民主的開発政策から学ぶ

                                                        開沼淳一(京都府職員労働組合)

4月27日、関西支所が開催した「地域政策学習会」の第1回目として、京都府職労の開沼氏が「京都府における民主的開発政策」について講演した要旨を編集部の責任でまとめたものです。

蜷川民主府政を振り返る機会に
    講演の依頼を受けて、蜷川民主府政の開発政策を振り返るいい機会を与えていただき、私自身よい勉強になりました。

今日の話は、片方先生(編注・当研究所関西支所理事長)が蜷川府政の開発政策について、1997年に話されたのをベースに、改めて資料をひっくり返し付け加えたものです。

開発政策といっても、京都府の開発についての蜷川さんの考え方を取り上げているわけで、もっと小さな市町村単位の開発政策や計画のあり方、さらに小さな自分たちの居住空間というか、生活圏をどうするかということを論じているわけでなく、単位としては京都府という地域の開発政策について蜷川さんの考えを言っているわけです。

改めて資料を読み返してみて、大事なことを言っていると思いました。

全国総合開発計画の流れ
   蜷川さんが知事をされていたのは1950〜78年でして、そのころの政策対比として国の国土開発計画の流れを項目的に引っ張り出しています。

1950年に国土開発法がつくられ、基本的には電源開発、エネルギーを中心とした開発でありまして、河川総合開発政策と総合の名をつけていますが、実際のところは発電用のダムをつくるということです。

50年代の後半には、重化学工業化の方向をめざし、60年に池田内閣の所得倍増計画が出され高度成長の動きが強まっていくわけですが、62年の一全総(全国総合開発計画)で新産業都市方式という開発、拠点開発方式がやられるわけです。

新産都市の指定をもらうために、各府県などの陳情合戦があったということです。その中で公害問題も出てくるわけです。

1969年に新全総(新全国総合開発計画)が出され、新幹線、高速道路を大きくやっていこう。そのことをもっと膨らまそうということで田中角栄の日本列島改造論が1972年6月に出され、本州と四国を結ぶ三つのルートの橋は、この日本列島改造論に出ており根拠になっているものです。

その後、三全総(第3次全国総合開発計画)が、公害問題から地方都市を充実させていかなければならないということで、「定住圏構想」だとか、東京一極集中を改めるということで「多極分散型国土構想」が出されたりしています。その間に、83年にテクノポリス法、86年にリゾート法が出され地域の開発が進められるということになっています。

1998年3月に5全総がだされ、地球規模の大競争時代に打ち勝っていくことと、大規模プロジェクトで5本の超大橋をかけるとかをやっていこうという5全総が出されています。

要するに、国の政策をみても流れを見ても大規模プロジェクト、それも産業基盤最優先というか、そのことで大変なカネを使うと。それも地方自治体を巻き込んでやるということが続いていて、各自治体なんかが、テクノポリスにしても、リゾートにしても国の言うことに飛びついて、後で大きな負担になるという図式がずうっとやられてきているのでないかと思うのです。

蜷川府政の開発の考え方
   そういう流れの中で蜷川さんは、そのような国の政策に真っ向から反対するということでやられてきたわけですが、総合開発計画については、本来の姿として四つの段階が必要だとしています。

資料として「総合開発計画は科学的に」をつけていますが、あらためて大事だなあと思いました。1964年(昭和39年)ですから昔ですが、その当時から「言っていたんだ」と思うわけです。

総合開発とは一体どうあるべきかということを言っているわけですが、蜷川さんの言葉を少し読み上げてみますと「我々が計画を立てるという場合に、仕事をする場合に、先ず第一に、われわれは行政目的を確立しているわけです。目的がないところに計画はありえない。何をしたいか、何をすべきであるかということを、先ず目標を規定いたします。その目標に基づいて、われわれは現実事態の認識把握を行うわけです。これをわれわれは調査と申しております。この調査につきましては、過去13年間、実に部屋が一杯になるほどに資料を集めている。この調査に基づいて、すなわち目標の規定と現実事態の認識によって計画を立てる。……その計画に基づいて行政措置を講ずるわけです。この4段階を通らずに、一部の方は怪しげなるビジョンとか言う言葉を使うのです」

この中にありますように、ビジョンについて真っ向から批判しています

夢物語ビジョンについて、根拠のないものをビジョンとしてつくるというようなものは総合計画ではないんだと真っ向から批判しています。蜷川さんの言葉を引用しますと「ほうぼうに出てくるマスター・プランとか何とかを見ると、これはまるで夢の架け橋みたいなもので、一体どこに目標をおいているのかさえわからない。ほとんど調査がない。ただ、10年後どうなるかというような統計的な推算をやっているというようなわけです。……いま申し上げたような4段階を経ていくことが正しい」といっておられます。

