朗読用「8月の晴れた日に 10」(久保山さんの証言)
被爆の体験を人様に話せるようになるには、被爆者運動に参加しながら、3年前に亡くなった母の強い願いとも言える薦めがあったのが動機でしたが、勇気と決断にかなりの時間がかかりました。被爆者である事を公言したのはそれからです。被爆の意味を考え、反核、反戦争へと輪を広げるには、21世紀を生きる人々に託すしかなく、その為には被爆者も勇気をもって体験を語り継ぐ事が責務だと思ったからです。
63年前の8月初旬、沖縄が陥落し制空権を奪われた日本本土には、昼夜を問わず連日のように敵機が来襲し、特に世界最大級の造船所と魚雷工場がある長崎は、空襲と爆撃が激しく、機銃掃射による人殺しも日常の事になっていました。機関銃の「ガシャガシャガシャ」という連射音と殺人鬼のようなパイロットの顔、今でも思い出すと心臓がドキドキしてきます。動いているもの全てを標的にした殺人です。
学校は少人数の単位で、各町内の幟を立てての集団登校でしたが、正規の時間に行動できる日はまれで、歩道に掘ってある防空壕で敵機が去るのを待って、登下校を繰り返す毎日でした。
8月6日、広島に新型爆弾が投下されたとの放送が流れましたが、その様子は全く分りませんでした。
連日に及ぶ空襲のあまりの激しさに近所でも疎開や避難が始まり、浜口町(はまぐちまち)の我が家でも営業していた理髪店を、兵隊さんになった男性を除いて女性だけで続ける事になり、家族5人、父34歳、母31歳、長男私8歳、次男4歳、三男1歳は、長崎市の比較的工場地帯から離れた立山町(たてやままち)の母方の祖母の家に、短期の予定で避難する事にしました。理髪店主だった父は若い時の病気手術の為、徴兵検査は不合格となり兵役は免除されていましたが、爆心地に近い駒場の町工場で海軍の食器を造る為に毎日自転車で通っていました。
8月9日一度出掛けた父が何故か2度も忘れ物をして「今日は行きたくないなー」と呟きながら、「午前中で仕事は終わるから昼ご飯はいっしょに食べよう」と言って、後追いをする4歳の弟に、何度も何度も振り返り手を振って出掛けて行きました。「あれが家族に別れを惜しむお父さんの最期の姿だったのね」と、今更のように「休ませればよかった」と、時々呟く母の嘆きとともに思いだされます。
その日はとても暑い日でした。空襲警報解除のサイレンが鳴ったので、床下に掘ってある防空壕から出てきた時でした。飛行機が急上昇する爆音が響き、同時に周囲の空間が真黄色になりました。その瞬間本能的に異変を感じ、また畳を剥ぐって地下に飛び込んだのと同時でした。物凄い勢いの熱風が吹き、家は潰れ身動きも出来ないように家財道具が倒壊散乱しました。ややしばらくして安全なところへ避難するために戸外に出た瞬間、我が目を疑いました。いつの間にか周囲の空間が朱一色で太陽も真っ赤に染まり、この世の終わりが来たのかと唖然とし、そして次の瞬間地球全体が爆発するのではないかと、身が凍る思いでゾーッとして、しばらく体の震えが止まらず血の気が引いたのを覚えています。
何がおきたか分らないまま、時の経過と共に父の帰りが遅い事が気になり、裏山の頂上まで登りましたが、そこで見た市街地の光景は赤い油絵の具をぶちまけたような火の海でした。山に登ってくる性別も、人種も、そして前うしろさえ分らない阿修羅のような幽霊人間の行列に遭遇しました。途中で倒れる人、這いながら息も絶え絶えの人、泣いている人、喚いている人、そして異口同音に「水、水をくれ、水を下さい、水、水」何度も助けを求められますが、皮膚がだらーんとぶら下がった手は握る事も出来ず、助ける方法が分りませんでした。
転げるように家に帰り母に報告しましたが、何をどうすれば良いのか分らず、一睡もしないで、ただただ父の無事帰宅を祈りましたが、無情な朝がやって来ました。
翌朝母は1歳の弟を背負い、私が4歳の弟の手を引いて周囲が燃えている中を父を捜しに出掛けました。長崎駅近くまで来ると「火の海の中をこれより先に進む事は、女子どもには危険だ」と強制的に断念させられ、仕方なく戻る事にしました。
