ざっくちゃらんぽらん

 

<逃走>新宿三丁目を歩いていた時のことです。たしか、厚生年金会館に行こうとしていました。十五年前の穏やかな春の昼下がりでした。私は信号のない短い横断歩道を渡ろうとしていました。一瞬、「渡ろうか渡るまいか」と躊躇したのち、やっぱり渡ろうとしました。その時です。私の右後方から左折して来たタクシーが、私が渡りだしたために急停車しました。キキーッ。ガシャーン。ハッと振り返ると後続のタクシーが急停車したタクシーに追突し、ライトが割れて路上に散乱していました。
 私の心臓は高鳴り始めました。顔が引きつってくるのが手に取るように分かりました。「こらー。逃げるなっ!」と両方の運転手が車を降りて追いかけてくる気がしました。当時は初任給をもらったばかりでした。私は考えていました。「貯金はいま30万円しかない。補償を求められても払える見込みはない。このまま、現場で状況を見ていたら、いずれ『お前も悪い』とどちらかの運転手にからまれるに決まっている。警察にも連れて行かれるだろう、いやそれ以前に暴力団が介在してきたらどうしよう。後続車は当たり屋かもしれない。親に泣きすがって助けてもらおうか……」
 私は、事故に気づかなかったことにして何くわぬ顔で歩こう、と決意しました。周囲の目撃者に不自然だと思われないよう、まず道なりに真っすぐ速足で歩き出しました。
背後からは運転手同士の罵り合う声が聞こえ始めました。やがて事故車から私の後ろ姿が見えなくなったと思われるあたりでサッと左の路地へ入りました。そして今度は駆け出しました。「もう、とことん逃げるしかない」。私は尾行者を捲くために新宿の街を右へ左へ道を変えながら走り回りました。新宿の街は夜陰に紛れようにもまだ白昼でした。
 西新宿でついに逃げおおせたと確信したとたん、私は自分が息絶え絶えで全身がびっしょり汗で濡れていることに気づきました。もう立派に犯罪者でした。

 のちに、競馬に入れ込んでしまっていた時期、メジロパーマー、ツインターボ、ミホノブルボンなど逃げ馬絡みの馬券を断固として買わない自分に気づきました。

 なお、くれぐれも「そのときの運転手の一人」を騙ってメールを送って来たりしないでね。あと3カ月でようやく時効が成立します。福田和子被告じゃあるまいし、いまさら立証などできませんよ。

 

↑ゲーセンで見つけた「窯元争奪機」

<選手宣誓>中学三年生のときの運動会では、恥多き私の人生でも一、二を争う大恥をかきました。生徒会長に担ぎ出されていた私は、開会式で生徒を代表して選手宣誓をしなければなりませんでした。それが愛媛県越智郡玉川町立玉川中学のいわば伝統でした。
 前日、あまりに心配なので職員室に行き、体育の別府先生に相談しました。
 「先生、どがに(どんなに)やったらええか、わかりません」
 「一生懸命、演技するというようなことを大きい声で言うたらええんじゃがね」
 「はあ、そうですか」
 すごすごと家に帰った私は、翌日選手宣誓をする人の常として「一晩かかって文を練り、眠れない夜を過ごした」のでありました。
 さて、当日。あいにく今にも泣き出しそうな空です。グラウンドには扇状に万国旗が張ってあります。集落ごとにゴザを敷き、引き直された白線が目に鮮やかです。生徒は皆、おろしたての短パンや真っ白な運動靴姿です。プログラムはガリ版ではなく外注の印刷です。ぞくぞくと町内の父兄がグラウンドに集まってきます。町長さんが来賓席に姿を現し、緊張はいやがうえにも高まります。人口六千人の玉川町にとって、町を挙げての年に一度のお祭りの始まりです。

 私はだんだん鳥肌がたってきました。テントの下で準備をしていると平原君が「けーさん、きょうは大変じゃねえ」と同情の声をかけてくれました。「どうもないよ」と強がって応じました。

