世間では、「国民は法を守らなければならない」、「規則だから守れ」、「ルールに従うのが当然だ」とか言いますが、国民は憲法を守る義務が憲法上あるのでしょうか。日本国憲法では、「国民は、法律の定めるところにより、納税の義務を負ふ」(第30条)と規定されていることもあって、法律等と同じように、当然、憲法を尊重し擁護する義務が国民に課せられている、と考える人は、多いのではないでしょうか。
しかし、憲法尊重擁護義務を明記している第99条は、「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負う。」と規定しており、「国民」が主語に挙げられていません。
もっとも、この規定については、二つの解釈が考えられます。一つは、憲法尊重擁護の義務は天皇をはじめ国会議員や国務大臣為などの為政者だけに課されているのであって、国民一般には課されているのではない、というもの。もう一つの解釈は、国民一般に憲法を尊重し擁護する義務があるのは当然のことであって、特にそれが強調される為政者などの公務員について憲法第99条は強調しているに過ぎないというもの。
いずれが妥当な解釈なのかといえば、私見では前者です。為政者などの公務員に限定して憲法尊重擁護の義務を課していることには、歴史的な意義があるのです。それは以下のようなものです。
憲法とは、そもそも国の基本的なあり方を定める法規範であると言われます。このような定義ですと、君主主権の下で中央集権国家がつくられ、国民の自由(基本的人権)が保障されていなくても、憲法は存在し得ます。
しかし、近代以降になると、国の基本的なあり方を定めるだけでは憲法の名に値しないと考えられるようになり、市民革命を経て制定された憲法には、国民主権、権力の制限(権力分立)、国民の自由(基本的人権)の保障が盛り込まれます。これは近代立憲主義の原理と呼ばれます。ここには、権力を一人の人間に集中させれば国民の生活、自由が保障されないという歴史的判断があるのです。
ですから近代以降は、憲法によってはじめて各国家機関(各国家組織)は創設され、各国家機関にそれぞれ権限が授けられることになるわけです。その結果、憲法に明記されていない権限は原則として各国家機関に認められなくなるわけですが、これは、憲法が各国家機関の権限を制限していることを意味しています。なぜ、そうしているのかと言えば、そうして国家権力を制限しなければ、国民の生活、国民の自由が脅かされることになるからです。
要するに、憲法によって国家権力を縛り、国家機関に勝手なことをさせないようにしているのが、近代以降の憲法観なのです。国家機関が憲法上守らず勝手なことをすれば、国民の自由(基本的人権)が侵害されるという構造になっていますから、国家権力によって憲法が守られている間は、国民の生活は脅かされることなく、国民の自由も守られるが、しかし、国家権力が憲法を守らなければ国民の生活が脅かされ、国民の自由も侵害されることになるのです。
そこで、国家権力を行使する為政者に憲法を守らせる必要があるのです。このような考え方を反映して、日本国憲法は、天皇を初めとして公務員に憲法を尊重し擁護する義務を課しているのであって、国民にはこのような義務を課しているわけではないのです(なお、憲法は私人間に適用されるのかという論点については、別個に検討しなければならない問題です)。
では、国民は何をすればいいのでしょうか。何をしなければならないのでしょうか。
日本国憲法は、その前文の第1項から第3項までに述べられたことを受けて最後の第4項で「日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓う。」と述べ、また、第12条で「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。」と規定しています。つまり、国民は、憲法を為政者に守らせ、人権を自ら守る戦いを続けて行かなければならないのです。
すなわち、国家が自動的に国民の自由及び権利を守ってくれるわけではなく、むしろ、国家権力、国政の担い手である公務員によって人権が侵害されるものであるから、そのようなことがないように、あるいはそれが起こったときにはこれを回復するように、「国民の不断の努力」の必要性を規定しているのです。
憲法第97条で「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であって、これらの権利は、過去幾多の試練に耐え、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。」と規定されているように、人権が保障されるようになったのは、人類の運動の成果なのです。それを国民は忘れてはなりません。
(上脇博之)
日本国憲法の前の憲法である大日本帝国憲法、いわゆる明治憲法の「憲法発布勅語」の最後の一文は、「現在及び将来の臣民はこの憲法に対し永遠に従順の義務を負ふべし」と結ばれています。国民の憲法従順義務、言い換えれば国民の憲法尊重擁護義務が規定されていました。何故なのでしょうか。
それは、当時の憲法が近代立憲主義の原理を採用せず、表向き憲法を制定して「近代化」しているように装っていたに過ぎないからです。大日本帝国憲法は天皇が統治権を掌握する天皇主権でしたから、主権者である天皇が主権者でない国民(臣民)に対して憲法を守れと規定していたのですが、国民を主権者と規定している日本国憲法は、これとは異なり、為政者に憲法を守れ、と規定しているのです。全く対照的な二つの憲法はこの点でも違いが明快なのです。
1994年11月3日付の読売新聞に掲載された読売新聞社の「憲法改正」試案は、日本国憲法第99条の「公務員の憲法尊重擁護義務」を削除しています。試案の解説(「憲法改正試案のポイント」)によると、第99条を「前文」の最後に残したように説明していますが、試案の「前文」では、「この憲法は、…、国民はこれを遵守しなければならない」と規定されており、「国民の憲法遵守義務」とされてしまいました。これは、近代立憲主義の意味を知らない考え方でして、この点では大日本帝国憲法と同じ発想なのです。日本国憲法には規定されていないことで、どうしても国家が国民に守らせたいことが、予定されているのでしょうね。
ところで、最近、国務大臣が「憲法を改正すべき」との発言を耳にしますが、これは憲法尊重擁護の義務に反しないのでしょうか。
解釈論としては、二つの解釈が考えられます。一つは、そのような発言も憲法が保障する表現の自由(第21条)として保障されるので、当該発言が政治的な問題になることはあっても、憲法尊重擁護義務に抵触するというわけではない、というもの。もう一つは、国会議員と違い国務大臣については、憲法尊重擁護に義務に抵触するという解釈。
私見では、後者の立場が妥当であると解されます。これは国会議員でない国務大臣がそう発言した場合だけではなく、国会議員の国務大臣が国会議員としてではなく国務大臣として発言した場合にも妥当します。
この問題は、まず、憲法改正案の原案を国会に提出する権限との関係で考えるべきであると解されます。憲法改正案の原案の提出権は、国会議員にのみ認められ、政府(国務大臣)にはないと解する立場が妥当です(6のQ1をご参照ください)。ですから、原案の提出権のない国務大臣が憲法改正を許容する発言をすることは憲法尊重擁護の義務に反すると解することは可能なのです。
また、憲法が「内閣は、行政権の行使について、国会に対し連帯して責任を負ふ」(第66条第3項)と規定していることも参考になります。憲法改正を公言する国務大臣がいた場合、内閣の統一性が問われるからです。もっとも、国会議員の場合には憲法改正をすべきであると発言しても憲法尊重義務の規定に即座に抵触することにはならないので、国務大臣としての発言のみ当該義務に抵触するというのはおかしいのではないかと思われる方もあるでしょう。しかし、例えば、院内での言動につき院外で責任を問われない免責特権(憲法第51条)は、国会議員にのみ適用されており、国会議員である国務大臣が大臣として発言したことには適用されないというのが通説ですから、両者を区別する議論は憲法上成り立つのです。
なお、国務大臣の改憲発言は憲法違反の問題は生じないという立場に立ったとしても、その発言を政治的な問題とし、当該大臣や任命権者の責任を問うことは可能です。国民は監視を怠ってはなりません。
(上脇博之)