11日早朝、山越えをしてまだ燃えているところを避け、道無き道を歩きました。波状的に襲来する敵機に対し隠れる場所もなく、口に入れる物は破れた水道管から出ている水だけでは、これ以上進む事が不可能と判断し、夜11時過ぎ町内の防空壕にやっと戻りました。
翌日は家族全員嘔吐と高熱のため、一日中動けませんでした。
8月13日、路面電車は死者を乗せたまま、道には空(くう)を掴んで焼け焦げた人や牛、馬が転がっている中をやっと歩ける隙間をつくりながら、爆心地近くの自宅にようやく昼過ぎにたどり着きました。床のタイルだけが一部を残した他は、見事に消失していて予期してはいましたが、がっくりとその場に座り込んでしまいました。ここを起点に一面が平らになってぶすぶすと燃えている焦土の中を、悲壮感を背負いながら父の工場の方角へ向いました。石垣に影だけを残して消えた人、人のうめき声、人体の焼ける匂い、腐乱の異臭がする情景は凄惨というか、残酷というか、現在でも表現が出来ません。やっと捜した父の姿は、体が火傷で3倍位に膨れ上がり、白目が飛び出し、表面だけが真っ黒に焼け爛れ、若い時の手術後から腸が噴き出ていました。
敵機の来襲が激しく、熱い地面に伏せながらの状況下では、火葬の準備がなかなかできませんでした。工場にあった焼け焦げた鉄板の上に、母と二人で火傷でぬるぬると皮がめくれる手や足を引っ張りながら、やっとの思いで父を引きずり上げたのですが、それからが又大変でした。かなり離れた郊外まで弟の手を引きながら、線路の上を1時間位の所まで3往復して、燃えかすの木片を集め、何故か夢中で遺体の上に山積みにして火を点けました。しばらく茫然と手を合わせたのち、焼け炭で住所と名前を書いた立て札を立てて、深夜に防空壕まで戻りました。涙はありませんでした。その場の雰囲気と状況が許してくれませんでした。忘れていました。道すがら母も私も無言のままでしたが、背中の弟がいつまでも泣いていました。
翌日、父との再会は全員が出血と高熱で動けなくなったので、長男の私だけが出掛けました。各県から応援に来た消防団や自警団の人たちの手で、死体を積み上げ火を点ける光景を何度も見ました。
父の遺体は燃料不足のため焼けきらず、特に頭の部分は半焼けの状態だったので焼け跡から鉄の棒を探し出し、なかなか焼けていない頭蓋骨を時間をかけて細かく割き、一人で燃えかすを集めて火を点けました。人間の頭蓋骨がものすごく硬いこと、脳みそが蜂の巣のようになっていることをその時に初めて知りました。まだまだやって来る敵機に向かって叫びました。「馬鹿たれ!これは人間のやることじゃなかぞ!必ず仇ば取ってやるけん!」
眠れない夜を過ごした翌早朝、私一人父との再会に行きました。工場で作っていた大きな海軍の弁当箱二つに、頭とそれ以外の骨を別々にぎっしりと父を詰め込み、両脇に抱えて山の中腹にある、お墓の倒れた墓石の陰に置いて家路につきました。その時妙に物事をやり遂げた達成感を覚えた事を思い出します。今思えば異様な事です。
帰る道すがら敗戦の報を聞きましたが、その時は、もうどうでもいい出来事でした。日本はこれで終わりなんだと、その夜初めて母に縋りつきさめざめと泣きました。母は31才で、幼子3人を抱えて泣いていたその時の心境が、私が親になってからやっと分ったような気がします。その後母が泣いているのを見たことはありませんでした。我々家族にとって唯一幸運だったのは、銃後の守りに懸命であったろう父が、敗戦の声を聞く前に愛する家族の手でお墓に眠れた事です。
私は結婚する時、妻の親戚に被爆の事で大変心配をかけたので、長女が生まれた翌年迄は入籍しませんでした。子供が授かるかどうか、大病を患うのではないか、早死にするのではないか、いろんな事が頭をよぎる毎日でした。
人間にとって忘れて良い事と、絶対に忘れてはならない事があります。核開発を阻止し、人類が平和のうちに繁栄する事を願う正常な人間にとって、広島、長崎の悲惨な体験こそは絶対に忘れてはならない十字架です。良い戦争と悪い平和はないはずです。長崎の鐘は今日も平和を祈って鳴り続けています。