幻の大和北部八十八ヶ所霊場を巡る

 〜 もくじ 〜

1.幻の大和北部八十八か所霊場とは

2.大和北部八十八か所霊場巡拝リスト

3.寺社巡拝

 奈良市 大安寺
 奈良市 ならまち
 奈良市 ならまち東部
 奈良市 きたまち
 奈良市 佐紀
 奈良市 西ノ京
 奈良市 南部
 奈良市 西部
 大和郡山市 市街
 大和郡山市 南部
 大和郡山市 矢田丘陵
 天理市
 桜井市
 田原本町・広陵町
 橿原市
 生駒市
 平群町 北部
 平群町 中部
 平群町 西部
 三郷町
 斑鳩町
 宇陀市 

4.大正時代を偲ぶ

 大正時代との札所相違リスト
 第二番霊場 嘶堂と護摩堂
 第十一番霊場 圓證寺の移転
 第十六番霊場 正覚寺
 第十七番霊場 奈良大森 高野山支部院
 第二十八番霊場 極楽寺
 第四十一番霊場 叶堂千手院
 第四十八番霊場 三室堂
 第四十九番霊場 善福院
 第五十一番霊場 法隆寺西円堂
 第六十番霊場 慈眼寺
 第六十三番霊場 西福院
 第六十六番霊場 超願寺
 第七十六番霊場 鹿野園太子堂
 第七十九番霊場 木戸寺
 第八十六番霊場 與楽寺
 
番外霊場 傳楽寺観音堂
 番外霊場 隆興寺

5.おわりに

1.幻の大和北部八十八ヶ所霊場とは

 大和北部八十八ヶ所霊場とは、数少ない資料(下段の※1)によると、遡ること今から約240年前の江戸時代中期後半の明和年間(1764〜1772)に制定された、大和の北部地域を対象にした八十八ヶ所の巡拝霊場をいう。

 制定後、幾度も廃寺などによる札所の入れ替えがあったと思われるが、平成3(1991)年に当時の大和八十八ヶ所霊場事務局だった大安寺が、「大和北部八十八ヶ所霊場巡拝道順」(※1)という案内用チラシを発行している。
 この中には、八十八ヶ所の札所、三ヶ所の別格、二ヶ所の番外、一ヶ所の奥の院、合わせて計九十四ヶ所の霊場が記載されている。
 この案内用のチラシは、約20年前の発行になるが、おそらく、これが現存する資料としての最新版であろう。

上で述べた案内用チラシの「大和北部八十八ヶ所霊場巡拝道順」は、奈良市立図書館管内の中央図書館と西部図書館の「参考資料コーナー」に所蔵されているので、自由に閲覧したりコピーすることも可能だ。(所蔵資料の検索はこちら
 右は、その資料のスキャニング画像であるが、クリックするとPDFファイルが開くので、ダウンロードすることも可能である。

 
追記 最新版「大和北部八十八ヶ所霊場巡拝道順」
平成23年6月版 大安寺内大和八十八ヶ所霊場事務局発行 ダウンロード

 さて、それらの霊場が、現在はどうなっているか気になるところだが、残念ながら、九十四ヶ所中の十五ヶ所が廃寺(住職が不在の寺)になっており、中には探すにも寺の面影もなく、普通の住宅になっているところさえある。また、寺は継続していても、「大和北部八十八ヶ所霊場」の看板や石碑を掲げてないところなど、すでに幻になりつつあるのが現状である。

 誠に残念なことであるが、おそらく、年を追うごとに幻の度合いが増し、いつかは、「そんなものがあったのか」という存在になりつつある。
 そこで、幻になりつつある在りし日の姿を残すことを目的に、このページを作成することにした。

 感違いや間違いなどもあるかも知れないが、その節はお手数ですが、弊ホームページの情報交換広場で指摘していただき、後世に正しい情報を残すために、ご協力をお願いしたい。

2.大和北部八十八ヶ所霊場巡拝リスト

 下記は、前記の「大和北部八十八ヶ所霊場巡拝道順」を基に、地域別に編纂を行って作成した巡拝リストである。(巡拝時の効率を優先したため、地域名と所在地が合致しない部分も一部あり)
 所在地は、出来るだけ元資料の標記に従ったが、町名変更などで、現時点では特定が不可能な個所は現在の標記に変更した。また、地域名は、ひと括りにするために筆者が付けた凡そな呼称で、厳密には異なる部分も一部存在する。

 リンクのある地域名・寺社名をクリックすると、リンク先の詳細なページが開きます。

地域 札所 寺社名 所在地 巡拝日
奈良市ナラシ 大安寺ダイアンジ 1 大安寺 奈良市大安寺チョウ 2010/01/04
2 大安寺嘶イナナ 奈良市大安寺チョウ 2010/01/04
17 大森大師 奈良市大森町283※廃寺 2010/02/06
ならまち 3 西光院 奈良市高御門町21 2010/01/09
4 徳融寺 奈良市鳴川町14 2010/01/09
5 元興寺 奈良市芝新屋町12 2010/01/09
6 十輪院 奈良市十輪院町27 2010/01/09
7 福智院 奈良市福智院町46 2010/01/09
9 元興寺極楽坊 奈良市中院町11 2010/01/09
10 伝香寺 奈良市小川町24 2010/01/09
16 高林寺 奈良市井上チョウ32 2010/01/09
60 誕生寺 奈良市三棟サントウチョウ※廃寺 2010/01/09
62 十三鐘菩提院 奈良市高畑タカハタ(興福寺) 2010/01/09
ならまち東部 8 新薬師寺 奈良市高畑福井町1352 2010/01/04
63 白毫寺 奈良市白毫寺チョウ892 2010/01/04
77 不空院 奈良市高畑チョウ1365 2010/01/04
きたまち 12 シン言院 奈良市雑司町404 2010/01/04
13 崇徳寺 奈良市大豆山7 2010/01/04
14 空海寺 奈良市雑司町ヒガシ162 2010/01/04
15 般若寺 奈良市般若寺町221 2010/01/04
番外 戒壇院 奈良市雑司町406 2010/01/04
佐紀 18 不退寺 奈良市法蓮ヒガシ垣内カキウチ517 2010/01/04
19 海龍王寺 奈良市法華寺チョウマチ 2010/01/04
20 円福寺 奈良市佐紀町2667 2009/12/26
21 安楽寺 奈良市中山町1303 2009/12/26
23 秋篠寺 奈良市秋篠町757 2009/12/26
24 西大寺 奈良市西大寺チョウ芝1-1 2009/12/26
25 喜光寺 奈良市菅原町508  2009/12/26
別格 法華寺 奈良市法華寺町北町 2010/01/04
西の京 26 唐招提寺 奈良市五条町12-45 2009/12/26
27 唐招提寺奥院 奈良市五条町524西サイホウイン 2009/12/26
29 極楽寺 奈良市七条町1 2009/12/26
49 薬師寺 奈良市西ノ京457 2009/12/26
南部ナンブ 67 龍象寺 奈良市シバ 2010/01/02
68 帯解寺 奈良市今市町734 2010/01/02
69 円満寺 奈良市下山町109※廃寺 2010/01/02
70 満願寺 奈良市横井町181 2010/01/23
72 極楽寺 奈良市山村町※廃寺 2010/01/23
73 正暦寺 奈良市菩提山142 2010/01/02
74 弘仁寺 奈良市虚空蔵町46 2010/01/02
別格 円照寺 奈良市上山町1312 2010/01/02
西部セイブ 11 圓證寺 生駒市上町4713 2010/01/10
31 霊山寺 奈良市富雄トミオチョウ中町3873 2010/01/16
32 霊山寺地蔵院 奈良市富雄トミオチョウ中町3873 2010/01/16
33 根聖院 奈良市富雄トミオチョウ三碓3-5 2010/01/10
大和ヤマト郡山 市街シガイ 30 愛染ドウ 大和郡山市九条町※廃寺 2009/12/26
58 釈尊寺 大和郡山市高田口※廃寺 2009/12/26
59 薬園寺 大和郡山市材木町30 2009/12/26
61 春岳院 大和郡山市新中町2 2009/12/26
南部 57 阿弥陀院 大和郡山市番条町614 2010/01/02
64 光明院大師堂 大和郡山市番条町564※廃寺 2010/01/02
65 正福寺 大和郡山市発志院町411 2010/01/02
78 地蔵寺 大和郡山市新庄町252※廃寺 2010/01/02
87 額安寺 大和郡山市額田部寺カタ町36 2010/01/02
矢田ヤタ丘陵キュウリョウ 22 賢聖院 大和郡山市ヤマトコオリヤマシ矢田ヤタ1937 2010/01/16
54 松尾寺 大和郡山市山田683 2010/01/16
55 矢田寺 大和郡山市矢田3516 2010/01/16
56 矢田寺観音堂 大和郡山市矢田3516 2010/01/16
別格 慈光院 大和郡山市小泉町865 2011/07/23
天理市テンリシ 75 霊仙寺 天理市森本835 2010/01/02
80 長岳寺 天理市柳本508 2010/02/28
桜井市サクライシ 71 東光寺 桜井市タニ 2010/02/06
76 聖林寺 桜井市下692 2010/02/06
81 平等寺 桜井市三輪38 2010/02/28
82 文殊院 桜井市安倍644 2010/02/06
田原本タワラモトチョウ広陵コウリョウチョウ 83 本光明寺 田原本町千代1151 2009/12/30
84 秦楽寺 田原本町秦庄 2009/12/30
85 百済寺 広陵町百済1158※廃寺 2009/12/30
86 与楽寺 広陵町広瀬 2009/12/30
橿原市 79 観音寺 橿原市小房6 2009/12/30
88 久米寺 橿原市久米町502 2009/12/30
生駒市イコマシ 28 往生院 生駒市有里※廃寺 2010/03/27 
34 寶山寺 生駒市門前町1 2010/04/10
35 教弘寺 生駒市小倉寺町543※廃寺 2010/04/10
36 円福寺 生駒市有里390 2010/03/27 
37 竹林寺 生駒市有里 2010/03/27 
38 タカラ憧寺 生駒市イコマシ平尾ヒラオチョウ 2010/02/21
番外 観泉寺 生駒市小瀬582 2010/02/21
平群ヘグリ 北部 39 千光寺 平群町鳴川188 2010/02/21
40 金勝寺 平群町椣原シデハラ53 2010/02/21
中部 42 東光寺 平群町三里ナカミヤ※廃寺 2010/02/13
43 長楽寺 平群町吉新※廃寺 2010/02/13
44 地蔵寺 平群町福貴 2010/02/13
西部 45 多聞院 平群町信貴畑1474 2010/02/13
46 朝護孫子寺 平群町信貴山2280(本坊ホンボウ) 2010/02/13
チョウ三郷サンゴウチョウ 41 平隆寺 三郷町勢野東2-11 2010/02/13
47 持聖院 三郷町勢野東6-2 2010/02/13
48 融念寺 斑鳩町神南3-5-8 2010/02/13
斑鳩イカルガチョウ 50 法隆寺北室院 斑鳩町法隆寺ナイ878 2010/04/24
51 法隆寺西堂 斑鳩町法隆寺ナイ878 2010/04/24
52 法起寺 斑鳩町岡本 2010/04/24
53 法輪寺 斑鳩町三井1571 2010/04/24
別格 中宮寺 斑鳩町法隆寺826 2010/04/24
宇陀市ウダシ 66 大野寺 宇陀室生村大野 2010/01/30
奥の院 室生寺 宇陀室生村室78 2010/01/30


3.寺社巡拝

大安寺(奈良市)

 地図上の寺社名(赤色)をクリックすると、詳細なページが開きます。
 寺社が存在する正確な位置は、寺社マーク(卍)の辺りになります。



電子国土ポータルの地図を利用


大安寺山門


大安寺本堂


大安寺嘶堂


大森大師跡の民家



ゼンリン住宅地図奈良市東部1990年
P107で大森大師の記載を見つける
第一番霊場 大安寺

 南都大安寺と呼び、奈良時代に平城京およびその周辺に存在して、朝廷の保護を受けていた南都七大寺(興福寺、東大寺、西大寺、薬師寺、元興寺、大安寺、法隆寺)の一つ。

 第一番霊場として意外に感じられる方も多いが、奈良時代には現在の仏教大学的存在で、ひたすら仏の心を追い求めたルーツとして、奈良の寺院を語る上で欠かせない存在です。
 参列者が1万数千人に及んだという東大寺大仏開眼供養会(752)では、大安寺に住したインド僧の菩提僊那(ぼだいせんな)が開眼導師を務めたことも有名です。 

大安寺案内:(大安寺パンフレットより)
 がん封じ笹酒祭りで知られる大安寺は、日本最古の寺の一つで、その創建は聖徳太子の遺言により舒明天皇が建立された「百済大寺」を始めとします。
 やがて飛鳥の「高市大寺」、そして「大官大寺」となり、飛鳥寺院の中心寺院として栄えました。
 そして平城遷都に伴い、今日の地に遷され「大安寺」となり、奈良時代の国の筆頭寺院として、仏教の総合大学の様相を呈したといわれます。
 中世の度重なる災禍などで、壮麗なる伽藍も消失してしまいましたが、いま尚、奈良時代の仏像九体が伝えられ、往時の信仰を物語っています。

