おたより
心温まるおたより、元気を頂くお手紙,いろいろなお便りを頂きます。
[ 長野市立長沼小学校 上伊那郡箕輪町立箕輪北小学校 ] 2002/7/10
小学校の地下壕見学学習が増えています。総合学習の開始で、地下壕がクローズアップされているのでしょうか。 見学後、とてもカラフルなかわいい礼状をたくさんいただいています。カラーでお見せできないのが残念ですが、今回は長野市立長沼小学校と上伊那郡箕輪町立箕輪北小学校の皆さんのおたよりを紹介します。
大本営の保存をすすめる会の みなさんへ
こんにちは。先日は見学させていただきありがとうございます。わたしたちは、松代大本営で、色々なことを学びました。 どうくつの中は冷えこんでいて、昔は、どのくらい大変だったことかわかりました。 とくに、わたしがすごいな〜と思った所は、岩のかべに油とすすがまざって書いたのがまだ残っていて、しかもちょうせん人がかいたというのは、すごいな〜と思いました。 それにダイナマイトで穴をあけて、命を落とした人が何人かいたんだな〜と思いました。 みなさんのおかげでたっくさん勉強ができました。本当にありがとうございました。箕輪北小学校六年一同より
◇前田佑里乃さん(箕輪北小六年)
第二次世界大戦中に造られた地下壕だと聞き、どんな場所なのかと想像はしてみたものの、実際中に入ってみると、常に一五℃〜一六℃という低い気温と広さ、暗さのはく力に圧倒され、想像以上のものでした。また、五〇mおきにほられた連絡通路の長さには、とてもおどろきました。この様な広い場所を九か月で、それもたったの一万人でほったなんて、すごいと思いました。でも、天皇や政府に関わる人達以外の人間は、助からなくてもいいという日本人の考えには腹がたちました。天皇も政治家も農民も、同じ日本人、人間に変わりがないのだから、せめてその人々のためになにか考えてあげるなどの事くらいはしてあげてもいいのではないか、と思いました。初めから「助からなくてもいい」ではなく、実行には移せなくても、同じ人間に対して、少しくらいは思いやりを持って考えてあげれば良かったのにと強く思いました。この見学で分かった事、感じた事をいかし、今、クラスでは一人一枚新聞作りをしています。自分にしか書けないオリジナル新聞が出来上がりそうです。 (一部省略)
◇向山実穂さん(箕輪北小六年)
地下ごうのことをおしえていただき、ありがとうございました。 私は地下ごうの中に入って最初に思ったことは、すごく横幅と縦幅が長くて、よくこんなに石をはこんだり、けずったりできたなぁと思いました。 ロットのあともいろいろな所にあって、朝鮮の人は、たくさん働かされて「かわいそうだなぁ」と思いました。 朝鮮の人がのこしていった石の所にあった字を見て、よっぽど戦争が終わってうれしかったんだなぁと思いました。 みなさんのおかげで戦争中のいろいろなことが分かりました。 また機会があったら、家族で行きたいと思います。 本当にありがとうございました。
[山梨学院大学浅羽ゼミ] 2002/3/10
◇法学部二年 市脇 久則
今回のゼミ合宿によって今まで日本の歴史を現地に赴いて勉強したのはこれが初めてでした。特に戦争時代の歴史についての知識が少なく起こった出来事の名前ぐらいのみ知っている状態でした。そのような中、松代大本営と言う言葉は初めて聞いた言葉でした。
そもそも大本営というものは何か、松代は何があるのか……とゼミ合宿前は思っていました。沖縄のガマについては、暗く、そこで大勢の人が亡くなったことや、そのガマの中で集団自殺を行ったことぐらいなら自分も知っていました。が、松代にも壕があること、それと沖縄のガマととても関係が深いことに驚きました。そして、その壕は天然のものではなく人工的に作り上げたものであり、その本物を生で見ると、とてつもなく計算しつくした、当時としてはすごい技術・予算・そして人を費やしたという壕そのものが語りかけてくれているようでした。