 高らかなマーチに合わせて生徒が整然と入場行進を始めました。私は歩きながら昨夜考えておいた文を暗唱してみました。すると困ったことにどうしても思い出せない箇所があることに気づきました。あせってきました。国旗の掲揚や校長先生の訓示が予行演習どおり粛々と進みます。私はもう一度思い出そうとしました。やはり駄目でした。

 そうこうしているうちに選手宣誓の出番がきてしまいました。女生徒の張りのある声で「選手宣誓っ!」とアナウンスがありました。校長先生が悠然と朝礼台に上がられました。私が校長先生の前に走り出ると、各クラスの「クラス旗」を持った旗手たちが私のあとに続き、旗手たちは私を中心に据えて円陣を形成しました。今治市から駆けつけた写真館のおじさんが卒業記念アルバムに載せる写真を撮ろうと校長先生の背後からシャッターチャンスを狙っています。
 私は右手を挙げて第一声を叫びました。「宣誓っ!……」。我ながらその声の大きさにはびっくりしました。「よし、いいぞ」と内心思いました。ところが、です。二の句が継げません。思い出せません。「えーと、何じゃったかな?」。しばらくは第一声の余韻でゆったりと間を取っているように見えると思いました。五秒、六秒……。だんだん顔がひきつってきました。校長先生が私の異変に気づかれたようです。壇上から「いいんだよ。さあ、落ち着いて」というようにコックリコックリうなずいて応援してくださいます。「私たち選手一同は……」。やっと第二声。私を取り囲んだ旗手たちは一様に息を殺し、咳払い一つしないで私の一挙一動を見守ってくれています。父兄席も貴賓席も先ほどまでの喧騒がまるでウソのように黙り込み、グラウンド全体が異様に静まり返っています。

 私の沈黙が15秒続いたあたりで、父兄席のあちこちから密かなざわめきが起こり始めました。やがてざわめきは肥大化し、ひそひそ話や押し殺した笑いが、あたかも地面を這うように湧き起こってきました。

 どんな言葉で締めくくったものやら。「選手宣誓もどき」を終え、真っ白になった頭で腋の下にびっしょり汗をかき、私は自分のクラスの列に戻りました。運動会は何事もなかったかのように再び動き始めました。

  この日の運動会は途中から雨に見舞われ、プログラムの大半が3日後の平日に延期されました。幸か不幸か、開会式からやり直そうという声は教師からも父兄からも起こりませんでした。


  「仕事で忙しいけん行かんよ」と言っていた母も実は開会式の時間だけは息子の晴れ姿を見にきていたのではないでしょうか。その夜、母は運動会のことをいっさい私に尋ねませんでした。高校生の姉だけがどこで聞きつけてきたのか、「あんた、何やら失敗した言うねえ」とニヤニヤ笑いかけてきました。
 選手宣誓――。私の雄姿をつたえる卒業記念アルバムは、実家のどこかにほったらかしたままです。あれから22年たった今でも、甲子園大会開会式の選手宣誓をテレビで見るたび、「わーっ!」と狂った叫びを発したくなります。今のように家庭用ビデオの放列にまで晒される時代でなくて本当によかったと思います。

