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パンダ省ロケット発射基地の町から −中国四川省凉山彝族自治州西昌市− |
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旅行ガイド多忙物語
2年前から、中国は、メーデーを中心に約1週間休日になったそうで、2002年の黄金周(ゴールデンウィーク)は、5月1日〜7日。4月27、28日の週末は休日返上で、学校や会社がありました。私たちは夫の仕事の都合で、4月30日〜5月4日が休み。中国での最後の休暇、新彊と敦煌に行くことにしました。中国人のグループツアーなら安く行けるのに、日程が合わず、個人旅行。成都の旅行社が作ったプランは、4泊5日うち車中2泊の強行スケジュール。日本語ガイド付き。成都からガイド同行だと旅費がかかるので、現地で現地ガイドとおちあうように手配してくれました。日本語ガイド付きの旅は初めて、どうなるか・・・。 4月30日、西昌から成都空港へ11:30到着。成都発ウルムチ行きの便は17:40発。旅行社の呉さんが、私たちを空港で出迎え、街の中心まで送り、16時頃ピックアップして空港へ行く予定。呉さんと夫の辛さんが空港で待っていました。辛さんは旅行社とは無関係。私たちと同じ便で出張から戻った同僚を、迎えに来ていました。5人で成都の中心部へ。辛さんは同僚を送り届けると、昼食をとりに順興老茶街(食事やお茶が楽しめ、古い成都の街を再現した博物館もあり、雑伎等も鑑賞できる所)へ車を止めました。彼は四川省林業庁の職員で、林業庁と共同で仕事をしている夫とパーティーで1度会ったそうです。呉さんとは、今回初めて。それだけの縁で、彼は外国人が喜びそうな所で、昼食を奢ってくれました。 昼食後、成都郊外にあるパンダ繁育研究基地を、呉さん夫婦が案内してくれることになりました。仕事大丈夫?車で30分ほどの距離なのに、渋滞で研究基地に着いたのは、午後3時。観光客は、徒歩で広い園内を見て回ります。辛さんが、時間がないと入り口の係りに掛けあい、飼育場所まで車で直行。飼育係りに頼んで、生後6ヶ月のパンダ4頭を戸外に出しミルクを飲む様子を見せてくれ、その間、彼は、みんなのミネラルウォーターを買って戻って来ました。パンダの子ども達が木登りして1本の枝を奪い合っている様子が、ヒトの子どものよう。仕事は携帯で済ませ、高速道路を使って飛行場まで送ってくれました。辛さんは、5年前研修で広島に数ヶ月滞在し、日本に好印象を持ったようです。呉さんは、成都周辺の観光地、峨眉山や楽山や、凉山州の瀘沽湖(女系家族の少数民族が住む地域)に、是非行けと勧めます。初めは営業用かなと思いましたが、おしゃべりしているうちに、本気で、帰国前に見ておくべきだと話している気がしました。呉さん夫婦は、半日以上付き合ってくれました。四川にいると、ほとんど初対面の人から、ピュア100%に近い親切を受けることがあります。こういう優しさで何度、気持ちが救われたことか。 予定を20分遅れて離陸した飛行機は、雪ですっぽり覆われた山々の上を通り、21時20分、ウルムチ着。機内食が清真餐(回教食)になりイスラム圏へ来た事を実感。西昌から2500km以上飛んできても中国国内!外は、まだうっすらと明るく、肌寒い。北京から西へ2千数百km離れたウルムチでは、北京標準時刻より2時間遅れのローカルタイムを使い、仕事も北京時刻午前10から午後7時まで。年間雨量わずか200mmのウルムチで、ここ2,3日で100mm近い雨が降ったとか、道路が濡れていました。道路にゴミが少なくてきれいな感じ。 空港で、ガイドの呉さん(成都の呉さんとは別人)が待っていました。彼は30歳、数年前、中国で1年半日本語をした後、渋谷で半年日本語を勉強したそうです。