前日に松代について、松代大本営について、その歴史的背景について、事前に話を聞いていたこともあり、とても感動を受けました。自分の中では沖縄のガマは、戦争の回避できない犠牲であるものと考えていました。しかし、今回の松代の存在意義というものを聞き、沖縄の人々はいったい何のために死んでいき、そして「国体護持」を貫こうとした国の考えというものを初めて考えました。
本当に戦争責任を負わなければならない人間は天皇ではないのか?と、思いました。今まで自分の見てきた昭和天皇という人は、戦後の平和主義者のみの素顔しか見ていないため少しギャップを感じているのもあり、あまり考えたこともなかったのですが、今回の天皇の避難する壕(地震観測所)を見たときに、本当にこれだけの建物なのか
……国が、国体護持に対して普通考えられないほどの力を入れているのだから、他にもこの建物の裏の山に避難するための少し険しい山道をつくり逃げ道として造ってあったのでは……と思いました。
そして、天皇にも戦争責任がないということは、不可能なのではないのか……このような天皇の下、いまの日本国憲法が公布されたと思うと、なぜ少し大日本帝国憲法のなごりが数多く見えるのか、そして、本当に国民主権の憲法なのかと、あらためて考えさせられました。
今まで歴史をほとんど学んでこなかったので、今回のゼミ合宿で数多くのことを学びました。戦争中国民すべては、「大東亜共栄圏」というものを信じ戦っていた最中に、途中から国体護持という風に変化していったことを初めて知りました。過去の出来事をその一点でしか見ていなかったため「こんなこと学んで何になるのか?」と思っていましたが、流れで見たとき一つ一つの出来事が現代にまでとても影響していることに気づき、法律も学ぶ上で歴史を学ばなければならないと思いました。
◇法学部二年 金子 卓史
九月五日、六日の二日間、長野県の松代に平和学習をテーマとしたゼミ合宿に行ってきました。 講義のゼミの時、合宿の候補地には広島、長崎、沖縄、松代の四ヶ所が出ており、一番身近な長野県が合宿地に決定しました。自分は広島、長崎、沖縄の平和学習としての重要性は解っていたが、なぜ長野県の松代が候補に出ていて決定し平和について学習しに行くのか、そして松代と戦争の関係についてまったくの無知でした。そのため、この松代合宿は自分にとって松代を知る良いチャンスでした。
松代に着いた時まず思ったのが、とても静かな町だという事です。よく晴れていた為か、町を囲んでいる山々がとてもきれいに見えました。この静かな町に何があり、行われたのだろうという思いでいっぱいでした。 昼食後の町の散策では松代について新しい発見がありました。それは松代が真田十万石の城下町であったという事です。町の所々には武家屋敷のような古い建物や門や塀が見られました。真田家に因んだ寺にも見学に行きましたが、とてもすてきな感じでした。
更に驚いた事にこの松代が佐久間象山の生まれた町だという事です。自分は日本史で幕末に非常に興味があり佐久間象山の事も知っていましたが、生まれが松代である事は知らず象山記念館を訪れた時、とてもうれしかったです。この散策で松代の歴史の深さの一部に触れてとても良い町だと思いました。 夕食後は、「松代大本営の保存をすすめる会」の大日方先生の講演を聴きました。本当ならば実際に象山地下壕を見学してから聴いた方が良かったのですが、見学は明日の予定になっていたので、知識の方が先になってしまいました。
しかし、先生の話は十分に自分たちに考えさせるものであり、今日感じた静かな町とは思えないことが行われていたというのを知りました。 大本営とは、戦時において設置された、天皇に直属する最高の統帥部の事です。日本は「大東亜共栄圏」を作り、アジア全体が豊かになることをスローガンとしてアメリカと戦争を始めました。この時点ですでに「アジア全体が豊かになる」は、おかしな事だと思いました。朝鮮など日本の植民地になっている国では豊かも何もなかったと思います。
