全国から沖縄への修学旅行、一般の旅行が相次いで中止になっています。マスコミでは、ものものしい警戒体制下の米軍基地を放映して、緊張感を伝えています。けれど、旅行は中止できても、そこに住んでいる人は中止というわけにはいきません。今、沖縄の人たちは何を感じているのでしょうか。 長野県出身で沖縄に住む吉川由紀さんに、ご自身の活動を通しての沖縄を、シリーズで伝えていただきます。
吉川由紀さん 自己紹介 ◆1970年7月7日生まれの長野県飯田市出身。 ◆1998年2月に、d沖縄戦を学びたい”“自分自身の生き方を模索して”“「とにかく現場へ行っちゃえ!」と沖縄へ。来てみて「大正解」。仲間たちと暗闇の中で出口を求めてうごめいているという感じが何とも楽しい。 ◆沖縄県立埋蔵文化財センター嘱託員として沖縄県戦争遺跡詳細分布調査に取り組み、那覇市内を担当しながら、本島中部や北部の調査にも同行して、いろんな「戦争の傷跡」を見ている。土日は、沖縄平和ネットワークのメンバーとして修学旅行生の案内。 ◆この世に生を受けた7月7日は、廬溝橋事件の日であり、サイパン陥落の日とも一致。さらに実家は飯田市鼎731番地と「アジア太平洋戦争」に運命的なものを感じている。
沖縄見たまま聞いたまま K 2003/1/10
最終回
戦争遺跡に立つ意味 沖縄本島から西へ約三〇?の所にある渡嘉敷島の「国立青年の家」敷地内には、二つの戦争遺跡が隣り合って存在しています。それは、青年の家北側にある「渡嘉敷島の住民が集団で自殺した谷川」と、敷地の西側にある「海上挺進第三戦隊の陣地壕」です。もともとこの敷地一帯は北山(地元では、西山と呼ばれている)という標高二〇〇m以上の森林地帯で、起伏の激しい地形が続いていました。二つの戦争遺跡は、山をひとつはさんだ沢にそれぞれ存在していて、直線距離では六〇〇mほどのところにあります。
一九四五年三月二七日朝、米軍が渡嘉敷島に上陸しました。上陸に先立って、海上挺進第三戦隊長・赤松嘉次が「住民は陣地北方の盆地へ移動せよ」と命じました。これによって、島民はこの谷川一帯へと移動してきたのです。 当時の住民の様子を『沖縄県史十巻 沖縄戦記録二』に頼ると、概ね次のようになります。
「村民は、日本軍が守ってくれるのだと誰もが思って、泥に足を取られながら北山陣地へ向かった。曇りがちの天気は昼になると雨になっていた。とにかく頼れる日本軍の陣地に向かっていると、米軍はそれを追うように島の中央を突破して全島を制圧していた。北山陣地に村民がたどり着くと、赤松隊長は村民を陣地外に撤去するよう厳命していた。村民は、全く気をそがれる思いで、しぶしぶ陣地外に去った。島の北端は絶壁でそこから米軍が上がってくる事はない、北山陣地の稜線は軍が守るから、住民はそこ(陣地北側の盆地)に避難する方が良い、と赤松隊長が言ったという。住民が徐々に移動を終えたちょうどその頃、住民の集まるその場所に、米軍が迫撃砲を撃ち込んだ。ここで防衛隊員二十数名が現れ手榴弾を配りだした。自決をしようというのである。どうして自決をするような羽目になったか、知る者はいないが誰も命を惜しいとは思っていなかった。誰言うことなしに「天皇陛下万歳」を三唱し、「海行かば」を斉唱したりして、それが谷川にこだました。渡嘉敷の人たちの間から炸裂音がし、村民らは一斉に手榴弾のピンを抜いて信管を叩いた。肉片が飛び散り谷川はたちまち血潮で真っ赤に染まったが、手榴弾は不発の物も多く、生き残っては大変と手榴弾を分解して火薬を食べている者もいた。死ねない者たちは、鍬や棒でお互い殴り合い、殺し合った。男達は妻子や親を殺し、親戚の者にも手をかけた。そこは地獄であった」
沖縄に移り住んで五年間、沖縄戦を学びながらどうしても踏み込めない領域がありました。「集団自決」について、です。私は、沖縄戦から「教訓」を導き出そうとすればするほど、その原体験を持つ方たちに辛い思いを強いているのではないかと思ってきました。その時代を生き、惨劇の限りを見た人々にしか理解できない世界があって、そこに私は近づいてはいけないような気がしていました。でも昨年夏、渡嘉敷のこの場所に立って、何かが変わったのだと思います。「集団自決」は、チビチリガマなど本島でもあったけれど、私にとって初めて、追いつめられた住民の思いにわずかでも近づけた気がしたのです。 なぜだろうと、考えてみました。ひとつわかったのは、「距離感」でした。戦争遺跡に自身を置いてみる。すると想像はどんどん膨らみます。沖縄は全島が戦争遺跡です。いろんなものとの距離感が見えてきます。兵隊と住民、住民と住民という距離感だけでなく、雨のように降り注ぐ砲弾の炸裂音、子どもの泣き声、揺れる心、あせる心、人々の息づかい、そういった目に見えない物へと心が近づいていきます。私を取り巻く風、木々、空、水、太陽、土というすべての物に五八年前の空気を重ねてみるのです。ガマでなくても、暗闇でなくても、この沖縄の全ての場所でできる学習なのです。そして、淡々と事実を語り、そこからお互いが想像する力を鍛え、思いを馳せる。いつでも「なぜこうなったのか」と原因を追及することを忘れず、そして二度と繰り返すまいとその地に誓うのです。それが、戦争遺跡に立つ意味だと私は感じています。勇気をもってこれからも、立ち続けたいと思っています。
沖縄見たまま聞いたまま J 2002/12/10
「糸数アブチラガマ」、沖縄に平和学習や戦跡巡りで訪れる方の多くは、この戦争遺跡の名前をご存知だと思います。沖縄戦当時陸軍病院として使用された壕で、病院関係者の南部撤退後は避難民と負傷兵が混在し、四五年八月二二日に壕を出るまで壕内の人々は沖縄戦の終結や日本の敗戦も知らなかったという、沖縄戦の特徴をよく示す壕です。年間約一四万人が訪れる、南部戦跡巡りの「メッカ」のような場所ですが、私にとってもこの場所は、大きな意味を持っています。 いわゆる「平和ガイド」として、初めて高校生を案内したのがこの糸数壕でした。戦争体験のない私、沖縄で生まれ育ったわけでもない私に、沖縄戦を伝えることはできるだろうかと思う一方で、戦争遺跡という本物に触れて心をふるわせる学生はきっといると、信じて始めた案内でした。 でも、案内を続けていくうちに、自分の説明が「受け売り」であることに大きな抵抗を感じていました。事実でないことを話しているつもりはないけれど、糸数壕での説明は本で読んだ知識、人から聞いた話が中心で、私の中で伝えたいことがはっきりしていませんでした。また、糸数壕で起きたことだけを話したところで、沖縄戦の本質は伝わるだろうかという思いもありました。 二〇〇〇年四月、日比野勝廣さんに出会いました。負傷兵として糸数壕に収容されていた人物で、「平和ガイド」で日比野さんを知らない人はいません。戦場体験者の証言を直接聞くことはとんでもなく緊張することで、彼との出会いは私を大きく変えました。日比野さんが「糸数壕の日比野さん」ではないこと、さらに日比野さんはあの戦争を今もって「悔やんでいない」ことがわかってきました。 日比野さんは、第六二師団独立歩兵第二三大隊に所属し、中国大陸の戦闘に動員されたのち沖縄へやってきました。四五年四月の米軍上陸後は、嘉数高地の闘いを経験しています。首里の司令部壕をめざす米軍と、それを阻止する日本軍とが二週間余り行った戦闘の経験を、日比野さんは誇りをもって語ります。