会社が政党などに寄付を行うこと(企業献金)そのものについては、今の法 律(政治資金規正法)では禁止されていません。金額の点で制限があるものの、 法律は個人(自然人)と同じように会社(法人)も政治献金を行うことを認め ているわけです。 政治家に対して会社が政治献金することについては、いわゆる「リクルート 事件」(1988年発覚)を契機に、1994年の「政治改革」によって禁止されまし た。政治家の資金管理団体に対する企業献金についても、今年(2000年)から 禁止されました。このような禁止は、個人の献金と異なり、その金額も大きい ため企業献金が政治腐敗の温床となってきたとの認識に基づくものです。この 認識は正しいものです。 ところが、政党に対する企業献金については、法律で見直すことになってい るにもかかわらず、いまだに見直しが行われていません。その結果、政党の支 部長に政治家が就任することによって、政治家への企業献金が「迂回献金」と して事実上行われています。企業献金が政治腐敗の温床であるとの認識の真意 が疑われます。この認識を前提にする限り、政党への企業献金も禁止されなけ れば、抜け途をつくることになるでしょう。
これに対しては、企業も個人と同じように税金を払っているのであるから、 政治的な自由があり、政治献金することも会社の自由として保障されるべきで あるとの反論が行われます。同じような論法を1970年の八幡製鉄政治献金最高 裁判決も展開しており、企業も個人と同じく「社会的実在」であり、納税の義 務を果たしている企業も政治的表現活動の一環として政治献金を行う自由が保 障されるなどと述べています(1970年6月24日最高裁判所大法廷判決:『最高 裁民事判例集』24巻6号625頁以下)。 しかし、税金を支払っていることだけを根拠にするのであれば、会社にも個 人と同じように参政権(選挙権や被選挙権)を保障しなければならないという ことになってしまいますし、消費税などを支払っている未成年者も保障されな ければならないことになってしまいます。でも現実にはいずれにも参政権は保 障されていません。 また、企業にも表現の自由があるとの論法で政治献金を認めることになれば、 企業献金を法律で制約することは、表現の自由を法律で制限することになると いう不可解な結論に至ります。 ですから、最高裁判所の論法はあまりにもお粗末なのです。
そもそも、個人が政党等に寄付を行うということは、政治的信条・信念に基 づいているはずです。他方、企業はそもそも何のために存在するのかといえば、 経済活動をするためです。たとえ「社会的実在」であるとしても、それは経済 のレベルでの話なのです。企業は政治的信条等で結成されているわけではあり ません。政治団体ではないのですから。 ですから、政治的信念等の行使の一環である政治献金を行うことは、理論上 は企業には認められないのです。 実際に企業献金先とその額を決定するのは経営者です。企業に政治献金を認 めることは、経営者の政治的信念の行使を二重に保障することになります。経 営者は個人としての献金できるだけではなく、会社を通じても献金できるから です。ですから、企業献金を認めるということは、経営者に会社の資金を使っ て自己の政治信念の一環としての献金を二重に保障してしまうことになるわけ です。これは近代以降の憲法における個人の平等という原則から考えても決し て許されるものではありません。高額な政治献金によって政治過程を歪めてし まえば憲法の国民主権は事実上「企業主権」となってしまいかねません(参照、 6のQ8)。
したがって、企業献金は本来憲法が許容するものではなく、法律で禁止される べきなのです(上脇博之『政党助成法の憲法問題』日本評論社・1999年、229 −234頁)。 にもかかわらず、企業献金が全面的に禁止されていないのは、企業献金に依 存している政党、あるいは、経営者のために活動している政党が、国会で多数 派を握っているからなのです。企業献金に依存しない政党が国会で多数派を形 成し、これによって企業献金を全面禁止にすることが必要になりますが、たと えそのような政権交代が実現しなくても、企業献金依存政党が法律による禁止 を決断するくらいに世論を盛り上げる必要があります。
なお、「政治改革」では、企業・団体献金を全面的に禁止する代わりに政党助 成(参照、6のQ4)を導入すると説かれたが、いずれも存続しており、政治 資金の「二重取り」が続いている。政治改革はやり直さなければならないと言 えよう。
(上脇博之)