2001年10月、実行委員会では、被爆の体験、被爆者の思いを21世紀に語り継ぎ、今もなお被爆者が抱えている困難や不安を明らかにするため、しらさぎ会会員760名を対象に、郵送による自由記述式のアンケート調査を実施しました。これまでに161名の被爆者から回答が寄せられています。回答者の被爆地、被爆状況及び被爆時の年齢は以下の通りでした。
▼回答率:回答数161名/しらさぎ会会員760名=21.2%
▼回答者の被爆地と被爆状況
|
|
直爆 |
入市 |
救護 |
胎児 |
不明 |
計 |
二世 |
計 |
|
広島 |
49名 |
22名 |
2名 |
4名 |
2名 |
79名 |
1名 |
80名 |
|
長崎 |
56名 |
15名 |
2名 |
2名 |
1名 |
76名 |
1名 |
77名 |
|
被爆地不明 |
2名 |
***** |
1名 |
***** |
1名 |
4名 |
***** |
4名 |
|
計 |
107名 |
37名 |
5名 |
6名 |
4名 |
159名 |
2名 |
161名 |
|
|
67% |
23% |
3% |
4% |
3% |
100% |
***** |
***** |
※参考:2001年3月31日現在の埼玉県内被爆者数(日本被団協のHPより)
|
1号(直爆) |
2号(入市) |
3号(救護) |
4号(胎児) |
計 |
|
1813名 |
553名 |
123名 |
134名 |
2623名 |
|
69% |
21% |
5% |
5% |
100% |
▼回答者の被爆年齢(満年齢)
|
年齢 |
広島 |
長崎 |
不明 |
計 |
累積相対度数 |
|
0〜5才 |
9名 |
20名 |
|
29名 |
19% |
|
〜10才 |
13名 |
7名 |
1名 |
21名 |
32% |
|
〜15才 |
17名 |
22名 |
|
39名 |
58% |
|
〜20才 |
22名 |
17名 |
2名 |
41名 |
85% |
|
〜25才 |
7名 |
6名 |
1名 |
14名 |
95% |
|
〜30才 |
4名 |
1名 |
|
5名 |
98% |
|
〜35才 |
2名 |
1名 |
|
3名 |
100% |
|
計 |
74名 |
74名 |
4名 |
152名 |
************ |
回答者の被爆時の平均年齢は13.5才。2001年調査時点での回答者の平均年齢は69.5才。
アンケートをまとめるにあたって、回答を整文するかを実行委員会で議論しましたが、明確な誤字脱字をのぞき、そのまま掲載することにいたしました。そのため回答の一部に読みにくく文意がとりにくいものがあります。
アンケートの結果については、今回のまとめをつくることで手一杯で、まだ実行委員会の中でも話し合われていません。ただ、このアンケートを読んだ一人一人が広島・長崎の原爆被害とそれと闘う被爆者に思いを寄せ、今、何が必要か、そのために何が出来るのかを考えてくださることを希望します。
【調査票】
被爆56年・21世紀 被爆者からの伝言
2001年10月
しらさぎ会(埼玉県原爆被害者協議会)
さいたまコープ平和グループ
埼玉県高校生平和ゼミナール
さいたまコープ労働組合平和部
1.はじめに
「あの日」から56年の歳月がたちました。いまではもう、戦争の日々を知らない人が多くなりました。そうした中で、ややもすると原爆のことも忘れられようとしています。この調査は、生き残った被爆者の思いの一端を21世紀に語り継ぎ、現在もなお抱えている困難や不安を明らかにしようとするものです。
幸い埼玉県ではさいたまコープ平和グループ、さいたまコープ労働組合の協力によって7年前から原子爆弾がもたらした「あの日」の実相、その後の被爆者の苦しみを語り継いで行く取り組みが進められています。調査の結果は今後の被爆者運動に生かしていくとともに被爆体験の聞き書き証言集「8月の晴れた日に 7」に掲載し紹介する予定でおります。
皆様方のご協力をお願いします。
2.以下の質問にご記入の上、一緒にお送りした封筒にてご返送下さい。
@ 被爆状況
生年月日:明治・大正・昭和 年( 才) 男・女
被爆地 : 広島・長崎
被爆状況:直爆( km)・入市・救護・胎児
A 「あの日」のことで、今も忘れられないことはありますか。それはどんなことですか。
B被爆から56年を生きてこられて、被爆者としていちばん辛かったこと、苦しかったことはなんですか。
C あなたが今いちばん困っていること、不安に思うことはなんですか。
D 21世紀を迎え、あなたが被爆者として子どもや孫に伝えたいこと、若者にこれだけはわかって欲しいと思うことはなんですか。
E しらさぎ会では、さいたまコープ平和グループ、さいたまコープ労働組合と被爆の体験を語り継いでいくための取り組みを進めています。ご協力いただけることがありましたらお知らせ下さい。
語り部活動・手記や自分史の寄稿・その他( )
ご協力いただける方はお名前、住所・電話番号など連絡先をお知らせ下さい。
お名前:
連絡先:
F その他
(上記以外に何かございましたらご自由にお書き下さい。
例:現行の「被爆者の援護に関する法律」についての思い。しらさぎ会・被団協に対しての意見や質問、原水爆禁止運動について、日本政府や自治体に対しての意見や要求など )
ご協力ありがとうございました。もし、回答欄が狭く書ききれない場合は、別の紙に回答をご記入の上、この調査票と一緒にご返送下さい。
1.広島編
<広島 女 35歳(被爆時) 被爆距離1.6km>
2.娘(5歳)を連れて大通りから路地に入ったとたん爆風に飛ばされ、一瞬にして全てが壊され、自分は頭を切り血は顔面に流れるほど。それに娘がいないので、名を呼びながら探し当てましたが出すことが出来ず、木下にうずくまっている娘と念仏を唱えながら共に死ぬつもりでおりました時、動けると泣き叫びまして、引っ張り出せまして火の中を大通り(浅野候縮景園)の前の通りまで出られた時、日暮れにやっと死体、そうして気力を失った人の間を合掌しながら疎開先の安村(安佐郡)に着きました。書きたいことは沢山ありますが痛くてかけません。どうぞ御判読くださいませ。今日はよくなる、今日はよくなると毎日思っていましたので、とうとう30日がきてしまいましたのでお送りします。同封の5000円は寄付としてお納めくださいませ。乱筆乱文おゆるし下さいませ。
4.娘の結婚適齢期の折、結納までいったのに原爆にあったからと断られ、以後は本人が結婚しないと会社勤め40年を一人で終わらせ定年後今も独身。
<広島 女 31歳(被爆時) 被爆距離2km>
現在失語症で片麻痺です。本人から聞くことができませず申し訳ございません。
<広島 男 30歳(被爆時) 被爆距離2.4km>
2.昭和20年8月6日のあの日の朝8時30分ごろのことでした。あの原爆のこと、忘れることはできません。20年8月6日朝8時30分頃、広島市大芝町国民学校の校庭で私は分隊長でしたので兵隊を訓練をしている最中でした。その時、突然爆弾の炸裂した音と光の熱いので、顔や手も全部火傷をしてしまいました。またその時、付近の民家からの火災の日が校舎に移り始め燃え始めたので兵隊全員で消し止めました。つぶれた校舎の下敷きになって死んでいく兵隊もおりました。本当に気の毒でした。悲しみも苦しみも被爆者でなければわかりません。生き残った被爆者でなければわかりません。あの日の広島・長崎のことを思い出します。また世界各国が核兵器のない平和国でありますように。戦争は絶対に許せません。
<広島 男 28歳(被爆時) 被爆距離4km>
※アンケートに記載なし
<広島 男 27歳(被爆時) 被爆距離2km>
2.ピカーと光り熱かった。
3.現在一人歩きができない。食欲も少ない。体全部にかゆみが出来る。
4.保障費が少ない。病院に行くのも約2kmも歩き、バスに乗り、帰りはバスの時間に間に合わないのでタクシーで帰る。タクシー代ぐらい無料券ぐらい欲しい。
5.戦争はやめさせたい。被爆は虫まで死なす。
<広島 男 22歳(被爆時) 被爆距離1q>
2.第二総軍司令部において被爆後原爆症で苦しむこと20余年。下血により常に輸血を繰り返しながら生きるも生活が苦しく家族(妻、息子2人)と一時離別。数年後やや健康を取り戻し再び家族と一緒に暮らすも職が定まらず、やっと50歳近くになって長年の間研究していた健康器具の認可(パテント)が下り、現在それを製造販売することになり現在に至る。
3.病気もさることながら家族と離れて暮らすこと、夫とし親としての責任の持てない期間の苦しみは計り知れないものでした。
4.寄る年波のせいか足が事故により不自由になったこと。妻が乳癌により2年前に手術を受け左乳房を切除するも再び右乳房にシコリが出来て検査中。妻は直接被爆はしなかったものの私を探して広島市内に3日目に入ったことにより、当時吐血及び口内出血をし数ヵ月後に肺結核を患い、2年前までは身体に熱を加えると湿疹が出て身体を温めることが出来ず、特に足の部分に斑点が出ていました。色々治療を試みますが完治には至りません。
<広島 男 21歳(被爆時) 被爆距離2.5km>
2.死体処理をしていて、映画や芝居ではあのような悲惨残酷極まる状況は到底筆に表せません。二度とあのような戦争はないことを祈ります。
3.健康の人を見るたびにうらやましく思っています。
4.健康管理手当の5年毎の切り替えの際の診断書作成のことです。何も好き好んで被爆者になってしまったわけでもありません。死体処理や復旧に努力したものです。
5.いかに日本の政府が事なかれ主義でただ検討中であるの回答である。
<広島 男 21歳(被爆時) 被爆距離4km以上>
2.宇品の暁部隊船舶兵として現役入隊。8月6日8時15分頃突然ピカーとものすごい閃光を受け、これは日中の明るさよりも強く、電気溶接の青い光のようでした。何秒もしないうちに大音響と共に市内は焼き尽くされ全滅です。私は爆風で吹き飛ばされました。本部より命令が混乱し午後に救助に向かいました。閃光を一瞬にして受けたため、火傷の人が多く、身に付けている服など、また頭部は帽子より出ている部分の毛は焼かれ、その上全体が火ぶくれ赤く太く皮膚が腫れ上がり、それは大変でした。
このような方々の毎日の救助でしたが、その後本部より伝令が来て天皇陛下のお話があるということで全員中隊へ引き揚げました。
中隊へ帰った後、直ちに治療を行いました。被爆なされた大人、子ども、男女の区別なくての収容は民間の機帆船などで、宇品の軍港の近くにある我々の中隊(島)の広い倉庫内に筵を敷きその上に毛布を引いて寝かす。火傷のため18ℓ缶の中で塗り薬を作り、大きな刷毛でそっと塗ります。(とても痛がります。私たちが歩く振動でも痛がります。また妊婦の方は赤ちゃんのこと、火傷をすいながら胸が張ってきて苦しむ女性の方、そのほかにも……)
食事は細い竹を工夫して作り、ご飯は重湯を、汁を口を開けて流し入れます。住所名前を聞き(火傷のため痛々しく話せない人も)どうやら話せる方は台帳を作り書き入れ、住所氏名を荷札に書き込んで焼け爛れた服に付けておきます。8月の暑い最中のため被爆された方々はほとんど弱っていきました。倉庫内は暑つく空気も悪く臭気もひどく忘れることはできません。日が経つにしたがって亡くなられる方が多くなり、何でこんなことになってしまったのか悔しくてなりませんでした。
ずっと被爆なされた方々の治療しての毎日でしたが軍の命令により、可哀想なみなさんを残し10月中旬に復員してしまいました。
3.結婚、そして子どものこと。復員後白血球が少なかったので近所の病院に行っても分からず、また東京の大きな病院に行っても治療法が分からず不安でした。
4.いつどんな病気になってしまうか心配です。
5.罪もない一般市民を、あの恐ろしい原子爆弾で人間を殺したこと
<広島 男 20歳(被爆時) 被爆距離2.2km>
3.眠れなかった日が多かった。
<広島 男 19歳(被爆時) 被爆距離2.6km>
2.小学校5年生くらいの子どもが上半身火傷で、兵隊さん殺してくれと云われたことは
今でも耳に残っている。
3.20年位までは人に被爆者であることを話すことは出来なかった。
4.今でもガンになるか白血病になるかと不安です。
5.被爆国は世界で日本だけなのでこれだけは伝えたい。
7.被爆者は益々高齢者になるので管理手当等は年金制度にしてもらいたい。
<広島 男 18歳(被爆時) 被爆距離1.4km>
2.「あの日」のことで……
1)倒壊した建物から満身創痍の体で自力で這い出したとき、爆撃を受けたのか?何が起きたのかわからなかったが「俺は死んでいない、生きている」と痛感したのを今もはっきり覚えている。次に忘れられないのが、あれ程よく晴れていた空が今にも夕立が来そうな暗闇状態になっていた事で、暫くするとあちこちから「痛い」「助けて」と微かな声が聞こえだした。
2)時に18歳、完璧に軍人精神をたたき込まれていた(マインドコントロール)自分は逃げることは考えず自力で這い出してきた同僚と力を合わせ救出に当たった。この事が自分の今後の人生に大きな影響を持つことになった。(5の項参照)
3)最も忘れられない、しかも最大のショックは翌8月7日やっとの思いで爆心地から1.1qの自宅にたどり着いた時見たのは、前日(6日)一緒に朝飯を食べた両親・姉・妹と姉の子ども2人(甥)計6人の焼けただれた死体であった。「このアメリカの野郎、よくもやりやがったな。この仇は絶対に取ってやる」と只ひたすらに手放しで泣いたのを覚えています。
4)戦争も終わり、海軍に徴兵されていていた原爆死した姉の夫(義兄)が復員してきた。広島の被害については薄々知っていたとは思われるが、まさか最愛の妻および可愛い二人の息子まで死んでいたとは思いもしなかったでしょう。仏壇の前で所はばからず泣いておられた姿は忘れられません。
5)2の項で書いたが、私は「九死に一生を得た」というような状況でありながら助けを求めていた人は全員助け出すことが出来、悲しいことではあったが家族全員の死体を確認しお粗末ながら骨を拾うことが出来た。万一「助けて」の声を聞きながらそのまま逃げていたら(多分死んでいたと思える)この事が頭の中に残り一生後悔することになったでしょう。また、私の家族で一人でも見つからなかったら私は市内を探し歩き、栄養補給もないまま放射能にやられ、例の原爆病で生きてはいなかったでしょう。
3.被爆から56年を……
1)被爆当時広島工専、現広大工学部機械科の1年生で、学校に残るか?または就職するか迷ったが兄貴の厚意で兄貴の実家に居候して学校に行くことにした。しかし食糧難に住宅難が加わり兄嫁の親戚が海外から引き上げてきて大人数となり、勉強も思い通りに出来ず苦しかった。食糧事情は戦中より戦後のほうが非常に悪かった。特に私達は食べ盛りであった。経済的には米軍司令部の命令による新円の切り替えで過去の貯金は凍結されこれまた苦しかった。
2)卒業した年は不況で島根県の会社に就職した。島根を含む山陰地方は昔から封建色が強くうかつに被爆者とか、原爆反対なんて言うものなら共産党員ではないかと警戒され困った。当時その会社は約800人規模の会社であったが労働組合がなく組合の出来る事を非常に恐れていた(島根県は竹下元総理大臣ほか自民党の地盤)。従って被爆者手帳の取得も埼玉県の会社に就職してからとなった。
4.現在糖尿病・高血圧の治療はしているが日常生活には関係なく特に困っていることはないが不安は多少ある。
1)医療制度の改悪により数年後病気になった時どうなるか?まともに治療が受けられるか。
2)景気の不況により年金他手当類も大丈夫か?
3)同時テロの発生でアメリカがアフガンを攻撃しているが宗教戦争の様相を示している。短絡的な発想で核を使用することがあってはならない。
5.核実験は行われているが、長崎以降核(原爆)は使用されていない。その最大の理由は我々被爆者があらゆる機会に「語り部」をベースに写真展などで国内はもとより世界を回って核の脅威をアピールしたためと確信する。このことを特に子、孫、若者に理解して欲しい。私のように家族6人一度に失い「九死に一生を得た」者は特にそう思う。
7.その他
元しらさぎ会会長肥田先生が昨年のある会合で「被爆者運動も後10年が限界」と言われた。反論があるかもしれないが被爆者の平均年齢70歳余、今後の運動はこの事を念頭において進めるべきと私は思う。具体的には、
1)しらさぎ会の運営にあたる人(役員)の若返りを図る。被爆二世の人の協力を得る。
2)正式な支部体制ではなくても親睦会のような形でその地区の被爆者同士の連絡を密にする。
3)これをベースに所沢市のような被爆者に対する援助の条例を制定してもらうよう各関係者に働きかける。
4)被爆者援護法第38条、39が埼玉県でも実施されるよう具体的な計画を建て、各関係部署に働きかける。
5)毎年春・秋と実施されている被爆者健康診断・年一回の癌検診には出来るだけ多くの人が行くように「しらさぎ会便り」や支部を通じて指導する。
<広島 男 18歳(被爆時) 被爆距離2km>
2.
1)生きている人間の火傷に蛆虫(ハエ)が這っていた光景と、戦争による死とは如何に無惨なものであるか。
2)如何に軍事訓練を受けても、科学兵器には勝てないこと。
3)地獄に仏で、3日目の焼け野原で母に遭遇したこと(現在の日赤病院前)
3.
1)一時的な健忘症で文字や人名を思い出せず、学校に復帰しても講義のノート記録が採れなかったこと。1年後に下痢症状が止まらず、3週間も絶食したこと、体重が32kg。
2)出血多量で血液不足で、手や足先に廻り切らなかったこと。
4.被爆二世の娘二人に二次障害の出ないこと。三世(孫)に対しても同じ。
5.
