8月の晴れた日に 8(Tさんの証言)
私が被爆者手帳を取ったのは1998年(平成10年)のことでした。父と母それぞれ亡くなった時に病院で取って、姉は学徒動員に行っていましたから問題なく取れたんです。
私達一家は私が17歳のときから東京に住んでいましたけれども、当時は被爆者手帳はもたない方がいい、お嫁にいけなくなるから手帳を持っているなんて言いなさんな、と母が年中言っていましたから、被爆者手帳は悪いものだという印象があったのです。
姉は証人が二人いるのだから早く取りなさいと言っていたのですが、兄も私も病気もしないもので、被爆者手帳を持っておく意味が全くなかったんです。長崎に住んでいたんだし、被爆者なんだからいつでも取れるという頭があって。
三つ違いの兄が60歳で定年になり、その後、私も59歳で定年になったものですから、被爆者手帳をじゃあ取りましょうということで、証人二人は直ぐに見つかったんですよ。でも、県庁の窓口の人がねえ。
県庁の窓口の人がその時何て言ったって思います。荷馬車に乗って疎開先から舟大工町の自宅に帰りましたって言ったら、その時に写真を撮りましたかって言うんですよ。そんな、あなた、今みたいに駅やコンビニで使い捨てカメラを売っている時代じゃないんですから。カメラなんて新聞記者か写真屋さんしか持っていない。下手にカメラなんて持っていたらスパイかって言われるような時代に育った人に写真なんか撮れるわけがないじゃないですか。そう言ったら、今度は荷馬車の領収書がありますかって。もう少し勉強しろよと言いたくなるような若い男の方でしたね。
その時主人に浦和の伊勢丹で戦争展というのをやっているよ。あそこに行けば誰かいるよ。だからいってごらんと言われたんです。それで行って訊いてみたらしらさぎ会の方がいらっしゃったんです。その時までは個人で手帳を取ろうとしていて、しらさぎ会のことなんか何にも知らないんです。それで事情を説明して、初めてしらさぎ会に行って、話を聞いていただいて手続きをしました。
最初は平成9年7月に手帳の申請をしたんです。その後、平成10年にもう一回申請してくださいということになって11年3月に申請し直して、その時に申述書(本人が詳しく当時のことを書いた書類)を書き直したんです。そうしたら「今、あなたの記憶を書いたものを持って来いって言っているんじゃないんだ。これ、あなたが今書いたんでしょう。」「そうです。だって記憶を書いて来いと言われたから。」「あなたの今の記憶じゃないんだ。あなたが小学校のときに新聞かどこかに投書したときの記憶だ。」どこにも投書してないよ。「そうじゃなければあなた宛てに来た当時のハガキを持ってきなさい。」そんなのないですよ、今から57、8年前の荷馬車の領収書やハガキなんか。父も亡くなっているし、荷馬車を曳いていた人だって死んでいるし。無いものばっかりなんですよ、もってこいと言われるものが。私はあんなに被爆者手帳を取るのが大変だとは思いませんでした。
しばらくして担当者が変わったら直ぐに手帳が届きました。
だからね、埼玉県庁から封書が来ると私は、その封筒が持てなかったんですよ。もうドキドキしてしまって。封筒をポストから出すのも怖くて。それで2、3日は封筒が開けられない。また何を言われるんだろうと思って。3日くらいして封筒を開けたら健康診断の案内だった。せめて担当になったら、本を読むとか被爆の写真を見るとか、記録映画を観るとか、その当時の人たちが写真を撮れる状態だったのかとか、せめてそのくらいは頭に入れて担当になってもらいたいと思います。もう少し当時の状態を知るための勉強をしてもらいたいと思います。
1945年、昭和20年7月、佐古(さこ)小学校4年生だった私は、6年生の兄と母と、三重村(みえむら)というところに疎開したんです。活水(かっすい)女学校に通っていた姉は三菱兵器へ学徒動員が決まっていたので父と長崎舟大工町に残りました。母は長崎の父のところと三重村を行ったり来たりしていましたが、母がちょうど長崎に帰った日に原爆が落ちたんです。
疎開先のおばさんに、お昼ご飯だから裏の畠からインゲン豆を採ってきて、と言われて、その家のお姉さんと一緒にインゲンを採りに行ったんです。長崎は田舎と言ってもやはり都会で畑というのがないんで、野菜が成っているのがすごく嬉しかったんです。そういうのを見ながらインゲン豆を採っていたら、すごい閃光がしたんですよ。光ったかなと思ったらドーンといって、私達が立っていた台地がぐらぐらと揺れたんです。摘んでいたインゲン豆をほっぽり出して防空壕に走って行ったんです。
兄も二階で本を読んでいたみたいなんですけれど、すごい光がして家が揺れたので何事かと思って慌てて、そこいらにいた人がみんな慌てて防空壕に入り込んできたんです。
空襲警報が一度なったきりでピタリとも音がしないんです。何があったんだろうと言っていたんですが、何の音のしないものですから子ども達が5、6人、その辺を見てくると飛び出していったんです。私も兄と一緒に行きたかったんですが、母もいないし、おばさんにあなたは行っちゃだめと言われて、待っていたんです。
何事もないので防空壕から出てきて、庭でひょいと空を見たらきのこ雲があったんですよ。何あれって、大人も子どもも一列に並んで眺めているうちに、たぶんピカと来て音がしてから15分か20分くらい経っていたと思います。見ている目の前で、きのこ雲がどんどん大きくなるんですよ。
お昼ごはんを食べ終わっても、まだ庭の上には大きな雲があるんです。こんなことを言ってはいけないんですが、きれいでしたよ。真っ青な青空の中に、真っ白く大きなきのこ雲が、それこそ手を伸ばせば届きそうなところにあって。セミが鳴いていて、本当に暑い夏だったですよ。
