8月の晴れた日に 6(是佐さんの証言) 

 

 私は1926年(大正15年)6月、安芸の宮島の近く、廿日市というところで生まれた。

 ちょうど、教科書が「ハト マメ カラカサ」から「サイタ サイタ サクラガサイタ」「ススメ ススメ ヘイタイススメ」というふうに変わり、文字通り、戦争へ戦争へと進んでいった時代であった。

 女学校を卒業するとき、各町村から12名ずつ推薦で、広島師範で勉強して国民学校の先生を養成するという制度があり、私もその一人に選ばれた。当時、男の先生は招集されて戦地に行かれ、学校は女の先生ばかりになっていた。

 1943年(昭和18年)、師範を卒業したが、私は先生にはならず、広島連隊区司令部に勤務した。そこでは軍人と一緒に徴兵検査の手伝いをしたり、召集令状の発送をしたりと、多忙な日々を送っていた。

 

 あの日、1945年(昭和20年)86日午前815分。召集令状を持った私は、廿日市の兵事事務所に着いた。廿日市というところは広島市から15kmも離れている。その廿日市でも、青白い光というかオレンジ色というか、何ともいえない光がぴかっと光った。

「あっ、あれは何だろう」とみんなが空を見上げて数分も経たないうちに、ものすごい音がした。私のいた事務所は、爆風でガラスが目茶目茶に壊れた。

広島の方を見るために海岸に出てみると、真っ黒い煙が上がってメラメラと火が燃えるのが見えた。そのうち、きのこ雲がもくもくと上がってきた。その中からチリだかゴミだかわからないものがバラバラと降ってきた。大粒の黒い雨も降った。それが畑の野菜にかかり、井戸にかかり、空気中にもたくさん漂っていた。後日、池の鯉や川の魚やウナギが死んで浮き上がった。牛や馬が草を食べて病気になり、井戸水を飲んで下痢をする人がたくさん出た。

 

 11時過ぎになると、風船のように顔が膨れた人、大火傷をした人、それこそ着る物も何も……みんな裸足で次から次へと逃げてきた。泣き叫ぶ人、息も絶え絶えに幽霊のような格好をして手を前に出して歩く人。生き地獄だった。

 

私たちは軍隊と同じような仕事をしていたので、何でも命令で動いていた。「何があったか分からないが待機しろ」「事務所を動かないように」という命令があった。

広島からの鉄道沿線の国民学校は全部被災者の収容所になった。私たちは、軍から、被災者をトラックで収容先まで運ぶように命令を受けたが、トラックもたくさんあるわけではない。人手といっても、女、子どもとおじいちゃん、おばあちゃんしかいなかった。

おじいちゃん、おばあちゃんには、収容所になった教室の世話をしてもらって、私たちはトラックに乗って市内へ救助に向かった。

 

 己斐(こい)あたりまで来ると、収容しきれないほどの人が倒れている。死にかけた人はそのまま放っておいて、とにかく生きている人をトラックに載せて収容所まで運んだ。

爆心から半径2km以内は火の海で、もう広島市内には入れない。広島の川は熱さを逃れて逃げ込んだ人たちでいっぱいで、それこそ地獄絵図であった。

 己斐の収容所では、子どもたちが、真ん中に立つ先生にしがみつくようにして亡くなっていた。その姿が未だに忘れられない。

 

 そういう日々が何日も続いた。収容しても付ける薬もなかった。敷く毛布もない。34日もすると傷口から蛆虫がわく。それも小さなものではなくて、2cm3cmもあるような大きな蛆虫が。「痛いよー痛いよー」「蛆虫とって」「水をちょうだい」という声や姿が未だに目の中にしみこんでいる。

 収容所に運ばれた人が3日くらい経つとすごく汗を流し始めた。熱を測れないくらいの高熱が出た。口から目から耳から、体中の穴から血が吹き出た。そして喉から腐っていった放射線障害はそうやって現れたが、当時はそれがわからないから、伝染病だから触るなと言われた。流れ出た血や排泄物の中で、蛆虫と一緒に死んでしまった人は、穴を掘って捨てられ、油をかけて焼かれた。