そして日本軍の負けが続きだすと上層部の考えが変わりだしたのです。「アジア全体が豊かに生きる」から「国体を守る」へと、まったく戦争の意味が変わるのです。日本本土が空襲されるようになり上層部でも、もう勝てないと解っていたのに、このまま負けると戦争責任が天皇にまでかかり、日本に天皇制がなくなってしまう。「戦争に負けても天皇制を守りたい」その為に日本大本営は松代に地下壕を造ることにしたのです。 地下壕を造るには多くの人たちが、特に朝鮮の人たちの強制労働によってのものです。チェ・ソアムさんの話を聞いたときにはその場にいた訳でもないのに、とても恐ろしさを感じました。
『爆発しなかった発破を見に行った仲間がドンという音と共にいなくなってしまった』自分の仲間が一瞬にしていなくなってしまう。もしその場にいてその確認に行くのが自分であったら、きっと恐怖で震え、泣いてしまうと思います。家に帰りたい、国に帰りたいと一生懸命思うと思います。しかし、実際の地獄の中での死への恐怖とはどのようなものだったのだろうと、胸が痛くなるくらい考えてしまいました。
次の日実際に壕に入ってみて、その思いは強くなりました。柵がしてあり入れない壕を覗くと、奥のほうは真っ暗で、この中で日本人に暴力を受け、事故や病気で仲間が次々と死んでいく、ちゃんと供養してあげられなく墓も造ってあげられない、とても悲しかったと思いました。
天皇一人を守るためにここまでするのか、という思いでいっぱいになりました。 そして松代と沖縄との関係。あの沖縄戦は本土決戦、松代大本営建設のための時間稼ぎであり、あの沖縄戦争で犠牲になった多くの島民は天皇一人を守るために死んでいったのだと考えると、同じ人間のすることかと信じられない気持ちでいっぱいでした。 僕は高校の修学旅行で沖縄の壕を見ましたが、こんな立派な壕とは違い狭く暗い恐怖の壕でした。
しかも松代には三種の神器を置く為の壕までしっかり造る予定だったそうです。人の命より大事なものがあるとは思えない。しかし、この時代には普通に考えられた。 自分は教職の勉強をしていて、教育とは恐ろしいと感じました。戦争に負けるまでの日本では天皇中心、神として子どもの頃から教育されていました。そんな中で育つと多くの犠牲を出しても天皇を守る、神器を守る人々が出てきてしまう。とても恐ろしい時代だったと思います。 松代大本営はそういった事を忘れないために、そして多くの犠牲を忘れないためにも大切に保存していってもらいたいと思います。(中略) 松代を見たことがない同じ勉強をしている友達にここで見たこと、聞いたことを話す事ができました。正直、教師としてでは難しいですが、自分に子どもができたらここに連れてってあげ、その子の考える材料にしてあげ伝えていきたいと思います。
山梨学院大学浅羽ゼミ ◇法学部二年 市脇 久則
今回のゼミ合宿によって今まで日本の歴史を現地に赴いて勉強したのはこれが初めてでした。特に戦争時代の歴史についての知識が少なく起こった出来事の名前ぐらいのみ知っている状態でした。そのような中、松代大本営と言う言葉は初めて聞いた言葉でした。
そもそも大本営というものは何か、松代は何があるのか……とゼミ合宿前は思っていました。沖縄のガマについては、暗く、そこで大勢の人が亡くなったことや、そのガマの中で集団自殺を行ったことぐらいなら自分も知っていました。が、松代にも壕があること、それと沖縄のガマととても関係が深いことに驚きました。
そして、その壕は天然のものではなく人工的に作り上げたものであり、その本物を生で見ると、とてつもなく計算しつくした、当時としてはすごい技術・予算・そして人を費やしたという壕そのものが語りかけてくれているようでした。 前日に松代について、松代大本営について、その歴史的背景について、事前に話を聞いていたこともあり、とても感動を受けました。自分の中では沖縄のガマは、戦争の回避できない犠牲であるものと考えていました。
しかし、今回の松代の存在意義というものを聞き、沖縄の人々はいったい何のために死んでいき、そして「国体護持」を貫こうとした国の考えというものを初めて考えました。 本当に戦争責任を負わなければならない人間は天皇ではないのか?と、思いました。今まで自分の見てきた昭和天皇という人は、戦後の平和主義者のみの素顔しか見ていないため少しギャップを感じているのもあり、あまり考えたこともなかったのですが、今回の天皇の避難する壕(地震観測所)を見たときに、本当にこれだけの建物なのか
