
| 雑誌SPA!の2002年1月22日号で『なぜ、ボクらはいつのまにか[泣ける(けどヌケない)エロゲー]にハマったのか!?』という記事が載りました。このテーマは私も前から興味を示していたことであり、良い機会なのでこれまでの考察をまとめてみます。 序論 現在の状況 1. 経済的市場による理由 2. 心理的理由 3. 文化としての理由 結論 序論: <販売が18歳以上に限られ直接的なポルノグラフィ場面を表示しているPCゲーム>これが一般的に<エロゲー>と呼ばれている商品である。出版技術が上がって結果増えたエロ本・ビデオの普及に伴うエロビデオなどと同様の系統で、パーソナルコンピューターの一般化による新メディアである。 元来ポルノグラフィ表現で性欲処理のための代用品として誕生した商品であるが、その根本を維持しつつも別目的の亜種が近年売上を伸ばしている。性行為表現を含めながらも性欲処理の実用にはほど遠く、代わりに物語性を重視し高度な感情表現を刺激して感動すら与えるほどのエンターテイメントを実装した18歳未満お断りゲーム……感涙を誘うテーマが多く取り上げられることから『泣きゲー』と称される類の台頭である。 この類の刮目すべき点は、あくまで性欲処理オンリーでしか発達しえなかった出版やビデオ映像の各メディアとはあきらかに違う方向性が受け入れられていることである。勿論未だに実用性方面での需要・供給は多いが、互いにシェアを奪い合うわけではなく共存し平衡して市場を拡大していることに特異性がある。それはエロゲー市場が泣きゲーに中心を移したわけではないのに供給割合も売上も延びていることでも明白である。 上記を検討するに、以下の3分野からアプローチしていくこととする。 1.経済的市場による理由 “永続性”それが自由資本主義下における会社組織の第一命題である。資本投下と回収、その比が物価指数を常に或いは短期的に上回っているのが理想であり条件でもある。産業形態の推移は言うに及ばず同形態内でも利子率の高いモノに移行していくのは必然的であろう。 さてプラットホームの拡大によるソフトの需要拡大は数学的にイコールとなるのは当然のこととして、同メディア内では純粋な実用性と付加価値性がシェア確保の橋頭堡となり得る。ワープロソフトなどはその代表例といえるだろう。 しかしながらエロゲーでの特殊性はその二つが乖離して発展している点である。実用性は実用性オンリーで、付加価値性は付加価値性方向に専門的に向かっている。つまり泣きゲーは実用性において全く欠ける方面に亢進中であり、両立は需要側から必ずしも求められていない。 さて実用性の最新作として『はじめてのおるすばん』に代表される性欲処理専科商品は、供給側の存続維持目的には極めて単純にして純粋である。故にこれらの存在や開発には疑問を差し挟む余地はない。 対して性欲処理が必然として要求されていない泣きゲーは、18禁にしても一般作にしても中途半端であり会社組織の永続性を達成する手段としては実に心許ない。しかしこれはあくまで泣きゲーがエロゲーから生み出されたという視点からの判断に過ぎない。逆に『泣きゲーとは一般作がエロゲーの形を取った商品』であると考えたらどうであろうか。 プレイステーションやゲームキューブに代表される家庭用ゲーム作品の傾向としては、実のところテキスト的なストーリー性より画像や音の演出やシステムが重視される。もっと厳密且つ大胆に評すれば「ストーリー性は再生産に結びつく最大要素足り得ない」となろう。家庭用ゲームにおいて人気を博する要素は単純な爽快感に集約されている。プラットホームの機能を生かした映像表現や操作の戦法・戦術が、売上に結びつくほぼ全てと言っても過言ではないであろう。対してストーリー性のみを追求した商品は、評判にはなっても利益確保には結びつかない場合が多い。