8月の晴れた日に 5(山口さんの証言)
夫は政府が南方につくった「東亜海運」という船会社で船乗りをしていた。昭和19年(1944年)秋、バシー海峡で11隻の船団が、次々に魚雷にやられて沈んで行った。
向こうから魚雷が波を蹴立てて来る。それを「面舵」とか「取り舵」とか言って大騒ぎで避ける。すると今度は逆の方から魚雷が来て、結局は11隻が全部沈んでいった。
夫は朝まで筏で漂流して、駆逐艦に拾われて帰って来たが、海に飛び込んだときに胸を打っていたので、そのまま相生橋の陸軍病院に入院。翌昭和20年(1945年)5月に退院した。
私は夫が南方に行っている間、何かお国のために役立ちたいと思い、暁部隊という陸軍の船舶部隊に勤めていた。
あの当時は、「死ぬ」ということを、これっぽっちも怖いと思ったことはなかった。お国のために死ぬのは当たり前ぐらいに思っていた。
今考えると馬鹿な話だけれど、当時は日本さえ勝ってくれれば、自分たちの命はそれこそ鴻毛にも等しいと思っていた。人によったら馬鹿な戦争を始めたから、いずれ日本は負ける、という人もいたが、私たち一家は、日本のために死ぬのは当たり前と思っていた。
暁部隊に勤めていたお陰で出征する弟を見送ることができた。私がお世話をしていた権藤閣下は、「お前の弟は南方に出て行くが、二度と帰らないから」と言った。
出征前、弟は閣下に呼ばれて、「南方に行かず内地に残ることも出来る」と言われたが、「自分一人、残ることは出来ません。皆と一緒に行きます。」と言って辞退したという。
父が「短刀を一振り持たせてやりたい」というので、小船を出してもらって、弟が乗っている御用船まで行って、タラップを降りて来た弟に短刀を渡した。次の日、宇品の港を見ると船はいなかった。「ああ、昨日のうちに出て行ったんだな」と思うとさびしかった。
何で刀まで渡して「死ね」ということを当たり前のように言えたのかと思うと、教育の怖さを思う。
飛行機の特攻隊はよく知られているが、船の特攻隊は㋹といってベニヤ板で作った小さな船に爆弾を積んで体当たりする。
敵に突っ込めればまだいいけれど、弟の部隊は南方の島へ連れて行かれて、食料も何も、あとの補給をしないものだから、みんな病気で死んでしまったという。
無駄なことをしたと思う。若い、良い男をみすみすと……馬鹿なことをしたと思う。
だから私は、上の助かってる人を罰しなければ嘘だと思う。そういう事を計画した人はずいぶん大きな罪があると思う。
軍では時々配給があった。昆布や干物など、あんまり美味しくはないけれど、無いよりもましだから。でもたまに、そういうものをもらうと、「あら、軍はいいわね」と言われた。
権藤閣下のお世話をしていた時も、反物が部屋中にあった。「どれでも好きな物を持って行け」と閣下が言った。兵隊が南方で命かけているのにと思うと情けなくて、「私、欲しくありません」と断わった。
権藤閣下が泊まる時は、料理人の夫婦も一緒に泊り込んでいた。食事は宴会料理だから、サトイモでもカボチャでも面取りをして出す。もったいなくて、もったいなくて涙が出た。こちらは面取りどころか皮まで食べたいのに……。未だに忘れられない。
あの日、夫は父と一緒に、仕事先の宇品に行くため、市電の山口町停留所(現在の東警察署前)に居た。父は毎朝、疎開先の戸坂からやってきて下柳町の我が家で一服してから、夫と二人で出勤していたのだ。
この時、二人は一緒に飛行機を見た。一旦向こうの方に行ったのが、引き返してきて、パラシュートを落とした。とたんに爆発。父も夫も吹き飛ばされてしまった。
8月6日は月曜日で、あの当時家には、夫が入院したときに知り合った軍人さんが下宿していた。及川軍医さんは、お迎えが来て、西練兵の陸軍病院に出勤した後だった。及川さんや父や夫が出勤した後、ちょうど結婚式の準備のために秋田から来ていた進藤さんと、おしゃべりをして、洗い物があるからと流しに行こうと立ち上がったとたんに、爆弾が落ちた。
