政教分離とは、政府と教会あるいは国家と宗教を分離することです。国家と宗教の関係については各国各様のやり方がありますが、政教分離をとっている代表国はフランス、アメリカ合衆国、そして日本です。ドイツやイタリアは政教条約(主要教会と国家の間で一定の問題について処理する決まりをつくっておく)、イギリスは国教会(国教会を議会が統制する・日本で国教というときとはイメージがだいぶ違います)というやり方をとっており、必ずしも政教分離が世界の常識というわけではありません。
フランスでは、封建時代にカトリックと国家権力との結びつきがプロテスタント弾圧、ひいては宗教戦争を引き起こしたという経験から、近代以降伝統的に政教分離を徹底しています。フランス第五共和国憲法は「フランスは不可分の、非宗教的、民主的かつ社会的な共和国である」(第二条一項)と定め、国家の非宗教性(政教分離)を明確にしています。アメリカ合衆国ではイギリスにおける宗教的圧迫を逃れた人々により建国された歴史を反映して、合衆国憲法が「連邦議会は、国教樹立に関わる法律、自由な宗教行為を禁止する法律……を制定してはならない」(修正一条)と定めています。一般に「国教樹立禁止」といわれます。日本国憲法は「いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない」(20条1項後段)、「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」(20条3項)、「公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、……これを支出し、又はその利用に供してはならない」(89条前段)と定めています。
日本の政教分離を考えるにあたって、その特徴として考慮に入れておかなければならないのは、戦前(第二次世界大戦です)の神社神道と国家の関係についてです。神道は天皇制との関係から特別扱いされ、国教に準ずる地位におかれていました。その反面キリスト教や大本教など、神道と相容れない宗教は弾圧されたのです。日本の古い家には、お茶の間に神道の神棚があり、奥の和室には仏壇があるなんてことが見受けられますが、これは神道を信ずる限りで仏教徒であってもいいということの例です。キリスト教徒は、まさか神棚と十字架を一緒にすることはできないでしょうから弾圧の対象となったのです。(つまらないと思われるかもしれませんが、1945年以前の日本はそんな国だったのです。妹尾河童氏の「少年H」を読むとその頃のことがよくわかります。)戦後、連合国総司令部が発した「神道指令」により神道は国家から分離され、日本国憲法はこの歴史をふまえて第20条で信教の自由と政教分離を明確に示したのです。
政教分離といっても政府が全く宗教と無関係でいることは不可能です。お寺に税金をかけたり、ミッション系の私立学校に文部省が助成金を出したり、「宗教法人法」などという法律を作ることなどは、政府が宗教と関わってしまうことです。ではどんな関係を憲法は禁止しているのでしょうか。過去の判決から考えてみることにします。
津地鎮祭判決は政教分離のリーディングケースと考えられます。市の体育館を建設する際に神道式の地鎮祭を行い、公費を支出したというものです。最高裁は違憲性判断基準に「目的効果基準」なるものを使いました。これは国及びその機関の行う宗教的活動のうち、その目的が宗教的意義をもち、その効果が宗教に対する援助、助長、促進又は圧迫、干渉になるものを憲法が禁止しているというものです。そこでこの地鎮祭は、目的は建築工事の安全という世俗的なものであり、地鎮祭は慣習に従った儀礼であるから、効果は神道を援助、助長するものではないので憲法20条第3項に反しないと判断しました。
津地鎮祭判決の「目的効果基準」はその後の政教分離の問題を判断する基準として定着しています。山口自衛官合祀判決では、殉職自衛官を護国神社に合祀する目的は自衛官の士気高揚であり、効果も特定宗教を援助、助長するようなものではないと判断しました。箕面忠魂碑慰霊祭判決では、教育長の慰霊祭参列を社会的儀礼であるから世俗的であるとして、効果も特定宗教を援助、助長するようなものではないと判断しました。しかし、愛媛玉串料判決では、県知事の護国神社参拝の際の玉串料の公費支出は特定宗教を援助、助長する印象を与えるとして違憲の判断をしました。