1)二度と被爆者を出さないこと。核兵器は絶対に使用させてはならない。(廃絶しかない)
2)これからの戦争は、瞬時に無差別に大量の人類を滅亡させる。地球を破壊する兵器は持たない、作らない。廃絶の道しかない。
7.現行の「被爆者の援護に関する法律」は8年前に、我々被爆者と被団協の強い要請により一応形作ったもので、国としての当座凌ぎに作文されたもので、本音は今後10年も経過すれば被爆者手帳を保有するものも自然淘汰でこの世には居なくなるだろうとの推定で便宜的に施行されたものと思う。
1)援護に関する法律……なればこそ法に従って有効に利用し、且つ合法的な措置を実現し、実施を望むしかない。
2)現に受給している「健康管理手当」等は、期限を切っての診断書の提出や再点検等の手順を掛けずに本人の死亡まで無条件に支給されるべきものである。自然消滅で漸次年々減少するものを敢えて痛めつける必要はないと思う。
3)現在の自民党政府では、厚生労働省には半世紀前の事後処理よりも、ヤコブ病やハンセン病の処理に汲々としている状態で、我々被爆者など相手にする対象外と思われる。
4)米国寄りの外交政策により、体面ばかりを繕おうとする戦争ゴッコに予算を廻し内政を省みない今の政府には、戦争による本当の苦しみを理解しない政治家ばかりで、現況の苦境を乗り切れる勇者が居ない。
5)残り少ない我々の生涯も、戦前の教育に耐えた果ての因果と諦めの心境で、余生を精一杯エンジョイしたいものと考えております。
<広島 男 18歳(被爆時) 被爆距離2km>
2.本人は4ヶ月入院していて退院後10日あまりですので書けませんので代筆します。
広島駅に勤務しておりました。次々と皮膚が垂れ下がった身体で帰ってくる人を見てしのびませんでした。大変なことが起きたのだと痛感いたしました。
3.弟が被爆にあい、日赤病院にいると聞き両親が迎えに行きました。背中が焼け爛れていました。連れて帰り手当をしてやるのに、夏なので膿が出て蛆虫がたかり、それを取ってやるのが大変だったそうです。薬も思うようになく本当にかわいそうでした。忘れることは出来ません。
4.今、テロ事件などがあり、また戦争になるのではと不安です。
5.どんな人に対してもいたわりあう心、思いやりの心を持って生きて欲しいと願っています。
<広島 男 17歳(被爆時) 被爆距離1.7km>
2.8月6日、足を負傷して比治山の下で夜を迎えたのですが、幼童(女の子)の泣き声が少しずつ消えて、明け方になってとうとうなくなりました。母親と共に亡くなったのだと思います。今でも忘れられません。
息絶へし 母の乳房にすがりたる 子の泣き声も 何時しか果てき
3.就業中差別されるのではないかと被爆者を隠していました。
4.足の関節が人工ですので歩行困難です。
5.戦争の残忍さについて
<広島 男 17歳(被爆時) 被爆距離2.5km>
2.家の前に太田川がありその川面に白い乙女の死体が何体も何体も続いている。余りにも無残でした。沖の方(川下)に流れていった乙女は数知れず、当時17才だった私には声も出ませんでした。
<広島 男 17才(被爆時) 被爆距離1.8km>
2.
1)被爆瞬間の青紫色の光線、衝撃波による破壊、静寂で暗闇等々で被害、惨状、負傷
2)友人の救急、遺体処置、瀕死重傷の友人を隣県の故郷に連れ帰る。
3)帰郷後、外傷治療。高発熱、下痢、数回の多量の鼻血等々で50日程静養。
3.
1)友人の遺体を死体置き場に運んで帰郷し、その後如何になったか常に気にかかり悔いていたが、平成8年、50年ぶりに、一緒に処置してくれた友人が、翌日家族を案内し自宅へ連れ戻ったことを知り安堵することが出来た。
2)被爆後より後遺症につき報道され、私は心配していなかったが、家族は常に心配し、更に被爆時の小生の行動につき人命救助等不十分として人間性を疑われ批難され、小生の説明を一切聞かず、したがって一切被爆については語らず来たが、神戸の震災で逃げるのが精一杯で実際救助は中々出来ない様子を知り、理解するようになり、その後ポツポツ話すようになることが出来た。
4.被爆者であるが至極元気で過ごすことが出来不安はない。
5.
1)爆発における破壊、被害等を分かり易く自分なりの計算等で説明理解してもらうようにするとともに、被爆経験者の対処された状況を広く聞き参考にしたい。
2)自分の経験した放射線による状況と静養した経緯を話すようにするとともに、被爆経験者の処置、静養、経過を尋ねるようにして話したい。
7.
1)被爆者も高齢となり、実際に被爆した人は語りたがらない傾向があり、書き記すことは大変なことでもあり、経験を原稿用紙4枚くらいの内容に聞き取りとし、数多くの方の話を早く残すことが必要ではないでしょうか。
2)高齢者には楽しい応援がないものかと考えます。
<広島 男 16歳(被爆時) 被爆距離2.6km>
2.学徒動員国鉄第一機関区に行ってピカッと光って2〜3秒して爆風で瓦で頭に傷を負い広島駅近くまで帰ろうとしていったが火の海でした。東練兵場から裏山を越えて疎開先の1.6kmの自宅へ帰ったが父は足がブラブラ、母は顔中ガラスの破片で血だらけでした。途中いたるところに死人や火傷をした人たちの水をくれと叫ぶ声がいっぱいでした。何人かに水をあげたが直ぐに死んでいきました。今思い出してもこの世の地獄でした。思い出してもぞっとすることばかりです。
3.被爆者であることを子どもに言えなかった事です。孫が亡くなり娘は病気中で私のためかと辛いです。
4.45才ぐらいからは病気ばかりして入退院をくりかえし、あの時死んでいた方が良かったと何度も思った。今も被爆病があるかと思い続けています。
5.日本は最初の被爆国であり全世界の人たちに原爆の恐ろしさを知ってもらいたいと思います。色々と子どもや孫に話しています。
6.被団協、しらさぎ会の皆様に感謝しています。健康管理手当をもらって本当に助かります。
<広島 女 16歳(被爆時) 被爆距離3.5km>
2.非戦闘員である老人、子ども、一般人が多く殺され、原爆という新兵器でその時は何が何処にどうだったのか無中の惨禍。母は子、子は母を助ける事すら出来ず惨ぎた。父は昭和21年4月19日原爆病で死す。
3.被爆直後、終戦後、被害者に対し国はそっぽを向き、一般人も非常に冷たく村八分。職業、結婚も出来ずぶらぶら病で自分の体をどう扱ったら良いか持って行き様のない、他人には分からない苦しみが何年も続く。
4.いつ病気が出るか?放射線を浴びているので心配。戦争が起こらぬよう祈る。
5.自分の子ども、孫には言いたくないし聞かせたくない。しかしそれでは駄目な事は承知している。遺言を認めよう。他人には一人でも多くの者に核の恐ろしさ、虞れを自覚して戴き「二度と過ちを繰り返しません」と訴える。
7.多くの被爆者たちに「あの日」「その後」について事細かに。Km位置、焼けた状態(火傷)、爆風状況、当時の手当、看護の仕方及び程度(治療)、食糧(栄養価のあるものを食べたか?)、誰か(友人、知人、親戚、その他にみとられて生きてきたのかどうか)
<広島 男 16歳(被爆時) 被爆距離2km>
2.なし。
3.失明したこと。
4.病気。
5.核廃絶。
7.なし。
<広島 男 15歳(被爆時) 被爆距離1.5km>
2.
1)当日
直接閃光を浴びた人の顔が豚のように丸く腫れ、中には手の皮がむけて爪にかかり前にぶら下がり、まるで幽霊のような格好で水を求め郊外の方へ逃れていた光景(己斐にて)
2)翌、翌々日
元安川の川原にて兵隊がトビ口で死体をひっかけ20体くらい集め焼け残った材木で焼いていた光景。相生橋の下に爆風のせいか目玉が両方飛び出してまるで魚の目のように、その大きさにびっくりした。先生と一緒に死体の集積所を廻り同級生の死体を捜して歩き、トタン板の上に並べられていた光景。
<広島 男 15歳(被爆時) 被爆距離2km>
2.
1)広島駅舎の下敷きになったときの痛さ、重さ、苦しさ!確実に死ぬと覚悟した。
2)救出されて駅前広場に立ったとき、顔中土埃で目と口と傷口だけが出た沢山の人たちが皮膚がぼろ布のように垂れ下がった両腕を差し出し、泣きながらよろめいて歩いていた。あたりの音響はそのうめき声と泣き声だけ。生涯忘れられない。被爆写真には音はありませんから。
3)いち早く出動した救援トラックに乗せられ、市中心の病院に向かおうとした(駅がやられた、と救援隊は判断したから)。しかし、行く手を炎に阻まれ引き返したが、倒壊家屋を乗り越えていくトラックの両側の廃墟の下から聞こえる声が「助けてくれ」から「熱いよう」に変わっていくのに何もする術がなかった。逃げた。
4)収容所の廊下で無傷のまま息絶えている若い母親の胸を無心の赤ちゃんが吸っていた光景。
4.特にありません。今年、ガンの告知を受けましたが、トシですし、平然と受け止めています。
5.私たちの受けた原爆は試作品みたいなものです。今日のものは比べようもない強力なものでしょう。そのことをよくわきまえておきなさい、ということ。
7.医療費の減免は年金生活者にとてもありがたい。これをかちとって下さった被団協の先輩の皆様には感謝のしようもありません。
<広島 女 15歳(被爆時) 被爆距離1.5q>
2.道端で苦しんでいた人のこと。自分はその時、何も薬は持っていなかったので、今も見捨てた感があり心が痛む。
3.被爆者であることで子どもの結婚が心配。変わった目で見られるのではないかと・・・・・・
4.日本でのテロ
5.戦争は絶対反対して欲しい。若者には現実を良く見て、子どもたちがどれだけ多く犠牲になるか知ってもらいたい。戦争のない国に頑張ってもらいたい。
<広島 男 14歳(被爆時) 被爆距離1.8km>
2.
1)裂けた腹から垂れた内臓を抱えながら避難する人たち。倒れた校舎の下敷きになっている先輩の声を聞きながら助け出せなかったことなど悲惨さはいうにおよばない。
2)それでも尚且つ日本の敗戦を思わなかった“軍国日本”“神国日本”の教育。“教育”は必要だが間違った教育(特に幼時、少年時)をすると国民を不幸にする。
3.幸いにも辛かったこと、苦しかったことは余感じないでこれました。強いていうならば結婚するとき、相手の母親が心配していたことぐらいです。
4.私自身の問題ではありませんが、原爆のことを今の人達(老いも若きも)忘れているように思います。それが不安です。
5.国とか社会とか法人のことは考えないで人間のことを考えることが必要。“国のため”という分からないことで考えを纏めないことだ。国とは政治家のことです。“国のため”は政治家のためです。国民のためではないのです。従って“国”は協力を求めても、それに関して責任は持ってくれません。戦争をすすめておきながら後始末の責任はとっていません。
7.しらさぎ会、被団協の方々には感謝しています。政府、自治体の無関心が腹立たしい。表面上は関心があるように言っていても実行が伴っていないように思います。もはや原爆は過去のこととあの人は思っているのでしょう。被爆者とはいえ若干の苦しみはあるかもしれないが現実“生きて”いるではないか、と思っているように思えて日本の政治家の資質には失望するばかりです。
<広島 女 14歳(被爆時) 被爆距離1.8km>
2.大きな入道雲の様な原子の雲が一瞬のうちに上り、崩れ落ちドーンというすごい音と変わった。その時、空を見ていた私はその雲とパラシュートが三つ空を飛んでいた事は今でもはっきり思い出せます。
3.30軒もあった借家が一瞬のうちに壊れ(原爆で)家賃収入で暮らしていた家族でしたが収入もなくなり戦争のため食べていくのがやっとの事でした(戦後は日本中皆でしたけれど)。それまでは何不自由なく暮らしていたものですから。母は娘三人連れて大変でした。父はすでに他界していました。父の遺産が多かったものですから。
4.今までは不安な事もありましたが月日が経つにつれて、それもだんだんと薄れて生活できるようになりました。子ども(2人)も孫(3人)も生まれる時は不安もありましたが正常に元気に生まれ育ってくれて今は何もいう事はなくなりました。一時は内心心配もつきまといました。
5.戦争だけは絶対したくない、してはならない。人間と人間が殺し合うという事は考えてみるだけでも恐ろしい事です。(口ではやさしい事ですが現にタリバンのテロでアメリカだけではなく世界中が大変なことになってしまいましたもの。悲しいことです。)
<広島 男 14歳(被爆時) 被爆距離2.9km>
2.当時中2、学徒動員で三菱重工で作業、朝礼後、警報解除。その時閃光がして何もわからなくなり、気がつた時は床にうつ伏せになっていた。工場は倒れたが工作機械のため空間ができ、幸いに無傷であった。午後3時ごろだったと思うが工場を出て市外にある自宅に帰る時に見たものは、被爆して火傷をした少女、死体だらけの道路、その惨状はとても表現できません。
4.家内が入院中なのでこれから先のことが不安。
<広島 男 13歳(被爆時) 被爆距離3km>
2.8月6日朝7時頃からB29が北上して(3機)、8時15分一機が音もなく上空に飛来、原爆を落としてエンジンをかけ急旋回した時にキラッと光った機体とラジオゾンデと思われる(当時これが爆弾と思っていたが……)パラシュート付の物体が屋根に隠れると同時に焼け付く様な光が身体全体に当たり思わず熱いと叫んだ。次の瞬間、腹を丸太で殴られたようなショックと同時に真っ暗闇となり数十メートル飛ばされ気が付いてみたら体中にガラスが立っていた。この間、夢のような様子と、やっと正気になり逃げる気になった時、ぞろぞろ皮膚が垂れ下がって歩いている人の列と町に黒焦げになり倒れた木かと思ったらこれが皆は人であった事。これで全く恐ろしい気持ちがなかったことは一生忘れられません。
3.辛かったことは親を亡くしても一年位この事実が信じられなかったこと。兄弟を養う責任と生活苦。
4.原爆症が子どもや孫に出ないだろうかということ。
<広島 男 14歳(被爆時) 被爆距離3km>
2.
1)ブロック壁の下から老人の死体を収容した時。
2)親友二人を一瞬にして失ったこと。
3.体質が変わりアレルギーに悩んでいる。内臓手術等にて職を転々として恵みのない生活の連続でした。
4.老後の一人暮らし。経費の支給等があればと思いますが……急病で倒れても安心できるような環境にしていただきたい。
5.ノーモア ヒロシマ・ナガサキ。物心ともに破壊されたむなしい思い出を語ることない世代を築くことを願っています。
7.
1)健康管理手当等の更新の簡素化と増額。
2)介護手当の適用の拡大。
3)身障者2級並に旅費割引、自動車税免除などの措置。
<広島 女 12歳(被爆時) 被爆距離1.7q>
2.屋外で被爆し、閃光の恐ろしさ。怪我をして動けないのに家族も迎えに来てくれなかった。
3.傷の痛み(未だにガラス破片が入っている)等。特に冬季になると赤くはれて苦痛が激しくなる。
4.後遺症及び子どもに影響があるか。
5.核の恐ろしさ、戦争の悲惨を忘れない。
7.最近の政策で、だんだんと援護等切り捨てられる状況が見受けられるので心配している。
<広島 男 11歳(被爆時) 被爆距離2.6km>
2.1945年の8月6日、朝から快晴であった。
私の家は比治山の北側にあった。母と姉と3人で家にいた。何気なく空を見ていると飛行機が飛んできて何かを落としたようだった。繕いものをしていた母と姉と窓から離れた瞬間、目もくらむような閃光と共に窓ガラスや壁がふっとび辛うじて屋根だけは残った。小さな傷を受けたが幸い命だけは取りとめた。全壊をまぬがれた家を後にして着の身着のまま南蟹屋町にあったぶどう畑に母子3人逃れた。家を出てしばらくして、真っ黒い雨が降って来た。爆風で舞い上がった土砂の雨位にしか考えなかったが、それが放射能の含まれた雨であったとは後で聞いた。ぶどう畑の下には火ぶくれの肌を針でつぶしてもらっている人、苦しいとうめいている人、まさにこの世の地獄を目のあたりにしたようだった。
夜、広島駅あたりがあかあかしているのを見ながら不安な夜を過ごした。後日判ったが寺町あたりに足の悪い息子と一緒にいた叔母は、階段の下敷きになり息子が逃げてくる人々に助けを求めたが辺りが燃えていて助けてもらえず、叔母は息子にお前一人でも早く逃げておくれといい、そのまま悲しい別れとなったと涙ながらに聞いた。何日か後、叔母の骨を拾いにいった。叔父も体に黒い斑点が出て亡くなり息子も亡くなり、辛い思い出だけが残った。
物の焼けるにおい、黒い雨、人々のうめき、8月6日は私にとって一生忘れることが出来ない。これらの思いは語りつくせるものではない。皆、それぞれに語り尽くせない戦争であり終戦であった。戦争は二度として欲しくない。
3.体が弱くなったこと
4.老後の不安
5.テロ行為には反対です。戦争だけはして欲しくないです。
7.だんだん体も大変になるので健康管理手当の申請を廃止にして欲しいです。しらさぎ会(被団協)にいつも感謝しております。
<広島 男 10歳(被爆時) 被爆距離3km>
2.上半身の背面が焼け爛れた祖母。うつ伏せに寝たままの状態での生活。手当としては軍医がくれた軟膏のみ。ハエが集まってウジが湧き、小生が割り箸でウジを取り除く……。誤って肉片まで挟んで引っ張った時の祖母の断末魔のような悲鳴は今でも忘れない。
3.被爆から6ヶ月くらい経過してから立ち眩みがひどくなり、年に何回か昏倒するようになりました。
4.何の手当も受給して貰っておりません。経済的不安です。
5.戦争は絶対反対です、ということ。
7.種々の手当に対して。小生、直接被爆ですが3km地点ゆえ、該当項目に当たらないと思っております。広島在住の知人に尋ねると認可はそんなに厳しくないと聞きます。均一化されていないような(都道府県別に)気がします。
<広島 女 10歳(被爆時) 被爆距離1.2km>
2.6日の朝、家族みんな元気で分かれた両親、姉の顔々々。何年歳月が過ぎようと忘れられない。
3.10歳から今日に至るまで全て。末娘に生まれ、ただ甘えん坊だった子どもが愛に飢え、ただ涙々の日々を送り思い出すのが嫌です。ごめんなさい。
4.現在脳梗塞(二度目)の発作、痴呆症で言葉を失い11年寝たきりの夫の介護をしています。願いは私より一日でも早くお迎えに来て欲しいことです。この不況で生活が大変。住居を……と考えても無理なこと。
5.平和……この二文字
7.すみません。何せ学がありませんもので。
<広島 男 9歳(被爆時) 被爆距離1.7km>
2.あの日に見た太陽が怖い。光を失った赤い太陽が恐ろしい。夕陽を見ると被爆の、焼け爛れた……頭の中をかけめぐる。
5.戦争をなくし平和な住みよい地球にして欲しい。核兵器をなくそう。被爆者を作らない為にも「抑止論」があるが人間はおろかなものだ。そこに核兵器が有るから使うだろう。核兵器をなくそう。
<広島 男 9歳(被爆時) 被爆距離1.2km>
2.修羅場における人間の本性全体
1)死体を踏んでも石につまずいていた様な感覚しかもてない。
2)倒壊した家の梁に押さえられた人のそばで妻女と思える人が手を貸してくれと叫んでも誰も見向きもしない。自分が逃げるのが精一杯。多分焼け死んだろう。
3)倒壊した家から這い出してみると立体の町は数件のビルの他平面と化していた。暫くして全体が火に包まれ、人々は逃げ場を失って川中へ。焔は川を舐め、酸欠で死人の水漬。修羅場とはこれか?地獄とはこれか?