「中国の戦闘に比べたら大したことはない」「米兵二〜三十人を、バババーっと撃ったなあ」。小隊長だった日比野さんは、上官から戦車への肉弾攻撃のために、自分の部下三名を同時に配置することを命じられますが、一人ずつしか配置しませんでした。「これぞ人間愛じゃないかな」。海岸側から米軍に回り込まれた日本軍は、いつの間にか敵が背後にいることに気付きます。「仕方なく南へと移動した。敗退したのではない」。手榴弾の投げ合いで右腕に貫通弾をあびた日比野さんは、南風原陸軍病院壕に徒歩で向かい、そのまま糸数壕へと搬送されます。「自分は逃げていたのではない、負傷して糸数壕に収容され、工夫をこらした生活の中で生き延びたのだ」「戦場は最高の人間愛が発揮される場です」…。 日比野さんの戦場体験を聞き、思いを聞くうちに、戦後の日比野さんの生き様や、今の思いを知りたいと思うようになりました。そこで、「日比野さんは、糸数壕を訪れる高校生にどんなメッセージを伝えて欲しいですか?」と尋ねたのです。すると「何を伝えたいかは…うーん、わからないなあ。ただぼくは、あの世で母にあったら ?こんど僕を産むときは、戦争のない時代に産んで下さい?と頼むんだ」。私は、戦争のない時代は、だれかに与えてもらうものではなくて、私たちがつくるものだと思う。だから、いまの有事法制制定の動きにも危うさを感じる。日比野さんどう思う?と聞くと「国がやることだから仕方がない」。日比野さんは私の質問にとまどっていました。そして私は、日比野さんの応えに時々腹立たしい気持ちになっていました。 でも、沖縄戦以外の話を聞いて少しわかったのです。日比野さんは幼い頃、貧しい家庭に育ち、口減らしのために家から二度出されています。母と一緒に暮らしたい寂しさから、貰われた家では「いい子」でいられず、結局家に戻されました。そして、「兵隊になって陸軍大将にでもなってやろう」と考えたといいます。戦後は、遺族に「あなたはどこに隠れていて助かったの?」といわれ兵隊としての誇りを傷つけられ、マスコミには「あなたも沖縄の住民を虐殺したのですか」という質問に傷つけられてきました。 日比野さんにとって沖縄戦は、人生の中で大きな体験だけれど、その場面だけを聞きそれだけを語り伝えることに私は疑問を感じます。一人の人物を通して、戦争にいたる人の心の動き、戦争を体験した人のその後、そして今を、一緒にたどって一緒に抱えていきたいのです。「戦争はいやだ」という私と日比野さんの共通の思いは、誰かに任せて待っていても、きっとかなえられないと思うからです。
沖縄見たまま聞いたまま I
2002/11/10
私にできること 〜ハンセン病問題に取り組むD
Mさんに安心してほしい、私を信じて欲しい…気持ちは焦っていました。Mさんの部屋に駆け込み、「これは話し言葉を一字一句そのまま文字起こししたもので、これがどこかへ公表されることは絶対にない、約束する」と言いました。そしてそういう説明もなしに、ただプリントしたものを渡した私の無神経さを深く詫びしました。「不安にさせて、ごめんなさい」と。少し安心した様子のMさんは、次のように話してくれました。「私はあなたと話していて、つい気持ちが高ぶってしまった。だから調子に乗って、昔、私に辛くあたった園長先生の名前をつい呼び捨てにしてしまった。この紙には調子に乗ってしゃべっている私の様子が全て出てしまっている。こんなものが世に出たら、私は生きていけない。愛楽園でしか生きていけないのに、ここにいられなくなる。こんなもの、この世に存在したら困る」。 私には、決してMさんが「調子に乗って」話しているようには思えませんでした。内容は真実だと感じました。だけど、Mさんの気持ちも、少しだけわかりました。それは、自分が喋ったことが活字になったときの驚きを、私も感じたことがあるからです。新聞社の取材を受けたとき、話し言葉が活字になって、妙な違和感を覚えました。気持ちが高ぶって、こんなことまで言っていたのかと恥ずかしい思いをしたことは少なくありません。でも、Mさんの場合は「恥ずかしい」では済まない。彼女が私に向ける言葉はそのまま、彼女をこれほど怯えさせる社会をつくってきた私たちへの糾弾とも受け取れました。彼女が最初に言った「九〇年におよぶ、ひどかった"あれ"」とは何をさすのか。「愛楽園でしか生きていけない」ようにしたのは、誰なのか。 その後私は、Mさんのお部屋へ通い、文字起こししたものを私が読み上げながら二人で確認の作業をしました。彼女が助言や補足説明をしてくださって、証言文を完成させていきました。これは、一度離れてしまった心の距離を、少しずつ縮めていく作業のように思えました。最後に「この証言を、みんなに読んでもらってもいいですか」と尋ねたところ、彼女は快諾してくださいました。勘違いかもしれないけれど、私を信じてくださったのかな、と思いました。 今、八〇名近い調査員がそれぞれの思いで愛楽園へやってきて、入園者とふれ合い、証言を聞き、記録しています。調査員のなかには、入園者のお話を伺うにはまず自分を知ってもらわなくちゃと、第二土曜日以外にも愛楽園を訪れ、ゆんたく(世間話)したり、得意の三線(さんしん、沖縄の三味線)を持ち込んで一緒に歌ったり、入園者と食事をしたりする人もいます。私たちを信じて欲しい、そして、歴史の証人として誇りを持って語って欲しいと願っているからです。でも、その中ではいろんなことがあります。「裁判で勝ったとたんにやさしくなった社会の人たち」「こんなにやさしくされたら、気味が悪い。目的はなにか」…。私たちの姿がそう映っても仕方がないのです。前出の元入園者には「長いあいだ心を閉ざすことが?癖?のようになった入園者にどう向かうかは、本当に難しい。でも、ゆっくりね。裁判の時もそうだったんだよ、原告を増やすには時間がかかったんだ。気長にいこう」と励まされます。 私たちにとって、愛楽園に通い入園者とともに時間を過ごすことは、かけがえのない今を実感する瞬間です。今後数年かかると思われるこの聞き取り調査で、どんなことが待ち受けているか、心から不安で、心から期待しています。これは、入園者の記録であると同時に、私たちの生きた証にもなるからです。
※ハンセン病の項は今回で終わります。
沖縄見たまま聞いたまま H 2002/10/10
私にできること 〜ハンセン病問題に取り組むC
今年の三月から「沖縄愛楽園聞き取り調査」が始まりました。目的は「沖縄におけるハンセン病政策の変遷や差別の実態を、入園者の証言によって明らかにすること」で、愛楽園の自治会が発案しました。
先の国賠訴訟では、一九六〇年以前の政策は不問に付されましたし、私たち市民がハンセン病患者を社会からどう排除し、隔離政策を支えてきたかという生活感覚レベルでの追求が、深くなされませんでした。また沖縄は、戦後二十七年間の米施政権下で日本とは違う法(ハンセン氏病予防法)が適用されていましたが、本土との「差違」は、実際に法を適用された方一人一人の証言なくして検証することは出来ません。そして少なくとも私の周囲にいる人たちは「勝訴判決は、ハンセン病問題に取り組むスタートなんだ」と認識し、自分に出来ることを模索していました。