 殿山焼の最新作。題は「白い恋人」

<虎杖(イタドリ)>
 鈍川発電所は水力発電所でした。奥地の川から水路で水を引いてきて最後に多量の水を裏山から落下させ、その力を利用して発電していました。
 まだまだ豊かな時代ではなかった昭和三十年代後半、わが家は炭焼きで生計を立てていました。その年、父は発電所の水路沿いに炭窯を設けていました。私は五歳の保育園児、三歳上の姉は小学校に入ったばかりではなかったかと思います。
 その日は家族四人で炭焼き場へ行きました。虎杖が生えはじめていたから、五月ごろだったでしょうか。虎杖は塩を振れば若芽や茎を食べることの出来る酸味たっぷりの多年草です。子供たちは肥後守でこれに切れ目を入れて水に浸し暫く置くと、切れ目で反り返って水車が出来上がる遊びを知っていました。
 虎杖を探すため、私と姉は水路沿いの道を先を競って駆けて行きました。炭窯から数百メートル行ったところでとつぜん姉が全力疾走に変わりました。虎杖の群落を先に見つけたのでした。「あったあ! これ全部私の分じゃあ!」。姉は虎杖を独り占めにするぞ、と言わんばかりに抱きしめるような仕草をしました。私は体力的にはまだ姉にかないませんでした。数歩遅れて到着し懇願しました。「ねえちゃん、ボクにもちょうだい」。けれど姉は抱きしめる格好を崩しませんでした。「私が先に見つけたんじゃけん、これぜーんぶ私のもんじゃ」
 押し問答はやがて姉弟喧嘩に発展しました。私は泣きべそをかきながら一人で炭焼き場に帰ることにしました。悔しいので水路沿いを歩きながら何度も何度も姉の方を振り返りました。「僕にもちいとぐらい、くれたってええのに……」
 ちょうど後ろを振り返った時でした。ちょっと体のバランスを崩してふわっと浮いたと思ったら、バシャーッと音がして私は全身を水に包まれていました。一瞬なにが起こったのか理解できませんでした。初めて体験する水の中でした。やがて状況がのみ込めてきました。私は足を踏み外して水路に落ちていたのでした。
 幼い私はまだ泳げませんでした。流れは速く、水深は大人の背丈ほどもありました。私は足を前にして仰向けに流されていました。水中のゴボゴボゴボという音を生まれて初めて聞きました。あわてて身を起こそうとすると、たちまち藻で緑色に染まった水中に引き戻されます。我に返った私は「ねえちゃあーん」と助けを求めました。けれど、もうそのころには虎杖を採っていた姉の居場所をとっくに通過してしまっていたのです。
 もし、そのまま一キロ流され続けると、山を刳り貫いた真っ暗なトンネルが待っています。コウモリの棲む数百メートルのトンネルを抜けると発電所の裏山の貯水池です。ここで水中のごみが取り除かれ、水は真っ逆さまに発電所へと落下していくのです。
 不幸中の幸いは、私がたまたま仰向けに落ちてそのまま流されていることでした。これで息もできたし、状況を見ることもできました。
 実はそのころ、姉も溺れそうになっていました。上流からどんぶりこどんぶりこと流れてくる大きな桃ならぬ弟を発見し、なんとか助けようと子供心に知恵を働かせ、水路に両足を伸ばしたところ届くはずもなく、水路のコンクリートにすがりついたまま這い上がれなくなっていたのでした。
「けんちゃんがながされた。助けてー。けんちゃんがながされた。助けてー」。姉は必死で叫んでいました。 

 子供二人が溺れかかっているころ、父と母は炭窯の前でノコギリを使って炭を挽いていました。「あれっ?! 子供の声がしよるんじゃない?」。先に気づいたのは母でした。「どこからあ? 風の音じゃろが。わしには聞こえんがあ」。父はノコギリの手を止めました。「ほら、博美の声じゃないん? 『けんちゃんがながされた』と言よるがね」「えっ!」。父も母もノコギリを投げ出して走りだしました。
 そのころ、私は流されながらも何とか助かろうと一計を案じていました。ときどき顔前に現れる板がありました。水路を横切るために村人が架けてある簡易の木橋でした。それに飛びつこうと何度も試みました。けれど、踏み台があるわけではありません。再び仰向けに水中に引き戻されて水を飲むばかりでした。
 やがて、水路にしがみついて「たすけてー」と叫びつづけている姉の所へ父母が駆けつけました。姉を引き上げながら父が問い詰めました。「健二はどしたんじゃ!」「あっちへ流された」。姉が下流を指さすがはやいか、父は服を着たままで水路に飛び込みました。母はおろおろしながらも、どこかに下流につながる近道があったはずだと考えていました。
 父は咄嗟に息子が溺れて水路に沈んでいることを想定したといいます。クロールでも平泳ぎでもなく、犬掻きで底を確かめながら泳いでいきました。
 どのぐらい流されたあとだったでしょうか。もうすぐ真っ暗なトンネルに入るという地点で、やや意識が朦朧となりはじめていた私を背後から抱き起こす者がありました。父ちゃんでした。「健二っ! どうもないか!」。そのまま水路わきの草の上に放りあげられました。私はこの声の方にびっくりして、泣きもせず突っ立っていました。そこへ近道を走ってきた母が合流しました。「水、飲んどりゃせん? あんた、歩かしてみい」。私は平気で歩いて見せました。しかし、父母の険しい表情からこのときになって初めて、自分がまさに死の淵にいたことを悟り、全身がわなわなと震え始めました。