大安寺本堂案内:(大安寺パンフレットより)
 ご本尊は天平時代の十一面観音様。癌封じ、病気平癒、諸願成就のご祈祷、御先祖のご供養、年忌回向などが日々行われています。


第二番霊場 大安寺嘶堂

 大安寺嘶(いななき)堂は、大安寺境内の本堂の裏辺りに在ります。

嘶堂案内:(大安寺パンフレットより)
 憤怒の形相で、一面六臂の馬頭観音様がまつられています。人々の苦悩を除き、幸運をもたらす厄除け観音として信仰されています。


第十七番霊場 大森大師


 実は何回も、お寺の所在地である大森町を、くまなく歩きまわり、聞きまくったが、探し方が悪かったのか、苦労した。
 結果から言うと、廃寺になって解散したらしく、お寺のあった場所には、現代風の立派な民家が建っており、傍らに名残を惜しむかのように祠が在ります。

 探す決め手は、古い住宅地図であった。

 大和北部八十八ヶ所霊場の現存する資料の最新版は、1991年に大安寺より発行された「大和北部八十八ヶ所霊場巡拝道順」という案内用のチラシであることは冒頭の章で述べた。
 すなわち、少なくとも案内用のチラシが発行された1991年には、大森大師が存在していたはずである。

 そこで、図書館に赴いて調査した結果、「ゼンリン住宅地図奈良市東部1990年版のP107」に「大森町283番地」の「奈良大森大師堂大森教会(中村智雄)」を見つけることができた。(図中の「大森池」は、現在は埋め立てられ、「ルモン奈良大森」というマンションになっているいる。)
 更に詳しく調べると、1984年版〜2002年版の地図には「大森大師」の記載があるので、この当時に存在していたことは間違いない。

 古い地図を目安に訪れたのが「大森大師跡の民家」であるが、表札は前住職と同姓の「中村」なので、おそらくご子孫のお宅だと思われる。

 余談になるが、昔に存在した建物を探すには、「ゼンリン住宅地図」が非常に効果的で、
奈良市立図書館(管内中央図書館)と奈良県立図書情報館には、全てでないものの各年のものが蔵書されていて、閲覧が可能である。

   

ならまち(奈良市)

 地図上の寺社名(赤色)をクリックすると、詳細なページが開きます。
 寺社が存在する正確な位置は、寺社マーク(卍)の辺りになります。



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西光院


徳融寺


豊成公中将姫を祀る石碑


元興寺山門


元興寺搭跡



十輪院


福智院


元興寺極楽堂


伝香寺


高林寺


誕生寺


十三鐘菩提院
第三番霊場 西光院

 西光院は、山号を紫雲山という華厳宗のお寺です。「木造弘法大師坐像」と「木造地蔵菩薩半跏像」が安置されておられ、中でも弘法大師坐像は全身裸形像で、貴重で珍しい弘法大師裸像です。

西光院仏像案内:(奈良市教育委員会案内版より)
 西光院の弘法大師は、裸に作られ衣を着せて祀られる。全身裸形の像は、鎌倉時代中期から後期頃に作られただけで、大師の裸形像は特に珍しく、大師の入定観(にゅうじょうかん)に基づくとされる。
 地蔵菩薩像は、天文17年(1548)東大寺実清宿院仏師の源次・源三郎らの作で、室町時代に奈良で活躍した宿院仏師の動向が窺える重要な像である。

第四番霊場 徳融寺

 「中将姫ゆかりの寺」の一つ。中将姫が少女時代に当所で育ったとされています。

徳融寺案内:(徳融寺案内版より)
 当寺はもと南都七大寺の一、元興寺の境内にあり、観音堂とも別時念仏の道場であったとも伝えている。室町時代、元興寺が土一揆で罹災したため本尊を現在地へ移し、天正18年(1590)融通念仏の檀家寺院として復活した。
 本堂は寛文7年(1667。県文)休岸上人の再建。木造阿弥陀如来立像を祀る。源朝公の妻北条政子の念仏寺であったという。
 境内には毘沙門堂(寛永9年。市文)観音堂、地蔵堂、方丈、庫裏(慶長16年。もと本堂)鐘楼等、時代別の堂宇が軒をつらね、観音堂本尊は平安初期作子安(こやす)観音立像である。大和北部八十八ヶ所四番札所で「願ひをばかけてぞむすぶ結肌(きはだ)帯たはやすくしも解(と)かせ給ひぬ」の詠歌がある。幕末の頃、観音の子育て信仰にあやかって寺小屋が開かれ、明治5年の学制で「魁化舎(かいかしゃ)第三番小学」と改まり、のち西木辻八軒町に移って現在の奈良市立済美小学校に至っている。
 当寺は平城京の下京(げきょう)、六坊大路にあたり、藤原不比等の孫、右大臣横佩(よこはぎ)豊成の宅地とされる。折口信夫の小説「死者の書」で知られた豊成の娘中将姫は当地で育ち、少女時代継母にいじめられた。「虚空(こくう)塚」「雪責(ゆきぜめ)松」など受難のあとが随所に残されている。
 観音堂裏に父子の石搭(鎌倉時代)がある。戦国の世、梟雄(きょうゆう)松永弾正久秀が多聞城の石垣を築くため、近郊の石搭を徴発(ちょうはつ)した。右の石搭にも徴発の手が及んだので、当寺の一代で連歌師の心前上人が「曳(ひ)き残す花や秋咲く石の竹」と詠(よ)み、危うく難を逃れたという。
 什物(じゅうもつ)に奈良時代の木心乾漆(もくしんかんしつ)仏断像はじめ貞享元年当麻曼荼羅(たいままんだら)、狩野永梢・勝山琢眼筆花鳥山水襖絵五十面等があり、断像は仏像の内部構造を知る上で貴重な資料となっている。
 なお、融通念仏宗とは平安時代の僧、良忍上人の創唱で、自他の念仏が融通して、一遍の念仏にも億百万遍の功徳が籠ると説く教え。俗に「大念仏」といい、河内大和を中心として畿内に広がっている。

第五番霊場 元興寺

 元興寺は、日本最初の本格的伽藍の法興寺(飛鳥寺)が平城遷都にともない、新築移転された、佛法元興の場、聖教最初の地とされる。
 第九番霊場の元興寺極楽坊では、本堂などの建造物をみることもできるが、こちらは基壇を残すのみの搭跡である。

第六番霊場 十輪院

十輪院案内:(十輪院案内版より)
 十輪院は元興寺旧境内の南東隅に位置し、 奈良時代の僧で書道の大家、朝野魚養の開基といわれています。
 本堂(国宝・鎌倉時代)は軒や床が低く、当時の住宅を偲ばせる建造物です。
 この本堂の中には本尊である地蔵菩薩を中心にした石仏龕(重文・鎌倉時代)を祀ります。そこには釈迦如来、弥勒菩薩の諸仏のほか、十王、仁王、四天王や北斗曼荼羅の諸尊などが刻まれ、非常に珍しい構成を見せています。
 境内には魚養塚、十三重石塔、興福寺曼荼羅石など多数の石仏が点在しています。

第七番霊場 福智院

 前身は天平8年(736)に聖武天皇が発願して玄ムが創建した清水寺が始まりで、建長6年(1254)に興福寺の僧が再興して福智院に改名し、その後叡尊が再建した。

第九番霊場 元興寺極楽坊

 第五番霊場の元興寺(搭跡)はこちら
 画像は、山門より眺めた極楽堂(極楽坊本堂)


第十番霊場 伝香寺

 通常は公開されておりません。
 ただし、毎年3月12日と7月23日に地蔵菩薩立像が特別公開されます。また、3月下旬の日・祝日に椿のみの見学が可能です。(平城遷都1300年祭にともない、2010年の3月10日〜4月4日は特別開帳されています)

伝香寺案内:(伝香寺パンフレットより)
 伝香寺は戦国時代の大名の筒井順慶法印(1549-1584)の香華院(菩提所)として建立されました。諸記録によると、この地は奈良時代に唐より来朝され、唐招提寺を創建された鑑真大和上の高弟思詫(したく)律師が天平宝亀(770〜780)に、故国を偲んで唐風の庵を結んだ処で、実円寺と称されていました。
 爾来800有余年の星霜を経た天正13年(1585)順慶法印の母芳秀(ほうしゅん)尼は、若くして没した息子の菩提を弔う為、香花の絶やさざる寺院の建立を発願、正親町(おおぎまち)天皇の勅許を賜り、唐招提寺泉弉(せんじょう)長老を請じて実円寺を再興「表門(県文)、本堂(重文)が現存」、古額を改め伝香寺と号しました。
 伝香寺開創の願主となった芳秀尼が堂前に供えた椿が存続(三代目)しています。この椿は色まだ盛んなとき、桜の花びらの如く散る椿で、その潔さが若くして没した順慶法印になぞらえ「武士(もののふ)椿」の名を得たといわれてます。
 江戸時代末期に唐招提寺長老と伝香寺住職を兼ねた宝静(ほうじょう)長老は椿の愛好家で、奈良三名椿(伝香寺散り椿、東大寺糊こぼし椿、百豪寺五色椿)を好んだと云われています。

第十六番霊場 高林寺

 「中将姫ゆかりの寺」の一つ。本堂には中将姫の木像が安置されており、境内には父豊成の古墳があります。また、安土桃山時代には奈良茶人の高坊(たかぼう)一族が住み、ならまちの一大サロンを形成した茶室「高坊」がありました。

第六十番霊場 誕生寺

 こちらも「中将姫ゆかりの寺」の一つ。中将姫が生まれた父豊成の屋敷が在ったので、「誕生寺」と呼ばれています。中将姫自作の本尊「中将姫法如尼坐像」を安置し、裏庭に産湯に使った井戸があり、庭の奥の「極楽堂」へ向う所に中将姫を浄土へ導いた二十五菩薩像が立ち並んでいます。
 現在は廃寺のようであるが、境内に入ることができました。

第六十二番霊場 十三鐘菩提院

十三鐘菩提院(菩提院大御堂)案内:(興福寺案内板より)
 本院はふつう、奈良時代の高僧玄ム(げんぼう)僧正(-746)の創建と伝えられるが、実際はむしろ、玄ムの菩提を弔う一院として造営されたものであろう。本尊は阿弥陀如来座像(鎌倉時代、重要文化財)で、別に児(あご)観音立像が安置される。
 鐘楼に掛かる梵鐘は永享8年(1436)の鋳造で、かつて昼夜十二時(一時は今の二時間)に加えて、早朝勤行時(明けの七ッと六ッの間)にも打鐘されたところから、当院は「十三鐘」の通称でも親しまれている。
 なお、大御堂前庭には、春日神鹿をあやまって殺傷した少年三作(さんさく)を石子詰(いしこづめ)の刑に処したと伝承される塚がある。元禄時代、近松門左衛門がこの伝説を取材して、浄瑠璃「十三鐘」を草したことは有名である。

 

 
ならまち東部(奈良市)

 地図上の寺社名(赤色)をクリックすると、詳細なページが開きます。
 寺社が存在する正確な位置は、寺社マーク(卍)の辺りになります。



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新薬師寺


白毫寺


白毫寺本堂


不空院
第八番霊場 新薬師寺

 新薬師寺は、天平19年(747)に、光明皇后が聖武天皇の病気平癒を祈願して造営したといわれる華厳宗のお寺です。
 西の京ある薬師寺(法相宗)に対するものではなく、新しいという「新」ではなく、霊験「あらたかな」という意味です。

第六十三番霊場 白毫寺

 高台にあるため、奈良市街を眼下に見渡せる境内からの眺めが素晴らしいお寺です。

白毫寺案内:(白豪寺パンフレットより)
 白毫寺は、奈良市東部の山なみ、若草山・春日山に続いて南に重なる高円山のふもとにある。この高円の野に天智天皇の第七皇子、志賀皇子の離宮があり、その山荘を寺としたと伝えられる。当時の草創については、天智天皇の後願によるもの、勤操の岩淵寺の一院とするするものなど諸説あるが定かでない、「南都白毫寺一切経縁起」によれば、鎌倉中期に西大寺で真言律宗をおこし、多くの寺を復興、またさまざまな社会事業に関わった興正菩薩叡尊が東寺を再興・整備したとされる。弘長元年(1261)、叡尊の弟子道照が宋より大宋一切経の摺本を持ち帰り、一切経転読の基を開いた。以来当時を一切経寺と呼び、現在も4月8日に一切経法要が営まれる。「寒さの果ても彼岸まで、まだあるわいな一切経」の句が人々の口伝えに伝えられ、その法要の後、本当の春が奈良に訪れるとされた。明応6年(1497)、古市・筒井勢による戦乱で殆どの堂宇を焼かれるなど度重なる兵火・雷火で堂塔を失う憂き目を追っているが、江戸時代寛永年間に興福寺の学僧空慶上人が再興し、江戸幕府からご朱印寺として禄高50石を扶持され繁栄した。なお白毫とは仏の眉間にあり光明を放つという白い毛のことであり、寺号はそれにちなむものと思われる。
 現在、宝蔵に本尊阿弥陀如来座像をはじめ閻魔大王座像ほか重要文化財を、本堂(江戸時代)には中興の祖空慶上人をおまつりしている。境内には不動、弥勒、地蔵などの石仏が点在し、西をのぞめば奈良市街を眼下に見渡せる。春には樹齢およそ400年の五色椿(県天然記念物)をはじめ数多くの椿が咲き、秋は参道を紅や白の萩の花が覆って、季節の風物を求めていにしえの人々が遊んだ往時をしのばせる。

