現代の学校は余計な機能抱え込みすぎていてもっと「スリム」になるべきだ。あたかも人間界の「エステブーム」のように学校も「スリム」になることが本当に良いことなのでしょうか? 無理なダイエットはかえって健康を害してしまうのともよく似ていて、学校のスリム化という声がどこから聞こえてきたのかを冷静に分析してみる必要があるでしょう。
「いじめ」・「学力低下」・「不登校」・「少年非行の増大」といったニュースを聞くと「今の教育」は何をやってるんだ。との批判をよく耳にします。
しかしこの批判の対象となっているのは教育一般ではなく「学校教育」であり「公教育」のことを指して言われていることをまず確認しておく必要があると思います。その「公教育」とは戦後、教育基本法をベースとして新く創造されたものですが、これがまさに批判の対象となっているのです。(例えば教育改革国民会議の議論)
確かに子どもをめぐる問題をそのままにしておけないと誰もが思うでしょう。しかし「何とかしなければならない」と考えるあまり、「学校のスリム論」を声高に主張することには、「もう一度考えてみませんか」と私は言いたいのです。
「現代の学校はさまざまな機能を抱えすぎている。だからもっとその機能を、例えば地域社会に還元していって学校はスリムになるべきだと」の主張がその内容だと思うのですが、しかしそうした善意からの「学校スリム化」論とは違ったところからこの問題が提起されていることを今回は特に強調したいと思います。
それは「財界」から「教育に対する不効率感」から出されているスリム化論です。(経済同友会――合校論・内外教育1995年4月25日など)
能力のあるものもないものも、9年間も義務教育を受け、さらに高等学校へ進学し12年間も「平等主義」のもとに「意味のない教育」を受けさせていることに対する「経済的効率からくる不満」です。
つまり、かつての学歴神話=(親の高学歴に対する幻想)誰もが、エリートになるために「良い大学」=「偏差値の高い大学」を目指すために、能力のない子どもたちも含めて画一的な教育を受けさえた結果大量の不適応が生じている。との経済効率からくる不満です。
ならばそれを解消するためには「学校の機能をスリム化」して最低限のことのみを学校教育=公教育であつかい、あとは各家庭での教育に還元すべきであるとの主張が出てきています。
それは行き着くところ、早い段階で選別を行い、最低限の公教育として、基礎基本としての「読み書き算」と日本人としてのアイデンティーを確保するための日本史を学校でやり、それ以外の情操教育などは、民間の絵画教室やスポーツクラブなどに通うことによって自己責任によって補えば良いとしている点です。つまり「教育のスリム化」とは教育内容がもっている福祉的機能を縮小し、さらりレベルの高い教育を受けるためには、家庭の経済力と意欲に応じて私的選択に委ねようとしている意図が見えてきます。換言すると「家庭の教育力」とは「経済力に応じた階層的な教育を強化する方向での改革ともいえるでしょう。
しかし公教育というものは、そもそも家庭の資力に無関係に、その子の可能性を引き出すことを目的としています。憲法26条には「すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じてひとしく教育を受ける権利を有する。」とありますが、これは能力がある、なしで教育内容が違うという意味ではありません。限界はありますが、その子の人格を完成するために義務教育が社会権としての側面として財政的裏づけのある国家によってその条件を整備することが責任をもって行なわれる必要があることを憲法が命じていると考えられます。 こうした点からもう一度「学校のスリム化」?ということを考えていただけたらうれしいです。
S.M.
<参考文献>
渡辺治『教育』1997年9月 支配層の二一世紀戦略と教育改革
藤田英典『教育改革』 岩波新書
渡辺治『現代日本の支配構造分析』花伝社