東洋的な巫医について
![]()
久々のアップです。(誰も読んでないか)最近はまったとある陋巷にあり(一太郎えらい!一発変換)を読んでみて東洋的な死と西洋的な死がいかに異なる形であるかよくわかりましたのでこの際まとめてみました。なお舞台となっている孔子のいた頃の中国というのはどう逆立ちしても現在の中国とは無関係の国で思想や習慣はむしろ朝貢国である日本や朝鮮に深く伝わっているようです。現代中国は表に出てくるのはほとんどUSAとかわりのない勝手な言い分、弱いものいじめ、大人といわれる人々を輩出した国とは思えないいけずうずうしさなど”礼”が忘れ去られている。(従って表面上は栄えている国)翻って我が国では医療訴訟のほとんどは医療側に礼がないかまたは患者側に礼が失われていることによるものだと定義できます。失ったと言うよりむしろ西洋的な死、医療の考え方では追いつかなくなったと言うべきでしょう。戯言ですが、少々考察してみます。
宗教が西洋社会と日本を含む東洋社会では全く異なることは皆さんご存じだと思います。さらにこの日本では古事記、日本書紀の一部を読んでも判りますが、やたらに宗教が融合してしまっている、その都度祈る神がふえ結局八百万ということになっているような気がします。キリスト教やらイスラム教やらユダヤ教のような”神は1人、それ以外は邪教”という考え方とはどう見ても一つにはなり得ません。ご先祖様信仰、遺体に対する敬虔な気持ち、細○先生にみられるようなある意味のシャーマニズム、原始的といわれようが何だろうが日本人の根本はキリスト教からかけ離れた呪術的な信仰を元にしているとしか思えないしまたそれだからこそ雑種民族の日本人が成り立った賢い知恵とも受け取れるのです。うちの嫁は人を指さすことを極端に嫌います。時には物も指さしてはいけないといいます。なんでかなあと考えていたところ陋巷にありのなかに指さすことはそれを呪う行為であると記載してあり、そのわけがよく分かったのでした。名前も読んじゃあいけません。本名をそのまま呼ぶとそれも人を呪う行為となるからです。一般に名前というのは江戸時代までいみなであり呼んではいけない言葉でした。ベトナムでも自分の子供を呼ぶとき本名では呼ばず、ぶただのおとしめるような呼び方をするようです。(本名で呼ぶと悪霊が子供をさらってしまうと考えられているようです)タブーのある国家は遅れているなどといろいろな書物に書いてありますが、よけいなお世話です。
えらい退屈な話をしてしまいました。要は医療業界の人間というのはこの信仰に基づいた場合どのようにみられるかということです。一般に病気の人間を扱うということは忌まれることでしたが、まじないを知っている者(大概は医師ですが)は例外的にある程度の尊敬を受けていたのです。しかし現代では我々はまじないをしません。どころかインフォームドコンセント(必要ですがTPOあり)を錦の御旗にして、さっさとまじない師の座を降りてしまう、ここに医療を受ける側の不満が潜在的にあるように思います。
現代の医療や病院がまじない?と笑ったあなた、完全にはずしてます。では患者さんの腕に巻いてある数珠はどういう意味でしょうか。なおい紐(縁起物のひも)が腕に巻いてあるのは何ででしょうか。千羽鶴(これも呪力があります)が飾ってあるのは?海外たとえばUSAで病院内でそんな物を見るとすればブードゥーにこっているジャマイカンくらいだと思います。(これも多神教)
医療業界人はこれからもというかこれからより一層に巫祝について知っておくべきだと考えます。この礼に沿っていく限りは週刊誌や新聞がいくら騒いでも医療を受ける側と提供する側との信頼関係は揺るがないと思います。非科学的にしろというわけではなく、科学的な真理の外側に信頼関係を築くヒントがあるのではないかと考えます。受ける側にしても小森よしひさ氏のように”俺の母ちゃんの肝臓転移が何で手術中に見つからなかった?””大学病院ではお金を包むなどやっちゃならんだろうがといいながら包みました”といった矛盾した行為への答えになるような気がします。
ですから判っておいた方が良いのは”人間には寿命がある。それが癌だろうが脳梗塞だろうがお迎えがきてご先祖の仲間入りするのを妨げる方法はないというかしてしまうのは不実である。”医学は科学であるのを基本にしているが、しかし学問というのはある意味それを受ける人に合わせなければならない。”巫呪を信じている人に科学のみで割り切ってはいけない。