……国が、国体護持に対して普通考えられないほどの力を入れているのだから、他にもこの建物の裏の山に避難するための少し険しい山道をつくり逃げ道として造ってあったのでは……と思いました。
そして、天皇にも戦争責任がないということは、不可能なのではないのか……このような天皇の下、いまの日本国憲法が公布されたと思うと、なぜ少し大日本帝国憲法のなごりが数多く見えるのか、そして、本当に国民主権の憲法なのかと、あらためて考えさせられました。
今まで歴史をほとんど学んでこなかったので、今回のゼミ合宿で数多くのことを学びました。戦争中国民すべては、「大東亜共栄圏」というものを信じ戦っていた最中に、途中から国体護持という風に変化していったことを初めて知りました。過去の出来事をその一点でしか見ていなかったため「こんなこと学んで何になるのか?」と思っていましたが、流れで見たとき一つ一つの出来事が現代にまでとても影響していることに気づき、法律も学ぶ上で歴史を学ばなければならないと思いました。
[ 定例見学会で] 2002/2/10
飯田市 宮下 典彦 さん 今日(一月一三日)象山地下壕を初めて見学させていただきました。当初善光寺へ行こうとしていたのですが、松代へ来て、この象山地下壕の存在を思い出し、急遽突然訪問しました。 幸運にも定例見学会、とのことで案内までしてくださり、まことにありがとうございました。 この地下壕の存在、建設の経過、保存運動の苦労等々、新聞等である程度は知っているつもりでしたが、改めて戦争の愚かさ、悲惨さ、非人間性等身近に見る思いでした。 あの戦争は、天皇のため、日本の国体の維持のため、他民族を人間と思わず、自国民をさえ人間と思わずいかに差別抑圧を行い遂行されたか。この地下壕は、生き証人みたいなものだと思います。今、為政者たちはあの戦争を美化し、過去の侵略の事実さえ否定し、自衛隊を海外派兵させ、挙句には世界に誇る平和憲法さえ改正(?)しようと目論んでいます。 多くの人に戦争の悲惨さを訴えるためにも、ぜひありのままに保存し、少しでも多くの方に見てもらえるよう望みます。
熟年大学フィールドワークで
長野県中条村 中沢 保雄さん
赤く錆びし削岩機のロッド岩盤に 残りて半世紀松代地下壕
地下壕の壁に残りし落書きは アリラン唱いて書きたるものか
長野県小川村 戸谷 文子さん 松代の地下壕研修素晴しき 驚異の眼(まなこ)言語に窮す
長野県小川村 松本 智さん
入り見し広きに一ぱいアリランの 悲しみ篭る松代地下壕
歌集「続・鬼無里」より抜粋
埼玉県川口市 寺島 清文さん ハングルの落書きうすれアイゴーの声底ごもる掘削の壁 雪の吹き込むバラックが朝鮮人の飯場とぞ地底に沈む怨嗟の声は 神器あれば国体は守れると天皇の御座所より高く賢所を 敗戦のよろこびに湧く万歳の木霊つつみし松代の山 「無駄な穴を掘ったのはどこか」と天皇は民の犠牲を憚りもせず 大本営地下壕は今「地震観測室」地下核実験も捉えられる皮肉 かって慰安婦を囲いおきし処 今は幹太き松の木のみが昔のままに 沖縄戦の隠れ場「ガマ」を調査せし高校生達が松代地下壕保存に一歩をしるす
[新婦人岩国支部] 2002/1/10
◇三上 由佳さん 今回の平和ツアーは、娘(長女で一〇歳)と一緒に行くことに私の中で大きな意味がありました。彼女が通う学校で、「もう少し平和教育をしてほしい」と要望したところ、「平和教育はいろいろ難しいのです」と信頼していた先生から言われた時から、学校でできないのなら、親子で過去の戦争を学んでいこう、というところに立ちました。松代は予想以上に遠かった。でも、自分の意志でそこに立ち、強制労働者が命を削りながら日本の為に掘った穴を歩き、今も実存する過去の悲惨な事実を全身で感じることで、「戦争」を身近に感じることができました。 「知らないまま、朝鮮から日本に連れてこられた朝鮮の人たちはかわいそう。私は戦争はぜったいいやです」?毎齒盾ノ壕の中を歩いた娘、真愛のその日の日記から。