第七十七番霊場 不空院

 鎌倉時代には叡尊、円晴、覚盛、有厳らが戒律を講じたという由緒ある古刹。
 また近世では、本堂に弁財天が安置されていることから、「かけこみ寺」として「ならまち」の芸妓衆の信仰を集めていました。

   
きたまち(奈良市)

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真言院


崇徳寺


空海寺


般若寺


戒壇院(戒壇堂)
 「きたまち」は、元興寺の旧境内を中心とする「ならまち」より、北側の市街地を指す地域(近鉄奈良駅前の道路を渡った北側一帯の総称)。
 江戸時代は、東大寺に向かう奈良の玄関口として旅籠や商店が並び、京都へ通じる街道を中心に栄えた地域である。
 現在でも、歴史を感じさせる、レトロな建物や街並みが往時を偲ばせる。

第十二番霊場 真言院

 東大寺塔頭寺院の一つで、東大寺の別当も務めた空海が、弘仁13年(821)、勅許を受けて開設した灌頂(かんじょう)道場が始まりで、南都における真言教学の拠点ともいわれる。



第十三番霊場 崇徳寺

崇徳寺案内:(崇徳寺パンフレットより)
 この寺の寺域は、かつては興福寺の別院 花林院のあった所である。治承4年(1180)平重衡(たいらのしげひら)による南都焼打の際焼失して以来荒地のままで、周囲に人家もなかったようだ。天正年間(1573-1592)の頃、一人の僧が、この地に庵を結んで、念仏修業に励んで、精進していた。
 このことを聞き伝えて多くの人々が、この僧の徳を慕って集まって来るようになった。この僧は駿河出身で、少年の頃、徳川家康公と竹馬の友であったという。幼い時から出家の志が深くて、諸国行脚で修業の末、この地に留まったと伝えられる。

第十四番霊場 空海寺

 東大寺の末寺で、本堂内に空海が造ったと伝わる霊窟があり、そこに本尊を安置したため「穴地蔵」と呼ばれていたが、享保19年(1734)の本堂改築寺にゆかりの遺跡は失われている。
 東大寺の僧侶が亡くなった時に葬儀を行ない、その墓地が置かれるのが空海寺で、司馬遼太郎の『街道をゆく』にも紹介されている寺。

第十五番霊場 般若寺

 真言律宗の寺院で、山号は法性山と呼び、10月の最盛期には境内一面に咲くコスモスはまことに見事で、コスモス寺の名でも知られている。
 創建事情や時期については、諸説があって正確なところは不明である。ただ、寺伝によるところでは、舒明天皇元年(629)に高句麗の僧・慧灌(えかん)の創建とされ、天平7年(735)に聖武天皇が伽藍を建立し、十三重石塔を建てて天皇自筆の大般若経を安置したといわれている。

番外霊場 戒壇院

 東大寺の数多くある伽藍の内の一つで、出家者が受戒(正規の僧となるための戒律を授けられる)するための施設として、天平勝宝7歳(755)に鑑真和上を招いて創建された。現在の建物は享保18年(1733)の再建である。
 ここ東大寺戒壇院と福岡県観世音寺と栃木県薬師寺は、奈良時代に設けられた「日本三戒壇」と呼ばれ、僧尼には法制上の優遇措置があって、律令によって管理されていた。


   
佐紀(奈良市)  
   
 いにしえの万葉の時代より、奈良市北部に横たわる低い丘陵地帯の平城山(ならやま)の西部一帯を「佐紀」、東部一帯を「佐保」と呼んでました。
 「佐紀」を現在の地名でいうと、平城宮跡を含めた佐紀町を中心に、二条町、山陵町などに及ぶ地域となるでしょう。
 したがって、「安楽寺」(中山町)は「佐紀」から外れますが、巡拝の際に、一緒に廻るのが便利なので、あえて組み入れました。

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不退寺山門


不退寺本堂


海龍王寺


円福寺


安楽寺


秋篠寺山門


秋篠寺境内 東塔の礎石


西大寺


喜光寺


法華寺
第十八番霊場 不退寺

 山号は金龍山、寺号は詳しくは不退寺法輪寺と称する、真言律宗の寺院。仁明天皇の勅願を受け、在原業平が開基したとの由緒から「業平寺」とも呼ばれる。
 地誌類が伝える縁起によれば、大同4年(809)、平城天皇が譲位してのち隠棲し「萱の御所」と称したのが始まりとされ、その後在原業平が暮らしたという。伊勢神宮参詣時に受けた神勅を機に、業平が自ら聖観音像を刻み、「不退転法輪寺」と号して阿保親王の菩提を弔ったのが、寺院としての始まりと伝えられている。

第十九番霊場 海龍王寺

海龍王寺案内:(海龍王寺案内板より)
 飛鳥時代に毘沙門天を安置して建立された寺院を天平3年(731)、遣唐使として中国に渡っていた初代住持の玄ムが、一切経五千余巻と新しい仏法との両方を無事に我が国にもたらすことを願ったのと、平城宮の東北(鬼門)の方角を護るため光明皇后により、海龍王寺としてあららめられました。
 玄ムが帰国の途中、東シナ海で暴風雨に襲われた際、乗船に収められていた海龍王経を一心に唱えたところ九死に一生を得て無事に帰国を果たしたことから遣唐使の渡海安全祈願を営むようになり、現在も旅行や留学に赴かれる方々が参拝されています。
 また、写経も盛んに行われていたようで、光明皇后御筆とされる自在王菩薩経、般若心経の原本である弘法大師御筆とされる般若心経(隅寺新経)が伝えられています。
 創建当時の建物は飛鳥時代の五重搭として唯一現存する五重小搭[国宝]と西金堂[重文]が残り、本堂[江戸時代・市文]には聖武天皇から賜った寺門勅額[重文]をはじめ、金泥のお姿に装身具と切金文様が美しい鎌倉時代に造立された十一面観音立像[重文]、文殊菩薩立像[重文]などが安置され、同時期に建立された経堂[重文]とともに、趣き深いたたずまいを創り出しています。

第二十番霊場 円福寺

 生駒市有里にも、第三十六番霊場で同名の円福寺があるが、こちらは奈良市佐紀町の円福寺です。
 融通念仏宗の寺院で、創建は不明ですが、寛文13年(1673)に専光が中興されたとされる。

第二十一番霊場 安楽寺

 真言宗の寺院で、350年ほど前に、地元の豪族山中氏の別宅を寺にしたと伝わる。

第二十三番霊場 秋篠寺

 宗派はもともと法相宗と真言宗を兼学し、浄土宗に属した時期もあるが、現在は単立宗教法人として運営されている。
 奈良時代の僧・善珠が創建され、地元の豪族秋篠氏の氏寺とも言われているが、確かなことはわかっていない。
 多くの仏像が安置されてますが、その中でも有名なのが伎芸天立像で、「秋篠宮」妃殿下である「紀子さま」の横顔に似てると評判になり、一時はブーム的存在にもなって賑わいました。
 なお、境内にある「東塔の礎石」は、写真撮影だけでなく、実物を手で触れることの出来る、珍しい貴重な遺構です。
 また、珍しいと言えば、普通は御朱印をいただくことが出来ないお寺です。ただし、年に一度、6月6日の秘伝大元帥明王の特別御開扉の時にだけいただけるそうです。

第二十四番霊場 西大寺

 真言律宗総本山の寺院で、奈良時代に孝謙天皇(重祚して称徳天皇)の発願により、僧・常騰(じょうとう)を開山として建立された。
 南都七大寺の一つとして、奈良時代には壮大な伽藍を誇ったが、平安時代に入って衰退し、興福寺の支配下に入っていた。その後、鎌倉時代の僧・叡尊によって中興された。

第二十五番霊場 喜光寺

喜光寺案内:(喜光寺案内板より)
 当時は養老5年(721)、天平の僧、行基菩薩によって創建された寺である。
 この地は平城京の右京三条三坊に当り、通称菅原の里と言われ、寺名も菅原寺と呼ばれていた。行基菩薩は東大寺造営に当り、この寺の本堂を参考にした事から、本堂は「大仏殿の試みの堂」としても知られている。
 天平20年(748)、聖武天皇は菅原寺に御幸された折、ご本尊より不思議な光明を感得され、そのことを喜ばれ、「喜光寺」の寺額を与えたという。以後、菅原寺を喜光寺と改名したといわれている。
 天平21年(749)2月2日、当寺の東南院に於いて行基菩薩は入寂された遺言により火葬とし、母の墓処のほとりに埋葬した。その後、喜光寺は広い寺領を所有していたが、平安末期から鎌倉時代にかけて荒廃衰退した。
 本堂(金堂)は室町時代の初期(1400頃)に再建され現在、国の重要文化財に指定されている。
 ご本尊は、平安時代後期の造像で、丈六の阿弥陀如来座像である。現在、国の重要文化財として信仰されている。
 昭和44年(1969)、発掘調査が行われ、本堂基壇と南大門跡が検出され、奈良時代後期の軒瓦など発見された。
 現在は法相宗に所属し、薬師寺の別格本山として活躍している。

別格霊場 法華寺

法華寺案内(法華寺パンフレットより)
 法華寺は、聖武天皇御願の日本総国分寺である東大寺に対して、光明皇后御願に成る日本総国分尼寺として創められた法華滅罪寺であります。寺地は平城宮の東北に位し、藤原不比等公の邸宅だったのを、皇后が先帝ならびに老妣のおんために改めて伽藍となし給うたもので、以来星霜1250年、おん慈しみ深かった皇后の御精神を伝え、道心堅固に護られてきた女人道場「法華寺御所」であります。従って草創以来朝野の尊崇を集め、天平勝宝元年には詔して墾田1000町歩を施入せられ、大同年中には駿河、美濃、上野、武蔵、越後、伯耆、出雲その他に寺封550個を持つなど、天平の大伽藍にふさわしく堂宇もまた金堂、講堂、東西両塔、阿弥陀浄土院と荘厳のかぎりをつくしていたのであります。
 しかしながら時勢とともに衰え、中世の記録はさだかではありませんが、叡尊興正菩薩の再興、さらには豊臣秀頼公の外護、徳川氏の寺領220石寄進などあったとは申せ、ついにほとんど旧来の寺観を失うて今日に及びました。寺史を繙いて感慨を禁じえぬもの、ひとり当寺を護るもののみではありますまい。ただ、そのなかにあって、今なお世の名宝と仰がれる本尊をはじめ幾多の文化財を遺してきたことは、お互いにありがたいと申さねばなりません。
 貞明皇后様におかせられましては、大正12年には本尊御宝前に菊御紋章入り御燈籠一対を御献納遊ばされ、大正15年5月には祈願佛を当寺へ御遷座遊ばされましたが、以来門主は日夜、御祈願申しあげています。

   
西ノ京(奈良市)  
 
 西の京は広義では、平城京の中心を南北に走る朱雀大路(すざくおおじ)で二分された西側で、右京とも呼ばれる地域を指す。
 ただし、それではあまりにも広範囲なので、現在の奈良観光においては、「西の京」というと、近鉄橿原線「西の京駅」周辺を指す場合が一般的である。なお、現在の「西の京駅」は、平城京の「五条西二坊下る」に相当する。
 このあたりは、平城宮より離れていることもあって、のどかな田園風景を堪能することができる。
 また、近鉄橿原線の東を並行して流れる秋篠川は、平城京造営時に条坊に合わせて直線化された人工河川で、物資を運ぶ水路として活用され、「西の堀川」とも呼ばれてました。いにしえを偲んで散策するには格好の場所でしょう。

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唐招提寺金堂


唐招提寺奥院(西方院)