ストーリー性に比較的高い必要があるはずの恋愛ゲーム(所謂ギャルゲー)でさえ絵や声による萌え要素でほぼ価値は決してしまい、優秀な脚本であっても一部のマニアを唸らせるだけに終わってしまっている。 また機器の機能を最大限発揮させる作品には膨大な開発費がかかる。特にポリゴンを駆使したロールプレイングや格闘などは大手資本でしか手をつけられないのが現状であろう。そのような家庭用ゲーム市場においてストーリー重視作品で投下資本の回収を安定してするのは極めて難しい。 また大手以外のほとんどの開発会社は開発費が少ないためアイデア・脚本や一枚絵のCGで勝負しなければならないこともあろう。故に少ない開発費で勝負できる市場を求めて資本の投下が動くのである。 しかしながらこれだけではPCゲーム市場でも資本の再生産は不可能である。ストーリー重視の作品の多くは付加価値が高いが実用性が希薄なのだ。俗な表現をすると“いい話だけど食指が起きない”となる。ここでキャラクターに少しでも性行為表現を加えればそれだけで売上は飛躍的に伸びる。実用性は著しく欠いていても0ではないだけで投下分の資本を回収できるだけの売上は確保できるのだ。無論家庭用ゲームに比べてPCゲーム市場は狭くはあるが、前述の通り投下資本より売上が物価より上回っていれば問題ない。また開発費の少なさは新興会社の参加や資本回転率の向上を容易にする。 さて、では何故PCゲームではあまり高機能を必要とする演出が重視されないのであろうか。それはコンシューマと違い使用機器がユーザーごとに変わるためである。高機能を使用機器に求めると必要経費がかなりかさむ。また家庭用ゲーム機器の技術的発達により、PCのグレードアップよりも安価で済む。早く言えば「CPUとグラフィックカードを買い換えるより、PS2買った方が安くて高性能のゲーム機が手に入る」となる。 実状として、アクションやRPGなど爽快感を重視し高機能を必要とし開発費のかかる大作は家庭用、その他はPC、と棲み分けが自然と確立されてしまっている。 以上、少額の開発費と脚本で勝負できる市場がPCゲームなのである。いわば零細企業向けのローリスク・ローリターンで高利子の望みは薄いが、一発の狙える市場でもある。ゲーム市場は元々評判がリアルタイムで伝播されやすい環境内にあり、前日まで無名な作品でも発売一週間でメジャーになりえる。これは白もの電化製品や自動車などと違い寿命が短くサイクルが早いことと、音楽業界のように供給側の事情で流行のほとんどが決まってしまうコントロールされた市場ではないためでもあろう。 泣きゲーがエロゲーとしての形を取るのも、泣き単体では投下資本を回収できるほどの売上が見込めないためであり、再生産のための苦肉の策と見なした方が実状に近いのではないだろうか。 2.心理的理由 出版や映像業界では終ぞ物語性に富んだ性的風俗作品は流行することがなかった。今のところ“脚本が良くても実用性のない商品”がもてはやされているのは性風俗流通業界においてエロゲー市場のみである。性欲という共通の土台を持ちながらエロゲー界が奇異な発展を続けているのは何故であろうか。 これは疎通の双方向性にあると考えられる。 まず前2つ、書籍と映像のメディアでは絶対的に一方向のみである。供給された物質に、使用者は自らを合わせるしか方法がなかった。しかしながらエロゲーにはその多くが選択肢が存在し使用者の意志が反映できる。つまり疑似的で一定範囲内だけだが双方向が確立されている。つまりエロ本やエロビデオでは傍観者の立場以外に使用者の居場所はなかった。それがエロゲーでは物語内部の出演者としてのシミュレーションに参加可能になったのだ。 疎通が一方向では使用者に自由はない。文字の向こうに浮かんだ空想でも画面内の映像でも、使用者に変更は出来ないので出演者(多くは男優)に本質的な同一視をするのは極めて難しい。操作できないモノに自我が共感できる容積はあまりにも少ないのである。