ピカーと光った光線。青いような赤いような強烈な光が目に飛び込んできた。そのとたん爆風が西から来た。
下柳町の家から見ると、爆心地は西になるから、その爆風に飛ばされて、私は中庭に面した廊下の下の沓脱石のところに落ちた。それから一階の廂が落ちた。次に、進藤さんが私の体の上に落ちて来た。そうしたら今度は二階の廂が落ちて来た。私が落ちたところは瓦で埋まるような格好になった。
運の良いことに、私の家は七軒長屋だった。だから太い欅の梁七軒の家に通っていた。このために二階は潰れたけれど下の方は潰れなかった。
ドスンと来たのが進藤さんだと思ったので、「進藤さん、私出られないからどいてちょうだい」といくら言っても進藤さんは気を失っていて動かなかった。
吹き飛ばされた夫は、起き上がってみると、そこらじゅうの家がペシャンコだったという。普通の爆弾だと横に倒れたり、直撃弾だとバラバラに壊れるのだが、原爆というのは、上からすごい圧力がかかってグシャッと潰れる。瓦ばかりが見えたという。
市電の停留所から2~3分の家まで夫は夢中で戻って来た。
「瀧子―。瀧子―。」という夫の声が聞こえた。
「ここよー。助けてー。」
「ここにいるから掘り出して。」
「ちょっと待ちなさい。」と言って夫は瓦や材木をどけてくれた。
材木を外してくれると、ちょっと体が軽くなる。夫が進藤さんを除けてくれたのでうんと体が軽くなった。
夫の両手は火傷で腫れあがっていて赤い血も出ない。水滴みたいなのがブクブクと吹き出ていた。私の腰には太い梁が載っていて、なかなか出られない。近くにタンスがひっくり返っていて、帯が飛び出していた。その帯で梁を引っ張ろうとしたが、手が痛くて仕方がない。帯の一方を梁に通してもう一方を口に咥えて、体ごと、ドスンと夫は倒れた。そうするとちょっと梁が動く。そのちょっとの間に、私も出なきゃあと思う一心で、どうにか出たのだけれど、その時、腕を抉った。足も骨が出るほど抉った。が、そんなこと言っちゃおれないので、手ぬぐいで包帯をして、進藤さんを夫と二人で肩に抱えて京橋川の土手まで、市電通りを歩いていった。
市電通りには防空壕が掘ってあった。近所の人に会ったので、「私のお父さん見ないですか?」って聞いたら、「ああ、見かけたけれど、足と頭をやられて娘を助けに行くことができないって残念がっておられましたよ。」と言われた。
防空壕を覘いてみたが、まさかそこに父が居るとは思わず京橋川の土手まで行った。
土手まで行くと黒い雨が降ってきた。それこそ大きな粒で、パシッパシッと川の水に当たって音がする。誰かが「機銃掃射だー」と言った。私はあわてて川に潜った。その時、メリケン粉と米を背負っていたのに、そのまま川に飛び込んだものだから、メリケン粉は水に流れてしまった。米は戸坂へ持っていって、後で食べた。中には荷物を置いて川に飛び込んで、その荷物を盗まれた人もいた。
放射能で、下痢や嘔吐をしたりするなんて、そのときにはわからない。私は川の水で冷えたから下痢をしたり上げたりしたのだと思っていた。
夕方まで土手に居て、夫は具合が悪いし、私は歩けないし、夜だからというので、比治山のふもとの壊れた家に泊めてもらった。
進藤さんとは土手で別れた。
翌日、街の方の火の手が治まってから、広島駅の方へ歩いて、東練兵場を通って峠を三つ越えて、戸坂へ帰った。疎開先の戸坂は隠居所で、6畳の一間と3畳の台所しかなかった。そこに私の両親と弟と妹、私たち夫婦の7人が住むことになった。
被爆して5日目だったか、父を探して、私も市内のあちこちを歩いた。
相生橋のたもとに、馬と子どもの死体が転がっていた。福屋百貨店ではショウウィンドウに沿って死体が置かれていた。泉庭公園では死体と逃げてきた人を見た。東練兵の大きな木下では暑いからみんなが木陰を求めて罹災者がかたまっていた。未だに広島に行くとあそこにああいう死体があった。あそこにあった防火水槽に半分体を漬けて死んでいる人を見て父ではないかと思って顔を確かめたりした、いろんな思いが浮かんでくる。
