8月の晴れた日に 4(市川さんの証言)
私は1945年(昭和20年)1月、15才、今の中学3年生の時に陸軍船舶特別幹部候補生に志願、第3期生として小豆島の部隊に入隊した。隊員の中から、惣領ではあるが後継ぎがいる者、という風に選んで清新隊(せいしんたい)が編成され、特攻隊員としての特別な教育を1ヶ月受けた。その教育内容は座禅を組み、高僧による「死生観」の精神訓話を聞くといった、現在でいうマインドコントロールのようなものであった。
「君がため何か惜しまん若桜 散って甲斐ある命なりせば」
そんな講義を受けた夜などは、親のこと、兄弟のこと、友だちのことなど考えると、「ああ、俺らはこの15年で人生終わりか」と思い、15才は15才なりに悩んで眠れなかった。
6月、広島、宇品の陸軍船舶司令部第10教育隊に転属。これがいわゆる水上特攻隊であった。司令部は宇品にあったが、実際の訓練は幸の浦の舟艇基地で受けた。
当時、日本には飛行機は既に無く、アメリカの本土上陸に備えて、㋹(マルレ)というベニヤ製の艇(ふね)が配備されていた。㋹は長さ約6m、幅約1.5mの艇に爆雷を2つ積み、暗夜に乗じて敵の船舶に体当たりする。すると爆雷がポーンと後ろに撥ねて4秒で爆発するからその間に逃げて帰れ、というものであった。
この艇はアメリカ軍がフィリピンに上陸した時に1回だけ出動した。アメリカ軍は材木を船団の周りに浮かべた。艇はベニヤ製なので、夜に航行して材木にぶつかると穴が開いて、そこで終わりという結果だったと聞いた。輸送船を何隻かは沈めたという報道もあったが、当時のこと、その真偽はわからない。
沖縄ではアメリカ軍の上陸に備えて、慶良間(けらま)群島に250隻が配備され、訓練を受けた候補生も現地に行っていた。ところがアメリカ軍もそんなことはよく承知していて、艦砲射撃でみんなやられてしまい、出撃した舟艇は一隻もなかった。
1945年8月6日午前8時15分。いつもは市内へ食糧受領やら被服受領やら、いろいろな使役(しえき)や当番で出かけていたが、あの日は朝からそういう用事は何も無かった。
私らは兵舎の中で内務班(ないむはん)に分かれて生活していたが、「特攻隊員はいつ死んでもいいように私物品の整理は整然としておけ」という命令で、内務班で私物品の整理をしていた。
あの日は朝から蒸し暑いかんかん照りであった。
そのとき、ピカッと光った。青白い閃光。
「おい、ヒューズが飛んだ……」と言いかけたときドッカーン。ドカンではなくドッカーンという今でも脳裏に残っているようなものすごい音がした。
当時、私らは、爆風を防ぐために、目と耳を押さえて伏せるという訓練を受けていたので、みんなその通り兵舎の中で伏せていた。
5分経ち10分経っても後は何の音もしない。静かだった。そのうち一人二人と順に起き、広島の方を見たら、ものすごい黒い輪を重ねて、ちょっと変形したような雲が立ち昇っていた。よく見るとその黒い輪が回りながら上へずっと伸びて、その裾野が広島の中心部に広がっていた。
「おい、すごい雲だな」「なんだろうな」
当時、アメリカ軍が瀬戸内海に時限機雷を落としていたので、その機雷が爆発したのではないか。広島でスパイが火薬庫を爆破したのではないか。何もわからず、そんな噂をしていた。
午前10時、「市内で朝方の爆発により死傷者が大勢出ている。救援活動に行くから準備するように」という命令が出た。急いで身支度を整え、宇品に上陸したのは午前11時頃であった。
爆心地の相生橋の下流、吉島羽衣町(よしじまはごろもちょう)。この辺りの幹線道路の片づけをやれ、という命令を受けた。爆心地へ向かう私たちは、負傷者を兵営に運んでくるトラックとすれ違った。重傷者を運ぶにも道路が塞がれていて動きが取れないので、まず道路を整理するというのが、私たちの任務であった。
私たちは隊列を整え、目的地に向かって歩き出した。
人間の遺体は2、3人で片付けた。まだそのままだった電車は戦車で道路の外に押し出した。厄介だったのは道の真ん中に倒れていた荷車を引いた馬の死体だった。これは5人や10人で引っ張っても動かない。そして今でも忘れられないのが血の臭い。プーンと鼻をつく、血なまぐさい臭いであった。
市内に向かっていく私たちは、市外へ市外へと連なる被災者に出会った。その人たちの髪の毛はチリチリで、その腫れ上がった顔は目と口を残して白い薬が塗られていた。歩ける人はまだ軽症だった。手の甲の皮膚はどういうわけかクルクルっと捲くれて指の付け根にまとまっていた。真夏の半袖半ズボンの軽装のために、手足がボーンと腫れて、ゴム鞠(まり)のようなかっこうだった。