◇国清 澄子さん この度の松代への旅で大きく私の心を捉えた三つのことがありました。 一一月一一日、追悼の集いの式が終わり朝鮮人の舞踊家・キムスンジャさんの鎮魂の舞が舞われ、最後に坑道口に設えられた献花台に参加者一人ひとりの手で小菊の花を供えた。私も少し小高くなった坑道口へ登り、花を供えて手を合わせ「本当にごめんなさい」と心の中で初めて請うた時、こみ上げるものがあった。思えば、松代へは二度めの旅でしたが、初めは観光ルートの一つとして選んだもので、この度は何かしなければと学習し、手を合わせることを知らせ語っていかなければということを心に刻んだことが第一のこと。第二は、篠ノ井旭高校の生徒さんに出会えてお話ができたこと。第三は、天皇の住居から地下壕に降りる階段を「朕は命が惜しい」と避難する天皇の姿を想像できる現場に立つことができたこと。以上三点のことがこの度の旅行で私の心を捉えました。 案内をして下さった島村さんの説明は行き届いており、大変理解しやすかったと感謝しております。
◇西村 忠子さん 赤とんぼ 鎮魂の舞に あはせ 飛ぶ 象山のふもと 晩秋の朝 野菊手に 祖 靖かれと 黙し去る まぼろしの大本営跡 列なす若人 松代に 祖国への血燃ゆ 太鼓のひゞき 銀嶺の峰に 木霊して消ゆ
◇長岡空襲の話を聞いて
◇上越市 南雲 和子さん 報復戦争の最中に、またアジア太平洋戦争開始六〇年目の日を目前にした一二月の初めに、「長岡空襲について」の講演を聴く機会がありました。
一九四五年八月一日当時、まだ赤ん坊で偶然にも生き残ることができた講師は、戦災に遭った人々からの聞き取りや、アメリカ軍の資料をもとに、長岡空襲の酷さの事実を語って下さいました。
三月一〇日の東京大空襲を境に、アメリカ軍の攻撃は、軍需施設から都市への無差別攻撃に変わり、都市を消滅させ、市民の戦意を喪失させました。長岡空襲は、当初五五機のアメリカ軍の爆撃機が飛来したと報道されたようですが、アメリカ軍の資料で実際には一二五機による爆撃だったことが明らかになりました。またこの爆撃飛行団は、テニアン島から日本海側を攻撃した優秀な飛行団で、一坪に七発の爆弾が落とされ、一四六一人の長岡市民が死亡するという悲惨なことになりました。
アメリカ軍の資料の中に、山本五十六の生地だから長岡を襲撃するとの文言は全くありませんと聞き、驚きました。 やはり、特に女性や子どもの犠牲者が多く、また生存していても五六年経過した今になっても、犠牲者の鎮魂のためにあげられている長岡花火は恐ろしくて見られない、空襲当時のことは語れない人もまだまだいらっしゃるとも話されました。
足下の長岡空襲の事実をきちんと知り、子どもや孫に伝えることが今回の講演会の目的でした。同時に中国などに対しての日本軍の加害性にも目を逸らさず、戦争がもたらす悲劇と平和の大切さを伝え続けたいものです。
横浜市 水谷 徹さん
拝啓 八月一二日は、大本営跡の案内、本当にありがとうございました。また、ガイドブックもいただいて、しっかり勉強しなくては、と思っております。
私にとって今年の夏は、四月から教員になり嵐のような一学期(四〜七月)を終えた初めての夏休みでした。一学期は自分自身の甘さ、弱さが身にしみ、また社会科教員としての力不足を痛切に感じた期間でありました。そこで、夏休みは、自分の足でいろいろな所へ行き、視野を広げたいと思い、様々な所へ学びに行きました。山形、沖縄、長野(松代)、京都、兵庫、北海道と行きました。八月一二日は松代へ、大本営跡を見ようと思い足を運びました。
そして保存をすすめる会の方々との出会い、神林さんのご案内、本当に感謝をしております。「松代大本営」という名前だけは、学生の頃から耳にしていました。しかし今回、足を運んでみて、本当に驚きでした。何?ワにもおよぶ地下壕、そして天皇の御座所、賢所など戦時中そのままのものが見られて、貴重な体験でした。
