信教の自由は憲法の保障する権利としてはもっとも根本的なものの一つです。近代憲法の本家ヨーロッパでは、キリスト教社会における宗派の争いが弾圧さらには宗教戦争までも引き起こしました。そんな宗教をめぐる永久の争いを続けるような社会をやめて、宗教を個人の自由として多数派は少数派に対して寛容である社会の創設を実現するのが信教の自由です。同時に政治権力(世俗の権力)と宗教の関係を憲法で規律するということが行われました。後者(政教分離)については項目を変えて説明します。
日本国憲法第20条は、第1項前段「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する……」および第2項「何人も、宗教上の行為、祝典、儀式または行事に参加することを強制されない」というように信教の自由について定めています。
我が国特有の宗教問題として戦前の(第二次世界大戦のことです)神社神道の問題がありました。神社神道が国教なみの扱いを受け、これと相容れない宗教、たとえばキリスト教や大本教などは弾圧されたのです。旧憲法は宗教について第28条で「日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限リニ於テ信教ノ自由ヲ有ス」と規定されていたのです。だから神格化された天皇と結びついた神社神道を信じることが「臣民の義務」とされたわけです。さらに神社神道は天皇制とともに軍国日本の精神的な支柱となり、侵略戦争に一定の役割を果たしていったのです。1945年12月連合国軍総司令部が発した「神道指令」により神社神道は国家から分離されることとなり、これをふまえて新憲法は第20条で信教の自由と政教分離を明確にしました。
信教の自由の内容は、およそ次のようなものです。
(1)信仰の自由〜これは内心において信仰を持つこと、あるいはもたないこと、さらには信仰の告白を強制されないこと、いわゆる「沈黙の自由」もここに入ります。かつての「踏み絵」のようなものは、この内心における信仰の自由を害する最たるものでしょう。
(2)宗教行為の自由〜宗教はその教義に基づいて何らかの宗教行為を行うということが常ですから、この宗教行為は自由でなければなりません。一人で、あるいは他の信者とともに礼拝や祈祷を行ったり、宗教上の儀式や祝典に参加することなどがここでは保障されます。もちろんある宗教を信じている人あるいは宗教を信じていない人が、別の宗教の儀式などに参加を強制されるならば、その人の宗教心は害されるでしょうから、そのような強制をしないこともこの宗教行為の自由で保障されています。このことは第20条第2項で重ねて規定されています。
(3)宗教結社の自由〜同じ宗教を信ずる人と、共に宗教行為を行ったり、信仰を分かち合うために団体を結成することがここでは保障されます。この自由は、宗教法人法上の宗教団体の認定を受けることができなかったとしても、宗教法人法上の宗教法人となることができないだけであって、宗教団体として宗教結社の自由が保障されなくなるわけではありません。
(4)布教の自由〜宗教は布教活動を伴いますし、この布教が行われなければ宗教の発展もありません。布教の自由は宗教行為の自由として説明されることもありますが、次の世代の信者を勧誘育成する行為としてここでは別に考えてみました。
このような信教の自由ですが、もちろん宗教なら何をしてもいいというわけではありません。他の憲法上の権利と同様に、信教の自由にも限界が考えられます。もちろん人権の制約は「やむにやまれぬ利益を」実現するための必要最小限のものでなければなりませんが。次のような例があります。加持祈祷事件と言われるものですが、精神異常と考えた女性を治すために縛り付け押さえつけて加持祈祷を行い、その際に線香の煙でいぶし、殴るなどの暴行を加えたのです。その結果全身に皮下出血を負い急性心臓麻痺で死に至らせたというものです。最高裁は「他人の生命、身体等に危害を及ぼす違法な有形力の行使に当たり、これにより被害者を死に致したものである以上……信教の自由の限界を逸脱した」ものと判断しました。
また、牧会活動事件では、警察に追われた二人の高校生を八日間匿った牧師が犯人蔵匿の罪に問われた事例において、神戸簡裁は「(この)牧会活動は、国民一般の法感情として社会大局的に許容しうるものであると認めるのを相当とし、それが宗教行為の自由を明らかに逸脱したものとは到底解することができない」としました。
特定の宗教行為をするというわけではなく、通常社会で行われている行為、つまり一般の人には何でもない行為が義務づけられているところで、これを宗教を理由に行わないことが許されるかという問題があります。神戸高専事件というものがありました。エホバの証人である高専の生徒がその宗教教義に従って剣道の授業を拒否したところ、留年さらには退学の処分を受けたというものです。剣道は誰でもできるものだと思われますが、神の教えとして宗教教義で戦うことが禁止されている人にとっては、この行為を学則によって強制され、それに従わないときは退学の処分をされるということは、神の教えを守って退学に甘んじるか、退学にされないために神の教えに背くかという究極の選択を強いられることになります。こんな場合には、一般的に義務づけられた行為からの宗教を理由とする免除が、信教の自由を保障するためには必要となるでしょう。
アメリカではこの問題は1963年のシャバート判決で議論となりました。土曜日を安息日とするセブンスデイアドベンティスト(キリスト教の一宗派)の信者が、土曜日に働くことができないことを理由に解雇されたのですが、合衆国連邦最高裁判所は、この信者に失業保険給付を拒否することは、教義を守って解雇されるか、教義を破って働くかという選択を強いることになり、これは信者に対して負担を強いることになり「宗教行為の自由」(合衆国憲法修正1条)を害するとしました。日本ではこの「免除」については先の神戸高専事件で問題とされましたが、実はここには、信教の自由と政教分離の関係に関するもうひとつの問題が含まれていました。これについては「政教分離」の項目で述べたいと思います。
山崎 英壽