調査は、数年前からこの問題に取り組んでこられた琉球大学の森川助教授に委託され、彼のもとで調査員が公募されました。その数は、九月末現在で八〇人を数えようとしています。毎月第二土曜日を「聞き取り調査の日」と決め、昼過ぎになると、調査員が県下各地から続々と集まってきます。聞き取ったお話は、最終的に証言者のプライバシーが守られる形で証言集として刊行し、記録テープやメモも全て、将来建設される予定の資料館に保存します。聞き取る順番は高齢者を最優先とし、徐々に年齢の若い方へと進めていくことにしました。
実際に調査を開始して、すぐに様々な「壁」にぶつかりました。その多くは「心の壁」でした。入園者の抱える過去や現在をともに辿り、「あなたの生きた足跡を、私に記録させてください」というには、私たちの訪問はあまりにも唐突すぎるのです。
入園者の中には、この調査の趣旨を理解しながらも証言を拒否される方が多くいらっしゃいます。「今さら何をしようというのか」、「私がしゃべることで、家族に迷惑はかからないのか」、そして「あなたは何者か」…。しかしこれは、予測していた事態でした。私は調査開始のずっとまえに起きた、ある出来事を思い出していました。
私が沖縄戦当時のハンセン病患者について知りたいと思い史料を発掘し始めた頃、戦前からの入園者Mさんのお話を聞く機会を得ました。彼女は、立て続けに「どこに発表するのか」「自分のプライバシーは守られるのか」「あなたは何者なのか」と私に質問しました。私は、「これは私的な調査で、発掘史料を発表する論文に掲載させて欲しいこと、Mさん個人と特定出来る情報は削除すること、私は元入園者Sさんの知人で、愛楽園の沖縄戦を記録したいと思っている一市民であること」を伝えました。すると彼女は「いままでの、ハンセン病に対する九〇年のあれが、あまりにもひどかっ
たから、(入園者は)簡単には変われないの」と言いました。その日、彼女の証言は午前と午後で四時間に及び、私は次の日から録音したテープの文字起こしを始めました。作業が終わると、A四版で八枚におよんだその証言を彼女に渡し、文字起こしに誤りがないか読んでみてねとお願いしました。数日後、Mさんと親しい前出のSさんから電話がかかってきました。「Mさんが、あなたの記録したものを見て『あんなもの破って棄ててしまいたい』と言っている。由紀、何をしたの?」というのです。何をしたのって、聞いた話をそのまま文字起こししただけだよ…。Mさんの激しい怒り、そして「拒否」の姿勢をストレートに伝えられた私は、泣きたくなりました。心臓がどきどきして、その夜はほとんど眠れず、朝になるとすぐ車を飛ばして、愛楽園へ向かったのです。 (つづく)
沖縄見たまま聞いたまま G 2002/9/10
私にできること 〜ハンセン病問題に取り組むB
日本軍によって収容されたハンセン病患者は、療養の間もなく、防空壕の掘削作業にかりだされました。「早田壕」の構築です。「早田壕」とは、一九四四年三月、第二代沖縄愛楽園園長に着任した早田皓氏の名前に由来します。戦後五十七年たった今でも、入園者の中には早田氏を「コーレーグース(唐辛子を使った沖縄の調味料。辛い)園長」と呼んで、強引な指導を非難する方がいます。彼の「働かざるもの食うべからず」の号令の下、切断された腕に鍬をくくりつけて行った壕掘り作業で病状が悪化した方も多く、その記憶を今なお背負っていらっしゃるからです。早田氏は戦後、愛楽園での沖縄戦体験を二本の論文に記しました。「戦時と敗戦直後の沖縄のらい」(『レプラ』日本癩学会 一九七三年)と「愛楽園被爆始末記」(『沖縄のらいに関する論文集』(財)沖縄らい予防協会 一九七九年)です。沖縄への赴任から防空壕構築、空襲と米軍進入、一九四六年九月に沖縄を離れるまでの様子を詳細に記録されています。しかし彼は、戦後一度も沖縄を訪れていません。早田氏が何を思い戦後を生きたのか、当時、一緒に沖縄へ来ていた長男の満氏はその足跡をたどろうと、調査をライフワークにされています。入園者の中には、「強引ではあったが、彼がいなければ、私たちは助からなかった」と早田氏の指導を認める方もいます。それは、愛楽園の「被弾による死者」が一名にとどまっているからです。愛楽園は、十・十空襲に始まる米軍の攻撃で、壊滅的な被害を受けています。園内に打ち込まれた砲弾の数は、「爆弾約六〇〇発、ロケット砲
約四〇〇発」(前掲早田氏の論文)などと記録され、現在も園内には、おびただしい数の弾痕を残した「職員住宅地の壁」や「給水タンク」があります。しかしこのとき入園者は、空襲直前にほぼ完成していた「早田壕」に待避して、難を逃れました(ただし、一九四四年一〇月から翌年一二月までの死者は、二八六名を数えます。壕内の不衛生な環境と食料不足、満足な治療が受けられなかったことによる病状の悪化が原因と思われます)。
十・十空襲後、入園者たちの中には、すさまじい爆撃を目にしてふるさとの様子が気になり、帰郷する人が少なくありませんでした。しかしこうして一時退園した患者にも、軍隊の目は光っていたのです。再び陣中日誌を見てみましょう。(名簿・地図など、プライバシーに触れる箇所は省略します)
「十二月三十日 晴 土曜
玉城国民学校
防衛地区癩患者分布状況飯塚部隊防衛地区内癩患者名簿別紙ノ如シ飯塚部隊警備地区癩患者名簿、飯塚部隊警備地区癩患者分布要図」(「沖縄陣中日誌独立歩兵第十五大隊・本部」昭和十九年十二月一日〜十二月二十九日より)
一九四四年一二月に玉城村へ移駐したこの部隊は、地区内のハンセン病患者の名簿と、患者居住地の地図を作成しました。名簿には十名の氏名・住所・年齢・性別が記載され、そのうち四名の備考欄には「収容スルモ現在帰宅シアリ」の記入があります。
一九四五年二月には、この地に独立混成第十五連隊(=通称美田部隊)がやってきました。その陣中日誌には、次のような記述が見られます。
「二月十日 曇 屋嘉部
地区内癩患者退去命令ヲ発ス 患者表別紙
二月十一日 曇 屋嘉部
一四三〇ヨリ部隊本部ニ於テ将校及地方官民左記各件ニ就キ懇談会ヲ開催(四)部落ノ衛生状況(特ニレプラ患者ニ関スル件)」(「陣中日誌 独立混成第十五連隊本部 同配属部隊」昭和二十年二月一日〜二月二十八日より)
美田部隊は、駐屯地区内のハンセン病患者に対し退去命令を発しました。別紙の「患者表」には、前年十二月に飯塚部隊が作成した患者名簿中の、「収容スルモ現在帰宅シアリ」と注記された四人の氏名が記されています。このことから、代わって駐屯した美田部隊に、患者名簿(あるいは在宅患者の情報)が引き継がれたと思われます。翌日には、部隊の将校と駐屯地の役人・住民との間で懇談会を開催し、ハンセン病患者について話し合う時間をもっています。徹底収容のために地域住民までも巻き
込んでいたのです。
以上のように、わずかではありますが当時の様子をかいま見ることの出来る重要な記録があります。これまでばらばらに存在していた記録を、半世紀を経た今掘り起こしてまとめ、確実に次世代へと伝えていこうとする作業は、私が現代に生きる意味を確認させてくれます。そして入園者の証言でしか知り得ない事実の記録と、史料の分析を平行させることで、ハンセン病患者がくぐり抜けた沖縄戦の全体像に、わずかながらでも迫ることが出来るのではないかと思うのです。
(つづく)
沖縄見たまま聞いたまま F
2002/7/10
私にできること〜ハンセン病問題に取り組む
A