3.特になし
4.特になし
5.戦争は誰人にもプラスにならない。何故人間は殺し合いを続けるのか?自己主張ばかり強く思うにまかせないとすぐ暴力に走る。問題は社会に住みながら協調をせぬ「心」の中にある。平常から他人を理解し、思いやる心を育まねば争いは起こり、戦争は起こり、果てには原爆になる。最近の若者は一寸した事でもすぐ殺しに走る。この「心」が戦争→原爆につながる。TVニュースでも嫌なニュースばかり。怖い、困った世相である。
<広島 男 8歳(被爆時) 被爆距離2.5km>
2.母とはぐれて逃げる時は、道路に横たわっている人たちをまたぐたびに皮膚がズルッとむけても、また、川面一杯の死体で救助艇が前に進めないのを見たとき可哀想だとか恐ろしいとかいった感情が全く生まれず「じゃまだ」といった気持ちがあったことなど、人間らしい感情さえうばわれてしまったことが、今でも目にやきついています。
3.最初の子の流産、次の子が予定日に死産だったときは「被爆者だからでは?!」と思い、妻に「すまない!」という気持ちと「何故今も苦しまなければならないのか!」と思ったことです。
4.やっと生まれた娘と息子に影響がでないのか。被爆者の死に絶えることを日本政府や、核保有国は待っているのではないか。アメリカのアフガン攻撃で核兵器が使われ、再び被爆者が生まれるのではないか、毎日が不安と腹立たしさで暮らしています。若い皆様が二度と過ちを繰り返さない世界をつくってくださることを念じています。
5.核兵器の廃絶をなんとしても実現してほしい。無謀な原発開発にストップをかけてほしい。
7.月のうち10日から15日、母(被爆者88歳)の介護・看護で出かけているため、何のお手伝いも出来ず申し訳ありません。
<広島 女 7歳(被爆時) 被爆距離3.5km>
2.屋外にいてあたりが光線で風景が黄色になったことです。
3.父が爆心地で即死のため、その後の生活が一変したことです。
4.健康がやはり気がかりです。
5.被爆者としてという前に火地人間として争いごとのない世界になって欲しいと思います。
<広島 男 7歳(被爆時) 被爆距離3km>
2.あの日は夏休みで登校日でした。母が疎開した家へ薪を取に行き、朝食を取らずに家の前で兄弟と遊んでいました。母が帰ってきて、暑い日でしたので、下着で食べました。空襲警報がちょうど解除になった時でしたが、高い空から飛行機の爆音、ピカッと光り、その後は真っ暗になり、家へ走りこんだ後、家は爆風でめちゃくちゃに壊されたことを覚えています。一年生の夏です。
3.被爆者としてではありませんが、被爆体験者の母が亡くなったことです。生き証人が一人、一人と亡くなっていくことは悲しいと思います。広島・長崎と被爆地、資料を見た人はある程度理解できるでしょうが、苦しみはわからないでしょうね。私は一度も行っていません。行きたくないです。
4.私は糖尿病で手当をもらっています。昭和57年から10年、手当ての支給を受けましたが、その後、平成7年まで数値が糖尿と認められないと却下されました。今は支給を受けていますが、役人の仕事、一生(?)治らないと云われています。食事制限、運動と続けていますが検査時にたまたま数値が良かったのでしょう。県により判定基準が違うようですが統一できないのでしょうか?
5.被爆体験を子どもに時折話しますが想像がつかないし、理解できないことです。平和ボケです。食べ物が氾濫しています。スーパーが正月から開店しています。「食べ物の大切さ」「ありがたさ」がわからない現状。大人にも責任があります。金、金の時代には何を言ってもダメ。
7.先にも書きましたが、被爆者手当の手続きが県により異なるのは何とかなりませんか。私は15年には更新することになります。埼玉県は少し古いと思います。兄が東京、妹が横浜に住んでいますが、待遇が違います。埼玉県は保守的に感じます。役人の不正を見ていると腹が立ちます。汗して稼がない人の税金を自分が稼いだと思い違いしている役人は信用できません。予算を使い切ったところが良いなどと考える発想が不思議です。民営化が必要です。
<広島 男 6歳(被爆時) 被爆距離2km>
2.私は小学校一年生でした。夏休みのことでした。公園でせみ取りをしていたのです。「ピカ」と空が光りびっくりして急いで家に帰り、家で姉が裁縫をしていた。2人は手をつないで一目散に逃げた。後はあまり覚えていません。
3.食べる物がなく、お腹のすいたあのひもじさは今も思い出したくありません。同級生が皆亡くなったため牛田小学校へ行くことになり、そこでいじめに合い本当に悲しい目に合いました。
4.結婚する時、私は被爆者ですと相手に伝えなくてはならない時、「それではだめだ」と言われはしないかとビクビクしていました。そして子どもが生まれても被爆二世はどうなるんだろう……と。今頃耳が遠くなった。これも原爆のせいではないだろうかと思ったり、血圧が低いのも原爆のせいかしらと思ったり、何かにつけて不安です。
5.二度とこのようなことがないようにお祈りするのみです。
<広島 女 6歳(被爆時) 被爆距離2.2km>
2.東京目黒に住んでいた私は、母の実家の広島の牛田町へ行って被爆。ペチャンコにつぶれた家から這い出しまわりの悲惨さに驚く。やっとの思いで這い出した家に途中まで逃げて、またつぶれた家に這って入っていった母。長男の遺骨を安全と思って持って行った広島で、まさかこの様な事になるとは。そしてつぶれた家の中から何かけらの骨を持って真っ黒になって出てきた母の姿。
3.結婚をして初めての子どもが被爆の影響がないのかの不安と夫の親族からもいろいろな言葉で不安がられた。
4.私は11年前から一人で暮らしています。今はまだ元気で働いて家賃を払い生活していますが、何年かして働けなくなった時に民間のアパートには入っていることが出来なくなります。県営住宅に応募していますがなかなか入れず、今後の住まいの心配をしています。
5.戦争を知らないで育ってきた若い世代に、今回アメリカで起きたテロ事件によって起きた戦争の悲惨さを見て知り、再び戦争が起きることのない平和憲法を希求し続けて欲しいと思う。
7.自治体にお願い
被爆者も高齢化し、良い環境に暮らせる人ばかりではないと思います。高齢者に安い家賃の住宅設備を配慮して頂けないでしょうか。
<広島 女 6歳(被爆時) 被爆距離2.4km>
2.牛田町で被爆し工兵隊の練兵場が近くにあり、そこを通って山に逃げた時、兵隊さんたちが火傷して「水をくれ」「水をくれ」と言いながら死んでいくのを見た。父を探して神田橋から死体の真っ黒なのを引き上げるのを毎日見ていた。父は帰らず兄は白血病で1年後に死んだこと。
3.片親で就職が難しいといわれ(高校の時)悔しいので大学に行くことを決心したこと。
4.健康に恵まれ困ることはない。
5.戦争反対。No More Hiroshima です。どんな理由にせよ今のアフガンの報復も長期化すると思うし、残された女、子どもたちの生活を思うと直ぐにでもやめて欲しい。日本は被爆国なのだから先に立って反対すべきと思う。他の国とは立場が違うように思います。
<広島 女 6歳(被爆時) 被爆距離2km>
2.小学校の裏が家でしたので、被爆直後学校より白い服を着た兵隊さんたちが布団とか板等で頭をかばうように逃げている姿が今も頭に残っています。
3.現在体調が悪く通院していますので健康に大変心配しました。
4.健康です。
5.平和がいつまでも続くように。
<広島 男 5歳(被爆時) 被爆距離1.7km>
2.二階が落ちて祖母(母方)が助けてーと声を上げていたこと(火が廻って結局焼き殺された)。私は火が廻って来たときは長寿園(太田川)の中洲に近所のおばさんといた。
3.自分は小さいために助けてくださいと言っている人に対して何一つ助けてあげられなかったこと。
4.被爆後遺症と思われる皮膚病(手足の表皮がはがれる)
5.平和な世界が大切なこと(戦争やテロの撲滅)
<広島 女 5歳(被爆時) 被爆距離2.5q>
3.
1)姪が被爆二世ということでお見合いを断られた。
2)私自身、若い時は被爆者であることをコンプレックスに感じており人に話したくなかった。
<広島 女 4歳(被爆時) 被爆距離2km>
2.何も覚えていません。雨が降ったことはどうしてか忘れません。
3.広島に結婚するまで住んでいました。この時まで普通に生活していました。被爆者だという気持ちもありませんでした。2年目長男の出産のとき、主人の親類などから後遺症のことなど面と向かって言われました。自分のこととは違い子どものことですので、今もその時のことが忘れられません。
4.病気ということではないのですが、いつも気分とか疲れがとれません。癌に対する不安とか、精神的に不安です。
5.平和の尊さ。大小にかかわらず争いからは何も生まれません。今、テレビ・映画でやっていることをかっこいいとは絶対に思ってほしくないです。
7.何も覚えていません。主人の理解もありません。お手伝いできないこと、心苦しく思います。いつか私もお手伝いをと思っております。
<広島 男 3歳(被爆時) 被爆距離1.5km>
2.当時3歳の私が、今でも脳裏に焼きついているのは、父親に抱きかかえられて、その胸のあたりは血があふれていたこと。近くの公園で馬が焼け焦げていたこと。
3.会社に勤め始めてから、これまでに数え切れないほど会社を転々としました。それは「原爆ぶらぶら病」という一般の人からはただナマケているとしか思われない症状が不定期的に現われ自ら退社するという繰り返しの人生でした。私はこの期間を「充電期間」と呼んでいます。(その期間が短くて1〜2週間、長い時で3年半もありました)
4.今、今日が健康であっても明日はわからない。これは私のみならず二世、三世にも言えること。放射能(放射線)の影響は短い期間では決して失せるものではない。
5.我々被爆者は放射線による被害者なのだという意識を持ってもらいたい(普通の戦争の被害者とは違うということ)。放射能(放射線)の被害は本人だけでなく子、孫までも影響することをよくわかってほしい。
7.
1)被爆二世に対しても一般民間の医療機関で健診が受けられるようにしてほしい。
2)被爆三世に対しても年1回くらいの健診が受けられるようにしてほしい。
<広島 女 3歳(被爆時) 被爆距離1.5q>
2.まだ3歳でしたので記憶にはありませんが、母は妊娠10ヶ月で被爆4日後に妹を出産いたしました。産湯もなくぼろ布でぬぐって、妹の身体にハエが寄って来たこと。お乳が出なかったこと。兄が二人行方不明となったこと。父が私が8歳のときに原爆病で亡くなったこと。もちろん私も小学校4年生まで頭に毛もなく体のあちこちにガラスのケロイドがあります。
3.やはり結婚の時、主人から被爆にあっていることを両親に隠しておいてくれといわれました。そして長男(はじめての出産)の恐怖は今でも忘れません。
4.長男37歳が子どものころから身体が弱かったので今後のことが心配。
<広島 女 2歳(被爆時) 被爆距離3.5km>
2.年齢が2歳と何ヶ月だったので親から聞かされたことでしかわかりません。
3.被爆してからすぐに広島から引っ越したので、その後被爆者としての事はあまりふれることがなかったのですが、健康診断だけは受けておりました。しかし昭和62年に母が急性白血病になり翌年亡くなりました。その時は、今頃になってなぜ……という思いでした。毎年健康診断を受けていたはずなのに早くわからなかったのか、とも。
4.毎年健康診断を受けていたにもかかわらず、発病した時は全身に転移していて手のつけようがなかったそうです。そうなる前に何か手を打って早めの治療なり、少しでも遅らせることが出来なかったのか、とても悔やまれました。
5.現在もどこかの国で起きている戦争。武器を使っての戦いは、これからは絶対なくしてほしいです。
<広島 女 2歳(被爆時) 被爆距離1.4km>
2.私自身は何も知らないけれど家族は死に火傷をした母、ひどい状態を話されている。
3.広島生まれであることを知って結婚したはずなのに騙されたと言われ、弱い身体だと強いからだの人との比較をされたこと。
4.DNAが、子どもに対する不安。性に関する不安。
5.被爆をしないで。
<広島 女 2歳(被爆時) 被爆距離1q>
2.私たちは、父と母、私、私の子守をしてくれたお姉さんの4人は爆心地から1qのところ(広瀬元町)に住んでいました。あの日、一瞬の間に私たちは家の下敷きになり、お手伝いのお姉さんが当時1歳だった私を助けてくれました。両親は私たちを探して、1日遅れて父の実家、岩国に帰ってきましたが、原爆症で父は2週間で亡くなり、母は私が5歳の時亡くなりました。
3.結婚して子どもができた時、正常で生まれてくるかとても心配でした。
4.健康にはいちばん気を付けているが、これからも健康でいられるためには健康診断をきちんとすること。もし病気になったら、子どもや夫に迷惑にならないようにしなければと思っている。
5.今、生徒たちも学校で戦争について学んでいますが、私も戦争についての話や本の紹介などして、生徒に伝えて行きたい。広島のピカという本や原爆詩集などの本を紹介している。ヒロシマ・ナガサキは今や世界において一つの象徴になっている。二度と繰り返してはいけないと思います。
7.
1)現在私は町立の学校図書館の司書を行っている(中学校)。機会がありましたら、私の被爆体験について、生徒に話してみたいと思っておりますが、中々忙しく実行できません。
2)私は両親を小さい時に亡くしました(原爆の為)。でもまわりが温かい心を持って私を育ててくれました。おかげで現在の私があるわけですから、これから私は、もっと、色々なことに行動範囲を広げ、世の中の役に立つよう努力して移行と思います。よろしくお願いします。
<広島 女 1歳(被爆時) 被爆距離2km>
2.2歳前でしたので自分の記憶には全然ございません。姉の腕に火傷の跡がはっきり残っていました。
3.家族以外の人には自分が被爆したということを誰にも話せない時期があったこと(若いころ)
4.父が67歳、姉も67歳で亡くなり、その年齢が頭から離れません。検診を必ず受けるよう心がけているつもりです。
5.息子(33歳)、娘(30歳)には日ごろから被爆の実態等は話していますが、子どもたちがどこまで孫に伝えられるか。私が生きている間は話します。
<広島 男 29歳(被爆時) 入市>
2.私は暁部隊の召集兵でしたが原爆投下後10時頃には広島市内に担架を持って救援活動に出て行きました。思い出すままに書いてみました。
1)救援活動中、担架の上でもう息を引き取っている母親のお腹の上で無心におっぱいをしゃぶっている赤ちゃんを部隊の方へ運びました。今でも電車の中などで赤ちゃんがおっぱいを飲んでいるのを見ると当時を思い出して、あの赤ちゃん、生きのびられただろうかと悲しくなります。
2)鯛尾の暁部隊に収容された被爆者の火傷した皮膚の下が化膿して蛆虫が湧いている。虫を何とか少しでも取ってやろうと思っても、痛がるので焼けた瘡蓋の上から手でソーッと押さえてやる程度しか出来ませんでした。押さえてやると虫も一次は這い出ますが又化膿した膿の中へ潜り込みます。なす術もありませんでした。もちろん部隊には軍医も薬もない状態でした。数日後に金輪島に停泊中のゆ潜水艦の潤滑油を塗ったが火傷がひどいから役に立たなかった。兵隊さん「痛い。痛い」「助けてくれ」と泣き叫ぶのですがどうしようもありませんでした。私共朝起きて患者さんを見に行くと、先ず兵隊さん、隣の人が夕べ死んだようだから早く片付けてくれと言われ、遺体を畳表で巻いて縄で縛って海岸に運び焼くのが毎日の仕事でした。
3)子どもが親と離れ離れになり防空壕の中でお母さん、お母さんと泣き叫んでいた声が今でも耳に残っています。あの子どもさん、その後どうしただろうかと時折思い出します。
4)当時自分は将来結婚した方がよいか一生独身でいた方がよいか迷いに迷いました(不具の子どもでも生まれたら)。当時広島には木も生えないし育たないとのもっぱらの噂でした。
5)結婚しても家内にもそんな心配事は5〜6年位は話せませんでした。
6)私がたまに家庭で原爆の話が出ますと子どもはそんな悲しい話はいやだと直ぐ立ち去ります。
乱筆で申し訳ありません。多少でもお役に立てば幸いでございます。事務局の皆様方毎日ご苦労様です。
<広島 女 25歳(被爆時) 入市>
2.中心地から6.5kmはなれていました。音と光は家の中で聞きました。救護所を作っての活動は忘れることは出来ません。戦場でもない後方の内地でこれ程の惨状は筆舌の外です。
3.当時は原爆とは知らなかった。特殊爆弾で75年草木も生えず人間も住めないといわれていた当時の悲しみは深いものでした。その時何も知らされず昭和33年になって色々なことを知るほどに子どもに何か異常が出るのではと、それは心配しました。その後曾孫のことに心を痛めています。
4.56年過ぎた今、私事ですが子ども、孫、曾孫と12人が健康であることにホッとしていますが、まだこれからの将来のことについてはずっと不安は消えないでしょう。
5.平和が一番です。世界から核兵器をなくすこと。三原則のことなどを伝えています。現在のテロの問題についても家族ともども話し合って平和なことが一番と語っています。
7.県内でもまだ非核平和宣言をしていない自治体があります。早急に非核宣言をしてほしい。
<広島 男 21歳(被爆時) 入市>
2.市内に建物が何もなく露営をしました(暁第1671部隊です)。真っ黒に焼けた死体が町中一面に転がっている風景がまだ眼前に浮かびます。死ぬまで消えないことでしょう。
3.白血球が5000以下に下がったことです。これでどんどん下がっていってしまうのではないかと心配をしました。このまま死んだら年をとった親たちはどうして生きて行ったら良いのかを非常に心配しました。
4.幸いにも白血球が5000以上に増えたので長生きできましたのでもう何も心配していません。心筋梗塞の手術後共同病院の肥田院長の計らいで健康管理手当を受けております。返信が遅くなってすみません。ありがとうございました。
5.もう大分年をとって頭がぼんやりすることが多く何を考えるのも億劫です。ごめんなさい。
<広島 男 21歳(被爆時) 入市>
2.
