海上自衛隊下総航空基地           千葉/柏

 

 

●写真と情報は[国鉄型列車砲]さんから●

提供者のHP→秋津洲鉄道

.

.
下総航空基地へ行ってきました。
下総航空基地には戦艦比叡の錨と九一式魚雷と長門級戦艦の砲弾がありました。

.
下総航空基地
もともとは、昭和7年頃にできたゴルフ場だった。
昭和19年に陸軍が接収、翌20年に帝都防衛のための飛行場として完成させた。
(敗戦時の所在部隊は陸軍飛行第53戦隊)
戦後は、米空軍(第5空軍)が進駐して使用していた。
昭和34年、海上自衛隊に「白井術科教育隊」が新編され、ここを基地として使用を開始、
以後、いくつかの部隊の改編・変更があったが、教育航空部隊として現在に至る。
.

.

.


九一式改二型航空魚雷
改二型はハワイ・マレー沖海戦で成果をあげた魚雷。
真珠湾では、安定器(木製の側翼)がつけられ、水深12メートルの湾内でも雷撃を可能にした。もちろん、搭乗員の高度な技術を伴ってこその話である。

.

.


戦艦「比叡」の錨
「比叡」は「金剛」級の2番艦として建造された巡洋戦艦。
「金剛」は英国ヴィッカース社に発注されたが、「比叡」は横須賀海軍工廠、3番艦「榛名」は神戸川崎造船所、4番艦「霧島」は三菱長崎造船所で建造された。「比叡」の竣工は大正3年。
第一次大戦では東シナ海方面の警備に出動した。この大戦で巡洋戦艦の防御力の不足が暴露されたため、金剛級4艦は防御力強化のため改装されることになった。
「比叡」は昭和4年、呉工廠で改装工事に入ったが、ロンドン軍縮条約にともない練習戦艦となることが決定された。昭和7年、横須賀工廠に回航、改装され「練習戦艦」に類別変更された。
「比叡」は昭和8年の大観艦式の御召艦や、10年には満洲国皇帝の訪日御召艦など、何度も御召艦に指名されている。
無条約時代になり、昭和11年から呉工廠で第二次改装工事に入り、15年に完成「戦艦」に類別変更された。後の「大和」「武蔵」に採用される新方式や最新装備を実験的に採用されている。
昭和16年にハワイ作戦、翌年にはインド洋、ミッドウェー、第二次ソロモン海戦に参加、第三次ソロモン海戦で被弾し操舵不能となり、さらに爆撃を受けたため自沈処分となった。

.
錨?????
建艦当時、「比叡」には右舷側に主錨と並んで同サイズの副錨が付いていた。艦首に3個の錨があったわけである。第二次改装の際、副錨は撤去されたのでその錨かと思ったが、鹿屋にも比叡の主錨が置いてある。
まさか、ソロモンから引き揚げて持ってきたとも思えないし。
昭和10年、大演習の際、台風のため「初雪」「夕霧」が艦首を切断するなど多数の艦艇が損傷する事故が起こった。第四艦隊事件である。
このとき、「比叡」は統監艦として参加、厚岸湾に投錨していたが、台風接近のため急遽出港することになり、錨を捨てて港外に出た。「比叡」の艦橋にまで波しぶきがかかる状況の中、錨作業員は命綱をつけて決死の作業をしたという。
この捨てた錨の1個なんだろうか。しかし、引き揚げてくれば再び取付けることができるだろうし、これがどういう由来の錨か不明。

.

鹿屋航空基地にある
「戦艦比叡の主錨」
●写真は峯 一央氏から●

殉国の碑

 

戦後、宇都宮駐屯地に保管されていたものを、昭和47年に移設したものだとか。

.

.


40糎被帽徹甲弾(長門級の砲弾)

.

 

 


▲門田充弘さんから 平成10年以前に撮影

「Captain Fleet」のホームページ

????

じつは平成10年に、ここの情報を教えてもらっていた(左)。

ところが、基地に電話で聞いたところ、「そんなものはない」とのことだった。
その後、2回ばかり基地祭に行ったときにも尋ねたのだが、やはり「ない」と明確に答えてくれた。この写真も見せたのだが。

そんなわけで、撤去されたものとばかり思い込んでいた。もっと自分で歩き回ればよかったと反省と後悔と無念の顛末である。

それにしても、彼らは自衛官の服装をした某国の間諜だったのであろうか。
???である。

.

.

 

 .  .

H18.11.28

帝国陸海軍現存兵器一覧リストへ

トップへ