極楽寺


極楽寺石碑


薬師寺西搭
第二十六番霊場 唐招提寺

唐招提寺案内:(唐招提寺パンフレットより)
 ここは奈良市五条町、奈良の郊外といった感じだが、都が奈良にあった1200年前は、平城京右京五条二坊に当り、いわば首都の中心街区であった。天平宝字3年(759)天武天皇の皇子新田部親王の旧邸地を賜ってここに唐招提寺が創建された。唐の国から来朝した鑑真和上の招堤−み仏のもとに修行する人たちの場という意味を寺号として掲げる。別に建初律寺とも称するが、これは中国四文律の南山宗による戒律を軸として教学に励むわが国最初の律寺ということである。今も日本律宗総本山として仰がれている。
 開山唐僧鑑真和上(過海大師)は大唐国揚州大明寺の高僧。わが聖武天皇の寵招に応え、授戒の師として来朝することになったが、天平勝宝6年(754)東大寺に到着するまで12年間、前後5回に及ぶ難航海に失敗したにも拘らず、初志を曲げず、奈良の都に着いた時は両眼を失明していたほどである。かくて大仏殿の前に戒壇を設け、聖武・孝謙両帝をはじめ、わが国の多くの高僧たちに受戒した。すでに仏教国家の形態を整えていたわが国が、画竜点睛の実を挙げたのは、まさに大和上の功績である。このことは中学校の教科書にも出ている事績だがひとり仏教史の上だけでなく、ひろく天平文化に及ぼした影響は計り知れざるものがある。まことに日本の大功労者であった。

第二十七番霊場 唐招提寺奥院

 唐招提寺の塔頭寺院で、正しくは西方院と言い、唐招提寺の僧侶をの墓所です。
 通常は一般公開されてませんが、境内には入れました。

第二十九番霊場 極楽寺

 奈良市山村町にも第七十二番霊場で同名の極楽寺(廃寺)があるが、こちらは奈良市七条町の極楽寺です。
 不思議にも、石碑には「第二十八・二十九番霊場」とあります。石碑建立時には二十八番霊場を兼ねていたと思われます。現在の二十八番霊場は、生駒市有里の往生院(廃寺)になります。

第四十九番霊場 薬師寺

薬師寺案内:(薬師寺パンフレットより)
 薬師寺は天武天皇により発願(680)、持統天皇によって本尊開眼(697)、さらに文武天皇の御代に至り、飛鳥の地において堂宇の完成を見ました。その後、平城遷都(710)に伴ない現在地に移されたものです。
 当時は南都七大寺の一つとして、その大伽藍はわが国随一の装美を誇りました。すなわち金堂を中心に東西両塔、講堂、回廊が立ち並び、なかでも裳階(もこし)を施した金堂や塔のたたずまいの美しさは、”竜宮造り”と呼ばれて、人々の目を奪いました。
 爾来1300年を経、この間、幾多の災害を受け、特に享禄元年(1528)の兵火では、東塔(国宝・白鳳時代)を除く諸堂が灰燼(かいじん)に帰しました。
 昭和42年、高田好胤管主(かんず)により薬師寺白鳳伽藍の復興が発願されました。失われた道東の復興を薬師寺の第悲願とし、お写経勧進によって、金堂、西塔、中門、回廊、更には平成15年3月に大講堂が復興され、白鳳伽藍の輪奐美(りんかんび)として甦りました。

   
奈良市南部

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奈良市南部 JR桜井線近辺


奈良市南部 山側

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龍象寺


帯解寺


円満寺


満願寺


極楽寺


正暦寺


弘仁寺


円照寺本堂(茅葺)
第六十七番霊場 龍象寺

 山号を宝寿山と号し(真言宗)、聖武天皇の勅願所として、天平2年(730)に行基が創建したと伝えられ、安産祈願のお寺です。

第六十八番霊場 帯解寺

 山号を子安山と号し(華厳宗)、前の龍象寺と同じく、安産祈願のお寺です。
 元は、霊松山といい、空海の師である勤操大徳によって開かれた。その後、天安2年(858)、文徳天皇后の染殿皇后(藤原明子)が懐妊祈願をしたところ、親王を授かったことから、文徳天皇の勅願により伽藍が建立され、勅命によって帯解寺と名乗るようになったとされる。
 近世では、美智子皇后、雅子皇太子妃をはじめ、三笠宮、高円宮、秋篠宮などの皇族が安産祈願を行っており、安産祈願のメッカ的存在になった。

第六十九番霊場 円満寺

 現在は廃寺となって、下山町公民館として利用されている。
 
第七十番霊場 満願寺

 建立された時期や由緒など明らかでないが、寺内に安置される「木造薬師如来坐像」は、奈良市指定文化財に指定されている。

「木造薬師如来坐像」案内:(奈良市教育委員会案内板より)
 昭和60年3月7日指定。像高39.8cm、桧材、寄木造。
 光背の墨書銘から、室町時代に活躍した宿院仏師の基準作で、永禄4年(1561)に作られたことがわかる。
 また、永禄2年(1559)に松永久秀が信貴山城から大和国に入った際の戦乱が、この地まで及んだという事実も判明した。(昭和60年4月)

第七十二番霊場 極楽寺

 奈良市七条町にも第二十九番霊場で同名の極楽寺があるが、こちらは奈良市山村町の極楽寺です。
 廃寺のようですが、玄関?には、下記の表札が掲げられていました。(左から)
「山村町公民館」
「浄土宗 一心山 極楽寺」
「弘法大師大和北部八十八ヶ所 当寺は七十二番」

第七十三番霊場 正暦寺

 参道に沿って流れる菩提仙川は、その昔、中尾川ともいわれ、この清流を使って醸造された清酒の歴史は古く、日本清酒発祥の地とも言われてます。
 また、秋ともなれば紅葉が全山を染め、その鮮やかさをめでて、古人は「錦の里」と名づけたごとく、風光明媚な場所にあるお寺です。

正暦寺案内:(正暦寺パンフレットより)
 正暦3年(992)、一条天皇の勅命を受けて兼俊僧正(九条兼家の子)が創建。龍華樹院(りゅうげじゅいん)とも称す。創建当初は、堂塔・伽藍を中心に86坊が渓流をはさんで建ち並び、勅願寺としての偉容壮麗を誇っていた。
 ところが、治承4年(1180)、平重衡(しげひら)の南都焼き打ちの際、その類焼を受け、全山全焼、寺領は没収され一時は廃墟と化した。その後、建保6年(1218)、興福寺一乗院大乗院住職信円僧正(関白藤原忠通の子)が、法相宗の学問所として再興、昔にまさる興盛を極めた。また、13世紀初め(建暦年間)頃に、蓮光法師(法然上人の弟子)がこの地に草庵(本殿を安養院・別殿を迎接院)を結び、浄土門の法灯を掲げたこともあった。
 このように、当山は、真言密教・法相宗の教学禅定の道場、浄土宗の念仏道場として深く世人の尊崇を集めてきた。

第七十四番霊場 弘仁寺

 山号を虚空蔵山(こくぞうざん)と号し(真言宗)、弘仁5年(814)、嵯峨天皇の勅願により、空海が創建したと伝えられる。元亀3年(1572)、兵火により伽藍の大部分が焼失するが、寛永6年(1629)、宗全によって再興される。

別格霊場 円照寺

 山号を普門山(ふもんざん)と号し、臨済宗妙心寺派の尼寺で、斑鳩の中宮寺、佐保路の法華寺と共に、大和三門跡と呼ばれる門跡寺院である。
 また、華道の「山村御流」の家元でもあり、山村御殿とも呼ばれている。
 非公開寺院のため拝観は不可となっているが、山門をくぐり庭先の厠までは、立ち入ることができた。

   
奈良市西部

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奈良市西部北
(この地図の右下と、右の奈良市西部南の左上
の「とみお=富雄」駅で、繋いでご覧下さい)

奈良市西部南
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圓證寺


霊山寺


霊山寺地蔵院


根聖院
第十一番霊場 圓證寺

 正しい所在地は、行政区画でいうと生駒市になりますが、巡拝に便利が良いので、奈良市西部に分類しました。

 宗派は真言律宗で、山号はありません。
 大和国の戦国大名・筒井氏ゆかりの寺院で、1985年に移転するまでは、近鉄奈良駅近くの奈良市林小路町(近鉄奈良駅南方の繁華街に位置し、ファッションビルの奈良ビブレ付近がその跡地にあたる)にありました。
 いきなり十一番で、不審に思われた方もいらっしゃると思いますが、元々は十一番に相応しい場所にあったということです。ちなみに、十番台は、「ならまち」「きたまち」辺りになります。

第三十一番霊場 霊山寺

霊山寺案内:(霊山寺パンフレットより)
 登美山鼻高(とみやまびこう) 霊山寺(りょうせんじ)と号す。
 縁起は、1300余年の昔右大臣小野富人(通称鼻高仙人)が、湯屋に薬師三尊仏を祀り、薬師風呂にて諸人の病を治したのが遠因である。
 創建は、天平8年(736)聖武天皇の勅命で、行基菩薩が伽藍を建立。印度婆羅門僧菩薩僊那は地相がインド霊鷲山に似ているので霊山寺とと名づけた。境内に菩薩僊那の墓がある。
 その後、鎌倉時代に北条時頼の帰依厚く、多くの寺領を下付され、本堂の改築、伽藍の大修理成り、豊臣秀吉、徳川家康、また寺領を寄進、以降徳川幕府の御朱印寺として寺勢21か坊を数えた。明治維新の廃仏毀釈により伽藍の規模半減、200体の仏像焼却に遭うも、昭和平成時代に至り再度隆盛を見る。 

第三十二番霊場 霊山寺地蔵院

 現在は、特別な行事以外には利用されてないようであるが、本堂の南西約100mの、山内で奥側に存在する。

第三十三番霊場 根聖院

 正しくは「こんしょういん」と読みます。
 山号を鳥見山と号し(真言律宗)、生駒山にある寶山寺の末寺(本山・本寺の支配下にある寺)にあたる。
 ややわかりにくい場所にあるが、その時には、「添御県坐神社」の参道を登り切って、丘の上の建つ社の北隣です。ちなみに、根聖院は、「添御県坐神社」の別当寺(神仏習合が許されていた江戸時代以前に、神社に付属して置かれた寺 )にあたる。


   
大和郡山市街

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愛染堂跡地の石碑


釈尊寺


薬園寺


薬園寺本堂に掛かる額


春岳院


春岳院山門前の石碑
第三十番霊場 愛染堂

 廃寺で跡かたもないと聞いていたが、探すのには苦労しました。
 巡拝道順を記した案内用チラシには、「九条何和町」となっているが、現在は「九条町」である。

 江戸時代初期、愛染堂があった地域は「九条町」(平城京の右京九条にあたる)と呼ばれていたが、いつ頃からか、「難波(なにわ)」に至る「大坂街道」の辻番所が置かれていることから、「何和町」と呼ばれるようになった。
 その後、近世になって、「九条町」と合併して「九条何和町」となり、町名変更で現在の「九条町」になったと思われる。
 愛染堂は、真言宗仁和寺(現在は無い)の末寺で、元は当時の九条村に草創され、快弁大法師が愛染明王、堂や坊舎を現在の地に移転し、愛染院と呼ばれていた。その後、元和元年(1615)、兵火により焼失し、翌年、弟子の快秀が再興したとされる。

 愛染堂跡地に辿りつくには、近鉄橿原線の九条駅を東に出て、駅前通りを南下する。すぐ左手(東側)に「寿司屋」があり、次に「薬局」を通り過ぎると、十字路があるので、今度は右手(西側)を見ながら、石碑を目印に注意深く歩く(九条駅から約150m)。現在は集会所になっている。

第五十八番霊場 釈尊寺

 ややわかりにくいところにありますが、むしろ隣の神社を目安にするのが探しやすいでしょう。
 廃寺となっていますが、御朱印はいただけるようで、お寺の柱には、「朱印納経は高田口自治会長宅、又は吉田ヘアーサロンへ」との看板が掲げてあります。

第五十九番霊場 薬園寺

 山号を医王山と号し(真言宗御室派)、元和年間(1615-24)、高野山より僧了盤が郡山に来て、薬園八幡宮境内に道場を開いたのが、はじまりとされる。
 本堂には、大阪神代講より奉納された額が掛かっている。
  第五十八番 釈尊寺
  「てらのおもみづに うちりし かげもなを
   いけのはちすも あらたなりけり」
  第五十九番 薬園寺
  「いくたびもまいる こころはやくおんじ
   はこぶあゆみに つみもきへなん」

第六十一番霊場 春岳院

 大和郡山といえば、豊臣秀長(豊臣秀吉の弟)が繁栄の礎を作った町であるが、ここ春岳院は、秀長の菩提寺である。
 元は東光院と号したが、秀長の菩提寺であった大光院が京都への移築時、位牌を東光院に移して、秀長の戒名「大光院殿前亜相春岳紹栄大居士」の「春岳」をとって、春岳院と改号した。

   
大和郡山市南部

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(北域)


(南域)

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阿弥陀院


光明院太師堂


正福寺


地蔵寺


額安寺本堂
第五十七番霊場 阿弥陀院

 阿弥陀院は、番条環濠集落を本拠とした衆徒番条氏の菩提寺で、高野山真言宗のお寺です。
 奈良には環濠集落がいくつか残っているが、ここ番条は、環濠が昔ながらの状態で現存していることで知られます。