日本では地震が怖くて、机の下に避難する練習をしたとか。新彊を訪れる日本人を年間500人以上案内する呉さんの日本語は、わかりやすく、会話口調で省略して話しても、直ぐに返事が来ます。私たちの代わりにホテルのチェックインと部屋や朝食券のチェックをし、ホテルのショップでみやげを買わないように注意し、携帯の番号を残して帰りました。日本語が通じると、こんなに楽な旅ができるんだ! 翌5月1日、北京時刻9時、呉さんがチェックアウトし(添乗員付き旅行経験がほとんどないので、私には珍しい)、ウルムチの北東約110km、天山山脈のボゴダ山中腹の湖、天池へ出発。途中の道に1軒だけあった土産店でトイレ休憩。土産は買わなくていいと呉さんが耳打ち。ガイドがそんなこと言っていいの?土産店には日本語を話す店員も・・・こんなに日本から離れているのに。
11時過ぎ、天山天池風景名勝区到着。ここからシャトルバスかロープウェイで天池へ。天池付近の道路は、前日までの10数cmの降雪で通行禁止。天池の土産屋店員やホテルの従業員が、道にぎっしり並んで雪かきの真っ最中。人件費が安いせいか、土産店の店員やホテル従業員は、日本とは比較にならないほど多い。山の斜面に針葉樹のトウヒが密生する北海道を思わせる冬景色、薄手のヤッケで震えながらロープウェイの終点到着。旅行ガイドはガイド証を見せると、自分の入場料や貸し防寒着代は無料です。呉さんに防寒着を借りてもらい、奥地の兵隊さんのような格好で雪道を滑りながら湖へ。湖は凍結し、曇ってボゴダ山も見えません。それでも、私たちのような観光客が次々にリフトで登ってきて、天池記念碑の前で撮影。中国人は日本人以上に記念写真を撮る努力を惜しみません。帰る頃には人海作戦が功を奏し、道路は除雪終了。頼りになるのは機械ではなく人力です。 昼食後、ウルムチ西南60kmにある南山牧場へ。標高2300mほどの高原地帯で、山道の奥に滝があります。南山牧場への途中から雨が降り、さらに登ると雪に変わりました。高原は牛や羊がのんびり草を食む緑の草原ではなく、雪混じりで泥だらけ。観光用のカザフ族のパオや馬も客待ち状態。道は雪でグシャグシャ。春の湿った重い雪をたっぷりかぶった渓流沿いの道を、夏景色を想像しながら、馬車で滝まで登りました。馬が脚を滑らし馬車がひっくり返りそうで心配でした。呉さんは、馬車の値段の交渉等を手際よくオープンにやり、客に不信感を与えません。 新彊は、石油、天然ガス、石炭等の天然資源が豊富なのに、すべて政府の管轄で、地元にあまり還元がないそうです。寒暖の差が大きく年間雨量が非常に少ない、天山山脈の雪解け水を利用して綿花や小麦を栽培、木は根のそばに潅水装置を作ってから植えるそうで、木はまとまって生えています。緑化は確実に進んで、呉さんのアパートの裏にも林が出来たとか。冬季の暖房は、アパート全体でするので、住民は部屋の広さにあわせ1平方b当たりいくらという暖房費の払方をするそうです。 ウイグル族やカザフ族等40以上の少数民族が住み、漢民族(中国人全体の90数%)が、人口の32%で、ウイグル族についで2番目。ここでは少数民族に属するのが面白い!中国は、56民族で構成される多民族国家と宣伝していますが、実際はほとんどの地域で、中国人=漢民族、中国文化=漢民族文化。新彊では、漢民族以外、イスラム教を信仰する民族が多いので、イスラム寺院や清真(イスラム式)料理の店が目立ち、街の表示も中国語とウイグル語。 呉さんは漢民族で、両親は大卒のために、文革時代にウルムチへ移されたそうです。30才の彼でも、子どもの頃、親が饅頭を作った時、たくさん食べられると喜んでも、1個だけで、あとは子どもの手が届かないように天井から吊されてしまったという思い出を持っています。日本人は、集合時間を守る・・言葉が通じないから、置いて行かれると困るからよ。