三菱兵器へ行っていた姉は、原爆が落ちたのでその日に舟大工町の家に帰って、その後、母と二人で三重村に来ました。市内が通れないものですから、七里もある山道をぐるっと廻って、「水をください、水をください」と言っている人や死体をまたいで歩きながら一日かけて三重村にきました。私はやっと親に会えたのと浦上が大変なことになっていること、家は焼けていないことを聞きました。
父は消防団だったので、その日は市内に救助に行ったみたいですけれど、残っている消防団で何とかできるような状態じゃあないですよね。軍隊か何かがやらない限り、右のものも左に動かせない。町の消防団が手をつけられるような状態ではなかったので、とにかく家族のところへということで、父もあとから母や姉と同じように歩いて来ました。
母たちが来て、一日二日経ってから、私たちが間借していた家の近くの家に、長崎で負傷した人たちが戸板に載せられてり、リヤカーに乗せられてきました。包帯なんてしゃれたものはなくて、シーツを裂いたような布で全身を巻いて、布団に寝ているのを、子供同士で見に行こう見に行こうと、そこの家まで見に行って、何でこんな事になったのだろうと、ずっと見ていた記憶があります。今考えるとずいぶん失礼なことをしたな、その人は死にそうなのに、かわいそうなことをしたなと思います。
8月15日戦争は終りました。
戦争が終ったのなら、あんまり長く家を空けて置けないからと父が言い出して長崎に引き揚げることになりました。ただ今度は道がちゃんとしているかどうかが心配なんです。放射能のことなんか誰も考えていませんでしたから、道さえあれば帰れると思っていました。
でも焼けて大変なのをみんな見てきていますから、父が一足先に帰って、帰れる様だったら帰ろうということで、荷馬車を手配してくれたんです。
長崎にいるときは食べるものもなくて大変だったんですが、三重では野菜でも何でも畠に出来ているものは食べてよかったんです。半農半漁の村でおじさんは魚を採りに行きますしね。だから2合のご飯にうどんを折って入れたり、サツマイモを入れたりして量を増やして4合くらいにして炊いて、野菜も、キュウリでもナスでもカボチャでもサツマイモでも、お腹がすいたという記憶がないんです。それでも無いのは肉です。売ってないんですから。だから身体がたんぱく質不足で抵抗力がないでしょう。それに、田舎はノミと蚊がすごいんですよ。牛もいますしね。
私たちが寝起きしていた部屋でお蚕さんをやっていたのでもうノミに食われ放題。噛まれ方が半端じゃないんです。下には三重の子ども達がいるんですけれども、食われた痕がどこにもないんです。二階の私たちが総攻撃を受けたような感じで。付ける薬が一切ありませんから、リンパ腺が張って膿んで歩けなくなってしまうんです。本当につらく大変でした。
だから父が長崎へ帰るといったときは、帰る事がノミから逃れる唯一の方法で、すごく嬉しかったです。
ここを引き揚げるから学用品と身の回りの物をそろえなさいと言われるままに、準備をしたんですが、帰る朝もお弁当にサツマイモやジャガイモをもらって、小さな箪笥と布団と鍋と釜を荷馬車に積んで、母と姉と兄と私と、4人で荷馬車に乗って長崎へ帰ったのです。
私は荷馬車に積んだ荷物の後ろに落っこちないように座って、運動靴をブラブラさせながら、遠足に行くみたいで嬉しくって帰っていったんです。
道ノ尾まで来ると後はきれいな道が長崎まで通じているので、荷馬車もある一定のリズムでコットン、コットンと動くようになったんです。そうしたら私、疲れちゃって荷馬車の上で寝ちゃったんです。だから道ノ尾から家までの間は、私は何も見ていないんです。起きなさいと起こされたのは我が家の前、兄や姉は道はきれいに片付いていたけれど、川の中や橋の下には重なり合うようにたくさんの人が死んでいたとか、見渡す限りまっ平らな中に一本鉄の棒がグニューと曲がって立っているのが見えたとか、家も建物も何もなかったと云うのですが。
父は昭和34年11月に原爆病院で亡くなったんですけれど、何度も爆心地の方へ消防団で入っていたんです。お腹がどんどん膨れて体温の調節が出来なくなってしまったんです。全然体温が上がらないんです。昭和27年に家族みんなで東京へ出てきたんですけれど、老いが近くなって、やっぱり長崎に帰りたいからということで長崎へ帰ったんです。それで原爆病院へ入院して亡くなりました。
母も舟大工町で被爆していますし、蔵の前で爆風に飛ばされたと言っていましたけれど、その後三重まで歩いてきたりしている。それでなのか背中がうんと曲がりましてね。父が寝ている、その隣に母が寝ているんです。そして「痛い、痛い」と。母は背中が曲がるのが痛いんです。起きられるようになった時は腰が曲がってしまって。それで父と一緒に長崎へ帰って、父が亡くなって4年後、やっぱり原爆症で亡くなりました。
戦争が終って何十年もしてから姉も兄も罹っていない白内障に私だけ40何歳かでなりましたからね。9歳以下がいちばん放射線の被害を受けやすいということを何かの本で読みましてね。兄なんかもまだ白内障にはなっていないんですけれどね、私がいちばん若いのに早くしましたので、これも被爆のせいかなと思うんです。
原爆も核も嫌ですけれど、本当に戦争は嫌です。
手帳を取るのは原爆にあったことよりも大変でした。私個人の力では手帳は取れなかったと思います。しらさぎ会に感謝しています。手帳が取れたらしらさぎ会に絶対にお手伝いに行かなくてはと思い、その後ずっとお手伝いさせていただいております。