現在の京都府のなんとか計画もこのようなもので批判を受ける中身ではないかと思います。

  各自治体の中でも、10年後どうなるか、長期的に多くの計画を盛り込むというのではなく、短期の正確に予測できることを土台においてやることが大事だと思います。蜷川さんの総合計画、開発計画の考え方としてきわめて大事なところで、特に調査ということについて大事だといっておられますが、改めて踏まえなければいけない点ではないかと思っています。「10年後、こういうことをしますよ」だけではどうにもならないということです。

・京都府の総合開発計画    具体的に京都府の総合開発計画が作られたのは1964年3月です。一次府総、二次府総(1971年3月)とつくったのですが、蜷川さんとしてそれで十分だったかどうか、機能したのかどうか、なかなか、十分でなかったところもあったのではないかと思うのですが、考え方としては、極めて大事なことを言っているし、その点でほかの府県とまるきり違うことがやられてきたということも事実です。
   計画の目的も、〈政府の計画〉は、資本の利潤を極大化するための産業基盤整備を最重点にしていますが、〈府の計画〉は、住民の福祉の向上を対置しています。計画の考え方が真っ向から違います。

二つ目の地域開発方式です。〈政府の計画〉は、拠点開発方式で地域の特性を無視して設定し重化学工業へということが当時行われました。そういうことではダメだということで〈府の計画〉では、根幹的事業方式―後になって、言葉の意味が少しわからないということで、二府総では転換していますが、地域産業に立脚し、釣り合いの取れた発展をはかる総合開発方式をやるのだ。地域についても、個々の町村の単位ではなく、府域を三つに分け、さらに7地区に分けて、地域産業を根幹的事業と位置付けて総合的、統一的に振興を図っていかなくてはならないということが、一府総の中で考えとして出されています。

二府総は、1971年3月で、この時も国の高度経済成長方式を真っ向から否定して、公共事業は資本本位の施設整備でなく、産業基盤施設や生活環境施設とも住民福祉の観点から総合的に整備しなければいけないという見方からつくられました。

根幹的事業方式については、京都府が実施するということだけでは十分ではなく、国であれ、民間であれ、それらを含めて統一的にどのように誘導していくのか―ということを考えていかなければいけない。根幹的という場合、京都だけの事業を頭に置いていたのはまずかったのではないか―という反省から地域開発方式が打ち出されることになったのです。

公共、民間、各種事業主体の事業の総合調整の基本的方向を定めたガイドポストの役割を二府総はうたっているわけです。

・開発について(開発には二つある)   開発についての考え方をまとめてみたいと思います。蜷川さんの言い方としては、開発には二つあるのだといっています。一つは、資本の利潤追求の条件づくりであり、二つ目は、住民の暮らしの条件を良くし、その基盤をつくると言っています。その中間はないのだという言い方もしています。その点ではっきりした考えで臨んだといえます。

・開発と保存
    最近でも論争になる開発と保存の問題について、蜷川さんの言葉を引用しますと「よく、開発と保存は矛盾するのではないかといいますけれども、そういう文化財を保存すること自身が、住民の暮らしを守る所以であるなら、われわれは保存に徹します。したがって京都府においては開発と保存というものは一つも矛盾もなければ、衝突もしません。彼らが資本家的な立場に立つから衝突するのです。われわれは、そこに住む住民の立場にたつ限り、開発とはまた保存のためであり、保存はまた開発のためである」。ここでも、住民と矛盾しないということを出しています。現象的にいろいろあるかも知れませんが、確信をもっているのは大変大事な視点かなと思っています。

・見える建設、見えない建設     建設と開発の中で蜷川さんがよく言っていたのは、見える建設と見えない建設ということです。

物を作るという見える建設とそこにある見えない建設が大事なんだと。われわれの精神の中に民主主義を植え付けることがもっと大きな建設である。一つ一つの事業にしても見えない建設やっていくということが大事だと繰り返し言われていました。

私は1970年に京都府に入って、研修の中でも、大変印象的だったし、肝に銘じるように入っている言葉です。

・タテの開発    太平洋ベルト地帯中心の国の開発政策に対し京都府では、日本海側を京都府の表玄関と位置付け、日本海と瀬戸内海、太平洋とつなぐ。北の開発をやらなければならない「北道南水」と言い方をするのですが、北の方ではまだまだ道路が足らない。丹後半島の周回道路や横断道路などやっていました。そして、南は治水、水需要という考えがありました。

・防災計画    防災計画でも防災重視という点で注目されるべきものがあります。1953年(昭和28)に南山城大水害がありました。1972年に線引きがありまして、60年ごろから大手ディベロッパーが買収していたのですが、そこを調整区域に指定して開発ができないようにしたように徹底したやり方でした。一つの特徴であります。