中国人の団体の場合、実際の出発の1時間前に集合と言っておかないと、出発出来なくなる。砂漠を旅行すると、日本人は青空トイレに慣れるまで3日かかる。日本の中学生60人くらいのテント生活体験旅行では、素直にルールに従うので驚いた。もし、中国の学生なら、一人っ子で甘やかされているので、必ず脱走したり、わがままを言い出す子がいる。砂漠に降る雨は、泥粒・・見てみたい! 南山牧場からウルムチへ戻り、本日の予定終了。呉さんは翌日案内する日本人客のビザのトラブルで会社へ帰り、代わりに24才の女性ガイド(名前を聞き忘れた)がウルムチ駅から敦煌駅まで送ってくれることに。普通は駅まで客を送って旅行社の仕事は終了。彼女はウルムチの客20名の敦煌観光ツアーに添乗するので、同じ列車に乗る私たちの面倒も見てくれることになりました。中国語しか話しませんが、普通語(共通語)が良く聞き取れます。 彼女と昨晩から一緒の運転手さんと夕食を食べました。新彊の食べ物という注文に、2人で安くて美味しい物を選んでくれました(ナン、羊の串焼き、人参と羊の脂のチャーハン、スープ、野菜炒め)。集合まで時間があるので、土地の名産を見せようとデパートを案内してくれ、ウルムチ駅へ。出発15分前改札時間になり、2つの改札口めがけ10数列に入り組んで並んだ300〜400人たちが荷物を抱えて殺到。警備の人が拡声器で椅子の上から指示を出しています。ガイドの彼女の後ろについて行くだけで精一杯。やっと列車のホームへ行くと、今までの喧噪がウソのよう、人々は既に列車に乗り込み、ホームは静か。 彼女の添乗ツアー客と一緒に硬座(3段ベット)の車両へ。彼女はみんなを席に着かせて、軟座(2段ベットで4人ずつのコンパートメント)の車両へ、私たちの席を調べに行きました。旅行社では軟座の下段切符を2枚購入していました。手違いがあったらしく、既に鉄道局の幹部が座っていました。車掌は、切符が間違って売られ席は無いと主張。彼女、車掌と30分以上やりあって、とりあえず、空席の軟座でトルファンまで行き、幹部が下車後、指定の席へ移ることに話を付けました。自分より年上で怖そうな車掌相手にりっぱ!日本なら、幹部が席を動いて客を優先する、この違いが中国。トルファンに到着したのは11時過ぎ、やっと眠れます。トルファンからは20人ほどの日本人ツアーが乗り込みました。彼女は、コップを持っていない私たちに(中国ではマイコップ持参で旅行するのは当たり前、衛生上の問題)、紙コップを探してきたり、よく気が付き子どもに優しい人でした。翌朝、敦煌到着前に起こしに来て、駅の改札の外で待っていた敦煌のガイドを探し出してくれました。 敦煌のガイドは、23才、長身の孫さん。敦煌駅は 町から130kmほど離れているので、前夜、旅行社がチャーターしたタクシーの運転手と駅まで来て泊まり、朝7時に私たちを出迎えたそうです。
土と岩、石、わずかな植物の生育する「ゴビ」が真っ直ぐのびた道路の両脇に地平線まで続いています。中国では「ゴビ砂漠」を「ゴビ」と呼び、砂粒から出来ている砂漠とは区別しています。町へ向かう車内、助手席の孫さん、後ろを向いて、敦煌の説明を始めました。年間降雨量40mm、人口の95%が漢民族、観光と、祁連山脈の雪解け水を利用した綿花、小麦の栽培が主産業。彼女は甘粛省の省都、蘭州の外語学院で2年間日本語を専攻しガイド3年目。日本人の先生が敦煌の歴史の興味があったそうで、彼女、歴史の話を始めました。本を暗記しているような話し方で、歴史上の中国の地名、人名を無理やり日本語読みします。彼女の口を見て真剣に聞いても、歴史に弱い私には、何を言っているのかよくわかりません。その上、映画を「えんか」、石窟を「せいぶつ」、郷を「こう」とか発音するので、もういいから黙ってゴビの景色を見せてという気分で、町に到着。 午前中、鳴沙山という東西40kmにもわたるサラサラした砂の山へ。