垣さんの見栄のために利用されたそうじゃないか」。けだし、名言、目からウロコが落ちる思いでした。
後日談があります。1カ月後のホワイトデーに私は芳垣さん宅に「ゆうパック」を贈りました。キャンデーでもマシュマロでもなく、熊本県の漁港から生きたまま送るという活エビにしました。わずか三千円なので、8尾ほどでした。
2日後の芳垣さんの話によると、「ゆうパック」が届いた日は家族みんなが不在。翌日、お母さんが「生きているエビだそうだから、貰って来たらすぐ料理するからね」と言い置いて近くの郵便局へ受け取りに行ったそうです。おが屑のなかで息絶え絶えになりながら生きていたのは3尾。芳垣さんは執念深く生き残ったそのうちの1尾と自分の生命力の強さをだぶらせ、「文子」と自分の名前をつけ、お母さんの手になるエビフライに舌鼓を打ったそうです。
私としては「エビでチョコを釣った」ことになりましょうか。
転勤先の名古屋でも一計を案じたことがあります。92年2月7日に、入社したばかりの水越薫さんという女性部員をつかまえて千円札を一枚握らせました。「これでバレンタインデーに僕の自宅へピアノの模型に入ったチョコレートを郵送してくれない?」。厚かましい先輩風には逆らえず、彼女は快く?ブランデー入りのチョコを郵送してくれました。まさに「自作自演の愛の告白」でした。のちに水越さんは「越智さんの言うチョコレートを探すために寒い中、足を棒にして名古屋・栄を歩き回りながら、何でこんなことまでさせられなきゃいけないんだろうと思って腹が立った!」と述懐していました。
みなさん、すみません。そしてありがとうございました。ペコリ。
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