しかしながら同時に物語内のキャラクターに対する責任感も生じない。陵辱モノでAV女優がどんな酷い目に遭っていたとしても、それが完全に自分の届かない世界で展開されている架空の物語であるため理性が安心して欲情だけを発散できる。いわば『視姦的』な欲情となる。ちなみにある種の精神疾患を負った人が自他の傷害に無頓着なのも、自分が“ここにいる”と感じられないためである。健常な人でも、爆破テロが隣町で起こったか地球の裏側で起こったかによって印象が随分違うであろう。 対してエロゲーでは展開を主人公(プレイヤー)の選択にて決定するシステムが多く採用され、登場キャラクターの運命を操作可能なのである。流行の言葉で表せばインタラクティブ性が高いのだ。故に同一感は一方向メディアの比ではなく、没入も容易に達成される。 さてここで無意識のことについて再確認してみよう。フロイト的にもユング的にも無意識は反社会的衝動のるつぼである。自我が抑えている本能的欲情が隙を狙って吹き出そうとしている危険な部位だ。しかしながら同時に人間は社会的動物としての本能も備えていることを忘れてはならない。精神分析学でも分析心理学でも、人間は本能的に社会的秩序を構築したと論じている。つまり自我のタガが外れて無意識が吹き出したとしても衝動と同時に抑圧も発露され、反社会的行為は長くは続かないのである(例えば精神分析学では、鬱病は無意識である超自我が自我を攻撃しているから起こる、としている)。 エロ本やエロビデオではインタラクティブが限定されていたため性的衝動の発露が“許可”されていた。だがエロゲーは双方向疎通が擬似的にも可能であり没入が容易なため、(精神分析学用語で言えば)イドと同時に超自我まで“自由に”発露してしまっているのであろう。つまり『現実世界に近付いたために反社会的・非人道的行為が躊躇われる』のである。人間に動物的本能の発散を要求する機構があるのと同様に、社会的欲求を満たそうとする部位が高尚なカタルシスを求めるのだ。 故にエロゲーは専門化が起こる。もはや欲情と高尚は同一レベルで作品内に存在が難しいほどインタラクティブ性は高められているのである(これは現実世界で性行為の場と社会生活の場が厳しく仕切られていることでも理解可能であろう)。性欲処理は『はじめてのおるすばん』や『螺旋回廊2』などのマニアックな方面に、感動は『AIR』や『君が望む永遠』などのエロ少な泣きゲー(欝ゲー)に、それぞれ系統分化が進んでいる。 3.文化としての理由 泣きゲーの舞台は地方都市が主である。性欲処理に徹したエロゲーが場所に拘らないのに対し、泣きゲーは一括して自然風景を好む。これは大都会の場面が多いトレンディドラマとはかなり対照的だ。またNHK朝の連続小説のように地方在住のユーザーをターゲットにしているためでもない。これは“ノスタルジィを喚起させるための記号”と判断するべきであろう。 トレンディな実写ドラマのメインターゲットは10代後半から30歳前の女性であるため、現実利益に即した憧憬を喚起させる要因を鏤めることになる。美男美女が大都会でゴージャスに満喫している姿を自分に重ね合わせて陶酔するのだ。しかしこのような代償行為は男性には充足感を与えない。話題合わせのためにつき合いで見ているのが本音で、実写ドラマを喜んで見ている男性など実はかなり少ないだろう。これは男女間の本質的価値観の差から生じる乖離であり、接近することはあっても合一になることはあり得ない。さて都会的センスに支配されてしまったゴールデンタイム〜深夜前放送枠では無機質な風景が続くことになりいかにも殺風景だ。ヒロインの部屋はセンス良くオシャレな装飾をしているが、生活感がまるで感じられないことも希では無かろう。ドラマの内容も掴みの派手さや人気役者の確保ばかりに力を入れた薄い作品が大量生産されている。