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所沢航空発祥記念館
埼玉/所沢
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明治36年、ライト兄弟が史上初めて動力飛行に成功し、欧米各国では競って航空機の開発を始めた。当然、軍用としての期待も大きかった。 以後、昭和20年に至るまで、ここ所沢飛行場で、飛行の教育・航空機の研究・試作機のテスト等が行われ、「日本の航空発祥の地」といわれる。 現在、飛行場跡は「所沢航空記念公園」として整備され、航空をテーマとしたこの記念館は平成5年に開館した。 |
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会式一号飛行機(レプリカ) 所沢飛行場で飛んだ日本初の国産軍用機で、明治44年、徳川好敏大尉の設計により所沢飛行場内で製作された。 会式の名称は同大尉が所属していた「臨時軍用気球研究会」で作られたという意味。一般には「徳川式」と呼ばれていた。 |
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甲式一型練習機(ニューポール81E2) 所沢陸軍飛行学校設立以来、フランス航空教育団の教材として使われた。 この残骸は、大正15年郷土訪問飛行で埼玉県比企郡都幾川村を訪れた民間飛行家が、河原に着陸した際に破損し、そのまま村へ寄贈されたもの。 |
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エンジンは空冷式回転星型「ル・ローンC」。プロペラと共にエンジン全体が回転する。 |
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実機のタイヤ 機体はエンジン取付け部と操縦席周辺のみ金属が使われ、その他の胴体と翼は木製、ドーブ油を塗った絹布が張られていた。 |
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川崎「ハ-40」 ドイツのDB601Aエンジンをライセンス生産したもの。液冷倒立V型12気筒1,175hp。機体には、この写真の天地逆に取り付けられた。 |
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. [以下は格納庫に収蔵されていて、常設展示されていないので注意]

平成10年11月14/15日、航空記念公園で野外イベントがあり、それに合わせてこの格納庫の中を公開していた。
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中島 九一式二型戦闘機の胴体部分 九一式一型戦闘機は中島がフランス人技師の指導のもとに設計、製作した最初の国産制式戦闘機。二型はその改造型で、昭和9年に初号機が完成したが間もなく九五式戦闘機が採用になり、二型は少数〔22機)で打ち切られた。主翼と舵は羽布張りでそれ以外は金属製。当時の陸軍機の標準色の明るい青灰色をしている。 |
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三菱「火星二一型」 空冷星型複列14気筒エンジン。大型機に使用された。おそらく一式陸攻のものだろう、とのこと。 |
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丙式一型戦闘機(スパッド13型)レプリカ 第一次世界大戦後期で活躍したフランスの主力戦闘機。大正8年、4機を購入し来日した「フランス飛行教育団」もこれを使用し、実戦に耐えうる高度な飛行訓練を行った。翌9年には96機を輸入、各航空大隊に配備した。搭載エンジンは液冷の「イスパノ・スイザV型8気筒」だが、前面に環状ラジエーターを置いているため空冷エンジン機の様な外観になった。 |
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番外 第一次世界大戦後期のドイツの主力戦闘機。車輪の間にも小さな翼がある。主翼は厚く頑丈なため翼間の張り線がない。 |
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ライト兄弟の初飛行の後、日本でも航空機の研究が始まり明治42年、陸海軍と文部省で「臨時軍用気球研究会」を発足させ、44年に所沢に日本最初の飛行場が設置された。 大東亜戦中は多くの部隊の新編・改編が行われ、所沢で収容された部隊が一番多いといわれている。 敗戦とともに飛行場は米軍が接収し「在日米軍所沢兵站センター」として使用、現在は約7割が返還され、航空記念公園となっている。 |
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両中尉の殉職に対し「やまと新聞」は両中尉の銅像(記念塔)を墜落地点に建てた。 |
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フォール大佐の像 大正8年に63名のフランス航空教育団の団長として来日したフランス陸軍砲兵大佐。 この胸像は、昭和3年に所沢飛行学校の校庭だった現在の場所に建立された。 |
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航空整備兵の像 昭和18年、彫刻家長沼孝三氏が第二回大東亜戦争美術展に出品し、翌19年に当時この地にあった所沢航空整備学校内に建立されたもの。 戦後は痛みが激しく、平成9年、修理工事がなされた。 |
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H11.3.4 H15.12.24 |
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