1)暗かった地下壕(呉市内)の中が入り口から射し込んだ閃光で室内が一瞬真っ白になった。
2)直後、空いっぱいに広がった入道雲がわきあがり、その頂上はどんどん伸びて1万メートルをすぐ超えていった(測高器)。その周辺をB29が一機飛んでいた(20倍の眼鏡)。
3)午後になっても頂上付近の入道雲はわきあがっていた。夕暮れ頃にやっと雲が崩れ始めた。
4)その日の夕方、東洋工業の社員が怪我をして帰って来た。会社は爆風で壊れた。広島市内方面は大火事という。私はウラン爆弾だと思った。
5.核融合、核分裂等のエネルギーは正しく使わなくてはならない。兵器として使い、またはこの施設を破壊などすることは絶対にしてはならぬ。
<広島 男 20歳(被爆時) 入市>
2.8月6日午前と午後は軍隊の作業で終わり夕方から兵隊の中から指名されたものが広島市中心部まで行き、つぶれた瓦礫の中から救い出した女児を焼け残ったビルの中へ残し我々仲間は帰れるが、水を飲みたがっているあの言葉が今でも耳に。瓦礫の下で飲まず食わずの女児。今はどうしているかなんとなく気にしています。
3.働くことばかりで全力で仕事に気をそそいで被爆の認定があることがわからず50年近くになって認定されましたが、もっと早く気がつけば良かったと思っています。老人になって身体も弱くなってこの被爆手帳があって助かっています。一人で暮らしていますがYさんという看護婦さんのお世話で助かります。
4.体が弱く近所の人たちに迷惑をかけていないか、そんなことばかりで、あとは病院で手当くださるのであまりありません。
7.今思うことは、戦後56年、再び広島へ、当時の灰だらけの町並みを思ってどんなに変わったのか実際見てみたいですが体力もなくただ思うだけ。きれいになった町より、当時の傷ついた女性、立てなくて兵隊さん助けてと何度何度も耳にしたあのことが何年経っても頭から離れない。もっといい風景など思い出せればよいのですが。
<広島 男 20歳(被爆時) 入市>
2.猛暑の中、東練兵場の塹壕で死体の焼却を毎日朝から晩までしたこと。
3.結婚して丈夫な子どもが生まれるのかが心配でした。
4.今、前立腺の肥大で病院に通っておりますが(かれこれ3年くらい)いつガンになるかと心配です。
5.原子爆弾の恐ろしさをぜひ後の世に伝えたい。絶対に人類に向かって使用するものではない。
7.一度健康管理手当の認定を受けた者は完治する病気はないと思います。死ぬまで付き合って行かなければなりません。それなのに継続の認定を申請するというのは変な話です。
<広島 男 19歳(被爆時) 入市>
2.私は終戦間近い昭和20年6月15日現役入隊いたしました。恐らく最後の正規入隊ではなかったのでは……
郷里は熊本(宇土市)ですが、入隊は、山口県柳井市に本隊がある暁部隊、郷里から柳井までは満員列車、おまけに何回も空襲警報に遭遇、その都度列車は長時間の停車、時には下車して避難しながら、同行してくれた叔父と一緒に一昼夜かけてやっとの思いで、入隊に間に合った次第です。
敗戦濃厚な時期の入隊ですので、教育もなく7月3日には独立大隊として、広島市と下関市のちょうど中間で瀬戸内海に面した、上の関という小さな漁村の小学校に駐屯しました。
私たちの分隊は分隊長以下13名で初年兵10名、内訳は学校出が1名、4名は文字も書けないような漁師と船乗り、半数の5名は韓国の中学出の青年たちで、部隊全体が寄せ集めで編成されておりました。
分隊には三八歩兵銃が3丁、他は木銃とシャベルだけで、短剣もなく貧相な軍隊で、毎日島影の水際に舟艇用の避難壕掘が日課でした。潮が満ちてくると休息して、喉自慢などをやって毎日がのんびりした仕事の繰り返しでした。
ただし、毎日決まったように午前10時と午後3時ごろアメリカのグラマンが襲来し、島影に偽装して退避している船舶を目標に機銃掃射を浴びせるのを私たちは岩陰に避難しただ傍観しているのみでした。
そして、8月6日広島市に新型爆弾(原子爆弾)が投下されたということで、翌日の夕刻上陸用舟艇8艘を連ねて、救出のために広島市に向け出発しました。
一晩中航行し、未だ薄暗い早朝に到着し、市内を流れる元安川を遡り、周囲が明るくなり視界が利くようになって、皆の驚きは言葉になりませんでした。
平坦な市街地は見渡す限り一面焼け野が原で土蔵の一部を残し瓦礫の山と化し、周囲の山の中腹辺りは未だ立ち木が燻り続け、焼死体が見るも無残な姿で至る所に転がっており、防火用水槽の周りには数人の死体が折り重なり、また、老若男女の判別も付かない虫の息の人が道端に横たわり「兵隊さん、水をくれ」と助けを求められても私たちには手の施しようもありません。時たま動いているのは、ボロボロの着物をまとい、身体の半分くらい火傷を負った人が、炎天下に素足で肉親を探し回っているくらいで人影は見当たりません。
焼け野原の十数か所で陸軍の兵隊が昼夜の別なく死体を焼き続ける煙が立ち込めて、その悲惨さは言語に絶するもので、まさにこの世の生き地獄という表現に尽きます。
私たちの任務は市内の中心を流れる元安川に浮かんでいる、表面は黒焦げで半分腐乱し、水脹れした水死体を、縄の綱で引き寄せ舟艇に乗せ陸上に運び上げる(陸軍がこの死体を焼く)作業ですが、死臭が漂い何とも言えない形相で身の毛がよだつ思いでした。
夜は舟艇の中にごろ寝するのですが最初の夜、陸に上がって小用足しに暗がりに行ったところ、足元がヌルリとするのでよく見ると目をむいた死体を踏んづけていたのです。
作業の方は、初日200体、2日目は綱が切れてしまったので、泳いで死体を脇に抱えて乗せる羽目になりました。3日間で380体程収容したと記憶しております。
3ヶ月足らずの軍隊生活、9月初めには除隊帰郷となり……
長崎市の原爆投下の中心は三菱兵器製作所・大橋工場で、従業員と学徒動員の男女学生、数万人が働いており、周囲の住民を含む20数万人が瞬時にして犠牲になられたと聞きます。一緒に働いていた級友10数名が犠牲になられましたが、私も入隊していなかったら彼らと一緒に犠牲になっていたでしょう……
原爆の悲惨さ、恐ろしさは体験した人でなければわかりません。今更ながら自分の強運に感謝するとともに、学友ならびに広島、長崎両市の犠牲者の方々のご冥福をお祈りし、21世紀にはこのような悲惨な戦争の起きないことを願っております。
※最近多発テロの発生により、アメリカがアフガニスタンに対し報復攻撃を開始し、各種の新兵器、爆弾が使用されているようで大変危惧しております。
4.もともと健康であったのが、年を取って腰痛になったのは原爆の後遺症ではないかと心配している。
<広島 男 19歳(被爆時) 入市>
2.陸軍生徒であった私は広島の学校を離れ疎開先で演習に参加していて、終戦後8月17日に江波に帰った。その時見た市内の焼け跡、学校が病院になっていて焼け爛れた顔や身体の病人を見たこと。
3.戦後10年を経たころ(昭和30年)から被爆の後遺症(白血病)が表れ、さらに余病が次々に出てきて年に1〜2ヶ月は入院。しかし一向に良くならず病院通いが日課。いつになったら健康になれるかストレスがたまるばかり。
4.ほとんどの薬が副作用を起こし、そのためにまた入院の連続。薬が使えないために足の痺れがとれず、夜ゆっくりと眠れない。入院は感染症予防のため個室。そのための部屋代が自己負担1日1万円。無職の現在、貯金が大きく減るばかり。
5.戦争は罪悪であること。人間(国民)を不幸にする戦争をしないためには、今の日本国憲法を守ること。憲法違反と考えられる自衛隊の海外派兵は理由があいまい。断固中止すべきである。
<広島 女 19歳(被爆時) 入市>
2.昭和20年8月6日朝8時15分青空にて日照りが強いあの日、家の外にいて(母、近所の方)空を見たその時、ピカッと光と共にものすごい音、真っ赤な火の玉と同時にあの入道雲が舞い上がり、一体何が落ちたか不安でいっぱいで、しばしもんもんとつづく雲に見とれていたあの時のことは、この目に強く焼きついて一生忘れられません。そして黒い雨が降り、また正午頃より見た被爆者の姿に驚きと不安のみでした。
当時動員で市内に通っていましたが8月6日に母の都合にて休んだので幸か不幸か直爆は受けず助かったこと、人間の生と死の運命を深く感じ言葉もございません。
3.被爆より日夜被爆者の救護、また市内に親戚・友人を尋ねたが、その日その日いかに生きるか、何をなすべきか、なすまいか一生懸命出来る事だけの毎日でした。
あの原爆投下以降の生活は、今後どうなるか不安でしたがただ生きること、今日のことで夢中の日々を過ごしました。ただし廻りの皆の姿。それぞれが必死のその日々にて。私として同時に若いので別に辛いまた苦しいとも感じなく生きた毎日でした(当時東京で勉学、動員、毎日空襲ありを過ごしましたので)。
4.被爆者の方々、色々とそれぞれの立場にてここの人生の生き方があると思いますが、おかげ様で私は被爆(入市)者ですが、廻りの方々にめぐまれ今日まで生きてこられたことに感謝致しておりますが、ただ健康第一を自分なりに気をつける一日その日を大切に無事に過ごせることを思う毎日です。
先に申しましたが今日あるのもあの8月6日の日に休んだことで、生きられたことを母に感謝しています。母は10月末に被爆者(入市)として亡くなりました。
5.終戦後50年余り(半世紀)過ぎ、今日ある全ての生活に現在の若者は当たり前となり苦しみを感じることなくただ自分のことのみを考える時代。社会もマスコミも大人も責任があると思いますが、自分をしっかり見つめ、命の尊さ、人と人の思いやり等を考えてもらいたいと思う今日です。孫らにも折にふれいつも色々と話し合い、伝えて、自分をしっかりと見つめて生きて欲しいものです。
7.日本は戦争及び核を身をもって感じ敗戦となり、現在平和の今日です。またアメリカでテロが発生し、目に見えない戦争となりましたこと、不安を感じます。ただ世界が平和でありますことを望んでいます。
<広島 男 19歳(被爆時) 入市>
2.入市して街の至るところに水を求める被爆者を見た。フットボールのように大きく膨れたこげ茶色の顔で目と口の粘膜だけが一様に皆、鮮やかな朱色だった。
3.凄惨な広島市街の被爆状況がいつまでたっても脳裏に焼きついて離れない。
4.原爆症への恐怖。
5.原子爆弾は落ちた時に人を殺傷するだけではない。放射能が身体に喰らいついているので10年後、20年後でも死ぬまで命は安心できない。
7.私の家から4km程度の距離に丸木原爆美術館があります。百聞は一見にしかず、という諺がありますが、丸木夫妻の描いた原爆の図の数々をもっと多くの人に見ていただきたいと思います。
<広島 男 19歳(被爆時) 入市>
2.8月6日より広島市内で救援活動。陸軍船舶特別幹部候補生。
<広島 男 19歳(被爆時) 入市>
2.
1)ビーチボールのように膨れ上がった赤ん坊の姿。
2)ショックで正気でなくなった中年の男性。
3.子どもが被爆者二世として差別されたこと。
4.子どもの将来。世の中の堕落。
5.民族の終末が見えてきたときにいかに生きるべきか考えること。
7.他の動植物が原水爆禁止運動をしなくてもいい世の中になることと思います。
<広島 男 19歳(被爆時) 入市>
4.昭和20年8月8日から12日(5日間)広島市内にて死体処理作業にあたったので放射能の影響が何時出るか心配である。
5.
1)当時私は19歳の現役兵で死体処理に当たったが焦土の町広島市に立つと悲しみ、哀れみの地獄図を見て原爆の恐ろしさ、戦争の愚かさを知りました。
2)あれから56年余の歳月が流れ、来る年も来る年もあの忌まわしい8月6日の思い出は、私どもの脳裏からは生涯消し去ることの出来ない事実を戦争を知らない世代に伝えていく義務を深く感じる毎日です。
<広島 女 17歳(被爆時) 入市>
2.学徒動員で中国塗料に通っておりました。8月6日当日は市内の様子も判らず、自宅へ帰りたさに、工場から己斐迄みんなで歩きました。その途中、市内で被爆した人たちが大勢、無表情で頭から血を流し、皮膚をぶら下げ、妊婦はお腹を抱えるように、小さな子も血を流し、でも涙は出さず、衣類もなくなり、ただとぼとぼと避難しておりました。本当に涙、涙でした。
3.結婚して子どもが生まれましたが、恐ろしくて出産できませんでした。今にして思えば心配することはなかったようですが、その当時はいろいろ怖いお話があったりして、残念です。
4.今、年老いて子どもを産めなかったこと。子どもがいないことがとても淋しく不安です。
5.原爆に限らず、とにかく戦争は破壊のみ。建設的なことはなんにもありません、と思います。
<広島 男 15歳(被爆時) 入市>
2.玉音を聞いたのは近畿海軍航空隊の基地でした。基地を離れ帰郷したのは4、5日後。15〜6時間かけて臨時列車で広島に着いた。驚いたことにホームの屋根が鉄のレールの市中を残して何もなかった。駅舎は焼け跡に白いテントが2張あるだけだった。8番ホームに立って海の方向を見ると、コンクリートや石の建物が残っているものの、その他の建物は全てなく、広島港や宇品港が手に取るように見えた。山には枝葉はなく黒く焦げた木立が杭のように立っていた。たった一発の特殊爆弾(原子爆弾)の威力に驚いた。そして、その爆弾によって何十万人の命を一瞬にして奪い、跪き苦しんで死んだ人たちを思うとき、今でも胸が熱くなり、怒りがこみ上げてくる。
3.
1)今から40年程前、電車に乗ってドアーが閉まると牢獄にでも入れられたように身体が硬直し、血の気が引いていくような思いが何年も続いた。
2)頭の毛を手櫛で撫でると一度に十数本もの毛が取れたことが数年続いたこと。
3)40歳の頃からうつ病に罹り30年続いたこと。
4.
1)腰部脊柱管狭窄症と診断されたこと。通院中であること。
2)ピロリ菌が胃腸にいると診断され通院中であること。
3)妻がうつ病に罹り通院中であること。
5.平和であることがこんなにも大切なことか(尊いものかを伝えるために)
・我侭が言い合えること
・色々なことが学べること
・生きるために衣・食・住・遊が不自由なく出来ること
昔、二宮金次郎の銅像が建てられてあったように各学校に平和を記念し、平和を祈り、平和を喜び合う塔を自分たちの力で建てて欲しいものである。
<広島 男 13歳(被爆時) 入市>
2.紺碧の空。閃光。白能面。丸裸。水、水……地獄の呻き。固体の終末。山積死体。
3.地獄を見たことの辛さ。自身の健康不安を思う苦しさ。
4.晩年の健康と身寄りのないことが不安です。
5.人類が戦争をしないための高度な仕組を創造してそれを守ること。
7.被爆者で一定年齢に達した無職無収入の者に対して生活補助的年金の支給する条項を作って欲しい。
<広島 男 12歳(被爆時) 入市>
2.昭和20年8月9日、広島駅着。一面の焼け野原。川は死体が真っ赤になって何体もまだ浮かんでいた。ちょうど12時(昼)おにぎりを一個頂きました(小学校6年生当時)。
3.昭和20年9月に長崎に帰りました。元気に帰宅した近所の人たちが1ヶ月後、2ヵ月後〜1年後と亡くなられていくたびに原爆の恐ろしさを思い知らされました。
4.老後の生活。健康が不安です。
5.核廃絶と世界平和。
7.しらさぎ会様他お世話になりありがとうございます。
<広島 男 12歳(被爆時) 入市>
2.当日、午前8時15分、集団疎開先の小学校の校庭で朝礼の時間帯、先生の訓話を聞きながら晴れた青空に2機の飛行機(B29)が現れ落下傘のようなものを2個投下している状況を視認。数分後に爆発して強力な光線、爆音で地面に伏せた時の恐怖感。
3.被爆後、疎開先の母のもとに帰り、女学生の姉が行方不明とのことで数日間、姉の死体を求めて市の中心部を探し回ったが発見することができず、同一氏名の遺骨を市役所でもらいうけ今もって拝んでいる。姉の霊を安らかにしてやることが出来ない淋しさが辛い。
4.
1)健康への不安
現在軽い脳梗塞で治療に当たっているが、何時発作が起きるか心配。
2)戦争再発の心配
アメリカ、アフガン。特に世界情勢からイスラム教、キリスト教からの対決には宗教世界大戦の再発のおそれ。
5.若者は戦争の怖さを体験していない。失っていない平和がいかに大切なことか、また重要なことか声を大にして教えたい。
<広島 男 11歳(被爆時) 入市>
2.空腹の事ばかり
3.消防士の三次面接で広島で被爆したことで不合格になった。
4.老後に被爆症状が出ない事
5.戦争のない平和
7.健康管理手当(行進の診断書不要)の件
<広島 女 11歳(被爆時) 入市>
2.