 

 

 その後、連隊区司令部は横川からずっと奥の方に入った可部に事務所を構えた。「そこに行ける人は行け」と言われた。私は87日から15日まで、爆心から1.6kmの南観音町から可部のあたりを救助のため、うろうろと歩き回っていた。820日を過ぎた頃から、私自身も体がだるいと言っているうちに髪が抜け、熱が出た。

 

 戦争中、小学校3年生以上の子どもたちは、親元を離れて広島近郊に学童疎開に行っていた。戦争が終わって疎開先から帰ってきても、自分の家を焼かれ、お父さん、お母さん、兄弟の行方もわからない子どもたちが大勢いた。そういう子どもたちのために、当時国会議員をしていた山下さんが五日市小学校の近くに原爆孤児を収容する施設を作った。

行き場を失った子どもたちが直ぐに集められた。「原爆孤児の家」には初め200人から300人の子どもたちがいた。

19歳だった私も9月ごろからそこで働いた。「お母さんになって」「お姉さんになって」と、子どもたちがすがりついてきた。子どもたちの世話は今でいうボランティア、多くの人たちが日替わりであたった。軍都であった広島には被服廠や糧秣廠があった。糧秣廠で作っていた缶詰や、農家の土蔵に軍が隠匿していたびっくりするほどの食料が子どもたちの糧となった。1948年(昭和23年)頃には給食用の粉ミルクも配給されるようになったが、それまでの12年は何の応援もなく大変な思いをした。やがて子どもたちは散り散りになり、親類に引き取られたり、養子に行ったり、都会に出て行ったりした。

 

 私の父も原爆投下後、市内の警防団長として遺体の片付け、道路の整備、被災者の救援活動をしていたが、突然、頭の上から足の先まで湿疹ができ、「痒い、痒い」と苦しんだ。

 夫の妹は「あの日」、爆心近く、相生橋近くにあった軍需工場にいたが、爆心地の人は溶けて無くなるような状態だったので、あらゆる手立てで探したが、未だに行方がわからない。30年経ってから申請して、慰霊碑の中にお祀りしてもらった。本当に肉親の死というのは語りきれない悲しみがある。今は泣かないで話せるようになったが、最初の頃は話していると涙が出て止まらなかった。

 

 私自身は、その後結婚して3人の子どもに恵まれたが、次男、三男は大学のときに、相次いで甲状腺の異常から、周期的に筋肉に力が入らなくなり手足がぶらぶらになる、不整脈が起こるといった症状が出て闘病の日々が続いた。医師からは、結婚しても子どもは生まれないと断言されたが、次男には4人、三男には3人子どもも生まれて、皆いい子に育っている。でも当時は、やっぱり怖いから被爆のことは何も言わないし、言えなかった。子どもたちの病気と私の被爆との因果関係は今もわからない。

 

その後、夫の転勤で行った山口で原爆手帳のことを初めて知った。幸い証人も二人見つかり広島の原爆から35年経った1980年、原爆手帳を申請した。当時は米ソの冷戦の末期。アメリカとソビエトの核軍拡競争がピークを迎え、「核戦争3分前」といわれていた。ヨーロッパでもアメリカでも、日本でも、「核軍拡競争をやめろ」「核兵器を廃絶しろ」という反核運動が大きな盛り上がりを見せていた。私も、原爆投下直後にアメリカが撮影したフィルムを買い戻す10フィート運動に参加した。運動に参加しているうちに私も色々なことがわかってきた。

 

私たちは許せないという思いがある。被爆者の中には、いまだに自分が被爆者だということも、当時の体験も語れない人がたくさんいる。でも核兵器の恐ろしさというものは伝えていかなくてはならない。

そして私の体験を聞いてくれた子どもたちが、原爆の恐ろしさ、戦争のおろかさを知り、平和の大切さ、命の大切さをわかって欲しいと心から思う。