航空自衛隊 入間基地・修武台記念館 埼玉/入間


▲修武台記念館。旧陸軍航空士官学校本部

 

昭和13年、ここ豊岡に陸軍航空士官学校が創設された。
航空兵科を志す者は、陸軍予科士官学校卒業後ここに進んだ。
学校所在地の「修武台」の名は、昭和16年、昭和天皇の命名による。

昭和20年、敗戦とともに米軍が進駐、「ジョンソン基地」として運用した。
朝鮮戦争時には、ジョンソン基地と横田基地から飛び立ったB29によるが攻撃が全体の約8割を占めた。

昭和29年から航空自衛隊・入間基地として移行を開始、数回にわたり返還され、完全に日本に返還されたのは昭和53年であった。
現在は航空自衛隊最大の基地となっている。

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桜花一一型 [MXY7]
「桜花」は自分では離陸出来ない滑空機で、昭和19年8月、「マルダイ部品」の名で試作が開始された。一一型は一式陸攻を母機とし、頭部に1200キロの爆弾を搭載、機体は軽合金製で主翼・尾翼は木製、後部のロケットを必要に応じて使用する。


▲1200キロ爆弾。

母機に懸吊され目標近くまで接近し空中で発進、グライダーのように滑空して突入する。
途中、敵を振り切ったり滑空距離を伸ばすため火薬ロケットを三基装備、これには艦上攻撃機「天山」の滑走距離を短縮するための「四式一号ロケット」が使用された。

昭和19年10月、「桜花」を主戦兵器とする神雷部隊が新編成された。桜花パイロット、運搬する陸攻隊、掩護の戦闘機隊から成り、開隊は百里原海軍航空基地、後に神ノ池海軍航空基地に移り訓練を重ねた。

「桜花」の運搬にあたった空母「信濃」そして「雲龍」が撃沈されたため発動は遅れたが、最初の出撃は20年3月、土佐沖に現れた米機動部隊に対してだった。しかし、敵空母に接近する前にグラマンに補足され母機の一式陸攻もろとも全機落とされてしまった。

敗戦までに神雷部隊は10回出撃、駆逐艦「マナート・L・アベール」撃沈と他に僅少な成果をあげたが、パイロット55名と母機の搭乗員368名を失った。


▲一式陸攻に懸吊された状態。
胴体の前半分に1200キロの爆弾、その後に操縦席、その後部にロケットが三基、主翼は木製で短く、母機に懸吊されるため双尾翼。

一一型は敗戦までに755機完成していたという。

四式一号二〇型火薬ロケット
3基搭載、母機から切り離されたあと必要に応じて使用する(1本で9秒噴射)。


復元製作された各種信管と計器盤。


「桜花」は3種類つくられたが、実際に出撃したのは、一一型だけであった。

721空が「神雷特別攻撃隊」として編成され、昭和20年3月21日の最初の米艦隊攻撃以来、6月末までに沖縄方面へ10次にわたる特攻攻撃を実施、「桜花」一一型56機が参加した。
ところが、敵艦が「桜花」の射程内に入るまえに母機もろとも撃墜されてしまうので、「ツ11型」ジェットエンジンを搭載して自力航行能力をつけた二二型が考えられた。
母機を「銀河」とし頭部爆弾は600キロ、緊急増速用に火薬ロケット1基を胴体下に装備したものである。

さらに本土決戦用に、海岸近くの山中からカタパルトで射出しようと考えられたのが四三乙型。「ネ20型」ターボジェットを搭載、頭部爆薬は800キロ。


▲主翼と胴体の接合部分。


▲製作途中の再現主翼。


▲修復前の状態。平成11年撮影。
この機体は米軍ジョンソン基地時代、台の上に置かれ、標識もしくはモニュメントのように扱われていた。

 

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中島 一式戦闘機「隼」[キ43]残骸
「隼」は陸軍で最初の、引込み脚をつけた制式戦闘機で、運動性、航続力、操縦性やエンジンの信頼性、整備面にすぐれ、大東亜戦の全期にわたり広い戦域で用いられた。海軍の零戦と並ぶ、日本の代表的な戦闘機で生産機数も零戦に次いで多い。

