Q1 自己決定権= 「自分のことは自分で決める権利」が保障されているということですが、なにか自分勝手な生き方が奨励されているような気がします。

(1)自己決定権の定義 

 私たちにとって当然ともいうべき「自分のことは自分で決める権利」は―これを自己決定権とよびます―日本国憲法に文言として登場しません。しかし13条「幸福追求権」に含まれると一般に解されています。

 自己決定権は、しばしば子供をめぐって問題となりますが、今はそのことは措きましょう。日本社会はずいぶんと他人に寛容だと思うのですが、それでも大人の社会においてさえ、自己決定権が侵害されることがあります。

 たとえば口ひげを生やしたタクシー運転手や髪を茶髪に染めたトラック運転手が会社から解雇された事例です。こういった場合に裁判所は、解雇された従業員の味方にたってくれることも多いようです。自己決定権という言葉が使われるかどうかは別として、大人の容姿については、本人の考えが尊重されるのでしょう。また宗教上の理由で手術に際し輸血を拒否する患者に対し、病院がなかば無理矢理に輸血を行うことも、患者の自己決定権を侵害すると考えられています。

 自己決定権は、国家のみならず、私人によって侵害される危険もあります。たとえば私立学校が生徒の自己決定権を制限する場合が、これに該当します。この点での「私人間効力」は正面からあまり議論されていないのですが、自己決定権は対国家・対私人的自由という二面性をもつと考えるべきです。

(2)どこまでが「自己」なのか

 たとえば職業選択や団体への帰属、政治的見解の持ち方などは、いずれも「自分のこと」です。しかしこの決定権は、13条以外の個別条項(職業選択の自由であれば憲法22条1項、団体への帰属であれば憲法21条1項)によって保障されるので、あえて自己決定権ととらえる必要性はありません。自己決定権固有の守備範囲はどこにあるのでしょうか。

 憲法学者は一般に、@髪型や服装など容貌、A氏名など誇称、B妊娠・中絶などを通じた家族の形成、C生命の維持・切断や加療方法の選択、D性別の選択などの領域が自己決定権に含まれるのではないかと考えるようです。これら@〜Dを「自己の身体または身体と密接に関わる事柄を、他者から自由に決める権利」、つまり狭義の自己決定権とまとめることもできます。

 もっとも「自己または自己の身体と密接に関わる事柄」の外延に関しては、意見が分かれることもあります。 まず自己決定の主張が他者の権利を明らかに侵害する場合に、憲法の保障はおよびません。たとえば極度に不潔な服装をして、周囲の人の健康を脅かすような場合がそうです。また先に挙げたタクシー運転手のヒゲの問題は、タクシー会社と運転手の間で、身体の外延に関するイメージの違いから生じた争いといえます。これについては後述します。

(3)自己決定権としての「家族の形成」

 「結婚したとたん、親や周囲が『子供はまだか』とうるさい。二人だけで新婚ラブラブ生活を楽しみたいのに、なんだか妊娠を強制されてるみたいで、いやな感じ」。こういうことって、ありますよね。

 「誰を新たに家族の一員として迎えるか」は、親となるカップルの決定に委ねられるべきです。なぜならカップルの性生活という身体と密接にかかわり、そしてきわめてプライベートな次元にあるからです。どんなに親しい人であっても、カップルの生殖(リプロダクト)に干渉はできません。会社の同僚に「赤ちゃん、まだなの?」としつこく尋ねることも、同じ理由から御法度であることに注意しましょう。かつてナチスは、特定民族や精神障害者らに断種を強制しましたし、日本でもハンセン病患者に対して同じことを行いました。こういった蛮行は、自己決定権の侵害にあたるということが、おわかりいただけると思います。

 だれが生殖に関する決定権をもつのかという問題は、つきつめて考えると、しかしなかなか微妙でもあります。それは女性固有の権利なのでしょうか。それともカップルの権利なのでしょうか。

 男性が女性に妊娠を強要することはできませんが(そんなことをしたら、夫婦間といえども強姦罪が成立します)、さりとて、女性が中絶をするときに、男性がまったくの部外者であるとも考えにくい。妊娠や中絶は、生殖細胞を提供する男女の合意に基づき決すべき問題だからです。ただ、カップル以外の者は(公権力であれ私人であれ)生殖に関し決定権を有さない、とはいえるでしょう。

(4)自己決定権と「ウザイ」の関係

 この項のおわりに、自己決定権は、他者の忠告に耳をふさぐ権利を保障するかということを考えてみたいと思います。外部からのあらゆる働きかけ(「ウザイ」もの)を遮断することが、自己決定権の名で正当化されるのでしょうか。

 先にふれたように、「自己の身体」の外延に関するイメージは人さまざまです。個人の(勝手な思いこみかもしれない)身体イメージが、(憲法によって保障される)人権へと昇華するのに、「どこまでが個人の身体と同視されるか」に関しての認識の共有が欠かせないと、私は思います。

 列車の床に座り込むことは自分の勝手だと思ってる傍若無人な若いヤツと、そこは公共空間だから行儀よくするべきだと思ってる口やかましい大人との間には、身体の外延に関するイメージの相当な落差があります。どちらのイメージが正しいか、論理的に決めることは不可能です。それでも両者の溝は、対話によって埋めていくことはできるのではないでしょうか。そして対話の結果、ある空間が個人の身体と同視されるにいたったならば、そののちその空間内でどういう選択がなされるとしても、他者は干渉できないのです。

 そんなわけで、「ウザイ」という決め言葉によってコミュニケーションをはじめから絶つことは、自己決定権の概念と本質的に相容れないといえるでしょう。

永山茂樹