「日本の軍が沖縄の方に進駐してきた、それで民宿にするから在野の患者達はみんな収容すると。その収容がですね、非常にひどかったんですよ。抜刀して野良にいる人をそのまま連れてくる。そして軍刀でもっておどして、着のみきのままですよ」。一九七四年に刊行された『沖縄県史十巻 沖縄戦記録二』(沖縄県教育委員会)に初めて、愛楽園入園者による沖縄戦当時のまとまった証言記録が掲載されました。この証言の中で、軍隊が暴力的収容を強行したことや、「療養」するはずの愛楽園で、患者自らが手足を傷つけながら、防空壕を構築せざるを得なかったことなど、多くの事実が明らかにされました。 沖縄愛楽園には、二〇〇二年六月末現在で約四〇〇名の方が入園されています。自治会長のお話によると、そのうちの六割以上は、日本軍による強制収容を含む戦前からの入園者だということです。私たちは、愛楽園で人生を拘束されてきた人々の歴史を思うとき、沖縄戦を抜きにすることはできません。入園者の平均年齢が七〇歳を超えたいま、彼らが生き抜いた時代の証言を確実に記録する作業と、現存する資・史料の収集、分析は急務であると言えます。 昨年四月、私はこれまで「言い伝えられてきた」ハンセン病患者の沖縄戦を、史料で裏付けることはできないかと考え、調査を開始しました。その一部を、二回に分けてご紹介したいと思います。 入園者の心に今も残る強制収容は、別名「日戸(にっと)収容」と呼ばれています。一九四四年七月以降沖縄に駐屯した、第九師団の軍医日戸修一の名前からとったものです。しかし、「ハンセン病患者収容のための全島一斉検診は、一九四三年暮れ頃から行われていた」、「日戸氏は七月より前に沖縄に来ていた」という証言者がいます。彼がいつ沖縄にやってきて、いかなる命令系統の下で患者収容の中心人物となっていったのか…。日戸氏が亡くなった今、直接聞くことは出来ませんが、戦後たった一度だけ、彼が収容について書いた文章があります。「昭和十九年牛島兵団は作戦上の必要から沖縄本島の癩を全部隔離しなければならなくなり召集された僕がその仕事にぶつかった。(中略)癩隔離の必要を全住民に説き本島全土をまわり全島民を一人のこさず検診した。参謀が癩と同居していた。二百名に近い癩患者を見つけた。そして収容した。重傷の患者は患家の裏小屋にみんなかくしてあり…(中略)あの時癩に理解を持ってくれた、つまり無謀な暴力的収容でなく検診による光田主義収容を認めてくれた牛島司令官、張(ママ)参謀長には今も尚心から敬慕の念を禁じ得ない」(日戸修一「茂吉・杢太郎斬馬無題録(二)」『東京医事新誌』東京医事新誌局 一九五六年) 入園者らによる証言と明らかに異なります。これがなぜかは、現段階ではわかりません。しかしもうひとつ、注目すべき日戸氏の戦前の発言があります。それは一九三九年発行の雑誌『東京医事新誌』の中で、彼が「ハンセン病の伝染力の微弱性」について論じていることです。軍の強権を発動して在野の患者を収容する中心人物であった彼が、少なくとも五年前までは「患者と密に接しても未感染に終わる」と説いていたことは、逆に、覆すことの出来ない国策の下で収容が行われた可能性を予測させます。 さて、愛楽園はもともと定員四五〇人の施設でしたが、一九四四年暮れには約一〇〇〇名もの患者が収容されていました。沖縄に駐屯した日本軍は、どのように収容にあたったのでしょうか。一九四四年〜四五年に沖縄に駐屯した部隊の「陣中日誌」に「癩」「レプラ(ドイツ語でハンセン病のこと)」の文字を探してみました。以下はその一部です。 「七、寄泊地、宿営地、占領地ノ衛生状況 当地ハ目下伝染病患者ナキモ結核患者十七名癩患者九名アリ 家庭ニ於テ治療中ナリト 依テ癩患者ニ付テハ村当局ト折衝ノ上 速ニ隔離シ国立癩収容所ヘ収容スベク準備ヲ喚起セリ 尚当地ハ毒蛇棲息スルニツキ兵員ニハ癩及毒蛇ニ関スル衛生教育ヲ施セリ」(「第二十七魚雷艇隊戦時日誌」昭和一九年八月一日〜八月三一日より) この部隊は、今帰仁村の運天港に駐屯した海軍部隊です。「十・十空襲で愛楽園が猛爆撃を受けたのは、運天港に駐屯していた部隊の兵舎と間違えられたからだ」と言われていますが、この部隊はまさにそのひとつです。民家までも軍の施設として接収した、にわか戦時体制のさなか、駐屯地の衛生管理に細心の注意を払っていた様子がうかがえます。屋敷の「はなれ」などに匿われ、かろうじて家族と一緒に生活していた患者たちも、軍や行政の力によって強制収容されていきました。「九月九日 晴 古堅国民学校 日々命令 一、陸軍上等兵 西尾岩男 以下二名 自動貨車一車輌 癩患者輸送ノ為原隊ニ帰隊スベシ 依ッテ明十日〇六〇〇迄ニ同隊ニ到ルベシ」(「陣中日誌輜重兵第二十四連隊第五中隊」昭和一九年九月一日〜九月三〇日より) この部隊の陣中日誌には、全部で三回(九月九日、二〇日、二一日)「癩患者輸送のため、原隊に帰隊すべし」との記述が見られます。陣地構築の資材などを運搬すること(輜重)を任務とした部隊の性格上、輸送手段が他部隊より調っていたことが想像できます。 こうして十・十空襲までに在野のハンセン病患者は収容され、病気の治療もままならない沖縄愛楽園での生活を余儀なくされるのです。 (つづく)
沖縄見たまま 聞いたままE 2002/6/10
「今、本気で“戦争遂行法案”に反対するとき 〜有事法制 緊急学習集会」を開催しました
私たちは、なぜ沖縄戦を語り伝えようとしているのでしょうか。「松代大本営」を、なぜ保存しようとしているのでしょうか。これらの取り組みに関わるすべての人々に、今、その心が問われています。 今国会では「有事関連法案」が審議され、「会期を延長してでも成立させたい」と小泉さんは言っています。九七年の新ガイドライン制定と米軍用地収用特別措置法の改悪、周辺事態法や国旗国歌法の制定、最近の小泉総理による靖国神社公式参拝問題、新しい歴史教科書問題など、戦前の社会を彷彿とさせる「戦時体制」づくりが着々と進んでいるように思えてなりません。さらに武力による紛争解決を大前提にしたこの「有事法制」は、国の戦争準備に協力しない者に対する罰則規定を設けています。国民ひとりひとりの自由な思想を抑圧し、簡単に人権を奪える、おそろしい法律。であるにも関わらず、まだまだ私たちは「自分の問題」として考えきれていません。 わたしは友人たちと、このまま私たちが何も行動を起こさずに、「危険だ」と言いながらも傍観していたら、結果的に黙認し、事実上加担する側になってしまうのではないか、と話し合いました。沖縄戦に学んだり、基地はいらないと訴えながら、目の前でそれを根本的に覆す法律ができようとしているのに、何も手だてを講じないのか。また、私たちのように市民グループで動いていない、おとうさん、おかあさん、学生、社会人の方たちで、この法案に対しいろいろ思いながら、どう動いていいかわからない人もたくさんいるはずだ、という声が聞こえてきました。そこで、まったく計画性もなく、一週間後に「緊急学習集会」を開催しようと決めてしまったのです。とにかく大急ぎで、私たち市民が自分の責任において、自分の言葉で意思表示できる場をつくろう、と。「有事法制」が成立しようとしている今こそ、私たち平和に生きることを望む者にとって、最大の「有事」なのでした。平和ネットワーク内外の、「頼れる市民総動員」態勢で臨んだのです。 五月二四日、那覇市内の会場には約六〇名の人々が集まりました。当会代表世話人の大城保英氏による有事法制解説のあと、会場に詰めかけたみなさんからのリレートークを行いました。