 晩春でした。炭焼き場に戻って枯れた杉の葉で父が火をおこし、濡れている衣服をみんなで乾かし合いました。
 この事故以来、私は水を怖がるようになり、小学校三年まで泳げませんでした。
 いまでも夜中に思い出して考え込むことがあります。もしあのとき姉が私を見つけてくれなかったら、もしあのとき姉の叫び声を母が聞きつけてくれなかったら、もしあのとき父が水路から助け上げてくれなかったら……今ごろ鈍川発電所の一角には幼児の溺死を悼む、苔むした石碑が建っていて、妻や息子や娘の姿もこの寝室にはなかったろうと。

<金次郎さんの恩>
 十年は一昔といいますが、昭和四十七、八年のことですから、もう二昔も前になります。私は愛媛県越智郡玉川町立鈍川小学校に在学していました。私たちの学年は男子六人、女子九人の計十五人しかいませんでした。担任は四年生から三年間、山本義夫先生が務められました。
 ある日のことです。石を投げて二宮金次郎さんの像に当ててみようと企んだ児童がいました。越智裕幸君と青野聡君です。五十メートル走がどうにか出来る程度の狭い運動場でしたが、二人は講堂の前の靴脱ぎ場あたりをピッチャーマウンドに見立て、金次郎さんの頭に狙いを定めました。18メートル以上は優にあったはずです。まず当たる筈がありませんでした。仮に命中するようなことがあっても、像はブロンズで出来ているのだから、カーンと快い音を立てて石をはじくに違いないと信じて疑いませんでした。

 ところが、二人のうちどちらかが投げた何個目かの石が、ものの見事に金次郎さんの頭に命中するという事態が実際に起きました。まさに全盛期の江川卓を髣髴とさせる針の穴をも通すようなコントロールでした。けれど結果が悪すぎました。快い金属音をたてるどころか、金次郎さんの頭はパリーンと割れて吹っ飛んでしまったのです。金次郎さんの像は、戦時の供出で、実は瀬戸物に変わっていたのでした。後の祭りでした。

 山本先生は授業時間を割き、裕幸君と聡君を黒板の前に立たせて教育されました。

 山本先生「あがな悪いことして、いったいどがな反省をしとるか、二人とも言うてみい」 

 裕幸君「(しゃくりあげながら)もう二度としたらいかんことだと思います」

 −−私はホッとして聡君も同じように詫びれば先生の怒りも収まるだろうと思いました。ところが……

 聡君「まあ、起こってしもたことは仕方ないと思います」
 −−私はまずいと思いました。案の定……
 山本先生「なんじゃとおー! もういっぺん言うてみい!!」

 聡君の人生を達観した一言で、普段は滅多に大声を出したりされない山本先生もついに堪忍袋の緒が切れてしまったのでした。

 何日か経って、金次郎さんの像を見上げてみると、頭は元通りになっていました。よく見ると、細かい破片が白い接着剤で継ぎ合わされていました。理科を専門とされた山本先生にとって、このくらいのことはきっと朝飯前だったのでしょう。 その像の台座は、大きい花崗岩を積み上げてセメントで固め、富士山の形にしたものでした。中央には「恩」の一文字が刻まれていました。