第六十四番霊場 光明院大師堂

 創建は元禄年間(1558−1570)、中興開山は僧良春と伝えられています。現在は廃寺となっており、小さなお堂が残るだけです。 

第六十五番霊場 正福寺

 真言宗のお寺で、淳仁天皇の開基と伝えられています。

第七十八番霊場 地蔵寺

 平群町吉新にも第四十四番霊場で同名の地蔵寺(廃寺)があるが、こちらは大和郡山市新庄町の地蔵寺です。
 山号を鉾立山と号し(真言宗豊山派)、享保元年(1716)、山口直友の菩提寺として建立された。

第八十七番霊場 額安寺

額安寺案内:(大和郡山市案内板より)
 聖徳太子は、ここに学問修行の道場「熊凝精舎」を建てられ、叔母君推古天皇は、この精舎に寺号「額安寺」を賜ったと伝えられています。
 このあたりは古代水運の要所で外国使臣や文物の上陸場所であり、額安寺は、その受け入れ口に規模壮大な七堂伽藍を備えた寺院として臨んでいました。しかし時と共に衰頽し、鎌倉時代には僧忍性等によって一時復興されましたが、のち兵火のため講堂一宇(今の本堂)を残すのみとなってしまいました。昔日の俤は失われましたが、額安寺の根本本尊は最古の虚空蔵菩薩像として極めて著名であり、奈良時代の法灯は連綿と今に受け継がれています。

 もし、上記の案内が正しいとすると、「熊凝精舎」(くまごりしょうじゃ)は移転し、「百済大寺」(くだらのおおてら)、「高市大寺」(たけちのおおてら)、「大官大寺」(だいかんだいじ)と改称を繰り返し、平城京遷都とともに寺も新都へ移転して「大安寺」になったとするのが通説なので、額安寺は第一番霊場の大安寺のルーツとなる。(ただし、熊凝精舎の建立場所について諸説あり)

 なお、額安寺から北へ約200mの所に(額田部窯跡のすぐ東)、通称「鎌倉墓」と呼ばれる古い墓が八基安置されている五輪塔群があって、重要文化財にも指定されている。正面の一番大きな塔は僧忍性の墓で、遺骨は鎌倉極楽寺・生駒竹林寺※・額安寺の三寺に分骨されたと伝えられている。(※生駒市有里にある第三十七番霊場の竹林寺)



額安寺五輪塔
   
大和郡山市矢田丘陵

 矢田丘陵は、大和盆地と生駒山地の間に、南北に延びる標高300m程の丘陵で、遊歩道や標識なども整理されていて、格好のハイキングコースになっている。
 この矢田丘陵には、大和北部八十八ヶ所のうち、4つの霊場が存在しているが、ぜひハイキングを兼ねて巡拝し、丘陵の植物や野鳥などの自然を満喫してください。

 地図上の寺社名(赤色)をクリックすると、詳細なページが開きます。
 寺社が存在する正確な位置は、寺社マーク(卍)の辺りになります。
   




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賢聖院


松尾山南惣門(法隆寺側の参道)


松尾山三重塔


矢田寺


矢田寺本堂


慈光院参道


慈光院茨木城楼門(山門)
(これより先は有料)


富雄川畔より望む慈光院書院の屋根
第二十二番霊場 賢聖院

 賢聖院(けんじょういん)は、「榁木山弘法大師堂」(むろのきざんだいしどう)と号し、通称「榁の木のお大師さん」と呼ばれて、人々の信仰を集めています。
 元は法隆寺の塔頭寺院であり、明治29年(1896)、山門と共に、ここ榁木(榁木峠)の地に移転しました。

第五十四番霊場 松尾寺

松尾山案内:(松尾山パンフレットより)
 厄除観音を本尊とする日本最古の厄除霊場・厄除祈祷の名刹 大本山 松尾山(まつのおざん)は、太古の人々が神仏の化身とも神の座をとも思って天を拝したという 天拝山の遺跡である美しい大岩を背にして、本堂(元金堂)を中心に、その左に三重塔・十三重石塔・西国三十三所観音(石仏)すぐ上に養老年間鎮守として勧請された松尾大明神を祀る松尾山神社など神仏習合の古刹であり 境内にはこの他に、弘法大師が自ら刻まれた霊験あらたかな大黒天はじめ恵比寿など七福神を祀る七福神堂(元大黒堂)、水子・先祖・その他の回向を行う阿弥陀様と観音勢至の両菩薩を祀る阿弥陀堂、山岳信仰と松尾山修験道の歴史を伝える行者堂や護摩壇あり、山による地勢、背景の樹林と共に、自然と景観に恵まれた風光明媚の天下の名刹であります。

 松尾山は養老2年(718)天武天皇の皇子舎人親王が、勅命によって日本書紀を編纂の御時 42才の厄歳でありましたので、日本書紀の無事完成と厄除の願いをかけて建立された日本最古の厄除霊場であります。親王が松尾山に参籠修業しご祈願の養老2年(約1300年昔)2月初め午の日、東の山に紫の雲たなびき(瑞雲)千手千眼観世音菩薩天降りご出現なされたという松尾山縁起により、国運隆昌・国体安穏をご祈祷申上げる勅願寺として歴代皇室の御叡信厚く、後水尾天皇もご持仏の如意輪観音を下された由緒ある寺であります。御本尊の厄除観音は千の手、千の眼をお持ちになる千手千眼観世音菩薩(秘仏)で、はかりしることの出来ない広大な慈悲の力をそなえられ、殊に霊験あらたかと伝えられます。毎年初詣(1月)より2月〜3月の厄除けまつり、ならびに初午の日等例祭日曜祝祭日には遠く全国各地より、”まつのおさん詣り(やくよけ祈願)”で境内も参道も大変賑わいます。

第五十五番霊場 矢田寺

 今から約1300年前、大海人皇子(おおあまのみこ=後の天武天皇)が、壬申の乱の戦勝祈願のため矢田山に登られ、即位後の白鳳4年(676)、智通僧上に勅せられて、七堂伽欄48カ所坊を造営されたのが開基とされる。
 金剛山寺(こんごうせんじ)と言うのが正しいが、この地が万葉の昔より「矢田の里」と呼ばれていたことにちなみ、「矢田のお地蔵さん」で親しまれ、通称「矢田寺」(やたでら)と呼ばれている。
 境内には、春の桜にツツジ、初夏のアジサイ、夏のキョウチクトウ、秋の萩に紅葉、初冬の山茶花まで、四季折々に楽しませてくれますが、特にアジサイが有名で、「あじさい寺」とも呼ばれる。

第五十六番霊場 矢田寺観音堂

 残念ながら、観音堂を見極めることが出来ませんでしたが、本堂の右手奥に朽ちたお堂があり、おそらくそれと思ってます。
 話は変わるが、境内裏山には、「地蔵山八十八ヶ所霊場めぐり」があります。ミニ霊場めぐりですが、一周約4500mのちょっとしたハイキングコースです。(詳細はこちら、霊場めぐりのイラストマップも入手できます)

別格霊場 慈光院

 平成20(2008)年頃に大安寺にて配布されていたチラシには、別格霊場として慈光院が追加されていたとの情報を得たので、追加を行った。

 松尾寺よりほぼ東にまっすぐ下ると、徒歩約45分(約3Km)で慈光院である。なお、最寄の交通機関は、JR関西本線・大和小泉駅より徒歩約20分(約1.3Km)である。

 慈光院には、何度か訪れたことはあるが、適当な写真が無かったので、写真撮影のため再度訪れてみた。

 慈光院の特徴は、良くも悪しきも、奈良にあって奈良らしくない寺院で、まるで京都であるような錯覚に陥る。
 したがって、奈良らしい素朴な古刹を期待するとやや的外れだが、奈良ではなかなか味わえない、貴重な寺院であることは間違いない。

慈光院案内:(慈光院パンフレットより)
 慈光院は寛文3年(1663)当地の大名であった片桐石見守貞昌(石州)が、大徳寺185世玉舟宗璠(大徹明應禅師)を開山に迎え、父貞隆(慈光院殿雪庭宗立居士)の菩提寺として自分の領地内に建立した臨済宗大徳寺派の寺院である。
 片桐石州の説いた茶の教えは武士の間へと広がってゆき、徳川4代将軍の家綱をはじめ各地の大名の多くが学ぶようになって、石州は茶人としての名を残すことになる。
 それゆえ慈光院自体も荘厳な雰囲気のものでなく、境内全体が一つの茶席風情になるよう考えられており、表の門や玄関までの道、座敷や庭園、そして露地を通って小間の席という茶の湯で人を招く場合に必要な場所の一揃えが石州の演出そのままに残されている。
 現在このように一人の茶人の総合的な演出を、300年以上の歳月を越えて眼にすることができるという意味では全国的に見ても大変貴重な場所となっている。


天理市

 天理市は、日本で唯一宗教団体の名称が市名となっていて、市の中心部には天理教※の関連施設が集中するなど、宗教都市として知られる。※天保9年(1838)、農民の妻中山みきが41歳の時、大和国山辺郡(現・天理市)にて立教する。
 そのせいか、天理市には仏教寺院が少なく、大和北部八十八ヶ所霊場としては七十五番の霊仙寺と八十番の長岳寺の2つのみで、また2つの霊場間は約8Km(直線距離)離れている。
 したがって、霊場を巡拝する場合、霊仙寺は奈良市南部、長岳寺は桜井市などと組み合わせるのが効率が良いと思います。

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(中央北端域)

この間、地図欠落部は約5300mあります


(中央南端域)

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霊仙寺


長岳寺鐘楼門
第七十五番霊場 霊仙寺

 正しくは釈迦院霊仙寺と言い、融通念仏宗のお寺です。

第八十番霊場 長岳寺

 山号を釜ノ口山と号し、高野山真言宗のお寺です。
 別名「花の寺」とも呼ばれ、春には桜・平戸ツツジ・カキツバタ・大手鞠、夏はアジサイ、秋は酔芙蓉・紅葉、冬は梅・藪ツバキなど、四季折々に訪れる者を楽しませてくれる。

長岳寺案内:(長岳寺パンフレットより)
 山の辺の道に残る長岳寺は天長元年(824)淳和天皇の勅願により弘法大師が大和神社の神宮寺として創建された古刹であり、盛時には塔中48ヶ坊、衆徒300余名をかぞえた。以来、幾多の栄枯盛衰を重ねながらも、1170余年間連綿と法燈を守り続け今日に至っている。
 千古の歴史を経て文化財も多く、重要文化財としては仏像5体、建造物4棟がある。
 大門をくぐり両側に平戸つつじの生垣が続く玉砂利の参道を行くと我が国最古の美しい鐘楼門につく。 12,000坪の広くて静かな境内には四季おりおりの花の香りが漂い、いにしえの趣と心の安らぎを求め、多くの参拝者があとを断たない花と文化財の寺である。

桜井市

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東光寺


聖林寺


平等寺


文殊院


文殊院西古墳


文殊院東古墳
第七十一番霊場 東光寺

 平群町三里中ノ宮にも第四十二番霊場で同名の東光寺(廃寺)があるが、こちらは桜井市谷の東光寺です。
 山号を磐余山(いわれさん)と号し、桜井駅南すぐ(約500m)の残丘である東光寺山(とんこじやま)に在し、境内から大和盆地を見降ろす景勝の地に建つ。万葉の世には、東光寺山を磐余山と呼ばれていたことが、山号の由来とされる。
 なお、境内には、ミニ四国八十八ヶ所があって、徒歩約1時間で巡礼できる。(詳細は東光寺ホームページのこちら


第七十六番霊場 聖林寺

 霊園山(りょうおんざん)聖林寺(しょうりんじ) と号し(真言宗室生寺派)、和銅5年(712)に当寺のはるか南方の山中に位置する妙楽寺(現在の談山神社)の別院として、藤原鎌足の長子・定慧(じょうえ)が創建したと伝えられる。
 鎌倉時代に、第八十一番霊場の平等寺の遍照院を移して再興し、江戸時代には本尊の地蔵石仏を安置して、いまの寺観が整う。 

第八十一番霊場 平等寺

平等寺案内:(平等寺案内板より)
 この寺は、581年聖徳太子が賊徒を平定するため、三輪明神に祈願して賊平定後十一面観音を彫んで寺を建立し大三輪寺と称したのにはじまります。鎌倉時代初期慶円上人を迎え平等寺と改称してから大伽藍が再建されました。徳川時代には修験道の霊地として大峰山に向う修験者が境内にある不動の滝に打たれて行をしました。