母として、教師として、看護隊として沖縄戦を体験した方、研究者として、平和ガイドとして沖縄戦に学び、教訓を次世代へ伝えようと、日々動いている方、反戦地主として戦争につながる一切のことに協力しないと頑張っている方…。偶然沖縄入りしていた、イスラエルとパレスチナの若者も飛び入り参加し、「暴力では、根本的な問題解決はありえない。?話し合う?という希望は、決して捨ててはいけない。私たちに不可能なことなど、ひとつもない」と訴えました。 そして、語彙の少ない私が必死の思いでつくった「アピール」を採択していただき、参加者はメッセージカードに「今こそ本気で有事法制に反対する」その思いを書き、散会しました。メッセージは、集会に来られなかった方も含めて四九人分集まり、五月二九日付け速達で、小泉首相と綿貫衆院議長・倉田参院議長宛に郵送しました。彼等が読むか読まないかはわかりません。でも、私たちは私たちのやり方で意思表示をしました。「有事法制」に、断固として反対すると。 私たちはなぜ、過去の戦争を忘れてはいけないと、日々活動しているのでしょう。「悲しい物語」をお話するため、でしょうか。「悲しい物語」は、どうしてつくられてしまったのでしょうか。戦争は、ある日突然はじまるものじゃない。今を生きる、わたしたちが出来ることはなんでしょうか。(「私にできること〜ハンセン病問題にとりくむ」は、次号から連載)
ア ピ ー ル
私たち、今夜この会場に集まった一人ひとりは、歴史の教訓に学び、平和を求めて生きる者として「有事法制」の制定に反対します。 ここ沖縄では57年前、日米両軍による多くの県民を巻き込んだ地上戦がありました。そして27年間、米軍占領下に置かれました。県民は基地のない平和な沖縄を目指し、平和憲法下への復帰を実現しました。しかし、米軍基地は今なお沖縄に集中し、その補完として自衛隊が配備されています。沖縄は、アジアや中東を含む地球の約半分の地域に向けた、戦争の発進・補給基地としての役割を担わされています。 沖縄戦は、人を殺し、物を奪い、相手を打ちのめすことで国家間の争いを解決しようとした、アジア太平洋戦争の結果でした。話し合いやお互いを思いやる心は、解決の手段にありませんでした。「国益」の名のもとに始められた戦争は、大切な家族、恋人や友人をやすやすと奪い、結果的にその「国益」を共有するはずの国民の命が、軽んじられました。また、他国の人々の命を奪い、文化を破壊しました。私たち日本がおかした加害の歴史は、消すことはできません。 戦後、私たちはこの過ちの歴史に学び、悲しみを二度と繰り返さないと決意し、それぞれのやり方で、平和を創り出す努力をしてきました。沖縄戦の傷あとと、米軍基地が向かい合っているこの沖縄を学びの場とし、沖縄を訪れる多くの人々に、基地・武力・暴力による紛争解決はあり得ないことを訴えてきました。また、直接語りかける機会はなくても、平和に生きることを願い、模索し、それぞれの生活の中で伝える努力をしてきました。今回の法制定について、小泉首相は「備えあれば憂いなし」と言いましたが、「備えあっても憂うばかり」なのが人間です。戦う道具はいくらそろえても、「これでよし」と思えるときはありません。その証拠に、私たちはこの地球上に暮らす全ての人々を、何度も殺せるだけの兵器を作り出してしまいました。 私たちは物質的に豊かな社会に慣らされ、それを守るためであれば、人を疑ったり傷つけたりします。しかし、目には見えないけれど、ひとりひとりが人としての心も持っています。人として生き、人として心豊かに一生を終えたいと願っています。そのために、精一杯知恵を出し合い、手探りでも平和に生きる可能性を模索しているのです。なぜなら、いたわり合い、支え合っての生きることの喜びを知っているのも、人間だからです。私たちは、大勢の利益を守るために、人の命が軽んじられること、微力な人間を犠牲にすることを否定します。また、傷つけることも、傷つけられることも、大切な人・もの・心を、奪うことも、奪われることも、拒否します。 今こそ日本は、そして日本に暮らす私たちは、どんなに立派な武装をしても、心落ち着くことなどないのだ、と広く世界に訴えるときにきています。私たちには、世界に誇れる平和憲法をひたすら守り通した、戦後の歴史があります。備えるべきは、武力ではなく、言葉を介して互いに理解し合おうと努力する、姿勢です。そしてそういう世界を築くリーダーシップを、日本がとることこそ、今、一番有効な「備え」です。過ちを繰り返してはなりません。
2002年5月24日 「今、本気で“戦争遂行法案”に反対するとき」 有事法制緊急学習集会 参加者一同
沖縄見たまま聞いたままD 2002/5/10
私にできること @
〜ハンセン病問題にとりくむ!
ハンセン病との出会いは、九年前にさかのぼります。当時私は、大学の卒業論文のテーマを「紀元二千六百年奉祝祭」に決め、祝典の全国的な動きを調べていました。戦時下の飯田・下伊那地域で発刊されていた「信州合同新聞」から、地方の催しをチェックしたり、厚生省の「収受文書」から、末端組織の隅々まで徹底された奉祝祭の様子を探ったりしていました。この「収受文書」の中に、「らい療養所」があったのです。 当時の国立らい療養所のうち、「長島愛生園」「星塚敬愛園」「東北新生園」から、厚生省あてに取り組みの報告書が届けられていました。療養所ごとで奉祝式を催すのはもちろん、奉祝旗行列への参加、神社までの行進、東京の式典における万歳奉唱の時刻に合わせて宮城遙拝と天皇陛下万歳の奉唱、その後は奉祝運動会の開催……。 今考えれば、皇室とのつながりが深いらい病療養所で、奉祝祭が徹底して行われていったのは当然のことなのですが、そのころの私には、まず「らい」の意味が分かりませんでした。でも私にとって、それは大した問題ではなく、厚生省の機構図に併記されていた「衛生試験所」や「栄養研究所」と同類の施設、という程度の認識しかありませんでした。 次の出会い、というより「再会」が二〇〇〇年十二月でした。知人に、「ハンセン病国家賠償請求訴訟を支援する会にこないか」と誘われ、すでに療養所を退所された方と裁判の支援者が、定期的に集まる会に参加させてもらったのです。このとき、初めて「らい」が「ハンセン病」だとわかりました。目の前には、指の曲がったおじい、おばあがいて、熱心に弁護士の話を聞いたり、私に「よく来てくれた」と、笑顔でお寿司を出してくれました。中には、ハンセン病の後遺症が全く残っていない方も、多くいらっしゃいました。 翌年一月には結審、五月には裁判の最初の判決が出るというこの時期にあっても、沖縄県は原告数が全国一多いのに、支援運動はほとんど行われていない状態でした。また、私はといえば、このとき初めてハンセン病という病を知り、その病に冒された人々に私たちがいかに無関心であり続け、それだけでなく、彼等にどれほど心ない態度をとってきたのかということを思い知らされ、愕然としました。少なくとも私は、卒論執筆の時に「らい」を知っていた。なのに、ハンセン病に対する社会の偏見も、「らい予防法」のことも、それが九六年に廃止されたことも、そして廃止後二年も経った後に、「国の責任を問い、社会の人々の偏見を絶つ」目的で、裁判が起こされたことをも知らなかった……。 私は、過去にハンセン病を患ったというだけで、自分の歴史や今の存在を隠し、否定し、誰かの目に怯えて暮らさなければならないようなこの社会は、おかしいと思いました。