78年の林田府政誕生以降、次第に市街化区域に転換することになります。

・四つのベルト 地域を一つのまとまりとして次のように捉えています。日本海ベルト、丹波地域ベルト、京都市中心のベルト、南山城地域のベルトの四つのベルトです。

78年以降の京都府総合開発計画
   78年に林田知事が登場するわけですが、90年の四府総は「真の豊かさと均衡ある発展」をとなえ、関西文化学術研究都市、丹後リゾート、北近畿拠点都市圏、京都中部環境文化都市、京都半環状都市、木津川右岸地域整備を掲げましたが、具体的にすすんだのは学研と丹後ぐらいです。

今年策定された五府総は「むすびあい、ともにひらく新世紀・京都」などと京都府のめざす将来像ということで2010年にはこうなるを出していますが、蜷川さんの言葉でいえば、夢物語のビジョン方式ということになるのではないでしょうか。

この開発計画は、現実の府民の生活はどうなっているのか。そういった調査、分析から出発していないのが特徴です。

関西文化学術研究都市について
   関西学研都市は林田府政のメインプロジェクトになっていました。

全総の近畿版としての「近畿圏整備計画」は78年4月に〈近畿地域産業構造ビジョン〉を出していまして、大阪中心部を金融など中枢管理、周辺部に重化学工業立地、さらにその周辺部に大規模ニュータウン。京都南山城は学研都市開発区域に設定、北部はエネルギー基地に。

南山城地域は、60年ごろから大手ディベロッパーなどに買収されていましたが、72年の線引きで調整区域になっていました。78年に林田知事の当選で「近畿ビジョン」が三府総に盛り込まれ、2000fが開発区域に設定されました。開発できるということになれば市街化区域に変更していくというのです。

開発に対して、京都府としてどういう目的で開発するのかが明確でないということがいえるのです。京都府の必要性から開発するのではなく、大手デベロッパーである近鉄だとか、京阪だとかの土地が利用できるようにする。単に住宅地造成と云うことでは地元的に賛成が得られない。学術研究都市といったキャッチフレーズをつけて京都府とか市町村とかの人的にも財政的にも投入できるようにした。

学研都市をつくるときには、京大の奥田さんらがメンバーとして委員会に入って、関西学研都市に新文化首都をつくるんだと云っていました。職住近接の都市にする。福祉コミュニティの都市をつくる。省エネルギー、省資源の都市。環境保全のまちをつくる。このような理念があって、地域内で就業できるような自足できるまちにする。働く婦人の育児、家事とか、老人・身障者のためのコミュニティセンターをつくる。モータリゼーションをやめて公共交通をつくる─といろいろ云っていた。

結局出来たのは、研究施設はあるけれども、大規模住宅地造成が行われたという以外にないと思います。

新文化首都とは、およそ違うものになってしまった。1960年代のニュータウンの水準にも達していない。というのは、千里ニュータウンの場合は、ある程度鉄道を敷くとか、福祉施設をどこに配置するとか、病院はどこにとか一定つくる中で、ニュータウンはつくられた。ところが(学研都市には)そういったものが実際何もない。

そのため、国土庁が窓口になって、学研都市の見直しをやったんですね。第2段階のプランをもう一度つくらなあかんと。セカンドステージプラン推進委員会をつくり、1996年4月25日に答申を出して、都市建設の現状の評価をしています。

それは、「都市的利便性を確保する都市センターがない」といっています。国会図書館や劇場なんかはあるんですが、都市として本来備え付けておかなければならないセンターがない。不十分でないかと国土庁の答申の中でも云っています。

鉄道などの広域交通体系、主要駅と開発区域を結ぶバス路線なども不十分ですよと指摘しています。1996年のことなので、最近は(バスを)増やしていますが、主要駅まで、奥さんが送り迎えしているということがあります。

また、サービス機能(医療、保健、福祉、商業、文化・余暇、教育、研究サービス)についても不十分で、整備が必要だといっているわけです。

学術研究都市を実際につくったわけですけれども、研究施設はありますが、それと無関係に住宅地が張り付いている。職住近接とは関係ない。要するに住宅地造成がされたというまちになっているわけです。果たしてこれが、新文化首都、新たな21世紀を担うまちづくりだったのか。わざわざ京都府が(最近はどれだけ金をつぎ込んだか云わなくなった)今では、1000億円を超えるかもしれないカネを投入しなければならないような事業だったのかどうかです。京阪資本などは大もうけしているはづです。

千里ニュータウンは成功の部類に入るのではないかと思います。それでも、老人福祉の関係は不十分だという評価があります。また、老人ばかりの世帯になってきているとかがあるわけでして、ニュータウン開発がいいのかどうか問われると思います。

その同じことが学研都市で行われている。老人の利便施設がないので、ある年齢になると再びまちの真ん中に出て行かなければならなくなるのではないかと思います。四府総であれ、五府総であれ、学研都市であれ、蜷川さんの開発についての視点が大事で、四つの段階を踏まえること、今の時代にも通じている大事なことではないかと思っています。

私の主張・見解・視点

ここに掲載するものは、建設政策研究所関西支所の月刊誌『関西交流ニュース』から転載したものです。

総目次に戻る

トップに戻る