第八十二番霊場 文殊院

 山号を安部山と号すことから(華厳宗)、安部文殊院(あべもんじゅいん)と呼ばれ、切戸文殊(京都府宮津市)・亀岡文殊(山形県高畠町)とともに日本三文殊に数えられる。
 創建は飛鳥時代に、大化の改新で左大臣に登用された安倍倉梯麻呂(あべのくらはしまろ)の氏寺として建立されたと伝えられる。
 創建当時の寺地は現在の文殊院の西南300mのところにあり、鎌倉時代に現在地に移された。
 境内に在する文殊院西古墳および東古墳は、いずれも飛鳥時代の貴重な古墳で、古墳を有する数少ない寺院である。

文殊院西古墳案内:(文殊院案内板より)
 良質の花崗岩を入念に加工し、側壁も弓状態として壁面を調整、左右の石の数も揃え、対称に仕上げている。殊に玄室の天井石は、一枚岩で約15m2もあり、その巨大さに唖然とするばかりである。しかも天井石の中央部を薄く削り上げ、窮隆状(ドーム型の意)とし、天井石全体面をアーチ形に仕上げている手法は、心憎いばかりである。これらの点で、築造技術における古墳内部の美しさは、日本一の定評がある。
 この古墳は、当山を創建した大化改新の左大臣・安倍倉梯麻呂の墓と伝えられている。
 玄室には、弘法大師お手造りと伝う、平安時代の「願掛け不動」がまつられている。
 羨道※1 :8.0m(長さ)x2.3m(幅)x1.8m(高さ)
 玄室※2 :5.1m(長さ)x3.0m(幅)x2.6m(高さ)
  ※1(せんどう)玄室と外部をつなぐ通路
  ※2(げんしつ)棺を納める室

文殊院東古墳案内:(桜井市教育委員会案内板より)
 この古墳は、「実隆公記」によれば、室町時代にはすでに開口していた。墳丘は、方墳の可能性が強いが、墳丘の形状は不明である。内部構造は南南西に開口する横穴式石室で、石室規模は全長13.0m、玄室の長さ4.69m、幅は奥壁部で2.29m、玄門部で2.67m、高さ2.6m。羨道の長さ8.31m、幅は玄門部で1.75m、羨門部で2.04mを計測する。石室の石材は、玄室はほとんど加工されてない自然石で、羨道は切石の花崗岩である。羨道・玄室ともに遠近感を強調するために、入口より奥を狭くしている。
 羨道 :8.31m(長さ)x1.75〜2.04m(幅)
 玄室 :4.69m(長さ)x2.29〜2,67m(幅)x2.6m(高さ)

   
田原本町・広陵町

 田原本町(たわらもとちょう)と広陵町(こりょうちょう)は、ともに奈良盆地の中央付近に位置し、古代大和国の中では早くから開けたところで、現在は磯城郡田原本町、北葛城郡広陵町と行政郡は異なるものの、歴史文化的には共通点が多い。
 大和北部八十八ヶ所もしかり、この両町に2ヶ所づつの霊場があるが、歴史文化の共通点や地理的にも隣接することから、同時に巡拝することをおすすめする。

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本光明寺


泰楽寺表門


泰楽寺本堂


百済寺三重塔


与楽寺


「与楽寺の梵字池」の案内板
第八十三番霊場 本光明寺

本光明寺案内:(田原本町案内板より)
 昔は勝楽寺と号し、明治7年(1874)廃寺となったが、境内の梵字(ぼんじ)の池は、大和三楽寺の名残りを留めている。
 現寺は本山の西大寺が明治31年(1898)、天理の櫟本(いちのもと)にあった本光明寺の寺号と十一面観音像を与えて再興したものである。
 本尊の弘法大師像は、大師が京都の東寺と高野山を往来する途中、いつもこの地で休泊され、自分の姿を自ら彫刻、安置したと伝えられ、今も「八条のお大師さん」として人々の信仰を集めている。
 観音像は平安時代の作で、全体に彫は浅く、細身でおだやかな姿である。この像は国の文化財に指定されている。

第八十四番霊場 泰楽寺

泰楽寺(じんらくじ)案内:(田原本町案内板より)
 当寺の創建は、大化3年(647)聖徳太子の家臣、秦河勝(はたのかわかつ)によると伝えられ、平安時代には弘法大師が宿し「三教指帰」(さんごうしいき)を著したとも伝えられる由緒ある寺である。真言律宗に属し、千手観音が本尊で、聖徳太子・秦河勝を脇侍とする。
 付近一帯は大字秦庄といい、秦氏の居住地であった。泰楽寺の「楽」は神楽や猿(申)楽などの「楽」であり、泰楽寺とは、秦の楽人の意である。「風姿花伝」の大和の申楽四座の由来を記した条に、泰楽寺の門前に金春屋敷があったとあり、金春家は秦河勝の末裔と称していた。
 表門は珍しい土蔵門で中国風造りである。境内に梵字の”阿”をかたどった阿寺の池がある。
 寺伝によれば弘法大師が「三教指帰」というお経を執筆中、蛙の鳴声が喧(けたたま)しかったので、これを叱ったことから、それ以来この地では蛙の声はきかれないという。

第八十五番霊場 百済寺

 下記の案内版では、「百済寺」の前身は「百済大寺」とされているが、最近の調査では、「百済大寺」は桜井市の「吉備池廃寺」が有力である。

百済寺(くだらじ)案内:(百済寺案内板より)
 「日本書紀」舒明天皇11年(1639)12月の条に、「是の月百済川の側(ほとり)に九重搭(ここのこしのとう)を建つ」とあり、聖徳太子が平群郡熊凝(くまごり)に建てた熊凝精舎をこの地に移し、百済大寺と名づけたと伝えられる。
 その後、火災にあうが皇極天皇の時に再建し、天武天皇の時に至って伽藍を高市郡に移し、大官大寺と称したと伝えられるが、明確ではない。現存している三重塔は、鎌倉中期の建築(昭和5年解体修理)と考えられ、明治39年国の重要文化財に指定されている。本堂は大織冠(だいしょっかん)と呼ばれ、方三間単層、入母屋造りで、内陣に本尊毘沙門天像がまつられている。

第八十六番霊場 与楽寺

与楽寺(ようらくじ)案内:(与楽寺案内板より)
 三間四方の堂内に本尊の弘法大師坐像(奈良県指定文化財)を祀る。後頭部内側の墨書銘から応安6年(1373)に実尊、僧乗円の本願により大仏師僧行盛が制作したことがわかる。
 脇に置かれていた十一面観音立像(1233)の胎内からは8世紀頃の十一面観音立像(重要文化財)が発見された。マユミの木を使い、頭上面から蓮華座まで一材から彫り出し、冠飾・瓔珞など精緻に彫刻されている。王冠や頭上面の配置が異色であり、遣唐使等が請来した可能性がある。

与楽寺の梵字池案内:(与楽寺案内板より)
 空海(弘法大師)が与楽寺を訪れたのは、伝承によると唐から帰った頃(9世紀初期)である。その時にこの寺の荒廃ぶりを嘆き、ここに梵字をかたどった池を掘って、寺を再興したと伝えられている。梵字池について正確な記録は残っていないが、その最も古い記述は天和元年(1681)の大和名所記に、「あ・ばん・うんの三池」として、「弘法大師掘らせたまひしなり。あ字の池は田原本の未申の方にして泰楽寺にあり。ばん字の池は広瀬郡百済大寺にあり、うん字の池は広瀬郡田中村にあり。ここにして「三教指帰」を聖述あるとて池の中に三教島を築きたまひしも今にあり」とあるが、北葛城郡史、田原本町史、泰楽寺略縁起、百済寺縁起等に書かれた寺名と梵字との関係はみな異なっているので、ここでは広瀬郡田中村の与楽寺に梵字池があるとのみ記しておく。

   
橿原市

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観音寺


久米寺


久米寺多宝搭
第七十九番霊場 観音寺

 案内にある寺縁起の「おふささん」から、地元では「おふさ観音」と呼ばれて、親しまれています。また、所在地が小房町(おうさちょう)であることから、「おふさ観音」になったという説もあり。
 境内には、参詣者をもてなす目的で、イングリッシュローズを中心に約2,000株のバラとマチス・ハーブなどが栽培・展示されている。花を用いて曼荼羅を境内に表現したとして、「イングリッシュローズと花まんだらのお寺」とも呼ばれる。

観音寺案内:(観音寺パンフレットより)
 おふさ観音は、高野山真言宗の別格本山のお寺です。おふさ観音の本堂が建つこの辺り一帯は、かつて鯉ヶ淵(こいがふち)と呼ばれる大きな池でした。慶安3年(1650)4月早朝、土地の娘のおふささんが、池の辺を歩いていると白い亀の背中に乗った観音様が現れたそうです。そこで、この池に小さなお堂を建て、その観音様をおまつりしましたのが、時代を経て現在のお寺へと発展してきました。庶民信仰の寺として現在も多くの人に支えられております。

第八十八番霊場 久米寺

 山号は霊禅山と号し、詳しくは霊禅山東塔院久米寺(くめでら)と称す、真言宗御室派の寺院。 
 開基は聖徳太子の弟の来目皇子(くめのおうじ)とも久米仙人とも伝わるが、詳細は不明。
 久米仙人による開基は、「今昔物語集」にも収録されている著名な話であり、それによると、
(1)仙術で空を飛べるようになって、ある日、空を飛んでいる時、川で洗濯する女のふくらはぎに見とれて法力を失い、地上に落ちてしまった。
(2)その女とめでたく結婚し、俗人として暮らす。
(3)天皇が遷都のための工事に、労働者として雇われて、材木を運んだりしていた。
(4)仕事仲間から、「仙人なら、仙術を使って、材木など一気に運んだらどうだ」とからかわれる。
(4)7日7晩祈り続けて仙力を回復し、仙術で山にあった材木を、空を飛ばして新都へと運んだ。
(5)喜んだ天皇は田30町を与え、これによって建てたのが久米寺である、と伝承される。
 そんな久米仙人のお祭りが、例年10月16日〜22日に行われ、その期間中の日曜日には、ユーモラスな「久米仙人おどり」が披露される。

   
生駒市

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往生院


寶山寺参道


寶山寺般若窟


教弘寺


円福寺本堂


竹林寺周辺航空写真


竹林寺古墳


竹林寺本堂


宝憧寺


観泉寺
第二十八番霊場 往生院

往生院案内:(生駒市教育委員会案内板より)
 奈良時代の僧行基(ぎょうき)を火葬した土地と伝えられる。本堂北の宝篋印搭(ほうきょういんとう)[重文]は県内最古の正元元年(1259)銘をもち、ほかに鎌倉様式の五輪塔などがある。境内周辺の輿山(こしやま)墓地は中世以降生駒谷6郷の惣簿(そうぼ)となり、多数の石造群が残る。

第三十四番霊場 寶山寺
宝山寺案内:(生駒市教育委員会案内板より)
 延宝6年(1678)僧宝山湛海(ほうざんたんかい)の開山、古くは都史陀山大聖無動寺(としたざんだいしょうむどうじ)という。本尊不動明王。奈良時代、役行者(えんのぎょうじゃ)が般若窟(はんにゃくつ)を行場としたと伝えられる。秘仏大聖歓喜自在天(だいしょうかんきじざいてん)は「聖天さん」と呼ばれる。所蔵品:絹本著色弥勒菩薩像(けんぽんちゃくしょくみろくぼさつぞう)[重文・鎌倉]など。

般若窟案内:(宝山寺案内板より)
 般若窟は、その昔、役の行者が窟内に梵本の般若経を納められ、その往錫の霊域を訪ね、弘法大師もこの地で修業された霊域であります。
 中興開山湛海律師は、役の行者がこの般若窟を、弥勒浄土の内院になぞらえて修業されたことから、本尊弥勒菩薩像を初め、役の行者像などを祀られました。
 また、巌頭には雲上閣を建立して、自ら彫刻された虚空蔵菩薩像を安置され、八千枚不動護摩供に並ぶ苦行である、虚空蔵求聞持法を修しておられます。

第三十五番霊場 教弘寺

 場所は、第二阪奈道路の阪奈トンネルのほぼ真上に辺りに位置し、暗峠と宝山寺を結ぶハイキングコースのメインルートから、西に入る小道を少し登ったところです。

 道に迷わない一番確実な方法は、電柱の管理番号が「アサヒ エン 33 S2 W3」のところで、小道を西に入ってください。廃寺ですが、地元の有志の方々で、きれいに管理されていて、小道の入り口にも、教弘寺の掲示板がありました。

教弘寺案内:(生駒市教育委員会案内板より)
 小倉山教弘寺(おぐらやまきょうこうじ)。役行者(えんのぎょうじゃ)が開いたと伝えられ、中世には奥之坊、中之坊、新坊、大門坊、岡之坊の5坊などを有していたが、現在は本堂、奥之坊、中之坊が残る。境内に正慶2年(1333・北朝年号)銘の五輪塔、天正6年(1578)銘の石造役行者像などがある。

