幸畑陸軍墓地 雪中行軍遭難資料館 青森/青森
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紹介されている旧資料館は、老朽化が進み、資料などの保存が困難になってきたため今年(H16.7)、新たに資料館が新設されました。 墓地などの整備も完了し、とても綺麗になったんです。 資料保存の関係で、展示品は少なくなりましたが、全ての資料はデータベースとして、閲覧することが出来ます。 |
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明治35年1月23日、陸軍歩兵第五聯隊は雪中行軍の演習を行った。 当時はロシアとの戦いが現実のものと捉えられ、ロシア軍によって陸奥湾が閉鎖、あるいは青森一帯が上陸占領された場合を想定した訓練であった。 ところが当日は史上最悪とも言える過酷な気象状況で、一行は猛烈な吹雪の中に突入してしまった。 当時はまだ近代登山の知識もなく、スキーも導入される以前であり、一行の装備はすこぶる貧相なものであった。 山口隊はまもなく吹雪に遭遇、一寸先も見えなくなり宿泊地である田代温泉までの進出をあきらめ露営することとした。 この日も行軍を続けたが、どこを進んでいるのかも分からず、はぐれたり力尽きて倒れたり次第に数を減らしていった。気がつくと前夜の露営地の近くに戻っていた。 翌25日、午前2時露営地を出発したが、ここで山口少佐は各小隊、勝手に行動するよう命令をだした。最悪の状況のもと、一人でも助けたいとの極限の選択であったと思われる。天候は相変わらずの吹雪、あてどもない彷徨が続き神成大尉はついに「天は我を見放したか!」と呻くように言った。この嘆息で同行の兵卒達は一気に気力をなくしたという。 3度目の露営は各自ばらばらだった。すでに食糧も燃料もなく、飢えと寒さで瀕死の状態となっていた。 翌26日、掌握できた人員は30名。行動できる者は10数名だった。かろうじて生き残った少数で青森を目指した。 一方、聯隊本部では帰隊予定の24日はおろか、25日になっても戻らないので遭難したものと判断、26日朝救護隊を出発させた。 28日から大規模な捜索が開始されたが困難を極め、長期にわたることとなった。 210名のうち生存者は17名だけであった。重い凍傷で入院中に6名がなくなった。残った11名も倉石大尉、伊藤中尉、長谷川特務曹長、及川一等兵の4人以外は両手両足のいずれかあるいは全部を切断する凍傷を負った。 また下士卒に比べて将校の生還率が高いのは上官を守った兵士の行動があったからである。 |
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一行は大隊長の山口少佐が突然の随行を決めたため、将校・下士官・兵、210名(将校9名・軍医1名・見習士官2名・特務曹長4名・下士卒194名)の大所帯となった。 雪中行軍の指揮官は第五中隊長・神成文吉大尉であった。 神成大尉は死亡、山口少佐、倉石大尉、伊藤中尉は生き残ったが、山口少佐は責任を感じて拳銃自決。 |
▲青森陸軍第五聯隊雪中行軍遭難実況画報 |
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青森第五聯隊と同じ時、同じ八甲田山周辺で弘前の歩兵第三十一聯隊も雪中行軍を行っていた。しかも11泊12日の長期に渡ったにもかかわらず参加者38名は全員帰還した。指揮したのは第一大隊第二中隊長福島大尉であった。 福島隊は様々な調査研究の記録を残し、日露戦での冬期作戦の貴重な資料となった。 小説と映画では両部隊は遭遇する作戦行動となっていたり、対抗心を燃やしたりしているが、実際はまったく無関係に別々に行動し、お互いの動向は知らなかった。 |
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当時、旅順やウラジオストックにはロシア最強艦隊が置かれ、日本海の制海権を握っていた。日露間に事が生じた場合、津軽海峡や陸奥湾が制圧され攻め込まれる可能性は充分に予想できた。そのような最悪のシナリオにも対応するための雪中行軍であった。 三国干渉以来、ロシアは言を左右して満洲に居座り続け、日本人の反露感情は深まる一方だった。軍人だけでなく一般の国民もロシアとの戦いを覚悟していた。 日露戦争 満洲平野に入った第八師団はただちに沙河会戦に参加、最強師団の評判どおりの戦いを見せた。明けて、明治38年1月、日本軍はロシア軍の大攻勢に遭遇する。 |
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写真は小倉 寿夫氏から |
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資料館の横は『幸畑陸軍墓地』であり、遭難した人たちの墓地となってました。 |
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▲拳銃の手入れブラシとあるが |
▲洗管。 |
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▲指揮刀 三十年式銃剣 |
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▲資料館内部 |
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現在、青森の陸上自衛隊も第五普通科連隊。 |
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H13.7.30 H16.10.4改訂 |
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