小池さん


<さぬきでラーメン>2月7日付の朝刊に「さぬきうどんで知られる香川県で、十代の若者はうどんよりラーメンを好んでいることが県が実施したアンケートで分かった」と出ていました。昨年9−10月に香川県内の513人(男210人、女303人)に行ったアンケートによると、十代の若者は自宅でも外食でもうどんよりラーメンの方を好んで食べているとの内容。そして記事の最後にはこうありました。「さぬきうどん研究会長を務める真部正敏・香川大名誉教授は『メニューの幅を広げるなど、うどん側も漫然とはしていられない時代になってきた』と話している」。私自身、けっこう漫然としていますが、うどんにいきり立ってもらっても困る気がしました。それとも讃岐だけに、コシは強くなければならないのでしょうか? ともあれ、こんな記事、好きです。

<素朴な疑問>ときどき疑問に思うのですが、種なしブドウの種がなぜ売られているのでしょう。「種なし」なら、種は生産できないはずです。それと、便秘薬と下剤を同時に飲んだ場合、おなかはどんな反応を示すのでしょうか? ちっとも試したくはありませんが、ちょっと疑問です。同様に、昇圧剤と降圧剤を併呑した場合は水道のように毎秒、上下動を繰り返す血圧が期待できるのでしょうか。それとも上が186で下が41といった「犬猿の仲」のような両極端に走った血圧を体験できるのでしょうか。そうなれば、朝起きられないくせに、起きがけの顔は茹でダコのように真っ赤という現象も大いに予想されます。

 また、スキーのジャンプでスタート直後にアプローチで転ぶ選手がいないのはなぜでしょう。我々、ど素人なら充分警戒に値する事故です。が、一度も見たことがありません。そういえば昔、テレビで、飛んだ途端に片方の板が外れ、片足で飛行したのち、片足で着地し転倒を免れたじつに器用な選手を見たことがあります。しかし、アプローチでは残念ながら誰も転んだことがありません。途中でつまずいてコロコロ転がり落ち、記録は1メートルポッキリ(立ち幅跳び程度)というのも原田雅彦選手にぜひやってもらいたいパフォーマンスです(骨もポッキリでしょうが)。これはまさに逆バッケンレコードです。そのために、一つの提案と思ってお聞き願いたいのですが、アンパンや平均台などの障害物を多数アプローチに用意して、それを乗り越えてからジャンプするようにすればよいのではないでしょうか。これなら工藤アナウンサーが「立て立て、立ってくれ!」ならぬ「転ぶな転ぶな、転ばないでくれ!」を叫ぶ日も近くなるはずです。

 こういうつまらない疑問に悩まされる夜には、スカリポエットを飲み、鼻で木をくくったような顔をすれば、牛を矯めて角を殺すことになります。

 

<尿検査>
 毎度、尾籠な話で恐縮です。12年前、埼玉中央病院へ尿検査に行ったとき、こんなことがありました。尿検査の窓口で私の前に立ったおばあさんが、どっこいしょと受付の女性の前に、五リットルは入ろうかという大きな瓶を置きました。受付の女性はきょとんとしています。瓶には大量の黄色い液体が入っています。女性がおばあさんに聞きました。「何ですか? これは」。おばあさんは少し恥ずかしそうに答えました。「私のおしっこです」。それでも受付の女性は事がのみこめないとみえて「どうしてこんなにたくさん?」と聞き直しました。するとおばあさんは答えました。「一週間分のおしっこを持ってくるように、このあいだ言われたんで……」。ここまで言った途端に受付の女性は口を押さえて笑い始めました。今度はおばあさんがきょとんとする番でした。女性は笑いをかみ殺しながらおばあさんに説明しました。「一週間後に尿検査をすると言っただけなんですよ」
 私は自分の尿検査に必死になっていたので、このときは大しておかしい気がしませんでした。しかし「異常なし」のお墨付きをもらって帰宅したころから、おばあさんのことが思い出され、堰を切ったような笑いが一気に押し寄せてきました。

 

 

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