1)疎開先で山の向こうに見えた大きなきのこ雲。
2)夕方になって焼け爛れた腕を持ち上げて、ぶら下がった皮膚をかばうようにして山を越えて帰って来た人々の群れ。
3)一瞬にしてなくなった広島の街の広さ(当日ではないが)。
4)何日も続いた死体を焼く臭い。
3.食べ物がなかった。食材が手に入っても煮炊きする薪がなかった。被爆後何日か経って台風が来て壁と窓ガラスのない家は水浸しになった。父は帰らなかった。
4.
1)父(原爆で死亡)の兄が戦前から養護施設(当時は孤児院と言っていた)をやっていた。原爆の後、多くの戦災孤児の面倒をみていた。その中に2人、まだ手帳を持っていない人がいた。一人は最近証人を見つけて申請まで援助したが、もう一人はどうしても証人が見つからない。被爆後2年くらい焼け跡で父親と一緒に放浪生活をしていたが父親が急死し、3歳半ぐらいで施設に保護された女性である。先に施設に入所していた年長児が「荒神橋で暮らしていたのをよく見かけた」「お父さんらしい人と一緒にいた」「空き缶にご飯を入れたのを持って立っていた」「新聞に“被爆者でまだこんな生活をしている人がいる”と写真入で記事になったことがある」と語るが被爆時の状態について語れる人はいない。本人の記憶について尋ねると「家の前には海があった。まわりに子どもがたくさんいた」としか覚えていない。放浪生活中のことは「いつもおなかが空いていた。とても寒かった」としか覚えていない。「一緒に暮らしていたのは(放浪していたのは)お父さんだったの」と尋ねても「多分そう思う」という返事である。入所していた施設から入所児台帳の写しをとりよせ、中国新聞社に記事についての問い合わせをしたりしたが記事は過去10年分しかとっていないとのこと。本人は都内に住んでいるため東友会を訪ねて相談したが「難しいだろう」とのことで話はすすまなかった。本人は数年前に乳ガンの手術を受けている。夫には先立たれ、これから先の生活と健康に強い不安をもっている。何とか力になってあげたいと思うが放浪前の生活については全く手がかりがない。
2)私はガンで2回の手術を受けている。いつも再発転移の心配をしている。
5.どんな名目でも決して戦争をしてはいけないということ。戦争を知らない世代が増えて、その悲惨さを伝えられないのがもどかしい。政治が庶民の願いとは異なった方向に進められているのが腹立たしい。怒っても怒ってもしょせんごまめの歯軋り!
7.被爆者の悩み、苦しみはみな同じ。国籍で差別しないで欲しい。
<広島 女 8歳(被爆時) 入市>
2.もくもくと空にのびるきのこ雲。
3.沢山の人が生地獄を味わって苦しんで死んでいったこと。
4.わが国が世界で初めて原子爆弾を落とされて沢山の人が死んだことが少しずつ忘れられていくのではないか。
5.修学旅行の際、ぜひ原爆資料館やドームを見て原爆の恐ろしさを知って、絶対に戦争が起きないように努力して欲しい。
<広島 男 6歳(被爆時) 入市>
2.爆風で畳が持ち上がったこと(6km地点)
3.広島県生まれというと、すぐ結婚など反対された。
4.健康管理手当が終身もらえるのか。
5.被爆者であっても自分たちは胸を張って生きている。どんなことがあっても二度と戦争はだめ。原水爆禁止運動に協力して欲しい。
<広島 女 21歳(被爆時) 救護>
2.我が軍の支配下にある広島郊外の麻糸工場で働いていた。昭和20年8月6日、始業間もなく午前8時15分、ドカンという轟音とともに機械が止まった。一瞬爆弾が落ちたのかと思わずしゃがみこんだ。辺りに立ち込める埃。外で点呼が始まったが、何かわからぬ大きな爆弾が落とされたようだった。それで手分けして、私たちは三篠にある分工場へ学徒動員で出ている人々の救出に行くことになり、包帯と赤チンキを持って出た。胸がどきどき早鐘を打つ。友だち何人かと走り出した。気持ちばかりで足が前に進まないもどかしさ。
走りに走る途中、トラックで運ばれて来る人は真っ黒な顔に髪は逆立ち、衣服はボロボロ。歩いて逃げてくる人々も裸足で恐怖に引きつった顔にぼろ布をぶら下げた凄惨な姿。思わず息を呑む。何が起こったのだろうと恐怖で一瞬ためらったが行かなくてはと思い走り続けた。しかし橋のたもとで、これから先は行ってはいけない。広島は燃えていて入ることは出来ないと止められやむなく戻ってきた。先に行ったトラックで救出された負傷者が工場の男子寮に運ばれていた。私たちは今度は小学校へ行くように命じられた。校庭では炊き出しが行われていた。次にお寺の方が大変だとのことで駆けつけると、本堂はおびえた顔のまま一点を凝視している人や突然のことで声を失ってしまって皮膚も衣服もボロのようになった人々で足の踏み場もない有様だった。
ご本尊の横に並べられていた死者にはお経があげられていた。私たちがする手当といえば赤チンをつけるだけ。すでに包帯もなくなっていた。息の絶えた人々はすぐに運び出され荼毘に付されていた。被災者の微かな言葉をやっと聞き取り、少しはなれた川向こうの親戚の家に連絡して戻ってみると先ほどの人はもういなかった。亡くなったんだと思った。境内を軍人らしい人が「水を下さい。水、水」と言って這い回っていたけれど、水をあげたらすぐ死ぬと聞いていたのであげなかった。あの時に水をあげればよかったと後で悔やまれた。顔の皮が全部剥がれて黒く垂れ下がっていたし視力もなくなっていたと思う。他の軍人さんが探しに来ていたので連れて行ったのか、やがて見えなくなった。
茫然自失のありさまで、ほとんどが裸の負傷者の姿は言葉に表すことも出来ません。「ああ、赤チンもなくなった。ミッちゃんある?」と聞くと「ないよ」と泣きそうな友人の声。5歳くらいの男の子は顎が切れ裸の胸は血糊で固まっていた。「どこから来たの」と聞くと「ボク、どうもしないのに飛んでいたよ」と言ってトコトコついて来る。寄宿舎から白いボレロを持ってきて着せた。夕方になり連れて帰りたいと思ったものの、捜しに来る人があったらいけないと思いかえして心を残して引き上げた。あの子はどうしただろう……私の裡にはあの時の光景のまま時間が止まってしまっています。
永久に……欲しがりません勝つまでは、と顔の映るような一碗のお粥、木の芽草の芽を食べて死んでいったあどけない子どもたちを思うとき、飽食の現代を喜ぶ気にはなれません。
8月21日、友だちを送って横川へ出かけてみると駅のホームがポツンとあるだけの見渡す限りの焼け野原。コンクリートの建物が少しと電車の線路が見えるだけ。その線路を伝って十日市に行く。広島別院も廻りのお寺も瓦礫になっていた。どこからともなく母を捜す子どもの声や子どもを捜す母の哭く声が聞こえてくるようだった。一瞬にして多くの生命を奪った原爆。70年間草木も生えなぬといわれた広島も、今では何事もなかったように川辺の柳が風に揺れている。ただ川面に影を映す原爆ドームが過ぎし20世紀最大級の人間の罪とその惨禍を物語ってはいるが……21世紀は本当の平和を求めていたものの、平和の言葉に甘えすぎて自分を見失い、命を粗末にする時代がやってきた。治安の良い日本ではなくなったことが嘆かわしいと思います。
3.体調を崩して離婚しましたので、がむしゃらに働いたことです。
4.介護のこと
7.被爆者が寄り合って死ぬまで住める場所があればいいなと思っています。原水爆禁止運動は続けるべきです。
<広島 男 16歳(被爆時) 救護>
2.被爆直後の午後1時30分頃大野小学校に救護活動で行き目の前で見た状況、この世の地獄がいつも目に浮かび忘れられん。
3.被爆体験を人に話しても本気にされなかった。昨年さいたまコープ労働組合で話をしたのが初めてでした。
4.なし
5.最小限法規を守り、自分のことだけでなく、大きく国のこと人のことを考える人間になってほしい。
<広島 男 胎内被曝>
4.健康
5.核兵器や原発を含み、核分裂の未完成の技術。いくら平和利用といっても不完全であり危険がともなう。核兵器はなおさらのこと。
<広島 女 胎内被曝>
2.胎児なので特にありません。
3.特別にありません。
4.特別にありません。
5.戦争は二度と繰り返して欲しくありません。平和が一番。
<広島 女 胎内被爆>
3.転居して大阪にいた頃、眼科に行き被爆者手帳を出すと診療を断られたこと。
4.被爆者ではあるが、あの悲惨な状況を自分の目で確かめたわけではないので語ることが出来ない。
5.二度と戦争を起こさないよう、皆で努力していかなければならない。9月11日、アメリカのテロ事件が起こり、その報復のため今アフガンで戦争を始めた。今考えるべきであると……私は胎内被曝なので本当のことはわかりませんが、母、兄、姉に聞いたこと、被爆者から聞いた8月6日のこと、自分の子どもには伝えています。
7.自分自身が直接被爆したのではないため真実が語れるかどうか心配ですので語ることについてはご辞退しています。今、母を兄妹で介護しているため広島へよく帰ります。落ち着いたら何かお手伝いをさせていただこうと思っています。その時は連絡します。
<広島 女 胎内被曝>
2.胎児だったので直接の体験は語れませんが、直接閃光を浴びた母が九死に一生を得て、私が小学生の時、母の髪は真っ白、総入歯でした。「子どもが小さいのに校長先生からも“おばあちゃん?”と言われて恥ずかしい」と、染め粉で真っ黒くしていました。今のように「おしゃれ染め」などない時のことで、着物や洋服の襟がいつも黒くなっていました。
3.被爆が原因なのか、物心ついたときは母の背に背負われて病院通い。小学校入学も一年延ばすようにとお医者様から言われたそうです。元気で活躍(親友は私を評して、体力はないのに気力で動いていると言いますが)出来たのは何年もありません。普通一般の人と同じような健康体が欲しいといつも思っています。
4.70歳前後、またそれ以上の年齢の方が健康で活躍している姿を見て自分はまだ50代なのに……と情けなく感じます。人の手を借りずに、いくつまで生活できるのかしらん。生きている限り自分のことは自分でしたい。その日が一日も長く続くことを願うばかりですが……
5.人間は弱い生き物だということ。どんな理由があろうとも人間が人間を殺すという行為があってはいけない。未来に続く自分の命を大切にして欲しい。自分を大切に出来ない人が他人を大切になんて出来ないと思うから。
7.先月、広島の平和記念資料館に行ってきました。3回目です。展示品、中でも被爆者の描かれた絵は拙いながらも「体験」ということで心にバンバン響きました。すぐ横でカップルの男性の方が涙を流していました。アメリカで起きたテロに対し、唯一の被爆国である日本が8月に広島・長崎で『二度と繰り返しません』と言いながら、2ヵ月後には自衛隊武器輸送を認め、何やらこのまま第三次世界大戦になるのではと危惧するようなきな臭さ。国会答弁での首相のアメリカ指示の論法、恐ろしいと思います。力で力を押さえ込む等、何の解決にもならないと思うのは浅はかでしょうか。国会を一時休会にして政治家全員で平和公園に行って欲しいと思います。
<広島 男 13歳(被爆時)不明>
2.比較的被害の少なかった我家(ただし瓦はバラバラ、建具は全部倒れ天井は吹き上げていた)に約40人くらいの方が避難されてきましたが、火傷に対して何の治療も出来ず、食料もほとんどなく手の施しようもありませんでした。数日中に小学校の方へ移動されましたが毎日10人くらいの方が死亡され、今でもはっきり記憶に残っています。
3.結婚して第一子、第二子が生まれる時に五体満足な子どもが生まれてくるかと心配した事。当時食糧がほとんどなかった事と被爆した母の治療で夜も余り眠れなかったこと(母と二人の生活でした)。
4.核保有国が多数ある事。自衛隊は最初は警察予備隊であったはず!!スイス、スウェーデンの様に世界に対して中立国になって欲しい。
5.人の命の大切さ。
<広島 女 不明 不明>
2.
1)私はこの朝を忘れない。昭和20年8月6日AM7時半ごろ、リトルボーイを機腹にだいたB29はただ一機で広島駅上空2千余mのやや南の上空を何回も旋回していた。晴天の旭日にピカリピカリと機体を輝かせていた。単機の偵察位には全国民は慣れてしまって、いささかの危険も感じるどころかのんびりと見上げていて、それぞれの任務にいそしんでいた。空襲警報すら鳴らなかった。AM8:16のあとの地獄を誰も気にせずのんびりしていた。
2)被爆しても生き残った人々は下痢、嘔吐、胃の異常に悩まされた。私の疎開先だった広島市の西北に位置した山本村に於いてもそんな患者ばかりで、人々は「チブスに罹った」と信じてその方面の治療に専念した。私の一家もその通りで床に臥していた。髪の毛が多く抜け始めた人々は、次々に亡き数に入っていった。直接にピカドンを受けなくても身内や知人を探して歩いた人々は、こうして尊い命を失って行った。
3.長男(昭和16年生まれ)の結婚の時、式も終わったあとで嫁方から言われた言葉「被爆者と知っていたらOKしなかった」と。
5.怨に対しての復讐は更なる争いを呼びますので、じっと辛抱して広く暖かく包み込む魂が必要と思います。
<広島 男 被爆二世>
2.被爆二世ということでしらさぎ会に入れてもらっています。
3.2のような事情もあり特にありません。
4.2のような事情もあり特にありません。
5.今、アメリカがアフガニスタン領内の爆撃を行っています。ニューヨークの無差別殺人がテロリズムであって許せないという言い分です。時代が違うとはいえ、あの国は(もっとも旧日本だって!)何十万という無辜の人を殺した歴史があります。また現在のパレスチナへのイスラエルの攻撃には断固とした対応はしないできました。人類というのは本当に情けない生き物だと悲観的になってしまいます。
2.長崎編
<長崎 男 34歳(被爆時) 被爆距離2.5km>
2.主人が爆心地のすぐ横の三菱兵器に学徒動員の学生とともに出勤していて生死不明の知らせを受けた時のこと。
3.ふとした病気でもいつも被爆のためではないかと思う不安。
4.おかげ様で主人は93歳まで命を頂き3年前に旅立ちました。今は被爆した5人の子どもが元気でいてくれる様に祈っています。
7.高齢のため、何のお役にも立ちません。同封のものは何かのお役に立ててください。
<長崎 男 29歳(被爆時) 被爆距離2.5km>
2.長崎市郊外田上の小高い山腹の穴掘り作業に在郷軍人として1週間の勤労作業に召集され2日目の作業小休止中に目の前の上空で爆発し被爆す。爆心地の悲惨な状態は言葉に言い表せない程です。目的地へ行く途中救いを求められても何も出来なかったことが残念でした。また多くの知人が被爆しても生きていて喜び合ったのに、1週間前後で皆死んでいったのは心に残っています。
3.常に原爆症に対する怯えを持ち続けて生きてきました。
4.現在85歳の高齢まで生き延びた幸運に感謝しています。
<長崎 女 25歳(被爆時) 被爆距離2.7q>
2.私は庭から台所の土間に入って、2、3秒で閃光と同時に爆発音、続いて家中の家具、ガラスの壊れる音、そして頭から血が流れて(ガラスの破片が飛んできて)来て、驚いて靴のまま座敷に上がり、脱脂綿をのせて三角巾で父に縛ってもらいました。
3.だいたい痩せていましたし、食料もなく栄養失調気味でしたのでしんどかったのですが、被爆者なるがゆえに長男は縁談を何度も断られました。
4.今は別にございません。80歳を過ぎていますし70歳を過ぎて腰痛、膝痛は持病となりましたが、まあまあで過ごしております。
<長崎 女 24歳(被爆時) 被爆距離2.8km>
2.親しいお友だちが次々と亡くなったことが今も目に浮かんで忘れられません。
3.いつ病気で倒れるか知れないことです。
4.戦争がいつ起きるかと思うと不安です。
<長崎 女 21歳(被爆時) 被爆距離3.5km>
2.
1)死体がゴロゴロしていた。
2)鉄骨が飴のようによじれていた。
3)介護していた元気な人がすぐ死んでしまった。
3.兄が血便をしたことが辛かった(現在は治っているけれど……)。自分は膝にぶつぶつができたので、後で苦しかったぐらい。
4.今現在、脳出血で右半身が(運動神経が)不自由なこと。でも人と会話ができるので幸福です。
<長崎 女 20歳(被爆時) 被爆距離1.4km>
2.あの日、父(仕事)、兄(仕事)、妹(学徒)は朝出かけたままでとうとう家には帰りませんでした。その後、働く人がいないので私も一生懸命働きました。残ったものは女ばかりで本当に色々なことで困りました。
4・子どもは4人出来ましたけれど、それぞれ家庭を持ち家を建て主人と2人の生活でした。けれども主人は病気になりなくなってちょうど5年になります。それで私は一人の生活でございます。現在は何とか日々を送っています。元気でさえあれば心配ないけれど心細い日もあります。
<長崎 男 20歳(被爆時) 被爆距離3.5km>
2.被爆翌日の8月10日幼馴染のKが戻ってこないので後輩のNと一緒に長崎医大付近(私の家から約3q)に探しに出かけた。爆心地(私の家から約3.5q)に向けて約1.2キロメートル位行ったところで偶然にも爆心地方向から来た旧中学時代の恩師M先生にパッタリ出遭った。「何処に行くのか?」と聞かれ事情を説明すると「想像以上だから行くのはよせ」「私も妻子の火葬をしてきたところだ。むしろAを訪ねてみたらどうだ」と言われた。先生の自宅は全滅したけど学校の方は最悪の難は逃れたとの事だった。Aは私とは中学時代のクラスメートで長医専ではKと同級だった。Aは一晩長医大裏山で夜を明かし帰って来たばかりだった。「被爆当時はKと一緒の教室だったはずだが被爆当時は生地獄で全くわからない」との事だった。しばらく被爆時の話を聞いた後Aと別れ家路についた。その後数ヶ月悶々の日が続いたけれど御陰で爆心地の方へは足を運ばなかった。あの時若しM先生に会わなかったら……そしてあの一言「行くのは止せ」がなかったら爆心地付近で必死にKを探し廻り恐らくガス等に犯され今日の私はなかったと思います。結局Kは永遠に帰らぬ人となり、Aは3ヵ月後には死亡、M先生は定年後数年経って他界された。私が見舞いに送ったパジャマを着て……と聞いてえも言い難い悲しい気持ちだったことを昨日のように覚えている。あの一言の御陰で私もNも未だに健在です。
3.