第三十六番霊場 円福寺

 奈良市佐紀町にも、第二十番霊場で同名の円福寺があるが、こちらは生駒市有里の円福寺です。

円福寺本堂案内:(生駒市教育委員会案内板より)
 龍華山(りゅうかざん)。奈良時代の僧行基(ぎょうき)の開基と伝えられる。本堂[重文]は桁行(けたゆき)3間、梁間(はりま)3間、入母屋造(いりもやづくり)、応安4年(1371)の墨書銘をもつ。本堂前に南北に並ぶ宝篋印搭(ほうきょういんとう)2基[重文]のうち北塔に永仁元年(1293)の銘がみられ鎌倉時代の様式を示している。

第三十七番霊場 竹林寺

 竹林寺(ちくりんじ)は、近鉄生駒線の一分駅より、南東に約500mの小高い丘の上に在り、木々が生い茂った広大な境内には、4世紀後半のものとされる竹林寺古墳が存在する。

 社務所入口の竹林寺周辺航空写真(南から北方を撮影)で、まん中が竹林寺、そこから右奥への稜線の先端辺りが竹林寺古墳になる。上部の白い円弧状の線が第二阪奈道路で、それを越えた右端の更に先が近鉄生駒線の一分駅になる。

 本来の竹林寺への参拝は、南参道となり、手前の有里集落に参道入口がある。
 一分駅からの場合は、竜田川沿いに第二阪奈道路を越え、しばらくは第二阪奈道路に沿った後に住宅地に入り、竹林寺古墳のある林の中を通って竹林寺に至る。竹林寺よりまっすぐ参道を南下すると有里集落で、道を西にとると第三十六番霊場の円福寺に至る。(詳細の地図はこちら

竹林寺古墳案内:(生駒市教育委員会案内板より)
 前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)。全長約45m(当初推定60m)、高さ8m。後円部分のみが残る。古墳時代前期。主体部は礫(れき)床上に舟形粘度床を設け、その上を礫、板石などで覆っている。「長宣子孫」銘の内行花文鏡(ないこうかぶんきょう)、刀剣片、埴輪(はにわ)片などが出土している。

 竹林寺は、明治の廃仏毀釈によって廃絶し、廃寺同然となって本山の唐招提寺が管理していたが、再興されたのは平成9年(1997)になってからである。真新しい本堂は、平成10年(1998)に落慶されたものである。

竹林寺案内:(生駒市教育委員会案内板より)
 生馬山。奈良時代に行基菩薩(ぎょうきぼさつ)が生馬仙房(いこませんぼう)をかまえた故地とみられる。行基は文殊菩薩の化身と仰がれ、鎌倉時代に舎利(しゃり)瓶が出土し、その後円照(えんしょう)、良遍(りょうべん)、忍性(にんしょう)、凝年(ぎょうねん)ら高僧が集い堂塔が整った。寺名は文殊の霊場中国の五台山大聖(ごだいさんだいしょう)竹林寺にちなむ。

第三十八番霊場 宝憧寺

宝憧寺本堂案内:(生駒市教育委員会案内板より)
 龍護山宝憧寺(りゅうごさんほうどうじ)。奈良時代の僧行基(ぎょうき)の開基と伝えられ、「興福寺官務蝶疏」(こうふくじかんむちょうそ)の嘉吉元年(1441)の記載に初めて寺名が挙がる。本堂[重文]は桁行(けたゆき)5間、梁間(はりま)5間、入母屋造(いりもやづくり)の室町時代の建築で、内陣内(ないじんない)には釈迦説法図(しゃかせっぽうず)など中国絵画の影響を受けた壁画が残る。

番外霊場 観泉寺

観泉寺案内:(生駒市教育委員会案内板より)
 青龍山観泉寺(せいりゅうざんかんせんじ)。融通念仏(ゆうずうねんぶつ)宗。縁起によれば、元禄6年(1693)僧龍峯(りゅうほう)により開創した。本尊木造阿弥陀如来座像。境内の十三重石塔(現在12層)は、康永4年(1345)銘で軸部に金剛界種子(こんごうかいしゅじ)を薬研彫(やげんぼり)で表す。ほかに天文17年(1548)銘の十三仏板碑(じゅうさんぶついたひ)などがある。

   
平群町北部

 平群町は、奈良県生駒郡に属し、西は生駒信貴山系、東は矢田丘陵に囲まれた山間の小平野である。(生駒郡は、平群町、三郷町、斑鳩町、安堵町の4自治体で構成)
 歴史的には、古代の大和国平群郡平群郷の地で、古代豪族・平群氏の本拠地であったことから、遺跡や古墳などが散在する。

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千光寺


金勝寺
第三十九番霊場 千光寺



 山号は鳴川山と号し、真言宗醍醐派の寺院で、役行者がこの地に千手観音菩薩を安置して、修行したのに始まるとされる。
 後世の人々は、「元の山上」と呼び、「女人山上」と称し、女人の修行道場として栄えました。

第四十番霊場 金勝寺

 山号は椣原(しではら)山と号し、真言宗室生寺派の寺院で、天平18年(746)、行基によって創建されたと伝えられる、竜田川の辺に立つ古刹である。その後、幾多の戦火や火災に遭いながら、明治35年(1902)に再興された。
 境内本堂裏手の岩壁に刻まれた14体の磨崖仏は、鎌倉時代から江戸時代のものとされる。

   
平群町中部

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東光寺


長楽寺


地蔵寺
第四十二番霊場 東光寺

 桜井市谷にも第七十一番霊場で同名の東光寺(廃寺)があるが、こちらは平群町三里中ノ宮の東光寺です。
 現在は廃寺となっていますが、真言宗醍醐派の寺院でした。

第四十三番霊場 長楽寺

 山号を勝出山と号し、真言宗豊山派の寺院です。廃寺(廃絶した寺)になっていますが、境内もきれいに手入れをされてます。公開されてないので、境内に入ることはできません。

長楽寺案内:(長楽寺案内板より)
 用明天皇2年(586)、聖徳太子の建立と伝えられる古刹で、もとは諸堂宇支坊の寺観が整っていた。
 寺伝によると、聖徳太子は仏敵物部守屋ら討伐に於て勝利するにいたらず、軍兵をひきい、ここに於て石上に座し軍法を鑑み給う。
 護法四天王に祈念して曰く、「我をして軍に勝たし給えば、必ずここに寺搭を建立し、神仏を弘通せん」と、毘沙門天王現れて軍法の授けあり。
 戦勝を得られ、ここで聖徳太子は、毘沙門天本地仏「聖観音」の尊像を刻まれて安置される。よって、この尊像を「勝出山観音」と号す。[鑑石(かがみいし)は今、本堂の前にあり]

第四十四番霊場 地蔵寺

 大和郡山市新庄町にも第七十八番霊場で同名の地蔵寺(廃寺)があるが、こちらは平群町吉新の地蔵寺です。
 山号を延命山と号し、融通念仏宗の寺院です。小高い丘の上に建ち、平群谷を眺めるにも格好の位置にある。また、里山をのんびりと眺めながら、更に山を登りつめると、次の第四十五場霊場の多門院に至る。

   
平群町西部

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多聞院(信貴山奥の院)


多聞院淨域 焼米湧出地(奥)


朝護孫子寺 本坊


朝護孫子寺本堂より斑鳩方面を望む
第四十五番霊場 多聞院

 山号を米尾山と号し、米尾山多聞院が正しい寺院名であるが、次の第四十六番霊場の信貴山朝護孫子寺の奥の院になっているため、別名、信貴山奥の院とも称する。宗派は、信貴山朝護孫子寺を総本山とする信貴山真言宗。

多聞院案内:(多聞院案内板より)
 当山に御安置申し奉ります御本尊毘沙門天王は、聖徳太子の御作で守屋大連討伐の御時、毘沙門天王が阪部大臣と化身して先鋒を振われましたので、御本尊に汗をかかれたと申します。
 聖徳太子歓喜の余り此処に堂宇を建立し御安置申され、1400有余年の今日に到る迄、汗かき毘沙門天と申し、御霊験極めてあらたかで有ります。
 なかにも、当山の淨域より不思議にも地中より焼米が湧出します。この焼米の由来は、毘沙門天王福徳無量にして寶米積む事山の如く、聖徳太子守屋大連討伐の御時、尊天より兵士の兵糧として授かりましたが有難きお米でありますので、その幾分をさいて焼米として後世までも残し、尊天の御威徳を輝かし奉らんとこの淨域に納められました。
 諸人是を拾えども更に尽きる事なく、故に山号を米尾山と申します。
 信人堅固にして仁慈を行い、毘沙門天に帰依してこの焼米を頂く者は、如何なる病も立処に除き福壽増長して真の寶米をえられると云う、誠に有難い御寶米であります。

第四十七番霊場 朝護孫子寺

 朝護孫子寺(ちょうごそんしじ)は、標高437mの信貴山中腹に在する、信貴山真言宗総本山の寺で、「信貴山寺」とも称し、一般には「信貴山の毘沙門さん」として知られる。
 また、毘沙門天王は寅に縁りのある神との縁起より、阪神タイガース優勝祈願の寺としても有名である。
 なお、境内は広く、堂宇や塔頭寺院が立ち並ぶが、大和北部八十八ヶ所霊場である本坊は、参道の中ほどより、西に入った辺りに在する。

信貴山毘沙門天王案内:(朝護孫子寺パンフレットより)
 今から1400余年前、日本国の平和を乱す朝敵物部守屋を討伐せんと、聖徳太子、此の山に来り戦勝の祈願をされるや、天空遥かに毘沙門天王が出現され、必勝の秘法を授けられた。
 その日は奇しくも寅年、寅日、寅の刻であった。太子はその御加護で敵を滅ぼされ、世治まりて後、自ら天王の御尊像を刻まれ、伽藍を創建して、信ずべき山貴ぶべき山「信貴山」と名づけれれ、以来信貴山の毘沙門天王は寅に縁りのある神として信仰されている。

   
三郷町

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平隆寺


持聖院


融念寺


融念寺 本堂
第四十一番霊場 平隆寺

 正しくは、平群山鹿園院平隆寺と呼び、融通念仏宗の寺院である。
 現在の平隆寺は、飛鳥時代には施鹿薗寺、あるいは平群寺とも呼ばれていた平隆寺跡地に、江戸時代の初めに建てられたものである。

平隆寺跡案内:(奈良県教育委員会案内板より)
 平隆寺は別名施鹿薗寺、あるいは平群寺ともよばれ、聖徳太子建立寺院一つと伝えられるが、飛鳥時代にこの地の豪族平群氏が建てた氏寺であったと考えられている。現平隆寺は融通念仏宗に属し、江戸時代の初めに旧平隆寺の跡地に建てられたものである。
 昭和49年(1974)、奈良県教育委員会が発掘調査を実施したところ、現参道の東側で創建当初の搭心礎の導入坑と抜取穴が検出されたが、これ以外の遺構は明らかにされなかった。したがって伽藍配置については問題をのこしているが、多量の飛鳥時代瓦の出土などから、創建が飛鳥時代にさかのぼることが確認された。寺跡から出土した瓦は飛鳥時代から中世におよぶが、飛鳥時代のものは、本遺跡の北方約1キロの今池瓦窯で焼成されたもので、中宮寺跡出土のものと共通の型式である。瓦以外にも塼仏片、泥搭片、土師器、須恵器などが出土している。
 奈良県下でも確実に飛鳥時代の建立と考えることのできる寺院跡は多くない。そうした中で平隆寺跡は創建が飛鳥時代にさかのぼることが確認でき、さらにそうれが西大和の雄族平群氏の氏寺と想定されることなどから、古代史研究上、極めて重要な遺跡と考えられている。

第四十七番霊場 持聖院

 三郷町の町並や大和川を望む小高い丘の中腹に建つ、真言律宗の寺院です。

第四十八番霊場 融念寺

 所在地は三郷町でなく、斑鳩町南西端の神南(じんなん)なる地にあるが、斑鳩町の寺院と離れていることもあって、ここで紹介する。
 宗派は融通念仏宗で、正しくはその名もズバリ、神南融念寺と呼ぶ。

融念寺案内:(融念寺案内板より)
 現在の収蔵庫の位置には、かつて三室堂(俗に下堂)と呼ばれる一堂があり、聖観音菩薩立像並びに地蔵菩薩立像が安置されていた。三室堂は式内神岳神社の神宮寺で、すでに廃絶した神南寺に所属していた。
 神南寺には、上堂と下堂があったようだが、聖観音菩薩立像と地蔵菩薩立像が、本来上・下の何れの堂に安置されていたかは決め難い。


   
斑鳩町

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法隆寺北室院


法隆寺中門


法隆寺五重塔


法隆寺三経院(右の建物)
奥の一部が西堂(正面は西室門)