わが国の最高裁における目的効果基準の使われ方には問題があり、政教分離の本来の意味をぼやけたものにしてしまっています。たとえば山口の判決についていえば、合祀の目的を「自衛官の士気高揚」だから世俗的なものだとしていますが、日本の政教分離は戦前に天皇制と結びついた神道が戦争遂行の目的に大いに利用されたことの反省に立っているのではなかったでしょうか。とすれば「士気高揚」などという目的に宗教を使わないということが政教分離の意味でしょう。また、津の判決で本来宗教行事であるものを「慣習」といったり、箕面の判決では「社会的儀礼」といったりして、これに「効果」の基準を当てはめますが、一度「慣習」「社会的儀礼」といったフィルターを通してしまえば、その効果は宗教を援助、助長するものではないという判断が可能となってしまいます。慣習化したもの、儀礼として行われたものが本来宗教的なものかどうかを考え、そこに「効果」の基準をあてはめるべきでしょう。
そもそも「目的効果基準」は日本の裁判所のオリジナルではありません。これはアメリカの「レモンテスト」をわが国に輸入したものです。この「レモンテスト」は、@政府の行為の目的が世俗的であること、Aその効果が宗教を援助、助長、促進又は圧迫、干渉するものでないこと、B政府と宗教が過渡のかかわり合いがないこと、という三つの要件をあげていました。「目的効果基準」はこれらの中から三番目の基準を意識的に排除して、わが国における政教分離判決の基準としたものです。ですから、最高裁に対する批判には、本来のレモンテストの三番目の「過度のかかわり合い」基準を厳格に審査すべきであるとするものがあります。
しかし、「レモンテスト(目的効果基準)」は日本国憲法における政教分離判決の有効な基準となり得るでしょうか。アメリカ合衆国憲法の政教分離条項(国教樹立禁止条項といわれる)は「国教樹立に関わる」法律の制定を禁止するというものです。ですから裁判所は、政府がどんな行為をすればそれが国教樹立に関わると考えられるのかを判断しなければなりません。ここでは「目的」「効果」「過度のかかわり合い」の判断は重要でしょう。しかし日本国憲法では「宗教教育その他いかなる宗教的活動」をも禁止するというものです。どんな行為をすればそれが宗教的活動なのかは「目的」「効果」といった基準がなくても判断できるはずです。そこでわが国の政教分離判決には「目的効果基準」は適当ではないという批判も成り立ちます。
政府及びその機関が宗教活動をするのではない場合はどうでしょう。宗教的文化財に対して補助金を支出するとか、宗教系私立学校に助成金を支出するといった場合は、目的が国の重要文化財の保護、あるいは世俗の教育(英語、数学、社会など)の促進(宗教系大学にも法学部や経済学部がありますね)ですから、これを政教分離違反だというと宗教を理由に文化財や学校が不利に取り扱われるという不合理な結果となります。このような事例を判断するにあたっては「目的効果基準」はうまく機能するかもしれません。
政教分離と信教の自由の相剋という問題があります。これは政教分離と信教の自由は厳格に貫いた場合に衝突することがあるということです。神戸高専事件におけるエホバの証人による剣道授業拒否の場合がそうでした。特定宗教を信ずるものに対してのみ必修である剣道の授業を免除すれば、それは当該宗教に便宜を図ったことになり、政教分離の問題を生じます。しかしその免除が当該信者の宗教教義など信教の自由に便宜を図ったものである場合には、これを認めないことには信教の自由を害することになります。このように政教分離と信教の自由が対立している場面では、どちらに重きを置くかによって判断は全く異なるものになります。
みなさんはどう考えますか?
一つの解答は、国家が信教の自由に便宜を図るときには政教分離の問題を生じないとするものです。政教分離の問題は、国家が宗教団体あるいは宗教そのものに関わるときに生ずると考えるのです。そうすれば宗教中立的な国家の規律がたまたま特定宗教を信ずる者の信教の自由に抵触する場合には、当該規律から免除するということが可能になるでしょう。
山崎 英壽