反戦運動、反基地運動の根っこにあるもの、それは人が人らしく生きていくための当然の権利が、いつもみんなにあるように、と願う心だと思うのです。さらにそれは、戦争があってもなくても、いつでもどこでも、この地球上にくらす全ての人々に保証されるべきものであるはずです。このときから「ハンセン病問題」は、私の最も身近な、社会問題となりました。 二〇〇一年五月、熊本地方裁判所において、「らい予防法は、日本国憲法に照らし合わせたとき、一九六〇年には違憲性が明確であった」という判決が言い渡されました。その後、「補償金」の支給や、退所を希望する人への一時金支給、退所後の経済的援助も含めた取り決めが交わされ、今年一月、全面解決をみました。 ハンセン病と「再会」してから、私は何度も沖縄愛楽園を訪れました。本島北部の屋我地島にある国立ハンセン病療養所です。ここで多くの元患者のみなさんと出会いました。私たちが、長い年月をかけて彼等を社会から抹殺してきたのに、彼等は私たちを、温かくやさしく迎え入れてくれました。沖縄のどこにでもいるおじい、おばあと同じように、食べきれないほどの食事やお菓子を出してくれました。彼等は私たちのことを「社会の人」と言い、買い物などで園外へ出ることを「社会へ行って来る」と言います。そして私たちに「社会からよくきてくださった」と言います。でも、それは逆なのです。私は、彼等と同じ時間を過ごすとき、生きていてくれてありがとう、こんなにたくさんのことを私におしえてくれてありがとう、私が、あなたたちに励まされ、生きるエネルギーをもらっているよ、と感じるのです。そして、元患者のみなさんとの時間を重ねながら、次第に、「私なりのハンセン病問題への取り組みが出来ないものだろうか」と考えるようになりました。「沖縄戦当時のハンセン病患者は強制収容されたと言われている。証言にはよく出てくる。しかし、資料的な裏付けは出来るのだろうか」。 元患者のみなさんとともに過ごすことを楽しみながら、一方で、いま、九〇年にわたる隔離の歴史の終焉にいる私たちが、歴史の真実に迫り、確実に記録しようとする努力を怠らないことこそ、同じ過ちを繰り返さない第一歩になると思うのです。 (つづく)
沖縄見たまま聞いたままC 2002/2/10
編者のつぶやきA
〜沖縄平和ネットワーク文化財・ガマ部会編『ガラビ・ヌヌマチガマ』を刊行して
文化財・ガマ部会の部会長でもあり、現在糸満市史(戦争編)の編集委員として多くの沖縄戦証言と向かい合っている大城和也さんは、今回の調査について次のように語っています。 ガラビ・ヌヌマチガマを調査して感じたことは、証言の数が少ないことと史料が少ないということです。証言と証言の食い違い、証言と史料との食い違いもあります。数少ない証言と数少ない史料のなかでどのように調査を進め事実確認していくか。証言者と同行して、ガマに入って確認することが必要です。ですが、証言者が高齢のためガマに入り確認することが出来ないことと、戦争時の心の傷が残っているためにガマに入ることや話すことをためらう現実があります。今でも残る戦争の傷です。体験者は年々減りつづけています。証言聞き取りについては時間との勝負となっています。(大城 和也)
記憶の彼方にあった、あるいは封印していた五十六年前戦場で見たものを呼び起こしてもらい、話を聞かせて欲しいとお願いするとき、私もうまく言葉に出来ないことがあります。今回証言を掲載させていただいた島富子さんには、「またいつでも遊びにおいでよ。でも、ヌヌマチガマの話はもう出来ないよ」と言われています。年齢的に足場の悪いガマの中に入ることが不可能な場合もありますし、近づくことすらイヤ、と言われることもあります。 「だからこそ`ガマの見取り図aの作成が重要なのだ」と編集メンバーの中で最年少の大城牧子さん(琉球大学大学院生)は言います。「ガマに入らなくても、内部の詳細な様子を紙面に表現できたら、証言者から、きっと、もっと話を聞ける」。彼女は琉大生時代に、南風原町の沖縄陸軍病院の調査メンバーとして測量・発掘に携わり、「戦争遺跡の考古学的調査の手法」を学んだ女性です。 戦争遺跡としてガラビ・ヌヌマチガマを知ってもらい、活用していく上で、図面は基礎的な資料となります。今回、『ガラビ・ヌヌマチガマ』を発刊するにあたって、これまでの図面が使えない(形・距離が違う等)との認識から、図面化の作業をすることになりました。 ガラビ・ヌヌマチガマを図面化したことによって、課題が生まれました。それは、きちんと機材をいれて測量を行わなければいけない、ということです。最初、これまで活用されていた図面(愛媛大学探検部作成のもの)とにらめっこしながら、どこが違うのか、この図面をどう修正しようかと悩んでいました。機材がない、時間もないという状態で、最終的に「目視による」図面化を行いました。ある程度、長さや距離を測りましたが、形状については見たまま書きました。いわば、お絵かきです。しかし、それでも戦争遺跡としてのガラビ・ヌヌマチガマの調査の第一歩だと思っています。今後、測量機材を用いての測量を本格的に開始します。これまでガマの中の測量がされていない分、理論的にはわかっていても、地形変化の激しいガマの中をどのような形で平面図に落としていくのかなど、不安はあります。実際に測量をしていきながら、みんなで悩み、解決して、次回はきちんとした形で図面を公開したいと思います。(大城 牧子)
この図面化作業は彼女を中心に行われました。土日の午後、それも忙しいみんなを動員して作業するので、一度入ると三〜四時間ガマの中に入りっぱなし、「ガマから出てきているのに懐中電灯が必要なくらい、外は真っ暗!」という日もありました。 そして、この本を作る当初から基本理念に据えていた「調査の成果を明確にする」部分を担当したのが、地主園(じぬしぞの)亮さんです。私の同僚(戦争遺跡詳細分布調査担当)で、若手の沖縄戦研究者の中でも、とにかく現場をよく歩き自分の目で確認することをモットーとしている人物です。 今回、ガラビ・ヌヌマチガマをまとめた意義は、「わからないこと」をわからないと書いたことにあります。現在までの沖縄戦の刊行物は、体験談や史料を掘り起こし、新たにわかったことを記載しつづけてきました。このことは重要且つ当然のことではありますが、ガラビ・ヌヌマチガマのように学習の素材として位置付けられ、様々な人が様々な人々を連れて話をする場合には一つの問題が生じてきたのです。それはより具体的に話そうとすると、細かな事実が話者ごとに違ってくるということです。なぜこのようなことが起こるのか、それは「学習者が話者となっている」ためです。研究者が掘り起こし、わかったことを記述する。それを学習した者が他者へ伝えるときに若干の誤解や間違いが生まれ、それが伝言ゲームのように増幅されたといえます。話者のなかで誤解や間違いが生じたときに、これを訂正してくれるものは、わかったことを記述したものには出てきません。そのため訂正および修正する手段を見つけられなかったのであろうと思います。 しかし、このガラビ・ヌヌマチガマにおいて不明確なことを記述したことにより、完全ではありませんが、「わかっているつもりでいたことが実はよくわからない事実であったのだ」と示せたのではないかと思っています。 (地主園 亮)