1)現代医学でも解明出来ない様な病気でも発病するのではないかとの不安はずっとありました。今となっては一般の人並みに生きて参りましたのでホッとしています。
2)昭和34年娘が生まれましたが五体満足でしたので一安心しましたが、当時の事ですから医師まで生まれるまでは不安そうな面持ちでした。娘もそろそろ42歳、孫も元気でホッとしています。
4.平成8年9月閉塞性動脈硬化症の為右下肢大腿1/2より切除いたしましたが比較的順調に回復していますが残った左下肢も右下肢と同様な病状なので切断の羽目に会う不安はずっと脳裏につきまとっています。
5.飽迄戦争反対、平和第一と考えますが無差別テロや化学薬品によるテロ、日常茶飯事の如き。第三国による不法侵犯、日本本土越えの核打ち上げ、黙視されっ放しの拉致問題等々、日米安保のみに頼らずより強力な自衛の為の自衛隊は必要と思います。自衛隊即戦争という考え方は今こそ一考を要すと思います。
7.被団協やしらさぎ会便りにより年老いた被爆者にとってより新しい情報を得て感謝致しております。なお私の住んでいる所沢市では旧しらさぎ会西埼玉支部(現在は親睦会)役員の方々、特に支部長の努力により被爆者に対しての市民税免除や入院見舞金・葬祭料等、地方自治体としては種々の努力をされていますし市に対して感謝致しております。
<長崎 女 20歳(被爆時) 被爆距離0.7km>
2.焼野ヶ原で焼けただれた人や水を求める人、屍となった人のことが目に浮かびます。
3.直後に急性原爆症と思われる症状があったこと。
4.健康と二度とあのような出来事がないようにと思います。
5.色々な犠牲があって今の平和があることを忘れないで欲しいこと。
<長崎 女 19歳(被爆時) 被爆距離2km>
2.昭和20年8月9日11時2分、私にはその瞬間よりのこと、すべて忘れ去ることはない。
3.平生の幸せな人生を一瞬にして奪い去られ、今も尚引き続いて56年を生きている無様な私。
4.健康です。それにともなう生活。
5.平和!核兵器廃絶!世界人類が平和でありますように!地球が元気でありますように!日本に原爆が落とされたことすら知らない若者がいることに唖然!
<長崎 男 18歳(被爆時) 被爆距離1.1q>
2.小高い丘で農作業をしていた母が全身丸焼け(マルコゲ)真っ黒で水脹れ。翌10日午後まで心臓が動いていた。姉、妹は放射能とガスと大怪我のため死亡。あれから毎日忘れることはない。
3.若い頃は被爆のため職がない(東京)で難しかった。40歳頃より腎臓炎、58歳人工透析開始、週3回。合併症肝不全、骨粗しょう症、骨が痛い、辛い、苦しい。現在に至る。
4.病気の症状の悪化が早くないか。通院が出来るか等々。
5.平和な国をつくれ。戦争は絶対するな。戦争は人類の破滅であることを徹底させる。
7.役員その他の方々の諸運動に感謝申し上げます。
<長崎 男 18歳(被爆時) 被爆距離3.3km>
2.吃驚しました。あのようなものすごい爆弾があるとは思ってもいませんでした。
3.世界中で唯一の被爆国民として全世界に核兵器の悲惨さを伝え廃止させなければいけないので、現在の平和ボケの中で何も思わなくなった人々の居ることを苦々しく思っています。
4.次に核兵器が使われることを不安に思っています。
<長崎 男 18歳(被爆時) 被爆距離1.6q>
2.あります。一瞬にして数千の焼死者、重傷者たち。何のすべも無くぼう然と立ちつくし、救助できなかった。地獄絵図です。
3.原爆後遺症により働けなかった事。人からからかわれ馬鹿にされたこと等々。
4.米国テロ事件によるアフガン(テロ根拠地)核戦術として原爆の使用またはミサイルなどその他諸々の問題についての不安。
5.再び原爆、核の使用。廃絶を願うと共に悲惨な地獄を再び地上に再現してはならない。平和の大切なことを伝えたい。
<長崎 男 18歳(被爆時) 被爆距離1km>
2.一瞬にして多くの人も建物も灰燼に帰したということです。降伏直前にあった日本に何故2発の原爆を投下したのか。現在でも激しい怒りを禁じえません。
3.現役を退職後老年期に入って次々と身体の不調が出てくることです。
4.残り少ない人生を入退院、通院によって無為に過ごさざるをえないことです。
5.人間の生命の大切さをしっかりと肝に銘じてもらいたいことです。
7.何故運動が一本化できないのか。全く納得出来ません。運動はイデオロギーや考え方の問題ではないと思います。
<長崎 女 18歳(被爆時) 被爆距離1.2km>
2.思いがけない大変な出来事で言葉ではいえないことでした。
3.この頃は病院もよくしてくれますが前は何もしてくれず大変でした。生活も大変でしたので苦労いたしました。
4.年をとって子どもたちにお世話になることがいちばん心配です。
5.世の中のんびりとして過ごしたい。戦争はだめです。やめてください。
<長崎 女 17歳(被爆時) 被爆距離1.2km>
2.
1)原爆のことを『ピカドン』と云った時期もありましたが、確かにピカは感じましたがドンの音の方は全然感じなかった。
2)2〜3日後また浦上の中心地を歩いて道ノ尾駅まで(汽車がここまでしかなかった)来たが、途中数人の死骸と出会っても神経が麻痺していて何とも感じなかった。
3.子どもたちにどんな影響が出てくるのか?心配した事。
4.同上
5.戦争だけはするなということ。
<長崎 女 17歳(被爆時) 被爆距離1.7km>
2.8月9日三菱兵器のトンネル内工場で魚雷の旋盤の作業をしていました。当日は昼の弁当を外に取りに出ていたが、中々来ないので暑いのでトンネル内に戻った時爆風で飛ばされた。電気が消えて真っ暗な中、外に出てみたら地獄のような状態で、怪我をした人たちを見た状況は言葉では表せないくらい怖くて忘れられません。
3.寮に帰ったら仲間たちが死んで筵が被せてあり、昨日までの人たちが死んで自分だけが助かったのが辛かった。放射能の後遺症が出るのが怖かった。結婚しても子どもが出来ないので、その原因かと思ったときもあって辛かった。
4.歯が若いときから抜けて歯茎が弱く総入れ歯にしたのが早かった。食べ物、硬いものが噛めないのが困る。
5.戦争はどんな理由があっても良くない。いつも被害を最も受けるのは弱い人たちがいちばん多い。世界平和が何故実現できないのか、人間の愚かさを若者に理解してもらい、努力してもらいたい。
7.核廃絶を徹底して欲しい。テロやその報復戦争も核兵器につながる恐れが十分にあることを広報しなければいけないと思う。
<長崎 男 16歳(被爆時) 被爆距離3km>
2.三菱造船所で特攻兵器製造作業中に一瞬の閃光に溶鉱炉の銑鉄ようになり工場内が真っ暗になり強烈な爆風に、もう終わりだと思い思わず伏せると、周囲で新型爆弾だ、逃げろと大声がして、何回か転びながら防空壕に避難して我にかえった。
3.帰省のため8月14日浦上駅まで、隊列で行進中、はじめは帰れると皆喜んでいたが、道の両側に死体の山が行けども行けども続き、ひどいひどいの声だけで、皆顔色変わり、涙が出てきて話すものもいなかった。あまりのひどさに見ないようにしていたが自然に目に入ってきたこと。
4.加齢して体のあっちこっちが悪くなるのに不安が募ります。
<長崎 男 16歳(被爆時) 被爆距離1.5km>
2.一発の原爆により、一瞬の焼野原の廃墟を見た時、人類の愚かを感じます。
3.健康の維持と出血打撲による歩行不自由な後遺症。現在も続いています。
4.健康。将来の経済の不安定。
5.人類の平和願望と叡智を信じたいと思います。核兵器を使用した戦争が起れば地球は破滅です。
<長崎 男 16歳(被爆時) 被爆距離4km>
2.戦争は日本民族を絶滅し日本の領土を自分の領土にするものではない。それを無視して原爆を使用したことに憤りを覚えます。
3.被爆により体調が一般の人々より悪く、仕事をするのに無理をして頑張った。
4.病のため社会復帰は駄目と医者より言い渡され、自宅でのんびり本を読んだりテレビを見たりして生き延びている。
5.日本国を平和な国に努力してほしい。核兵器廃絶の運動に協力してもらいたい。
7.病気のため協力できませんのがいちばん心苦しく思っております。
<長崎 男 15歳(被爆時) 被爆距離2.3q>
2.三菱兵器地下工場に閉じ込められて3時間ぐらい出られず、やっとの思いで出たら外は焼け野原になっていた。それに道端に倒れている人はみなさん頭の毛はなくなり、出ているところの皮膚はボロ切れの様に垂れ下がり、とても生きている人とは思えない体になり「水を下さい」「水をくれ」の言葉だけを口にしていた姿が忘れられない。毎日死体の片づけをしていやになった。3日目に自宅に夜逃げをして帰った。
3.被爆した15歳から40歳くらいまで病院で治療してもらえない色々な病気になり、大阪で漢方薬の煎じ薬で毒下しするしかないと云われ何年も飲みました。その間、体中に吹き出物が出来てかゆみとニキビの親のようなおできに悩まされた。
4.いつガンにおかされるかわからないこと。寝たきりにはなりたくないこと。
5.定年退職するまで被爆者であることを家族にも話をしておりませんでした。したくなかった。被爆手帳も平成5年8月に取得しました。
7.私は国会にも何回か行きましたが今の国会議員の人で私たちの今までの苦しさ、辛さを何も理解しようとしない議員もいるのかと思うと情けない。日本政府にも自治体にも意見も要求もいっぱいしているが未だに聞く耳をもっていない政治家の政府では何も出来ないのだと情けなく思う。何も期待できない。
<長崎 男 15歳(被爆時) 被爆距離4km>
2.友だちがほとんど死んだこと。
3.死んだ友達に対する負い目。
4.糖尿病加療中であること。これからの生活。
5.戦争に正義はない。戦争をしてはいけない。
<長崎 女 15歳(被爆時) 被爆距離3km>
2.投下したときの光、音。まわりが真っ黒な空。ガラスの割れる音。爆風などいまだに耳、目に残っています。
3.原爆が体内に入っているのではと心配があります。
4.いつ原爆病になるかという心配があります。
5.二度とないとは思いますが、孫たちに私の思い出話をする時は原爆の話になります。
<長崎 男 15歳(被爆時) 被爆距離3km>
2.原爆炸裂時の閃光(生涯これ以上の強烈な光を見たことなし)と爆風(通常爆弾の一過性に対して持続時間長い)、肌を刺す黒い雨、被爆負傷者の姿、一都市の壊滅、都市機能の麻痺。三日三晩燃え続けた市街。被爆時生き残った人たちが数日、数十日後に原爆病で次々と死亡し、疎開空き地で疎開材木を積み上げて仮想している光景。被爆1ヵ月後に訪れた浦上川岸辺に数十、数百の白骨遺体が並んでいた光景。それは白昼夢を見ているようで、地獄、修羅の巷とはこのことかと思った。
3.通常の健康な人たちに比べて体力、持久力が弱く疲れやすい(勤務、運動に関して)
4.これからの老後の生活。身体機能が低下して、寝たきりになった場合、介護保険のお世話にもなると思いますが、家族への介護の負担をかけることや自宅で生活できるか不安です(なるべく自宅で生活を続けたい)。医療費がどれだけかかるか不明で不安です。
5.平和の大切さ。平和のありがたさ。平和を守るための努力。戦争は戦闘員だけでなく非戦闘員(子ども、女性、老人)をも無差別に犠牲にする。過去の歴史を学ぶこと。
7.しらさぎ会のご活動に感謝致しております。
<長崎 女 15歳(被爆時) 被爆距離 3.5km>
2.
1)体調悪く一週間前から休んでいた私を見舞ってくださった女性の担任の先生が帰られた後にまた見えて(あの後)「どうも大変な状況なので、これから大橋工場に行きます」とおっしゃったのが最後の言葉となったこと。
2)夜は火災で空が、街が赤々と燃える不気味さと不安な気持ち(わからないのと、これからどうなるのだろうという恐れで)は忘れられません。
3.思いがけずくも膜下出血で手術という大病をした後の10年間、再発が不安だったこと。あとは色々ありましたが努力すれば何とかなりました。
4.健康状態です。次に思いがけない病気になるのは老齢にあるかと思いますが、これ程気を使い、管理に気をつけているのにと不安で、また自分の身体に自身が持てないということは辛いことです。
5.今のこの状態で切に思います。戦争に対する抑制心を一人一人、一国一国が持つべきだと思います。
7.被爆者検診の内容が少ないと思います。例えば眼底検査とか、せめてこういった目の検査を加えていただけないでしょうか。
<長崎 女 15歳(被爆時) 被爆距離1.2km>
2.夏の暑い日、何の前触れもなく光ったと思った。瞬間、建物の瓦礫に埋まり空気がなくなった。死んでいたのか気絶していたのか夢をみていたのか、暗闇の中で突然瓦礫が舞い上がって外に出ました。町の景色が一変していて方角も分からない。太陽も死んでいました。
3.下痢、じんましん等がいっぱい出来、5〜6年は紫色の斑点が出来たり、歯茎から血が出たり髪の毛が抜けたり、長い間誰かに背中を引かれている様な感じで、血圧は低く苦しい体でした。根気がなくだるい体を引きずって今の年になりました。誰も理解してくれない本当に辛い人生でした。
4.死にたくないですが私は何時まで生きられるか、そして最後はどんな死に方をするのか。若いときに人並みに働けなかった体のため、不運を全身に受けた世渡りでした。一生懸命、正直に生きてきたつもりですが、一人暮らしで寝たきりになったらどうなるだろうと一番不安です。
5.私の生まれたのは昭和5年。昭和6年には満州事変、12年には支那事変、6年生の時に大東亜戦争。負けた時は15才、原爆を背負って戦争時代を引きずって、その後の日本の状態を話してあげたいです。国の制度で家族もばらばらになって戦後は小さな家に住んで良いことなし。先ず幸せとは何かを伝えたいです。
7.しらさぎ会のお陰、肥田先生のお陰で私は70歳を超えるまで生かさせて頂きました。本当にありがとうございます。私は被爆時の被爆距離のことで何度も訂正を県庁に届けましたが、訂正がきかず不満に思っています。国は被爆者は出来るだけ早く死んでしまい少なくなることを望んでいるみたいですものね。私は老いてしまいましたが、原爆の生き証人として語り部に参加させていただきたいと思います。世を去る日に安心して往けるように。
<長崎 男 14歳(被爆時) 被爆距離3.5km>
2.当日長男は気胸の為、長崎医大病院に行って3日目の昼頃帰宅。負傷のため血だらけと埃で乾いた顔が思い浮かびます。どのようにして帰宅したのか本人もしばらくの間はわからないようで回復するのに1ヶ月位かかりました。昭和30年10月にこの世を去りましたが、被爆以来10年間寝たきりの人生だったのがとても残念です。
3.被爆のことは本人の自覚症状がないのと、勤務先でも一度も被爆体験を話したことはありませんでした。私としては一日も早く忘れてしまいたいという気持ちでしたので。
4.心臓病でのバイパス手術、糖尿病と病気のオンパレードの人生でしたが交付された手帳のおかげで本当に救われています。さして不安の点はありません。今後とも皆様のご活躍をお祈りいたします。頑張ってください。会にも出席したいのですが体調もあまり優れませんので失礼しています。
<長崎 男 14歳(被爆時) 被爆距離4km>
2.屋外で被爆したため全身に浴びた原爆が爆発した時の熱の熱さです。
3.
1)友人の白血病による死。
2)被爆ご病気がちで収入が少なかったこと。
4.現在、内分泌療法でガンの症状が改善されているが、いずれ起きるガンの再燃への不安。
5.核の問題について広く勉強してほしい。
<長崎 男 13歳(被爆時) 被爆距離3.6km>
2.左手首から肩まで火傷、眉毛、睫毛が焼け、従姉妹を爆心地から救出するも1週間で水をほしがりながら死亡した。近くの小学校の運動場では被爆者が毎日のように荼毘に付される。忌まわしい日々だった。
3.被爆者として隠していたわけではないが20年くらいは体調不調で被爆のせいかと長い間悩んだ。
<長崎 女 13歳(被爆時) 被爆距離3.8q>
2.家中のガラスが砕け散り家具などが倒れてしまったのに家族が誰一人怪我しないで一瞬に避難した動物的身の守り方が不思議です。
3.56年間健康不安に悩まされ続けています。
4.老齢になり益々不安が高まっています。
5.一人一人の人生そのものを根本から覆す戦争の恐ろしさをわかってほしい。
<長崎 男 13歳(被爆時) 被爆距離3.4q>
2.
1)原爆投下後、山越え迂回、爆心地1q以内に3〜4時間後進入(視界2〜3m)。負傷者(死寸前)への水やり更に2〜3時間滞留。進行不能、旧長崎中学へ帰校。
2)死亡寸前の人に水をやる(末期の水)しか何も出来ない。死亡者と思っていた人が「水」「水」。身体は黒焦げ、皮膚はぼろ切れ状。視界悪く全体惨状見えず。足元近くのみ。風によって発火する熱風。翌8月10日、爆心地より1q自宅へ戻る。初めて惨状、死臭充満を知る。
3)即死、母(背部より出刃包丁。倒屋下)。末妹、近くの崖上で大火傷、半死状態(発見後2時間前後で死亡)。母、妹を自ら焼くも焼け切れず。残り妹2人見つけられず。
4)投下日に長崎郊外(道ノ尾)海軍食糧調達地へ、父が若い韓国人の力を借りて部隊へ救出運んだ弟(小4)、吐くばかりで水も飲めず、8月12〜13日祖父宅、佐賀鍋島へ徒弟2人の力を借りリヤカーで運び、8月15日「日本は負けたとね」涙滴(万感のウラミ?)。兄ちゃんの一言で逝く。8月16日未明。
3.