とくに私が驚いたのは、天皇の御座所から扉一つで、すぐ地下壕へつながっているという所です。大日本帝国が無謀な戦争を強制的に続け、日本国民、沖縄の県民、そして多数の朝鮮人を犠牲にしたというその現場に立って、社会科教員として自分には何ができるのか、ということを考えました。まず第一歩として、この知った事実を生徒たちに伝えること、そして、ともに学びながらどんな日本をつくっていくのか、考え、創造することではないかと思います。二学期の授業では早速とりあげるつもりです。そして機会があれば、次は生徒を連れてまた松代を訪れたいと考えています。
また、松代では、神林さんの貴重な戦争体験のお話も聴くことが出来、本当に勉強になった一日でした。「戦争体験を聴ける最後の世代」が、私たちなのではないでしょうか。過去の真実をしっかり学び、その反省と展望をしっかりつかみ、未来をつくっていく、それが人類の営みであると思います。教育基本法には、教育の目的は「平和的な国家及び社会の形成者の育成」と書かれています。私も社会科の教員として、その仕事をしっかりとやっていきたいと思います。 家へ帰ってきてから、自分の地域には戦争遺跡がないかと調べてみました。すると、神奈川にも日吉地下壕だとか、登戸研究所だとか、いくつかありました。この秋は、その辺へも足を運び、学びたいと思います。
この夏の最大の出会いは、神林さんと出会ったことであると思います。今後ともよろしくお願いいたします。 最後になりましたが、くれぐれもお体にはお気をつけて、元気に地下壕を案内してください。
敬具 二〇〇一・九・
長野県伊那市 小祝とし子さん
昭和一六年一二月八日に始まった第二次世界大戦の時、私は一四歳の少女でした。父母が農業をしていたので、七人兄弟の長女だった私は、農業を手伝うはずでしたが、分家で局を始めたため、勤め始めました。戦争といっても片田舎なので、「誰さんに召集令状が来たんだと」と農家の大黒柱が次々と出征し、父もいつ赤紙がくるかと心配の毎日でした。まだ二十歳にもならない男の人は志願して兵隊となり、女性は挺身隊として軍需工場に働きはじめました。私は小さな局につとめ、通信挺身隊とかいわれ、庭の防空壕に書類をもって出入りしました。米軍のB29が大都市を爆撃しているうちは高空を見事な編隊で通り過ぎるのを見ているだけでした。 昭和二〇年三月一〇日の東京お大空襲で、東京は焼け野原になったと噂が流れました。次の日は焼けた紙のようなものが降り続きました。
局の窓口で忘れられないのは、貯金をおろしに来た男の人の背に真っ黒にやけた幼児が背負われていた事でした。命からがら爆弾の中をくぐり抜けて来たのでしょう。家族は、母親は、と声も出ない程胸を衝かれました。
戦争末期には、迎え撃つ飛行機もなくなったのか、茨城の鹿島灘に接近したアメリカの航空母艦から艦載機がとんできました。空襲警報もなく森陰から飛んでくる飛行機に機銃掃射され、通勤途中の私は、植えたばかりの田圃の傾斜地にとびこんで助かりました。また、芋畑で勤労奉仕していた小学生が、隠れる場所もなく何人も射たれたとか、噂がとび交いました。毎日恐ろしくて、夜になって顔を合わせると「今日も生きててよかったね」と言ったものでした。茨城県都の水戸や、工業都市の日立は海に近いため、艦砲射撃されて多くの命が奪われました。八月六日、九日の広島、長崎に落された原爆は「新型爆弾で何十万人が殺され、何十年も草木も生えないそうだ」と聞かされました。
原爆とは何かも知らず、米軍が鹿島灘に上陸したら私たちも戦うのだと、竹槍訓練を本気で習う毎日でした。平和な今、裸でいてもクーラーをつけたりしているのに、いつでも逃げられるよう、モンペをはき、防空ずきんで寝ていたのです。 そして、思いもかけない敗戦。茫然自失の中から我に返ったときは一八歳の夏でした。学生に教科書もノートもなく、着るものもタオル一本も買えない。農家で(米麦を作っていたのに)おにぎりにも事欠く状態でした。米は供出といって割り当てられていたからです。
向学心に燃えていた私は、進学も出来ませんでしたが、「戦争とは、私達の生命や生活に何をもたらすか」という貴重な体験の場となりました。これこそ本当の生きた大学だと、今は思うのです。