1日の気温差が激しい地域、10時過ぎには、強い日差しが夏のよう。観光客が砂山のあちこちに登っていました。入り口から徒歩10分ほどの水がわき出ている月牙泉まで行くのに、孫さんは息を切らしています。敦煌の町を見渡すために砂山へ登りました。彼女は、下の日陰で、腰掛けて待機、体力がありますねと言っただけ。砂山の上で敦煌の町の説明する気もない様子。10分足らずの登りなのに。その後、ホテルへチェックイン。居留証(パスポート代わり)は?朝食券は?1つ1つ彼女にこちらから確かめないとチェックインも終わりません。自分でやった方が速かった。 昼食は麺、孫さんが小さな食堂で注文、でもなんか2倍はふっかけられた気分。ガイドなら店の言いなりにならないでよ。昼食後、莫高窟を見学。入場料100元(日本語ガイド)付き、莫高窟には各国語の専門ガイドがいます。連休で客が多くガイド不足、列車で一緒だった日本人ツアーと共に専門ガイドについて回ることに・・孫さんの交渉力不足。日本人ツアー客が写真を撮って集合するまで、真夏のような日差しの下で30分以上ぼんやり待って、やっと開始。ツアーの中国人添乗員が、ツアーのために大学教授に解説を依頼したと説明したため、日本人客は、莫高窟の専門ガイドを教授だと思いこみ、「あんたら、自分らのグループに入れて得したな」と、私たちに。(心の中で、日本語ガイド料は同じなのよ。)ツアーが特別料金で非公開の窟も見学したので、私たちも、2人で合計500元以上支出。中国人ツアーも騒がしいけど、日本人ツアーの感嘆の声の中、石窟や壁画と一体化出来なくて、感動も少なかった。その間2時間あまり、孫さん、ガイド仲間とおしゃべり。 駐車場に戻ると、私たちの車が、走り去る寸前、孫さんが車の所へ行きましたが、運転手は15分で戻ると、行ってしまいました。助手席には誰か乗っていたので、アルバイト?1日貸し切りのはず。孫さんは、仕方ない待って下さいと言うばかり。「携帯で連絡してみてくれる?」「電池が切れてるんです」・・ガイドとしてのプロ意識あるの?時間つぶしに博物館へ。本物より見学者が少なくて、ゆっくり鑑賞できました。博物館から出ても運転手は戻っていず、結局50分ほど待ちました。孫さん、運転手に、文句をいう気配もありません。待っていなかった理由を聞きました。タイヤの調子が悪く修理に行ったという回答。それなら、莫高窟に到着して直ぐ行けただろうに。朝迎えた時も、客を乗せてから、ガソリン入れたし、今日のガイドと運転手は、はずれ。 夕方、ホテルへ。明日の嘉峪関と酒泉の案内ガイドが、今日、酒泉から敦煌へ日本人客を送って来ているので、彼が、今晩、明日の予定を私たちに連絡する、彼の日本語は自分より上手と、言い残し孫さんは帰りました。翌日のガイドや孫さんの電話番号も聞いていなかったことに、あとで気づきました。孫さん、翌日も、敦煌飛行場で日本人を迎えて、ガイドの予定だそうで、貯金して日本へ語学留学することが夢とか。 街へ出て見ましたが、ホント観光地、土産屋ばかり。日本語を少し話す店員に、何度か遭遇。夜遅くなっても翌日のガイドから連絡なし。 翌朝、8時3分前、ガイド兼運転手、韓さんから準備は出来ているかと電話。同じホテルに泊まっていたそうで、フロントで、彼の知り合いの女性と待っていました。彼女が酒泉へ休暇で行くので、同乗してもいいかと聞かれ、助手席が空いているし了承。中国ではこんなこと日常茶飯事。 ゴビ砂漠を真っ直ぐ380km。道路には交通事故や故障で停車中の車の他、なにも見えません。ウルムチのガイド呉さんが、10年前自動車免許を取った時、初めに3ヶ月、自動車の修理方法を勉強させられたと言ったことが理解できました。近景に、土製の昔ののろし台、白い大きなパラボラアンテナ、遠景に雪をかぶった山脈が見えました。 韓さんは独学で日本語を6年勉強しているそうで、自分の日本語はおかしくないかと気にしていましたが、孫さんよりずっとスムーズ。観光シーズンは休み無し、11月から4月は仕事無し。日本人客はおとなしいけれど、台湾の客はわがままで大変だと話していました。