実際、TV番組のガイド本でも読者コーナーに「最近のドラマよりもアニメの方が面白い」との投稿が目立ってきているほどである。ただしこれはTV番組の構造上仕方のないことでもある。視聴率が全ての放送業界では放送前の宣伝と初回のインパクトで評価がほぼ決まってしまうので、全編終了してから総合的に好得点を得ても仕方がないのである。 さてTVドラマでこのような世界が展開されているのであれば、それに飽きた消費者が別方面の歓楽を求めるのも不自然ではない。ドラマで『白線流し』に代表される脚本重視の作品が注目されるのも必然かもしれない。そしてこの作品も田舎を題材にしたノスタルジックな雰囲気を表面に押し出している。 ではどうしてノスタルジィが感動と連動しているのであろうか。発達心理学では、成人の感情は得るものではなく喚起するものである、としている。つまり思い出す或いは転用しているのである。これは生誕から青年期まで他人とのコミュニケーションを断たれていた人間が、後には言語や感情を会得できなかった事例からも確認されている。故に外や上しか見ていない享楽では刹那的な情動しか得られないのである。本当の感動とは内側から湧き出て来るものであると定義しても大筋間違いではないであろう。 少し話が逸れるが、「○○で初めて感情というモノを知りました」というのは上記の発達心理学上からして間違いである。厳密に言うなら錯覚しているのであろう。元々内部にあるカタルシスを自我意識が認識する機会がなかっただけである。外に開かれた情報の窓口としてモニターが主となってしまった現代日本人にはそれも不思議ではないのかもしれない。 一方で映画やゲームというメディアは発売された時点で物語は完了しているので評価は総合得点でされる。またネットの普及により供給側に加工されていない情報が流布されるので、シビアで実状に沿った反応がされる傾向が強い。故にゲームは導入部分のインパクトだけではなく総合的物語としてトレンディなTVドラマよりもずっと高い完成度が求められるとしても過言ではあるまい。 刹那的な衝撃ばかりで深い動揺に欠けている周囲の情報源の対極として、泣きゲーはその穴埋めを十二分に果たしている。オシャレなだけで人間の匂いに欠けた流行がもてはやされる表の(マスメディアに作られた)風俗文化に飽きた人間が、他に入手できるメディアにウェットな部分を希求しても不思議ではないであろう。 泣きゲーは現代日本TV文化の補償としてその省みられない部分、郷愁的で重くて家族的でダサい箇所が詰まっている。しかしそれがかえってカタルシスを誘引する手助けになっているのは皮肉とも言えるだろう。 結論 開発資金の少なさ→脚本や音楽などマンパワーで勝負するしかない→PCゲーしか参入出来る市場がない→PCゲーで採算が取れるのはエロゲー……とのルートで会社を興したソフトハウスは多いのでは無かろうか? そんな環境でクリエイターの社会的なエゴを満たせるのは『シナリオ重視のエロゲー』しか選択肢がなかったのかもしれない。 だがそれが自由資本主義社会の中で存続している現状は、様々な要因が入り乱れ昇華された結果でもある。故に泣きゲーの成立にポルノグラフィは不可欠な要素だったのであり、ごく一部の例外を除いて今のところまだ分離しての継続は不可能であろう。エロシーンが無くても泣きゲーは優秀な作品が多いが、エロシーン無くして開発者が報われることはまず無いであろう。会社もスタッフも霞を食べて生きているわけではないので、充分な報酬を受けて次の作品に取りかかるためにもある程度の売上確保要素は必要である。 メジャー化してきているとはいえ泣きゲーはまだまだアンダーグラウンド的な存在であり、一般に認知されてはいない。いや表に出ない存在だったからこそここまで発展してこられたとも考えられる。 ただこれだけは確実に言える。泣きゲーは突然変異によるイレギュラーではなく、風俗・技術・心理の歴史的流れの必然であったと。 |