私のように片田舎の農村でも、以上のような体験をしました。狭い少女時代の見聞ですが、戦争は、地球に生きるものすべてに、破壊的な惨状をもたらし、営々と築いたものも破壊しつくすものです。二〇世紀の私達は(歴史を学ぶまでもなく)その事を十分学んだのです。核を造る程頭脳が発達した人間、万物の霊長を自認する私たちは、そのすばらしい頭で、地球に生きるため、その価値観を大きく換えて平和に共存できないものでしょうか。
人類と地球の未来が永久に平和でありますように祈りつつ、筆をおきます。 二一世紀の夜明けに詠んだ私の一句です。子や孫たちの生きる次代が、住みよい次代であってほしいと(拙いものですが)御笑覧下さい。
桃源郷 地獄つくるもわたしたち人(間)の理性を信じてよいか
地下壕見学感想より
長野市の松代大本営を見学しました。地下壕に入って案内を聞き平和の尊さを感じました
◆中屋 将実さん(長野県 美南ガ丘小学校六年)
ボランティアのみなさん、先日はどうもありがとうございました。みなさんのおかげでとてもとてもいい勉強になりました。 長野県にこんなすごい所があるなんて全然知りませんでした。「昔の日本人はちょうせん人をひどく差別した」ということが少し信じられませんでした。昔はそんなに悪い人やいけない事をする日本人がいたのかと思うと少し残念です。昔は戦争などで死ぬ人がいたり、食べ物もあまりおいしくなかったりしたけど、今の生活は昔にくらべればかなりぜいたくだなぁ〜と、なんども思います。そうやって思えたのも、ボランティアの人達の分かりやすい説明とがんばりのおかげです。本当にありがとうございました。これからはぜいたくをあまりする気にはならないと思います。
◆山崎 直宏さん(長野県 会染小学校六年)
ぼくは、松代大本営に入ったのは、初めてでした。もし、島村さんの説明がなければ、ぼくは 「すごいどうくつだなー」と思うだけで、ロッドあとのくわしいことや、朝せん人のかいたものも、意味もわからなかったと思います。 説明の中で、かわいそうだと思ったのは、死んだ人の数や、どこの人が死んだのかということが、ぜんぜんわかっていないのが一番かわいそうだと思いました。わかっていれば、その家族は日本でもよくがんばったことなどがわかるけど、自分の家人がつれていかれてもどうなったのかわからず、心配になってしまうと思いました。 日本は、このことのつぐないとして、朝鮮人をむりやり連れていくようなことになった戦争を、もうやらないようにしたいと思います。
◆二年四組の皆さん(長野県 田川高校)
このたび沖縄研修旅行の事前学習として松代大本営地下壕を見学した折は、熱心にそしてわかりやすく地下壕についてご説明いただき、ありがとうございました。大本営を見学したのは僕にとって二回目でしたが、初めて来たときよりなんだか広く大きくなったような気がしました。でも、そんなはずがありませんよね。 (中略) 僕たち旅行委員がガイドさんのお話の中で一番印象に残ったところは、朝鮮の人々が描いていったと思われる兵隊の似顔絵です。その話を聞いたとき、まるで矢で胸を射ぬかれたような衝撃が身体全体にひしひしとしびれるように伝わってきました。あの瞬間、僕は朝鮮の人々が気の毒で気の毒でしかたがないと悲しい気持ちになりました。あのときほど、僕は、戦争に対しての怒りや憎しみ、悲しみなどの強い感情を覚えたことはありません。僕は、この気持ちを大切にし、そして、二度ともうあの惨劇が起こらないよう何らかの形で努力をするつもりです。今回の事前学習で学んだことは、僕の人生に大きく影響するでしょう。 松代での事前学習を生かして、私たちは沖縄で平和というものは深い意味でどういうことをいうのかなど、平和学習を学習していきたいです。また、今後は松代平和祈念館の建設にむけて、私たちも微力ながら協力させていただきたいと思います。(後略)
◆葦原 円花さん(さいたま市 大宮北高校一年)
私は世界中で被爆した国民は日本人だけだと思っていた。でも社会の授業で強制連行されていた韓国・朝鮮のたくさんの人も被爆していたことを初めて知った。戦争のときから日本の歴史ではたくさんの韓国・朝鮮の人々が犠牲になっているということを知っていたつもりで全然知っていなかった。松代に来たことをこれから戦争について学ぶ時に生かしていければと思う。 。