1)昭和20年10月?米日被爆者病院(実態は被爆者生存者の放射能影響調査)で赤、白血球半減。まだ声変わり前(子ども)なので、今から新陳代謝が激しくなる。食うものをしっかり食えば大丈夫かもしれない。今のところ治療法なし。
2)今日に至るも8月9日が近づくと精神的なものであろうが、潜在意識に深い傷として残っている?夜な夜な惨状を夢見る。
3)白血球は基準区下限に入っているが赤血球は基準値下限を往来。生活習慣もあろうが肝硬変(脳?)膵炎(インシュリン)、腎タンパク(++、+++〜±0)、前立腺癌、肺結核の跡あり。心不整脈、軽肺気腫、癌性腸ポリープ。内臓・中身ガタガタ……に耐え気力、運動で生きてきた。頭をフルに使う。
4.家内が左乳癌で肺、肝、骨盤に転移。足かけ5年、1ヶ月に2回通院。8〜10万経費負担。治療法では20万)。入院中は癌保険でカバーできるが、近頃は早め早めの退院で通院治療、せっかくの癌保険も焼け石に水。特に通院の足で困る。タクシー代往復1回約1万円。腰に転移のため膝の痛み大。正座できない。今はまだ車運転できるが早晩駄目になろう。小生の肝硬変、腎不全のため、相反する妥協の食事要。家内の負担大。
<長崎 男 13歳(被爆時) 被爆距離1.8km>
2.学徒動員で三菱兵器工場での作業中、私はあの瞬間作業台の脇に居たのですが、一瞬目の前が真黄色になり気を失ってしまいましたが、その時の閃光は今でも忘れることはありません。
3.被爆して一年あまりして高熱により頭髪が全部無くなり生死をさまよい、食事はもちろん水も受け付けずブドウ糖の注射だけで過ごした苦しかった時。
4.これから先、いつ何時、放射病になるかが心配です。
5.私たちが辛く苦しんだことを二度と起こさないよう核兵器は絶対に使用しないこと。
<長崎 男 13歳(被爆時) 被爆距離3.2km>
2.突然の閃光と真っ白から青、黄、ダイダイ、赤へと変化したこと。体の上におおいかぶさったガラス戸のガラスが奇蹟のようにわれなかったこと。母校の小学校の講堂に収容された大火傷、大怪我をした人が目の前で亡くなっていったこと。3日後に叔母の遺体を木切れを集めて野原で荼毘にふしたこと。
3.母子家庭に襲ってきた戦後のインフレ。働き手はなくて蓄えは紙くず同然、まともに食べられない生活が(高校を卒業するまで)6年も続いた。中学校を退学して働くことを何回も先生に相談した。放射線の後障害のことを知り、結婚にあたっても子どもの出産に当たっても、子どもの健康の不調の時も心を痛めた。
4.56年を生きてきて過去の辛かったことが懐かしくさえ思える。3人の子どもをもうけたが、30台を過ぎてまだ独身のこと。日本の将来のことが不安。戦争体験、被爆体験が伝わるのか。
5.核兵器の恐ろしさ、非人間性(残虐性)を語り伝えたい。大量殺戮兵器の存在を許すことは人道にもとるのではないかということを訴えたい。核兵器が存在する限り、何時か必ず使われることを覚ってほしい。
7.被爆者の求めてきた国家補償の実現が出来ないことが残念。日本国政府は国民の戦争被害は受忍すべきだと民主国家になった今も主張している。国民のために国があるのではなく、国のために国民があるという考えは民主主義に反する。被爆者はこのことを追及したのだが、多くの国民の理解を十分に得ることができなかった。被爆者の中にも理解の不十分さが残っていた。再び戦争を起こさせないという憲法の精神を実りあるものにするために、次の世代になっても追求しなければならないことと思う。
<長崎 男 13歳(被爆時) 被爆距離2.5km>
2.“あの日の空”、朝からカンカン照りの夏空、午前11時2分、一瞬の閃光を感じたのを最後に(爆発音は聞こえなかった、2〜3秒屋内に入るのが遅れていたら……)、倒壊した玄関下の防空壕から這い出した時は、炎と土埃でモウモウとした視界。負傷者に手を貸しながら、山の中腹の畑に避難、そこは、負傷者と力尽きて横たわる人でいっぱい。真っ昼間なのにそこは既に薄暮の世界、そしてときどき煤けた黒い雨がパラついたのも事実である。顔見知りの友人と遭遇し、2人で、その学友に家族の元に行くために山越えで県道に出て、歩き始める頃は、完全に闇の空、ただし後ろを振り返ると山陰を縁取るように中空近くまで橙色に染まっている。目的地に着く頃は東の空が白み始めていた。
3.身体的に無傷であり、若かったので、辛いとか苦しいとか思うことは全くない。ただ、避難先の山頂で近所の友達と遭い、2人でその家族が疎開しているところまで、20qほどの道を、夜通し足を引きずって歩きとおした時は、空腹と疲れで、辛く悲しかったことを思い出します。
4.被爆者手帳の恩恵に浴しているので特に困っていることはない。ただ20年近く糖尿病の治療を続けていますが、貧血気味でときどき不整脈を感じることがあり、薬の服用を続けているにもかかわらず、一向に改善されないでいることが、被爆に原因しているのではないかと、不安に思うことがある。
5.世の中には、自動車事故・列車事故・飛行機事故・戦闘による事故それに中毒などの医療関係の事故など沢山あるが、原水爆ほど、死傷者密度の高い事故は、有史以来存在していない。それほど原爆投下は、残酷で悲惨な出来事である。
<長崎 男 12歳(被爆時) 被爆距離3.5km>
2.爆発の閃光。被爆した人々が避難する様子。何もない爆心地付近の光景。
3.元来楽天的で前向きなので特になし。
4.特になし。核の問題については人間の良心に期待する。
5.戦争では人間が救われることなし。何も解決しないということ。
7.
1)自分たちだけで理解したつもりの運動に見える。
2)過去ばかり見ていて未来への展望が感じられない。
3)経験は語るものでなく将来に活かす為にあると思う。
<長崎 男 12歳(被爆時) 被爆距離3.5km>
2.左隣にいた女の子は火傷を負いました。私は別に異常ありませんでしたが、その後喘息になりました。また私の家の前を腕等見えるところは卵大の水疱瘡のような火傷をした人々が何十人、何百人と避難していきました。それは悲惨そのものでした。
3.中学校は被爆の中心地で駄目になり、私は小卒で終わりました。そして喘息で苦しみ現在も注射を持っていないと生きていけません。会社も喘息のため十指に余る職業になりました。
4.年金も少ないし、現在のパートが続かなくなったらと(健康を害した時)思うと不安です。
5.現在日本は自衛隊を米国の後方支援をして助けようとしていますが、このような戦争に参加することは絶対にやめて欲しい。
7.被爆者の立場に立って援護して欲しいです。原水爆禁止運動にしても日本政府が米国の片棒を担いでいてはどうしようもないです。
<長崎 男 12歳(被爆時) 被爆距離3km>
2.
1)被爆時、壁土が落ちて土煙が上がり息が出来なくなったこと。
2)初め近所に爆弾が落ちたと思い避難したが行けども行けども家屋が破壊されていた。
3)数日後から近所の住宅地の中で遺体をあちこちで焼いていた火と煙の臭い。
4)全身にガラスの破片がささり、横になることも出来ず全身血だらけになって樹の下でうずくまっていた男性の姿
3.
1)常に原爆症の発症を恐れている。
2)娘たちに身体的な障害が出てこないか心配している。
3)自分が婚期を迎えた時、はたして被爆者と承知で結婚してくれる女性が見つかるかどうか心配だった。
4.原爆症の発症にはいつも不安である。特に発ガン因子と考えられるから。
5.
1)戦争の悲惨さ
2)常に人道的なことを口にするアメリカが最も非人道的なことを平気でしている。
3)終戦が遅れたのは天皇及び軍部が自分たちの有利になるように策謀して時を失ったこと。
4)戦争という雰囲気では皆が無意識のうちに好戦的になる。
7.しらさぎ会の役員の方々にはいつも感謝しています。私は68歳になっても会社の顧問や大学教員をしているので時間がなかなか裂けないのですが、ご連絡くだされば時間の都合が付く時はご協力いたします。
<長崎 男 12歳(被爆時) 被爆距離3.5km>
2.近くの寺の墓地で県庁などが焼け落ちるシーンを見ながら一泊したこと。家の前で上半身裸で遊んでいた時、青空にパラシュートみたいなものをつけた黒っぽい物体を皆で何だろう何だろうと言い合っているうちピカーッときた。慌てて家の中に逃げ込み、防空壕に飛び込んだ。その間5秒くらいだったろうか。グワンと家が揺れ、てっきり間近に爆弾が落ちたと思った。その時に家の中に逃げ込まなかった者の一部は家の前の時計店のガラス窓の破片で頬に怪我したり手を怪我したりした。私も上半身裸だったので、そのまま残っていたら大怪我しただろう。
3.原爆による症状が何時、どんな形で出てくるのか心配だった。結婚して初めて子どもが出来た時に、まともな子どもが生まれてくるのか心配だった。
4.高齢が進むにしたがって血液等に何か障害が出てこないか心配である。
5.紛争解決の手段として原爆は如何なる国といえども使用してはならない。和を以って貴しとする聖徳太子の精神は今の日本にこそ生かされるべきことで、世界平和の推進に日本は他のどの国より力を入れるべきである。日本の平和発信は説得力のある声として世界の人々の心を打つはずである。
<長崎 女 8歳(被爆時) 被爆距離2km>
2.一瞬の閃光により見渡す限りが生地獄となり、家屋の下敷きになった父、助ける母を残し10歳の姉と火の手に追われるように逃げたあのおそろしさ、死に取り付かれた断末魔の叫び声など、もうこの世のものとは思えない残虐さは、一生忘れられないことです。
3.
1)被爆者となった精神的な重みです。
2)家屋全焼、頼るべき父の死で家族がばらばらになり、その時から幸福という字が消えてしまったこと。
4.
1)健康の問題
2)罪のない人間が死んでしまう戦争
3)核兵器廃絶
5.命の尊さ、戦争の愚かさ、家族の大切さから平和(心の幸せ)の認識を深めてほしいこと。
7.アフガニスタンでは目下アメリカの新兵器による報復戦争がくりひろげられ、被爆者にとっては心痛む出来事です。今こそ日本政府は唯一の被爆国だという認識とともに、被爆者の存在を認め、毅然とした行動で戦いのない真の平和を世界にアピールしてほしい。
<長崎 男 8歳(被爆時) 被爆距離2km>
2.父親の遺体を2日間に亘って空襲下で焼却したこと。
3.被爆から5年間の生活苦。生存したもの母32歳、小生8歳、次男4歳、三男1歳。
4.10年に一度位、大病を患っているので今後が心配です。腸閉塞が年に一度起こっている現在です。
5.
1)戦争は話し合いで解決する。
2)いかなる戦いにも核を使用しない。
3)全ての戦争被害者に対する国家補償(戦争を行った者は国の内外を問わず当然の義務です)
4)人間の欲望は人種に関係なく同じであることを指導者は考えるべきえある。
7.
1)政府は早急に被爆者に対する国家補償をすべきと思います。戦争は(特に第二次大戦は)全国民が戦場に生活していた事実を政府は知るべきです。
2)しらさぎ会の役員の皆様には大変感謝しています。小生も未だに働いていますがいろいろな活動の月日が前もってわかっていれば可能な限り協力するつもりです。
3)原爆に対する抗議行動を全世界に発信するには今がチャンスかもしれません。
<長崎 女 7歳(被爆時) 被爆距離3.8km>
2.市街地も危険だということで真夜中少し山手へ避難している時、桜の木に止まっているセミがはっきり見えたのが忘れられません。浦上の炎で県庁の書類なども焼け、上空に昇り上がるのもはっきり記憶しています。逃げるのに立ち止まって見ていました。
3.皆さんに被爆者と云ったことがありませんので解かりません。
<長崎 男 6歳(被爆時) 被爆距離2km>
2.表現できない異臭でした。
3.被爆者として一般市民の関心のなさ。月日は忘れさせるものがありましたね。
4.今後生きている限り原爆症が出てくる可能性に対する不安。
5.絶対に戦争はしてはいけない。公認の人殺しとはいえ人を殺すことは許されない。
<長崎 女 6歳(被爆時) 被爆距離3km>
2.自宅全焼。近所に住んでいた人たちが身体全部といっていいほど焼け爛れ、熱い熱いといいながら近所の池へ入った人もいました。長崎市内からの帰り道。
3.いろいろな病気になりやすい。
4.心臓の手術をしてから未だに苦しくなること。目まいがすること。健康管理手当が一年間もらえるようになっておりますが14年3月で切れるのが不安です。
5.二度と戦争はしてほしくない。他のことは覚えていないが6歳であった時のことだけははっきりとして今だ思い出すと、ぞっとして話したくなくなる。
7.いろいろ要求はありますがうまく書けません。
<長崎 男 5歳(被爆時) 被爆距離4km>
2.瓦礫の下から這い出した。夜みたいに暗かった。街は見えなかった。どれくらい経ったろう。県庁の方から火が見えた。恐ろしくて震えていた。街は火の海になっていた。
3.被爆者の子どもはどんな子どもが生まれるのかわからないので娘を嫁にやれないと言われたこと。
4.老後の健康と生活費。
5.
1)被爆者を差別しないでほしい。
2)原子力の平和利用も技術的には安全かもしれないがテロなどに対する安全を考えてほしい。
<長崎 男 4歳(被爆時) 被爆距離2.5km>
2.ほとんどのことは覚えておりませんが中年のご夫婦、奥様が額から少し血を出されて私の家の玄関で少し休ませて下さいとこられたこと。道路が瓦で歩きづらかったこと位です。
3.おかげさまで大病もなく元気ですが腰が痛む(涙が出るくらいの時もあります)。これは何が原因なのか……又、何時発病するかという恐怖は死ぬまで続くものです(どんなに医学が進んでいても心配です)。又、二世(娘)、三世(孫)にはどんな影響があるのかはもっと心配です。昨年の孫の生誕もそのことばかり一人で考えていただけに大きくなってきていてもこのまま無事でいて欲しいと考えるのは特に被爆者体験者は強く思うのではないのでしょうか。
4.3項のとおり何か起きなければと考えるのは死ぬまで続くと思います。上記のような考えを持つということは被爆者とは大きなハンデがあることです。
5.今も戦争をやっています。ましてやテロ戦争でもやってはいけない原爆、水爆、化学戦争は絶対にやめるべきという考えを持ってもらいたいと思います。
<長崎 女 3歳(被爆時) 被爆距離2.6q>
2.私は3歳でしたのでおぼえておりません。母や叔母に聞いたことですが、私は近所のお姉さんと遊びにいってドカンと音にびっくりして大きい口をあけて外で泣いていたそうです。母は窓から飛び降りて私を探して防空壕に入れたそうです。そのときピカッと光が出て叔母は右肩を火傷して1年ぐらい治らなかったそうです。叔母は乳ガン、膀胱ガンを患いましたが、今も元気で一人で暮らしております。
3.私が3歳で被爆したと言うと、びっくりして顔をまじまじと見られることがいやでした。子どもを3人産みました。産む時は迷いました。私に出来ることがあれば協力したいと思っております。
4.子ども、孫に病気が出ないように毎日祈っています。
7.病院へ罹るとお金を払わなくていい。よく入院する私は同じ部屋の方に「いいね」と言われました。被爆者だからと言っても理解してもらえないと思い何も言いませんでした。でもこれからお年寄り、身体の不自由な方たちにでも、少しでも世の中のことにお役に立ちたいと思っており、ボランティアのつもりで助けて行きたいと思っておりますからと、入院している人に言いたかった。心からそう思っております。
<長崎 女 2歳(被爆時) 被爆距離2.5km>
2.はっきり覚えていない。母親たちがかなしそうに話していた。
3.被爆者であること。胃ガンになったこと。
4.胃ガン、ガンの再発。
5.身体を大切に。身体によいものを食べ丈夫であってほしい。ひとりひとりが住みよい地球に関わりを持って努力してほしい。
<長崎 男 2歳(被爆時) 被爆距離2km>
2.2歳児で記憶にありません。
3.特になし
4.特になし
5.特になし
<長崎 女 2歳(被爆時) 被爆距離4km>
2.2歳でしたので、何もおぼえていません。
3.原爆のことを知っている人が少ないため、広島・長崎以外の県の人は、私たち被爆者のことを特別な目で見ているところがあるのでしょう。私も結婚時(34年前)夫の両親が是非に心配したみたいです。
4.死因がガンの可能性が高いと聞いています。ガンで死にたくないと思っています。
<長崎 女 2歳(被爆時) 被爆距離2.5km>
2.父に連れられて長崎に入ったと聞いており、2歳のときなので何も覚えていなく申し訳ございません。
4.父は肺ガンで他界。私も13年前に子宮ガンで手術をし、またどこかにガンが出来るか不安です。今、憤陽性大腸炎で毎月病院へ通っていますが、いつ大腸ガンになるのかと思っています。
5.2歳のときなので私自身は何も憶えていず伝えることはできませんが、現在アメリカのテロ事件以来、また戦争が起こりつつありますが、あの忌まわしい過去がありながら、どうしてもう少し話し合いが出来ないのか疑問に思い、戦う前にとことん話し合うことをするということを伝えたいですネ。
<長崎 男 2歳(被爆時) 被爆距離1.8km>
5.以前長崎の資料館で見た写真等、色々な被爆当時の無残な物品等を展示する事で皆に
大変な事をわかって欲しい(最近の原爆資料館は昔の展示物と変わった気がする)
<長崎 男 2歳(被爆時) 被爆距離2.6q>
3.1歳10ヶ月にて被爆のため何も覚えていず、お袋よりの話でしかないため今もこれからもビクビクしているのみです。
4.20歳頃に申請して健康だったため手当は現在も支給されていません。どんな手続きをすればよいのか……
<長崎 女 1歳(被爆時) 被爆距離1.1q>
2.満1歳でしたので?