この機体は平成4年に、ミャンマーで遺骨とともに発掘された。調査の結果、乗員は陸軍飛行第六十四戦隊所属の山口陸守軍曹(岡山出身・当時21歳)と判った。
飛行第六十四戦隊は「加藤隼戦闘隊」の名で知られ、タイ各地を基地として激烈な戦闘や長駆の出撃をくり返した。

一式12.7ミリ固定機関砲
一式戦から五式戦にわたる陸軍のほとんどの戦闘機に搭載された。
後期の「隼」はこの12.7ミリを2梃のみ、胴体銃として装備していた。主翼の構造上、翼内に銃を装備することは不可能だった。
のちに20ミリ砲装備の試作機も作られたが実用には至らなかった。


▲加藤建夫中佐(戦死後、少将)の軍服。

加藤中佐は北海道出身で、昭和16年4月から戦死する17年5月まで飛行第64戦隊の戦隊長を務めた。

作戦には自ら出撃、陣頭指揮をとったことは地位ある将校としては極めて稀なケースであった。

中佐の最後は、ベンガル湾で英軍の爆撃機を攻撃中、被弾し発火、もはや基地への帰還は不可能と判断し垂直に海に突入、自爆した。常々、海上で甚大な被害を受けた場合にとるべきであると部下に語っていた行動だった。

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川崎 二式複座戦闘機「屠龍」
  [キ45改丙]
残骸
昭和10年代の始め、世界的に双発重戦闘機の研究が流行っていた時期に開発された。
当初は活躍の場がなかったのだが、後にB29の迎撃に真価を発揮することとなった。

昭和20年1月27日帝都に来襲したB29の大編隊を迎撃するため水戸陸軍飛行場をこの屠竜が発進した。
午後1時過ぎ、船橋上空において敵大編隊を捕捉、果敢なる前方攻撃後、反転し後方より覚悟の体当たり攻撃を敢行これを撃墜した。同時に本機も火を噴き、必死に操縦するも遂に力尽き、直撃必死と思われた民家を急旋回で回避、近くの水田に深く突入し乗員は2名とも散華された。
操縦士は小林雄一軍曹(小飛10期・兵庫県出身)、通信士は鯉淵夏夫兵長(小飛14期 ・茨城県出身)であった。

この偉勲に対し感状が授与され、それぞれ少尉・准尉に特進、全軍に布告された。時に小林軍曹20才、鯉淵兵長18才であった。

この機体は、平成8年に八千代市において戦後51年目にして発掘され、遺骨とともに収容された。


▲エンジンは三菱「ハ102」
空冷星型複列14気筒、海軍名は瑞星二〇型


▲搭載していた20ミリ機関砲 [ホ五甲] 昭18.11


▲主輪と尾輪

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四一式山砲
制定が明治41年と、古くて射程も短かったが満州事変の際に使用したところ、歩兵戦ではさほど長い射程は必要としなかったので、昭和11年頃から再び生産が始まった。歩兵連隊の連隊砲中隊に4門配備されていたので「連隊砲」とよばれていた。
山砲は分解して馬で運ぶ軽火砲で、野砲は馬で曳いて移動するが使用する弾丸は共通のものである。

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入間基地内で発掘されたエンジン。
航空士官学校時代に使用された九五中練、または九九高練のもの。

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九七式軽迫撃砲


九七式曲射歩兵砲
砲身、脚、床板の三部で組み立てられた迫撃砲で、有翼弾を発射する。

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▲航空機の主輪
左から、「機種不明の爆撃機」、川崎「五式戦闘機」キ100、川崎「三式戦」飛燕キ61、国際「四式基本練習機」キ86、中島「九七式戦闘機」キ27

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▲自動航空写真機 1号2型


▲航空機搭載カメラ


一式燃圧計(左)
「隼」に装備されていたもの。
九三式飛行時計(右)
「二式高等練習機」に装備。


▲九二式野戦電話機


▲地三号無線機・受信機


▲50キロ航空爆弾


▲手回し発電機

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修武台

大正9年、従来は幼年学校出身者だけが学んだ「中央幼年学校本科」を「陸軍士官学校予科」とし、幼年学校出身者と中学出身者の両者を共に教育することになった。
両者の融和を図るのが目的であった。
この頃は中央幼年学校、士官学校予科・本科は市ケ谷台にあった。