父は東練兵そばの学校の講堂に収容されていた。医者も看護婦もいない。助産婦さんが一人いたが、講堂の中は怪我人で埋まっていた。父は毎日一人ずつに、戸坂に疎開している家族がいるから伝えてくれと住所を書いて渡していたようで、6人目の人がやっと戸坂に伝えてくれた。
早速、母が近所の人とリヤカーで峠を越えて父を迎えに行って、夕方遅く連れて帰った。家について1時間か2時間、生きていた。「ひどかったなあ、あんなにひどいとは思わなんだ」「6日間、食べるものも配給もなかったんだよ」と話しながら、最後には「ナンマイダブ、ナンマイダブ」と言って死んだ。頭と足にすごい傷があり、傷口に蛆がいっぱいわいていた。手当てもなしに転がされていたのだと思う。
あの当時は一般の人と軍人さんでは収容する、手当ての方法も違っていたと思う。進藤さんは、軍服を着ていたから、軍のトラックに乗せてもらって、日赤に収容されて、元気で秋田へ帰っていかれた。父も同じところで被爆したのに、進藤さんのように手当てをしてもらったら生きていたんじゃないかと思いが募る。
二番目の弟は、広島駅で勤務していてプラットホームで被爆。片側半身全部火傷で家に帰ってきた。
私自身も医者に診てもらったことはない。皮膚が寄っているから、ハサミで切って赤チンをつけて。傷口につけるものといったら油しかなかった。だから包帯はベタベタ。その包帯も母の浴衣を裂いては作った。母は毎日泣きながら、ベタベタの包帯を大田川で洗濯していたという。
財務局で被爆した妹だけが怪我が軽かったから「お母さんが倒れたら大変だから手伝ってやって」と言った。まさか原爆症なっているなんて思わないから……体にこたえたんじゃないかと思う。ある日突然、ガラスの破片がほっぺたから外れて、いくら抑えても血が吹き出た。洗面器一杯の出血をして真っ青になって「お医者さん、いつ来るかねえ」と言いながら、妹は9月7日に死んだ。お医者さんに診てもらえず、真っ青な体をして。未だに、何十年経っても、妹を殺したのは私じゃないかと思うと辛い。
戸坂の家の直ぐ裏が山で、近所の家々にそれぞれ縁故を求めて避難して来ていた人たちが次々に死んでいった。その裏山でみんな荼毘に付した。父も、そして妹も。
そのうち、私自身、髪の毛が抜け、歯茎から血が出た。あの頃、母がどんな辛い毎日を過ごしていたかと思うと、死ぬまで母に申し訳ないと思う。
10月、私たち夫婦がどうにか生きているということを伝えたくて、夫の郷里である旭川の先の和寒へ夫の母と妹夫婦を訪ねて行った。
顔色が悪いから、牛乳を飲んだらいいのではないかと言われ、牛乳を一日に2升ほど飲んだ。それがよかったのか真っ青な顔に少し生気が出てきたと言われた。
(読むときはここは一呼吸間を空けてください)
あの当時の家族
父 市電通りで被爆、死亡。
母 戸坂にて被爆。
長女 (私) 下柳町の自宅で被爆。
夫 市電通りで被爆。
長男 特攻隊。戦病死。
次男 広島駅ホームで被爆、半身火傷。
次女 900mの財務局にて被爆。原爆症にて16才で死亡。
三男 学童疎開中。
三女 戸坂にて被爆。怪我はなかったがフキデモノに困った。
被爆者は何十年経ってもあの日のこと、それからその為の苦しい生活、何人もの死者の思い出に胸が痛くなり、涙が出ます。被爆者はガンになりやすいという点、死ぬまで苦しい思いをすることに腹立たしく思います。現在、胃ガンで胃全摘の体で、毎日食事することに一日を過ごしている苦しさは、被爆さえしなければと、何十年たっても死ぬまで続くつらさを呪います。放射能の恐ろしさは現在も続いています。多くの人が放射能の恐ろしさへの思いが甘いと思います。日本は世界に叫ばなくてはいけません。原爆の恐ろしさをアメリカへもつたえに行きました。一部の人しか理解不足です。一人一人が核兵器廃絶の声を大にして、平和のために声をあげるべきです。