十月八日、沖縄平和ネットワーク第七回総会の日に、なんとか刊行することができました。「ガラビ崩落問題」に端を発したこの編集作業も、できあがるころには「そういえば、春先にそんな騒動もあったっけ」程度の認識になっていました。ガラビ壕で平和学習を希望する人は、結果的に、ほとんど減らなかったということです。(その後、テロの影響で激減しましたが……)だからこそ、ガラビ・ヌヌマチガマに軸を置きつつも、そこだけに止まらない視点で沖縄戦を語れる資料が必要とされているように思います。 ガラビ・ヌヌマチガマの真実はどこにあるのか、それを追いかけるみんなの思いが一致して、とにかく突っ走った半年間でした。日本全国、どこの本屋さんに行っても売っていない『ガラビ・ヌヌマチガマ』、定価七〇〇円(+送料)、ぜひ手にとって見てください。
沖縄 みたまま 聞いたままB 2002/1/10
編者のつぶやき@
〜沖縄平和ネットワーク文化財・ガマ部会編『ガラビ・ヌヌマチガマ』を刊行して
『ガラビ・ヌヌマチガマ』が刊行されるに至ったきっかけは、一〇ヶ月前にさかのぼります。昨年三月、ガラビ壕入り口に立てられた、ある?`看板?aです。「ガラビ壕の入壕者へ注意」で始まる具志頭村長名のこの看板は、「自然洞窟特有の岩盤の落下等がありうるとされているので、安全確保は自己責任で配慮してください」という内容でした。当初は特別問題にはならなかったのですが、この看板の存在を地元紙がセンセーショナルに報じたことから、全国に波紋を広げてしまいます。「ガラビ壕立ち入り規制へ 天井部に亀裂 落盤の可能性」。沖縄戦当時、野戦病院として使用されたガラビ壕(=ガラビ・ヌヌマチガマ)には、年間約三万人が平和学習のために入壕します。この報道を知った全国の学校からは、「立入禁止になったのか?」との問い合わせが入るようになりました。私たちは、この報道のニュースソースが沖縄観光コンベンションビューロー(沖縄観光を推進する県の外郭団体)にあることがわかったので、事実関係の掌握のため、ビューローに申し入れを行いました。すると、この「危険性の強調」が簡単な目視調査の結果のみで語られていることがわかってきたのです。「本格調査もしないで、危険か安全かというだけの尺度で判断した無責任な対応。ガラビ壕での追体験がもつ、平和学習の意義を無視したビューローの姿勢。安全かつ意義深い平和学習をつくることが、推進する側の役割ではないのか」。これが私たち平和ネットワークの見解でした。 でも、意義深くするための事実の掘り起こしを、私たちはどこまで出来ていたのであろう。平和学習の内容が、白梅学徒の体験をもとにした内容になっており、ガラビ・ヌヌマチガマの全体像や周辺の戦場の諸相について、曖昧な部分が多くあったことは事実なのである。(川満昭広=編集メンバー八名のひとり) 行政と一体となった平和学習づくりや、行政を巻き込んでの戦争遺跡保存・活用問題は、私たちの目指すところですが、まず、私たちでも出来ることから取り組む必要があるのではないか、と考えました。日々の「平和ガイド」に追われ、地味でも着実な調査研究や学習することを重ねてきただろうか、地域を歩いて証言者と対峙し、それを総合的にまとめようと努力してきただろうか、と振り返ったのです。 「今の段階でわかっている、ガラビ・ヌヌマチガマを、まとめてみないか」。四月、沖縄平和ネットワーク事務局長の村上氏のこの一言で、『ガラビ・ヌヌマチガマ』刊行へ向けた作業がスタートしました。ここ数年の間に、ガラビ壕をめぐる数名の生存者から、新たな証言が得られていたのです。しかし個人レベルで情報を持っていても、それを共有しなければ、沖縄平和学習の進展はみられない。崩落問題が起きて注目を集めている今こそ絶好のチャンスだ、と村上さんは考えました。 沖縄平和ネットワークにある七つの部会のなかで、戦争遺跡の調査、保存、活用を主な活動内容としている「文化財・ガマ部会」が、この本の編集事務局になり、編集会議が始まりました。中心メンバーは八名。生活スタイルや年齢・仕事もバラバラの面々が、夜七時から始まる会議にどうにか都合をつけて参加する。半年間で二〇回近く開かれたこの編集会議は、終わるのがたいてい深夜〇時、一時。平和ネットの事務所があるビルは一一時が門限なので、追い出されると近くのファーストフード店に場所を移し、コーヒー一杯で粘る。こんな日々がスタートしたのです。 ガラビ壕について、一般の人たちが目にすることができる書物が登場するのは『那覇市史(一九七三年)』の白梅学徒証言からである。その後『沖縄戦をみつめて(一九七八年)』に証言が掲載され、洞窟平面図および周辺マップが『歴史と実践第十一号(一九八三年)』に紹介された。そしてガイドブック的な本が数点出版されている。九十年代に入って、ガラビ・ヌヌマチガマに関する総合的な調査がなされたとは言い難い。(川満昭広) ガラビ・ヌヌマチガマにいたのは、白梅学徒隊だけじゃない。当時、地元の女子青年団だった方のお話や、負傷兵の「処置」にあたった元衛生兵の生々しい証言を、みんなのものにしていくべきではないのか。周辺の住民の様子は?軍隊の動きは?ひいてはガラビ・ヌヌマチガマの所在する「具志頭村の沖縄戦」とは?そもそも、約二〇年前につくられた「洞窟平面図」は戦争遺跡の資料として現在でも使用に耐えうるものなのか。ガラビ・ヌヌマチガマについて、これまで「なんとなくわかっていたつもりでいた」ことが、ことごとく「曖昧であった」ことに気づくのです。 (つ づく) ※ ※ ※ ガラビ・ヌヌマチガマの真実はどこにあるのか、それを追いかけるみんなの思いが一致して、とにかく突っ走った半年間でした。日本全国、どこの本屋さんに行っても売っていない『ガラビ・ヌヌマチガマ』、定価七〇〇円(+送料)、ぜひ手にとって見てください。お問い合わせは、松代大本営の保存をすすめる会もしくは沖縄平和ネットワークまで。
沖縄 みたまま 聞いたままA 2001/12/10
平日も休日もありません趣味か仕事か、もうわかりません
〜沖縄県戦争遺跡詳細分布調査の現状
朝から晩までガマ(沖縄方言で自然洞穴のこと)にもぐり、オジイやオバアの沖縄戦体験談を聞き、関連本を読みあさり、陣中日誌をひろげているのに、お給料がもらえる。そんな「夢のような毎日」を、いま私は過ごしています。今年二月から、沖縄県立埋蔵文化財センターに、戦争遺跡分布調査担当の嘱託員として勤め始めたからです。 沖縄県では、文化庁からの補助を受け、一九九八年から五カ年計画で「沖縄県戦争遺跡詳細分布調査」をスタートさせました。当初は県教育委員会文化課が担当していましたが、昨年四月に埋文センターがオープンしてからは担当者がこちらへ移り、「文化財指定を視野に入れた」戦跡調査が進んでいます。このように書くと、ずいぶんしっかりした調査が行われているように思われがちですが、実際はすべてが「手探り」の状態です。 沖縄本島には、七〇〇カ所を超える戦争遺跡があると見込まれていますが、その現状を、たった四名の調査スタッフで把握しなければなりません(本島南部三四六カ所は調査済み)。沖縄は、市町村史の編纂がさかんに行われていますから、その中で沖縄戦体験者の聞き取り調査を終えている市町村では、教育委員会や証言者の協力を得て容易に遺跡の確認をすることが出来ます。