昭和12年、支那事変が勃発、予科在学中の53期に学生が追加され(総数は約3倍になった)たため、本科は座間に移転、予科は「陸軍予科士官学校」と改称された。
また航空兵科も同時に所沢の分校に移転、翌13年豊岡に「陸軍航空士官学校」が新設された。現在の入間基地である。
航士の第一回卒業は昭和14年、51期生95名だった。

将校の増員が緊急要件とされ、昭和16年には予科士も市ケ谷から朝霞に移った。
陸軍士官学校(座間)を「相武台」、陸軍予科士官学校(朝霞)を「振武台」、陸軍航空士官学校(豊岡)を「修武台」と呼んだ。

航士最後の生徒は昭和20年入校の第60期。そして最後の校長は徳川好敏中将であった。

▲昭和16年3月、天皇陛下が卒業式に行幸せられ、ここを修武台と命名、昭和16年に碑が建立された。

敗戦後、碑は倒され字は消されたまま放置されていたが昭和30年、広く浄財を集め再建された。題字碑文は記録写真により復刻したそうである。

 

航空兵の像
エンジンを背に天空を仰ぐ、天地一体の姿を表現したもの。
かつては愛国の至情に燃えて修武台に集い、修練に励んだ若人たちが、朝夕この雄姿に接し感化を受けた空の神兵像。

昭和61年に復元された。昭和19年建立の古い像が記念館の中に展示してある。


▲航空神社跡


▲上原大尉自刃の碑

日本のいちばん長い日

敗戦時、上原重太郎大尉(55期)は陸軍航空士官学校、生徒隊の区隊長であった。

ポツダム宣言の受諾の動きを君側の奸によるものと考えた一部の将校グループが宮城を占拠し天皇を擁し徹底抗戦を貫こうと、クーデターを計画した事件があった。
「8・15事件」といわれる。
8月15日未明、蹶起の要請を拒絶した近衛師団長森中将と同席していた白石中佐を斬殺し、宮城に入ったのだが、斬殺の実行者は上原大尉だと伝えられた。
しかし、この計画は頓挫し、主だった人たちは15日のうちに自決した。

陸軍航空士官学校でも玉音放送のあと生徒隊が武器庫、弾薬庫、軍刀保管所を襲い武器を確保、区隊長や生徒は武装し徹底抗戦を主張した。
こちらも鎮静化に向かい、上原大尉は19日午前2時、航空神社の遥拝所の玉砂利の上で自刃した。24歳であった。航士叛乱事件の首謀者のひとりとして、そして森師団長と白石少佐斬殺の責任をも合わせてとったものと誰もが信じていた。

 

ところが昭和43年、サンデー毎日に「上原大尉は8.15事件に無関係」という主旨の記事が載った。上原大尉は、何でもないのに自決したピエロにされていたのだ。

そんなわけないだろう、と区隊員のひとりであった飯尾憲士氏が真相を追った『自決』という著述がある。

H17.11.18追加       小倉 寿夫さんからの情報・写真


11月3日に入間基地に行って来ました。(航空祭)
目当ては、年内いっぱいで取り壊される予定の修武台記念館の撮影でした。しかし、展示物は撮影禁止になっていました。
目新しい兵器類は無かったと思いますが、展示資料、パネル類には貴重なものがありました。年内は、申請すれば入館、撮影も一部可のようです。

格納庫内に、2機のエンジンがありました。
栄は築城基地から、ハー109は、昨年9月に京浜運河で発見されたモノです。
両エンジンも新修武台記念館に展示されるようですが、これからどれくらいのモノを集められるか期待しています。


▲新館の完成予想図。(平成22年開館予定)記念館のパンフから。



中島 「栄」二一型 空冷星型複列14気筒
零戦五二型に搭載されていた。
漁網にかかり「零戦の発動機」として杵築の奈多八幡宮に奉納されていたものを空自築城基地で修復、展示されていた。



中島 「二式1450馬力」ハ-109 空冷星型複列14気筒

平成15年に京浜運河の岸辺に放置されているのが見つかった。
二式単座戦闘機「鍾馗」2型に搭載されていたもの。

 

 

 

H10.11.25 H15.12.24 H17.11.18

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