昼食後、万里の長城の関城、嘉峪関見学。ゴビ砂漠の中に、600年も前の土壁がそのまま残っていて、この一帯の乾燥のすさまじさを感じました。明代には匈奴の侵入を防ぐ西端の最前線の要塞だったそうで、乾燥しきったゴビと同じ色一色の嘉峪関に、圧倒されました。 嘉峪関から酒泉へ。酒泉公園で、入場料3元なのに、外国人料金の入場料を請求され、韓さん、係りへ大抗議。公園の係りはいつもこうだと、こぼしていました。午後5時過ぎ、韓さんは再び380kmゴビ砂漠を戻って敦煌へ。翌朝6時、敦煌到着の日本人14人のツアーを迎えに行きました。人数が多くて日本語が心配だと言いながら。替わって、彼の会社の陳さんが、酒泉駅まで送ってくれました。北京で10数年前、日本語を勉強し、数年前までは現役ガイド、現在は外国旅行社との連絡の仕事をしているそうです。以前は、敦煌の観光客は日本人が1番多かったが、今は中国人、特に台湾の客が多い(中国人には台湾は自国)そうです。 午後9:30発蘭州行きの列車に乗車。ウルムチ駅のような混雑はなく、ひっそり発車。北京の30代の夫婦とコンパートメントが一緒。夫は銀行員、妻は大学の教員。子供を作らず自分たちの生活を楽しむ高学歴高収入の若いカップルが、大都会では増えていると聞いていましたが、会うのは初めて。彼らの荷物の量(一般に中国人は着替え等の荷物は少ない)や質が、日本の同年齢の人たちと同じ。タイ、シンガポール、マレーシアを旅行し、国内も西部地方へ何回か旅行したそうです。中国の受験競争や教育の過熱ぶりを見ていると、子どもを作る気になれないと言っていたのが、印象に残りました。 5月4日午前7時、蘭州到着。「鹿島、KASHIMA」と書いた紙を持って、男女2人の若者が私たちの車両の前で待っていました。ホームまで来てくれたガイドは、今までいなかった。彼らは、蘭州の外語学院2年生。6月に卒業後、男の朴さんは深圳で、女の孫さん(敦煌のガイドの孫さんとは無関係)は敦煌で、ガイドの仕事が決定しているそうで、今日は、初ガイド。緊張してドキドキしているという話しぶりが、かわいらしい。蘭州には、彼らを教えている日本人が1人と他に日本料理店をしている日本人が2人住んでいるそうです。学校以外で日本語を使う機会はめったにないので、ゆっくり話して下さいと、頼まれました。2人で教え合ってやっと、私たちと会話が成立。日本企業が蘭州にないので、就職先も皆無。日本語科には日本人と中国人の教員4人。1年次30人入学して、現在2年生は15人残っているそうです。 旅行社は学生ガイドで心配だったのか、運転手はベテラン、彼の助けを借りて、朴さんたちが懸命にガイド。年間雨量300m前後の蘭州であいにくの雨。午前中、明代の塔が有名な白塔公園や黄河に最初に作られた鉄橋へ行きました。黄河を見るのはこれが最初で最後と思ったら、雨でもボードに乗りたくなり、黄河の茶色の水しぶきを浴びました。昼食後、街から空港までの距離が1番遠いという蘭州空港へ。朴さん達と別れました。2年間、外国語を学校で勉強しただけでガイドとして仕事をしていく・・2人とも優秀なガイドになってね。 午後6時前、成都着。空港には呉さん夫婦と友達夫婦が4人で迎えに来ていました。呉さん夫婦は、ずっと以前からの友達のよう、ホテルのチェックインの心配までしてくれました。 時間がなかったので仕方がないけれど、ガイドからガイドへベルトコンベアーに載せられて運ばれるような旅は、性に合わない気がしました。新彊ウイグル自治区にはもう1度、ゆっくり行ってみたい。ここも中国でいいの?と思える異国のような中国がありました。 |