しかし聞き取りのすすんでいない市町村では、まず、戦争遺跡の所在に関するアンケートを実施し、各字の区長さんに現場確認のご協力をお願いすることから始めなくてはいけません。また、巨大なガマや日本軍の陣地壕に出会ったときは、必要とあれば、真っ暗闇の中で懐中電灯を照らしながら実測をし、壕の見取り図を完成させます。匍匐前進をして泥だらけになりながら、その先にある大きな空間をカメラに納めることもあります。空気の流れのない壕では、ガスが充満していることもあり、一時間置きに外へでて、「新鮮な空気」にほっとする、そんな所もあります。「調査方法の模索」は、繰り返し行われていると言えます。 そして、「調査」の先にある「保存・活用」を考えたとき、県民の戦跡保存に対する意識の希薄さも無視できません。自分たちが避難していたガマや、歩きやすいように整備した山道を「遺跡」と位置づけることに、とまどいを感じている人もいます。また、「鉄の暴風」をくぐり抜け、戦後の混乱期にぎりぎりの暮らしを強いられてきた県民にしてみれば、そこに生き、死んだ体験の場所を、積極的に残そうという心の余裕がなかったとしても、現代に生きる私たちにそれを非難できるはずもありません。 結局、現在残っている戦争遺跡は、言ってみれば偶然残ったもので、意識的に「残そう」としてきた結果ではないということです。沖縄県は、復帰後の大規模な土地改良で多くの貴重な戦争遺跡が破壊され、その流れは現在も続いています。「あと十年早かったら、あの人の話が聞けたのに、あの壕が残っていたのに」という言葉を、何度聞いたことでしょう。「今すぐやらなくちゃ」という焦る思いと、「今でも、もう遅いくらいだ」と、嘆きたくなる思いが、交錯する毎日です。 これまで、沖縄平和ネットワークで趣味的に関わってきた戦争遺跡調査・保存・活用という問題が、自分の「生活の糧」になるとは、思ってもみませんでした。しかし振り返ってみれば、私が沖縄に来るきっかけになったのも、戦争遺跡だった気がします。九五年の秋、一人でスクーターに乗って沖縄の戦跡巡りをしたとき、南風原陸軍病院壕「二〇号壕」の天井に、朝鮮人の名前「姜」の文字を見てしまったときの衝撃。壕の中の暗闇や湿度の高い空気、土の匂いや、「聞こえない音」を耳にしながら、皮膚を通して戦争を感じたあの瞬間を、私はずっと忘れられずにいます。そして「戦争の本当」を、いろんな人と一緒に考えたくて、ただそれだけで、沖縄に来たあのときの感情を思い出すのです。 今年七月、調査開始から四年目にして初めて「沖縄県戦争遺跡詳細分布調査―南部編」を刊行することが出来ました。二月から調査に加わった私も、執筆に携わり、この報告書の中に名前を残すことが出来ました。両親に喜んで欲しくて、さっそくお盆に帰省した際手渡すと、父は「こりゃ眠れない夜に読んだら、すぐ寝られそうだ」とつぶやき、おばあちゃんの仏壇に供えると、私が沖縄へ帰るまで「大事に」そこに置かれていました。「戦跡保存」が市民権を得るのはまだまだ先かなぁとふと思い、飯田をあとにしたのでした。
沖縄 見たまま 聞いたまま@ 2001/11/10
沖縄は危険です。ぜひ見に来てください、待ってます。
私の手もとに、一通の手紙があります。沖縄修学旅行を目指して事前学習を積み、出発の一週間前まで「必ず行きますから」と電話を下さった、長野県のある高校の先生からの手紙です。 「先日は突然の修学旅行中止ということで、皆様方には大変ご迷惑をおかけしました。申し訳ありませんでした。私自身、平和学習を進める中で、生徒たちにガマに入り、体験者の方のお話を聞かせたい、基地と暮らす沖縄の思いを少しでもわかってほしいという気持ちが強くなっていました。事前学習も、私なりに一生懸命とりくんできただけに、どうしても生徒たちとともに沖縄に行きたかった……」 今、沖縄には、全国の学校からの「沖縄修学旅行ドタキャン連絡」が殺到しています。九月十一日に発生した米同時多発テロの影響です。その数、十五万七千九百九十六人(六百九十七校、十月三十一日現在)、昨年来沖した修学旅行生の半数を超えました。私たち沖縄平和ネットワークも、十〜十一月は当初受入校百三校のところ、五十三校がキャンセル(十月二十六日現在)、遠いところでは、来年二月のキャンセル連絡まで入っています。 沖縄の観光業界に与える被害額は数百億円と言われ、「このままでは年を越せない」と悲鳴をあげる関係者もでてきています。修学旅行のキャンセルが増えた原因は、文部科学省が出した注意文と言われていますが、それだけではないようです。先生の手紙は続きます。 「風評に流されるなという一方で"米軍基地の沖縄"緊張高まる沖縄"次は沖縄"といった報道が、やはり不安に不安をかき立てたと思います。文部科学省の通達もその後の訂正も、また長野県からの通達も、"各校の責任で判断せよ"以上のものではありませんでした。せめて、沖縄県から、もっと説得力のある、積極的な情報提供が欲しかったと強く思います。私たちも、実際に修学旅行で沖縄にいる他校の職員に電話をして様子を聞いておりました。基地周辺の交通渋滞や空港のチェックの厳しさはあったものの、中止するような材料は得られませんでした。しかし、"中止した学校があるなかで、三〇〇名をこす生徒たちの安全性を保証できるのか"と問われたとき、どう答えられるのでしょうか。"何がいつ起こるのかがわからないのがテロなのだ"といわれたとき、何と答えればよいのでしょうか…」 この問いに対し、沖縄県は「だいじょうぶさぁ〜沖縄」と応えました。本土から送り込まれた機動隊が、物々しい重装備で米軍基地前を警備する態勢は変わらぬまま、総額五億円をかけて全国展開する大型観光キャンペーンのキャッチフレーズがこれなのです。プロ野球キャンプ、国内・国際会議の誘致、はてはエイサーキャラバン隊の全国への派遣も含め、あらゆる手段で沖縄観光の「安全性」をアピールするといいます。沖縄に集中する米軍基地の存在や、テロ集団がむける憎しみの感情・攻撃の無差別性こそが、学校・父母・生徒を不安に陥れているという現実を、まったく無視した「アピール」です。先生に返事を書きました。 「沖縄は今、"基地と共存していこう"としています。普天間基地返還とはよく言ったもので、辺野古沖への代替基地建設は、つまり"新設"です。戦後、沖縄県が積極的に基地建設を推進しようとしているのは、これが初めてのことなのです。県が、沖縄は安全だというには、基地の存在を無視するしかありません。人々の一番の不安材料である米軍基地が厳然とそこにあり、新しい基地、つまり新しいテロの標的となりうる施設をも積極的に造ろうとしている県が"安全だ"と言おうとするには、あまりにも矛盾が大きいからです。県は、人々が何に怯え何を求めているのか、真正面からとらえる勇気を持てずにいます。もっとも、沖縄のことだけ考えている場合ではないと思いますが、ここ沖縄には、積極的な平和社会がいかに創られるか、具体的に考えることのできる事柄が山のようにあります。今がチャンスなのです。沖縄に米軍基地があるのは今はじまったことではありません。沖縄戦から五十六年、ずーっと基地はあり続けているのです。危険なのは、今はじまったことじゃない、そのなかで県民は生きてきたんです。先生、ぜひ、父母や生徒の沖縄へむけた率直な意見を教えてください。離れていても、沖縄に来られなくても、いまこそ一緒に考えたいのです。基地=暴力と共存していくことはできないのだと」。