よく被爆の記事などで見かける、皮膚が垂れ下がって……という姿は見なかった。腕がなかったとか、爆弾の破片で頭をやられたとか、そういう姿は一件も見なかった。全部火傷、火傷、そういう人たちが累々と来る中を、私たちは道路の片づけを1日目、2日目と行った。
爆心地は燃えていた。爆心地を中心にして木造建物は放射状に全部倒れていた。路地などにはとても手が廻らなかった。
6日の夜10時ごろ、私たちと同級くらいの勤労動員の中学生を担架に乗せて陸軍病院へ運んだが満員で、近くの学校を探して運んだ。幸い己斐(こい)辺りの建物は倒れていなかったが、窓ガラスが全部割れていた。このガラスを箒で片付けて、うなっている人を並べておいてくる。軍医が手当をしようにも、医療器具などはもうなくて、ただ並べて、寝かせて、私たちは引き上げた。その晩は、道路の向かい側が燃えているようなところで野宿した。
翌7日、死んでいる人はしょうがない、息をしている人を重点に救出、救援した。
広島は川が何筋もあるところで、その橋のたもとに運び出し、あとは船で似島の陸軍の検疫所へ運ぶから、みんなそこへ集めろということだった。元安川の橋のたもとへ、まだ息のある人を担架に乗せて運んだ。炎天下で、日よけも何もないところへ、火傷でヒリヒリどころじゃない重傷の人を、ただ並べるだけだった。
「兵隊さん、お水ちょうだい」「戦争は怖いよ」
顔が腫れ上がって全身火傷の人の悲痛な声が、今も耳に残っている。私たちは「水を欲しがっても水を飲ますとそこで息を引き取るから、水は飲ませるな」という指示を受けていたが、「おい、これはどう見ても助からないから、水を飲ませてやったらどうか」と水をやった。水を飲ませて次に通ると、残念ながらもう息を引き取っている。私たちの担当した区域だけで何十人だったろうか。
こうした作業の中で、足にマメができた私は、歩くのが大変になり、「市川候補生、おまえは火燃しをやれ」と言われ、遺体の火燃し役になった。
中国製紙という工場敷地内に大きな穴を3つ掘り、名前のわかっている人、不明の人とを区別して焼いた。燃料は付近の倒れた建物。それを持ってきて燃した。ひとつの穴で一日に30人くらいの人を焼いた。八割かた女性の方だったが、その中で今でも忘れられないのが、赤ちゃんにおっぱいをやっていたのか、赤ちゃんを抱いたままのかっこうで亡くなりリヤカーで運ばれてきた女性のこと。本当に今でも言葉に言い表せない情景だった。
家族が自分の身内を「荼毘に付していただけますか」とやって来る。そうした人や名前のわかっている遺体は、遺骨を引き取っていただく。毛筆の上手い隊員が封筒に名前を書き、本部の方へ引き渡した。
爆心地の火災は3日目くらいで下火になった。焼け野原で、立ち昇っている火はみんな遺体を焼く火であった。
元安川の中にもおびただしい遺体が浮いていた。潮が上がってくると遺体は上流に流れていき、潮が引くと私たちの受け持ち区域に戻ってくる。これらの遺体は、市外から広島文理大付近の家屋の強制疎開に動員されていた女子学生たちであった。「この娘を見かけませんでしたか」と写真を持った家族が尋ねてきた。とにかく夏の炎天下のこと。二日目、三日目くらいから遺体の目玉からウジがわき、ガスでパンパンに膨らんだお腹の腐乱死体を引き上げる作業は、必死に娘を捜し求める家族を思うと辛いものだった。
堤防から川のほうに降りたところはコンクリートの勾配があるので担架では運べない。やむを得ず腐乱しかかったその遺体をロープで引き上げた。私たちと同年代の女学生たちであった。この遺体収容作業も終わりになるころには、臭いで遺体を捜すことが出来るようになってしまった。
8日目、軍も原子爆弾と気がついたのか、急に撤退命令があり、私たちは宇品から船に乗って江田島に引き上げた。「訓練は中止して洗濯をやれ」という洗濯命令が出た。身体に染み付いた死臭があまりにひどく、さしもの軍隊も洗濯をしなければ通常の訓練が出来なかったのだ。洗濯中に重大放送があるからと一装用の軍服で集まったところ、ラジオはピーピー雑音ばかりでよくわからなかったが、「戦争が終わった」という放送だった。
「兵隊さん、お水ちょうだい」「戦争は怖いよ」と言って死んでいった人たち。赤ちゃんにおっぱいをあげながら運ばれてきた若いご婦人の遺体。57年目の8月を迎え、あらためて原爆で亡くなった人たちの冥福をいのりたい。
あの人たちを思い出すたびに、私はこの地上から核兵器を廃絶させるのは、思想信条以前の人間としての願いだろうと思う。また、私たちが受けたいわゆる軍隊教育、軍事的な教育は絶対に避けなければいけない。私自身の過去を振り返ってみて思う。