3.特にありません。
4.私・夫と被爆者で子ども2人おりますが、埼玉県に住み初めて被爆二世手帳をいただきました。将来二世にも医療費などが軽減されると良いと思う。
5.原子爆弾など使わない世界であってほしい。私の父は被爆して身体に火傷をしていました。皮膚は色も変色し、やはり弱いし耳も縮れていました。若者は色々なところに穴を開けていますが健康だから出来るのです……
<長崎 男 1歳(被爆時) 被爆距離1q>
2.生後1歳の時で記憶はありませんが、父親が長崎駅の近くの爆心地で即死したこと。翌日母に背負われて父親を探し回ったと母から聞きました。
3.胃ガンかもとの疑いがあったとき、被爆したことが原因かと悩みました。
4.現在はありません。
<長崎 男 1歳(被爆時) 被爆距離3.3km>
2.直接知らない世代ですので。
5.現在、だいたいの人が平和ボケしていると思います。アフガニスタンのことなどしっかり見聞して平和の大切さを考えてほしいと思います。
7.市町村などでは戦没者慰霊の行事など力を入れているようですが、生きている被爆者のことはあまり関心がない様子。やはり被爆市町村でないところは対岸の火事的存在なのでしょうか。
<長崎 女 1歳(被爆時) 被爆距離2km>
4.主人を亡くし子どももなく、これから先のことを思うと毎日が不安です。
<長崎 男 1歳(被爆時) 被爆距離2km>
2.1歳半のことでわかりません。
3.父親のない生活。
<長崎 男 23歳(被爆時) 入市>
2.入市したのは夕暮れ時だったので赤い炎が立ち上っていました。それが死体を焼いているのだと聞いた時、胸がいっぱいになったことが脳裏を離れません。
3.入市した人も手帳をもらえることを知りませんでしたので、ずいぶん遅くに認定を受けました。その間特に苦しかった等のことはありませんでした。
4.やはり老後の体調のことです。この歳になるとあちこち故障が出てきます。
5.やはり戦争の怖さ、惨めさです。
<長崎 男 22歳(被爆時) 入市>
2.救護のため入市して見た惨状。電車が黒く焼けて傾き、そばに死体が倒れ、道端には立ち上がれない人たちが「水を下さい」「必ず仇を討ってください」と叫ぶ声、まさに地獄絵でした。
3.大腸ガンの施術。
4.術後3年になりますが、ガンに移転発生です。
5.アメリカは今回のテロ事件を真珠湾攻撃に例えているが、あの攻撃は外務省職員のヘマで通告は遅れたが、戦艦など軍事力に向けたものであり、広島・長崎、東京その他の女、子どもまで殺した原爆、爆撃とは比較にならない。
<長崎 男 22歳(被爆時) 入市>
2.長崎原爆投下後一週間後8月18日帰崎し疎開先長与駅下車。味噌瓶、紫蘇瓶に入った父母等の骨瓶3個を担いて帰った。乾パンでローソクの灯の下でお通夜。
3.爆死と分かったので継母の子(長男)が米他全部盗み、建築中の土地(本原町)三反歩の処に材木はあるが書付(買取りか借受か)書類が無く登記所も焼け今も不明のままで住む家に困りました。
4.現在はおかげ様で娘が面倒を見てくれています。
5.私たちは兄弟仲が良かった。子どもは娘一人で孫二人仲良く暮らして欲しい。
<長崎 男 18歳(被爆時) 入市>
2.翌日入市の折、悲惨な何千の死体。ほとんど裸で道の尾方面に歩く人々。
3.生活、健康、子どもの就職、結婚に被爆者であることを隠すこと。生命保険に入れなかったこと。
4.生活費と健康。妻の収入が0なのに介護保険納入等。
5.戦争はしない。特に核は世界全体の問題。無くすべき事。
7.年齢的にもよくなることはないと思うので健康管理手当の更新検査申請などなくしてほしいと思います。
<長崎 男 16歳(被爆時) 入市>
2.投下10日目の入市ですが見渡す限り水道管破裂の噴水状態。周囲の異常な臭気と不気味な静けさで何が起こったのか茫然自失でした。戦争の残忍さに憤怒したことです。
3.病気です。30数年にわたり内臓疾患で苦しみ、現在は背椎症で苦痛の毎日です。
4.病気再発の不安や今後の被爆者対策での政府の施策が心配です。
5.生き残った被爆者は、被爆しされた人に対し生き残ったことの罪深さを感じます。「自分が逃げるため、手を差し伸べ水を求める人たちを見殺しにした」という本を読み溜息が出たり、直爆されケロイドのひどい人を見るたび、入市して受傷の自分がすまなさを感じ、申し訳ない思いを子や孫に話したり。「幸運は準備されたものしか役立たない」という諺があるが、被爆者には運・不運に拘わらず、核兵器の超然ともいえる理不尽な原爆地獄を体験したものの精神的・肉体的苦痛と、核廃絶・未使用を願う運動の必要性を若者に訴えるのが生き残ったものの使命と考えます。
<長崎 男 16歳(被爆時) 入市>
2.私は当時佐世保海軍工廠工員養成所を戦時短縮で1年で卒業、現物実習で勤務、長崎の原爆を知る。被害は甚大と聞くが帰省は許可されない。8月15日朝、終戦も知らないまま長崎向け帰省するも浦上方面を見ると我家は消失し、城山小学校の窓から未だに火が出ていた。浦上川には未だ死体が見えた。
3.親(母)妹たちが戦後病弱であった。働いても働いても楽にならない。直爆でありながら中々被爆者手帳を申請しても支給されなかったが現在被爆者手帳あり(妹たちは城山小学校の数少ない生き残りです)。私は埼玉県鳩ヶ谷市に来てから申請し支給された(S59.9.3)。
5.今まで原爆の悲惨な話をしても反応があまり感じられないが、今日の繁栄の裏には多くの悲しみがあったことを伝える義務が生きている限りあると思います。ただし私にやれと言われればどうも苦手でございます。
7.しらさぎ会に加入している一人でございますが、何の協力も出来ず役員の皆様にお世話になりどうしで、月度の新聞のみで様子を知る訳でございます。これからも健康に留意されますようお願いいたします。
<長崎 男 12歳 入市>
2.火災の落ち着いた日(11日だったと思う)学校(商業学校)に行くため浦上駅前、三菱精機等の工場群の前を通って大橋のところまで行くと原爆が落ちた日に一緒だった山里町から来ていた同級生に会った(あの日は敵の上陸に備えるためにタコツボ堀に山の上に行っていた)。弟と妹?だったと思う(川の中にはいって大勢の人が死んでいた)。学校はもうない。あの日、家に帰ってみると家はなく両親もいない。大村の病院に運ばれていた人が大分いるらしいので行ってみようと思うといっていた。その後、学校が再開されたが彼はその後どうなったのか来なかった。
4.やはり健康
5.ありきたりの事ですが二度と戦争をしてはならない。勝っても傷が残るし、負けるとなお苦しまなければならない。
<長崎 女 11歳(被爆時) 入市>
2.疎開していた叔父の家に、父が病気になり入院したと電話があり、母と一緒に長崎へ帰りました。当時は汽車が道ノ尾駅までしか行かず、道ノ尾駅から歩いて浦上に着き驚きました。一面の焼け野原で見る影もなく、そこには人も馬もパンパンに膨れて男か女かの見分けもつかない状態で放置され、ぶすぶすと燻り異様な臭いが漂っていました。その悲惨な光景は今でも忘れることができません。
3.原爆は人の人生まで変える。兄が自殺を図り警察から連絡が入った時のことです。兄は生まれて退院間近い次女を病院から連れて薬を飲み自殺を図ったのです。被爆者は奇形の子どもが生まれるので結婚できないと巷でよく耳にしました。兄には3人目の子どもでした。長男が奇形で生まれ、子ども好きの兄でしたので、その時もきっと苦しんだと思います。長女は無事でした。次女は長男と同じ奇形で生まれ、女の子でしたので兄は被爆した自分を責め、一人で苦しみ、結果は次女を亡くしました。兄は助かり一生懸命働き2人の子どもを立派に育て定年を迎え、これからというときに腎臓病になり、原爆のために二重の苦しみを負い亡くなりました。私は兄の冥福を祈り、今でもその時のことを思うと涙があふれてきます。
4.心臓病のこと、血圧が高くなったこと、今度は肝臓のエコー検査を受けること、いつも不安がつきまといます。主人と2人で商売をしているのですが、この不景気で生活費は何とか出来ますが、ゆとりのあるところまでは無理です。病気で入院した場合は介護保険料は払っているのですが、看ていただけるのでしょうか?心配です。
5.平和を願う被爆者の一人として戦争は二度と繰り返してはいけない。原爆や核兵器は作らない。自然を破壊し人間を滅ぼす恐ろしいものだということを伝えたい。
7.被爆者全員に援護法を早く作っていただきたい。だんだん書くことも手続きすることも大変です。被爆者の手当は一日も早く継続していただきたい。
<長崎 女 7歳(被爆時) 入市>
2.長崎は夏晴れでそれは暑い日でした。昼前で昼食用のジャガイモと畑から取れたばかりのカボチャを塩茹でしてた時です。飛行機の音が聞こえたと思う間もなくピカッと光り、少したってドカーンと音がしたのであわてて防空壕へ入りました。しばらくして周りが暗くなったので外に出たらサラサラと音が聞こえて手を出すと黒い物が手のひらにいっぱいたまりました。市内から飛んできた爆風の灰だったのです。その時見た太陽が今も忘れられないです。
3.どんな時でもただ負けないぞと思いながら生きてきたので苦しいと思ったことはないです。辛い時は自分に負けたら終わりと言いながらきました。
4.最近身体の一部が痛みます。毎回痛むところが変わるので不安です。
<長崎 女 4歳(被爆時) 入市>
2.防空壕に入れず森林の中に蚊帳を吊り、サイレンの度にそこへ逃げ込む毎日でした。防空頭巾の下はあせもだらけ。4歳の子どもは布団をかぶって静かに敵機の見えなくなるまで震えていました。父は生徒を引率して市外の寺社(避難地)での授業でした。母は空爆の合間を縫って川へ洗濯に出かけていました。
子どもたちだけで遊んでいた時にピカッ!と来ました。光と爆発です。大きく揺れたように思います。最年長の男の子に誘導されて家の奥に皆で逃げ込みました。家の壁がバラバラと崩れていました。夜になっても祖父が帰らず町内を捜し歩いたのです。どうも即死だったようで、防空壕の入り口近くで片足のゲートルの下のズボンの布で、これが祖父だと確認するしかありませんでした。祖父は勤労奉仕に出ていたのでした。父の弟は顔に火傷をしていました。4歳の子どもには原爆の時の怖さより、その後の食糧不足が辛かったのです。
3.夫からもなじられたことがあり、被爆者であることが肩身が狭かった。
4.子どもが被爆二世として友達から怖がられたりすること。子どもの結婚問題でブレーキにならないかと心配です。
5.戦争につながるような行動は絶対反対です。米国の犬になるのではなく、被爆国として独自の平和国家としての態度をとってほしいです。平和憲法の拡大解釈はやめてほしい。非武装日本、平和日本を世界中に強く印象付けてほしい。世界一の強国になる必要はありません。世界一の平和国家にしてください。
7.援護は大きいにこしたことはないでしょうが、同時に被爆者というより日本国民、地球上の一員としての生き方を考える時ではないでしょうか。何もかも海外依存であることを知っている人は何人?要求するだけでなく、資源も何もない日本国なのですから、無駄を少なくして、地球を少しでもきれいにして次世代へ送るよう心がけが大切だと思います。冷房の中でストールを掛け、暖房の中で半そでになる必要があるのでしょうか。24時間電気を灯す必要があるのでしょうか。多量の食糧を捨て、食糧を多く輸入する必要があるのでしょうか?自分だけ得をして、自分だけよければいい、からは卒業したいですね。
<長崎 男 4歳(被爆時) 入市>
2.4歳の被爆なので覚えているかいないか定かではありませんが、母と二人で防空壕の中にいて直ぐ近くに落ちたような、また壁が壊れて穴が開き仏壇が倒れていたことを、話を聞きながら育ってきましたので目の前に浮かんでくるようです。
3.幸か不幸か、私はそのようなことはありませんでしたが、みなさんの話を聞き苦しんで来られた方が多いことには驚いています。
4.今のところは何もありません。
5.若者といっても被爆二世の人たちが色々な行事に出席して学び手伝いをして欲しい。
7.
1)これからみんな年老いていくので健康管理手当などの更新をなくすこと。
2)行政は老人のいくらもない年金から介護保険の天引きを収入に応じて格差をつけてほしいですね。
<長崎 女 4歳(被爆時) 入市>
2.当時4歳でしたので記憶は余りありませんが防空壕に行ったのは覚えています。近所の人たち皆で行き世の恐ろしさも知らず子ども心にはしゃいだことを覚えていますし、山の向こうでピカッと光ったこと等々です。
3.父が爆心地に何日も行き、肉親を捜し歩き、昭和30年紫色の斑点が全身にできて治療法がなく、長崎大学病院で死亡し、私は12歳の時、その後、中学を卒業とか進路の時期で親がいないとの偏見があり思う進路に進めなかったこと。
4.私は今年の4月脳内出血で入院して5ヶ月経ちますが、自分のことはできますが何もいろんな行動ができません。しらさぎ会の方々、いつもご苦労様です。
5.戦争は人の殺し合いです。また宗教も同じ意味です。人間としてこの世に命をもらって生きているのだから戦争は絶対になしの世界をつくらないとと思います。
<長崎 女 2歳(被爆時) 入市>
2.2才だったので覚えていない。
3.原因不明の病にいつかなるのでは!!親類のもの(兄)が病で苦しんでいること。
5.核のない世界になってほしいこと。戦争のない世界にならなければいけないこと。
<長崎 女 1歳(被爆時) 入市>
2.私は0歳だったので記憶はありあせんが、父は広島市で遺体の処理(医師だったので)。母方の祖母は原爆で即死。母と子の私は母の実家の安全確認のため入市で被爆といずれにも辛い出来事でした。
3.出産に際して、何らかの影響が出ないかと不安でした。また、子どもの結婚に障害にならなければと心配しました。父は再生不良性貧血で亡くなりましたが被爆が影響していたのかもしれないと思うこともあります(認定はされませんでしたが……)。
5.戦争だけはもう二度とないように祈ります。特に化学兵器を使うことは人類を破滅させることです。
7.しらさぎ会の事務局の方には本当にご苦労様でございます。またいつも会報などお送りいただきありがとうございます。
<長崎 女 0歳(被爆時) 入市>
2.生まれて3ヶ月にも満たない時だったので直接の記憶はありませんが、母親や周囲の人たちに様子を聞かされ続けましたので、飛行機の音やサイレンを聞くと恐怖感に襲われるのが不思議です。
3.原爆病になりやしないかという不安は今もあります。親しい人に偏見の目で見られたことや、ちょっとした病気になっても被爆のせいじゃないかと言われたことがとてもイヤでした。
4.やはり病気が心配です。
5.現在の平和を感謝し戦争は絶対にいけないことと知ってほしい。
<長崎 女 15歳(被爆時) 救護>
2.学校の講堂、駅の地下道、足の踏み場もない被爆による死人同然の人が並べられている光景を見た時、生きた心地がしませんでした。どうしてあげることも出来なかった。その無念さも手伝って……
3.今はそうでもありませんが被爆者に対する世間の目や接し方が厳しかった時。
4.被爆が原因で起こる病気が防げるのだろうか?
5.戦争の恐ろしさ。罪のない者への影響の大きさ。
<長崎 女 15歳(被爆時) 救護>
2.私は8月9日の夜、護送された患者さんを看護いたしました。トラックでどんどん運ばれて来ましたが治療法もなく直ぐに亡くなりました。今でも看護婦さんと呼ぶ声が耳から離れません。夢を見ることもあります。
4.年をとり病気に対する不安感です。
5.絶対に戦争反対です。子どもたちが辛い悲しい思いをしないですむ世界であってほしいです。
7.運動機能障害で健康管理手当てをいただいておりますが、診断書を提出しないでも続けられるようにお願いします。
<長崎 男 体内被曝>
7.「国の被爆への研究は進んでいるのでしょうか。現状を知りたい。」
先日、茨城県日本原子力研究所での事故への対応の悪さ。危機意識の低さを見るに世界唯一被爆国としての無能振りには、ただただあきれるばかりで不安でなりません。今日の社会から原子核を無くす事は皆無でしょう。日本は世界唯一の被爆国を口にするのであれば、世界に先駆けて被爆事故から人類を安全に守るための研究を完成させ、世界に貢献してこそ、世界から崇められるのではないでしょうか。私どもの不安は子孫への遺伝的な影響が何代かの先へ有るのではと……心配です。
<長崎 男 胎内被曝>
2.姉の死亡。今でも何も形見のないこと。
3.父母のガンでの死亡。
4.老後の生活。
<長崎 女 8歳(被爆時) 不明>
3.被爆者だからどこかにケロイドがあるんじゃないかとか、生まれてくる子どもは大丈夫か……
4.老後の生活。体力がないのですぐ病気する。
5.被爆者をこれ以上増やさないでほしい。1日も早く核兵器廃絶を実現させること。
3.被爆地不明(記載なし)
<不明 女 23歳(被爆時) 救護>
2.ピカッと光った閃光ときのこ雲
<不明 男 19歳(被爆時) 被爆距離1.5km>
2.部隊営庭で転属申告中に被爆し顔や手足に火傷し戦友とともに避難した時の近隣の被爆者の状況。
3.いつ原爆症になるかと心配しながら過ごしたこと。割合に周囲の目が厳しく被爆者だと言いづらかったこと。
4.特にないがやはり身体や病気のこと。
5.戦争の無意味なこと。平和のよさ。
7.現在健康管理手当を受給しているが5年毎の更新の際、健康診断書など煩雑である。何か年金のようなものに切り替えられないか。どうせ一生全治ということはないと思う。
<不明 男 17歳(被爆時) 被爆距離2.5km>
※アンケートに記入なし
<不明 女 10歳(被爆時) 不明>
2.庭の木下にいて無傷、一緒に遊んでいた友達は火傷したこと。公民館に被爆した人が運ばれて寝かされていた光景。学校の友だちが大勢亡くなったが、親しかった友達の顔は未だに忘れられません。
3.父が被爆してやっと家に帰り、以後16年間寝たり起きたりの生活。入退院の繰り返し。その間、子ども5人を抱えて母の苦労は大変だったと思います。
5.戦争が終わった時に、私は母に今度戦争があったら「死のうね」と言ったこと。「これからゆっくりと寝られるね」と言って喜んだこと。しかしこれは大変な犠牲者があっての平和があるので、決して戦争で亡くなった人たちのことを忘れてはいけないと思っています。