友部町立歴史民俗資料館   茨城/友部

 

●写真と情報は峯 一央氏から●

茨城県友部町の町立歴史民俗資料館に、筑波海軍航空隊の資料が展示されていたのでお知らせ致します。

友部飛行場
かつて、友部町には国有の緬羊牧場があった。昭和のはじめ、その跡地を海軍の航空隊や、陸軍の気球部隊が使用していた。
満州事変勃発後、戦時体制の整備が必要となり、霞ケ浦海軍航空隊は陸上班の一部を分遣隊として友部に移し、初等教育班として搭乗者の養成にあたることになった。

昭和9年9月29日、「霞ケ浦海軍航空隊友部分遣隊」の開隊式が行われ、九三式中間練習機(赤トンボ)による飛行訓練が本格的に開始された。

昭和12年、支那事変勃発で航空機の重要性が一気に高まり、分遣隊は13年、「筑波海軍航空隊」として独立した。同年から翌年には鹿島、谷田部、百里原の海軍航空隊が次々設置された。


海軍短剣、儀仗刀、軍刀など

昭和16年、太平洋戦争が勃発すると、訓練はいっそう激しさを増し、短期間の訓練で実戦部隊へ飛び立っていった。

昭和19年、零戦による戦闘機搭乗員養成に任務変更、昭和20年2月からは特攻攻撃法と総合訓練を開始、訓練を修了した若鷲は、特攻要員として九州や沖縄に配置されていった。

練習航空隊の筑波航空隊にも「ゼロ戦」「紫電攻」が配備され、4月20日には作戦部隊に昇格し、特攻隊を編制する完全航空隊になった。

特攻隊員を送り出す一方、紫電改が整備されて首都防空の一翼も担った。

航法計算盤

 

県立友部病院
近くの県立友部病院には、今も当時の施設が残っていました。


友部病院/隊門

「筑波海軍航空隊ここにありき」碑文

一九三四年六月開隊 練習機による操縦教育開始

四四年三月 零戦による戦闘機搭乗員養成に任務変更

四五年五月 紫電戦闘機の実戦部隊となる 八月終戦

君は信じられるだろうか

ここを巣立った若人達が広域各地に勇戦敢闘し その殆どが南溟の空に散ったことを

また四四年十月以降 フィリピン、沖縄の作戦に数多の者が神風特別攻撃隊員として一命を捧げたことを

この地で編成し沖縄戦に出撃散華した筑波隊だけでも五十五柱を数える

ここに万感の愛惜をこめてその鎮魂を祈り 且つ恒久の平和を念じてこの碑を建てる


友部病院/本部庁舎、号令台

墓地/地下壕入口

墓地/地下壕内部

 

H15.3.7

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