法隆寺西堂


法起寺


法起寺三重塔


法輪寺三重塔


中宮寺


中宮寺本堂


史跡中宮寺跡の道路標識


史跡中宮寺跡(発掘調査中)
第五十番霊場 法隆寺北室院

 法隆寺北室院は、法隆寺東院伽藍の北方に位置し、室町時代中期に建立された建物で、本堂と表門は国の重要文化財に指定されています。                 

法隆寺案内:(法隆寺案内板より)
 法隆寺は聖徳太子創立、およそ1400年の伝統をもつ大伽藍である。
 金堂、搭を中心とする西院伽藍は、よく上代寺院の相貌を伝え、わが国現存最古の寺院建築として、極めて価値が高い。その寺地は天平19年(747)の当寺資材帳に「方一百丈」(約300m四方)とあり、また鎌倉時代の古今目録抄などによれば、現地域とほぼ合致している。
 夢殿を中心とする東院伽藍は、天平11年(739)、行信により聖徳太子の斑鳩宮故地に創立されたが、天平宝字5年(761)の東院資材帳に示される寺域は、現東院境内に現中宮寺をあわせた地域とみられる。
 すなわち東西両院をふくむ、法隆寺伽藍の全域は、わが国上代寺院史上各種の重要史料を内包し、また斑鳩宮跡、若草伽藍などの重要遺跡をもあわせて、その歴史的並びに宗教的価値はきわめて高いものである。

第五十一番霊場 法隆寺西堂

 法隆寺境内で「西」が付く建物としては、「西室」、「西円堂」、「西園院」などが存在するが、「西堂」はよく知られてない存在である。それもそのはず、単独の建物としてでは無く、「三経院」という南北に長い建物の北方の一部を(「西室」の門の近く)「西堂」と呼んでいる。(昔は現在の「三経院」そのものを「西堂」と呼んだとう云う説もあり)

第五十二番霊場 法起寺

 山号は岡本山と号し、宗派は法隆寺と同じ聖徳宗の寺院。古くは岡本寺、池後寺(いけじりでら)とも呼ばれた。
 寺名は以前、「ほっきじ」と読まれていたが、法起寺が法隆寺ととともに「法隆寺地域の仏教建造物」として世界遺産に登録されるにあたり、「法」の読み方に一貫性をもたせるという理由により、現在は「ほうきじ」を正式な読みとしている。
 寺内の三重塔は、法隆寺五重塔、法輪寺三重塔とともに斑鳩三塔と呼ばれ、それぞれに趣のあるたたずまいを感じさせてくれる。


第五十三番霊場 法輪寺

 山号は妙見山と号し、宗派は法隆寺と同じ聖徳宗の寺院。三井寺とも呼ばれ、「法林寺」「法琳寺」とも書く。

法輪寺案内:(法輪寺案内板より)
 法輪寺の創建は飛鳥時代に遡り、聖徳太子の御子山背大兄王が太子の病気平癒を願って、その子由義王とともに建立されたと伝えます。
 昭和25年の発掘調査により、伽藍は法隆寺式伽藍配置であること、規模は法隆寺西伽藍の3分の2であることなどが明らかになっています。飛鳥様式の薬師如来座像と虚空蔵菩薩立像を伝えることなどから、7世紀中には寺観が整っていたと考えられ、また、平安時代には寺勢なお盛んであったようです。
 その後、衰退をたどった伽藍は江戸時代初期の台風で三重塔を残すのみとなりましたが、金堂・講堂などが再興され、伽藍倒壊から約100年を経て、現在にいたる寺観が整えられました。
 斑鳩三搭として親しまれた国宝三重塔は、昭和19年7月21日、落雷で焼失しました。全焼のため国宝指定解除となりましたが、井上慶覺師、康世師、二代の住職にわたって全国を勧進行脚し、作家幸田文先生はじめ多くの方々の結縁を得て、昭和50年、西岡常一棟梁のもと、旧来の同じ場所に、創建当初の同じお姿でお返しすることができました。

別格霊場 中宮寺

中宮寺案内:(中宮寺パンフレットより)
 中宮寺は聖徳太子の御母穴穂部間人(あなほべのはしひとの)皇后によって、太子の宮居斑鳩宮を中央にして、西の法隆寺と対称的な位置に創建された寺であります。その旧地は、現中宮寺の東方3丁の所に土壇として残っておりましたのを、先年発掘調査しましたところ、南に搭、北に金堂を配した四天王寺式配置伽藍であったことが確認され、それは丁度法隆寺旧地若草伽藍が四天王寺式であるのに応ずるものと云えましょう。而も其の出土古瓦は若草伽藍にはなく、飛鳥の向原寺(桜井尼寺)からのものと同系統のものであることは、法隆寺は僧寺、中宮寺は尼寺として初めから計画されたものと思われます。国宝菩薩半跏像(自伝如意輪観音)は其の金堂の本尊であり、天寿国曼荼羅は、其の講堂本尊薬師如来像の背面に奉安されたものと伝えております。
 その後、平安時代には寺運衰退して、宝物の主なものは法隆寺に移され、僅かに草堂一宇を残して本尊様のみ居ますと云った状態でありましたのを、鎌倉時代に入って真如比丘尼の尽力により、天寿国曼荼羅を法隆寺宝蔵内に発見して中宮寺に取り戻すなど、いくらか復興を見たものの、往時の盛大には比すべくもありませんでした。室町時代のことは殆んど判りませんが、旧地より室町時代の古瓦を出土することから、そのころまで旧地に法燈が続いていたようであります。ところが、戦国時代に入って火災に会い、取り敢えず法隆寺東院の山内子院に避難し、旧地への再建ならず、そのまま住みついていたところへ、後伏見天皇8世の皇孫尊智女王(慶長7年薨)が御住職遊ばされ、以来尼門跡として、次第に寺観を整えたのが今の中宮寺であります。
 宗派は鎌倉時代頃は法相宗でありましたが、その後真言宗泉涌寺派に属し、戦後は法隆寺を総本山とする聖徳宗に合流することになりましたが、依然大和三門跡尼寺の随一としてその伝統を伝えております。我国の尼寺の数は少なくありませんが、創建の奈良時代このかた1300年の長きに亘り、尼寺の宝燈を続けておるのは日本広しといえども実に中宮寺だけであります。

 中宮寺参拝の後は、史跡中宮寺跡を訪れて、かつてのいにしえを偲びたい。

史跡中宮寺跡案内:(斑鳩町教育委員会案内板より)
 天寿国曼荼羅繍帳(てんじゅこくまんだらしゅうちょう)や弥勒菩薩像で著名な中宮寺は、法隆寺東院の東隣りにあるが、その地へは室町時代の移転と伝わり、創建当初は約500m東方の土壇の残る(旧)法隆寺小字旧殿を中心としたこの周辺に造営されていた。
 昭和38年に初めて発掘調査が行われ、搭と金堂について多くの知見を得ることができた。その後、昭和47年から昭和62年にかけて5次にわたって確認調査が実施され、寺院伽藍や寺域等が徐々に明らかになってきている。
 搭跡については、基壇上面の側柱礎石が抜き取られるなど依存状況はよくないが、基壇の規模は一辺約13.5mで、搭自体は一辺約6.8mと推定されている。そして、基壇中央には約2.5m地下において、花崗岩製の搭心礎が遺存し、その上面からは金環、金糸、金延板小片、玉類等の埋納物が発見されている。
 金堂跡については、部分的な確認調査であったが、基壇を二度造りなおしたことが明らかになった。創建当初は、凝灰岩製切石による檀正積基壇と推定され、これを平安時代に縮小し瓦積基壇とし、さらに鎌倉時代に花崗岩の割石による乱石積基壇に修造している。鎌倉時代の基壇規模は、東西約17.3m・南北14.1mで創建時もほぼ同規模であったと思われ、現存礎石や礎石抜き取り穴から桁間5間・梁行4間(各柱間は約2.6m)の建物が推定されている。
 講堂、中門、回廊等の存在は明確になっていないが、講堂は創建当初は計画されたものの、造営されなかった可能性が高く、中門は、溜池開削によって破壊されたと考えられている。
 寺域については、西面と北面の築地塀跡(基底幅約2.1m)を検出しており、築地塀外側には、幅約2.4mの外濠がめぐり、築地塀内側にも内濠がめぐる。このことから、寺域は東西約128m、南北168mと推定されている。なお、北門や南門の一部や西面築地に並行する南北の古道を検出している。
 出土遺物としては、創建瓦の単弁蓮華文軒丸瓦(たんべんれんげもんのきまるがわら)をはじめ、飛鳥時代から室町時代までの瓦がある。このことは、伝えられている寺院の消長と軌を一にする。
 中宮寺は聖徳太子が、御母穴穂部真人皇后の宮室を寺院にしたと伝わり、聖徳太子創建七ケ寺の一つの「中宮尼寺」(ちゅうぐうにじ)に比定されているものの、諸説があり定かでない。
 しかし、飛鳥時代創建の法隆寺若草伽藍とほぼ同時期に建立されたことは確かであり、上宮王家との深い結びつきのある寺院跡そして貴重である。

   
宇陀市

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大野寺の南東約3.6Kmに室生寺が在り
最短ルートを歩いても約6.1Kmの歩程



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大野寺


弥勒磨崖仏


室生寺


室生寺五重塔


龍穴神社


吉祥龍穴
第六十六番霊場 大野寺

 山号は楊柳山と号し、真言宗室生寺派の寺院で、開基は役の小角(えんのおづぬ)と伝える。

大野寺案内:(大野寺パンフレットより)
 大野寺(おおのじ)は、宇陀川の清流に臨み弥勒、屏風岩等の奇巌怪石相崎ち老杉古松相連り山水絶景四時の風光に富み、殊に境内の「垂枝桜」は美観をそへ、近鉄沿線唯一の風勝地であります。
 寺伝によると、白鳳9年(681)に役の小角が開き、天長元年(824)に弘法大師が室生寺を開創のとき、西の大門と定め一宇を建て、本尊弥勒菩薩を安置して慈尊院弥勒寺と称しました。その後、地名を名づけて大野寺と云います。
 鎌倉の初期、承元元年(1207)興福寺の庄園であった時、宇陀川の対岸に屹立する弥勒磨崖仏の造顕がなされたのであります。
 発願主は興福寺の雅縁大僧正で、後鳥羽上皇に奏上し、上皇の勅願によって造立されました。
 高さ100尺(33メートル)に近い弥勒巌に、高さ45.5尺(13.8メートル)の挙身光式の凹みを切り込み、その内面を水磨きして弥勒仏の立像を線刻したものであります。仏身の高さは蓮座とともで、38尺(11.5メートル)で日本石仏史上重要な遺例であります。
 石仏縁起に宇陀川をへだてて彼岸に造立するとありますから、対岸は彼岸であり弥勒の浄土であります。弥勒菩薩が次の世に如来となってお出ましになるお姿を線刻してあるのであります。

奥の院霊場 室生寺

 山号は宀一山(べんいちさん)と号し(「宀一」は「室生」の略)、真言宗室生寺(むろうじ)派大本山の寺院。女人禁制だった高野山に対し、女性の参詣が許されていたことから「女人高野」とも呼ばれ、女性の厚い信仰でも親しまれている。

室生寺案内:(室生寺パンフレットより)
 奥深い山と渓谷に囲まれた室生の地は、太古の火山活動によって形成された室生火山帯の中心部で、こうした幽邃な場所は古くから神々の坐ます聖地と仰がれていた。やがて奈良時代の末期、この聖なる地で皇太子山部親王(後の桓武天皇)のご病気平癒の祈願が興福寺の高僧賢憬など五人の高僧な僧によって行われ、これに卓効があったことから、勅命により国家のために創建されたのが室生寺である。だが建立の実務に当ったのは、賢憬の高弟修円であった。修円は最澄や空海と並んで仏教界を指導する高名な学僧であった。以来室生寺は、山林修業の道場として、また法相・真言・天台など、各宗兼学の寺院として独特の仏教文化を形成するとともに、平安前期を中心とした数多くの優れた仏教美術を継承する一方、清冽な渓流は竜神の信仰を生み、雨乞いの祈祷も度々行われて来た。そのほか厳しく女人を禁制してきた高野山に対し、女人の済度をもはかる真言道場として女性の参詣を許したことから『女人高野』と親しまれている。

 室生寺の魅力は、独特の古い文化遺産もさることながら、大自然と調和して四季おりおりにうつろう伽藍のたたずむ美しさであろう。室生川の清流の奥深く、蓮の蕾にたとえられる円錐形の室生山の麓に開かれたこの寺は、文字通りの山紫水明の地に長い歴史を伝えてきた。
 早春は梅のほころびに始まり、やがて山桜の老樹が深い緑の杉や桧を背景に匂い立つ。新緑が水の流れを優しく包むと河鹿がかすかに若葉を震わせ、山にはホトトギスの声が響いて境内いたるところ深山を象徴する石楠花が咲き競う。
 夏の緑陰は涼風を呼んで、天然記念物の暖地性羊歯の生い茂る奥の院への石段には杉の大木が鬱蒼と立ち並び、昼なお暗い木陰を冷気がわたる。
 秋には楓の紅葉や銀杏の黄葉が深山の緑に錦を織り、秋雨に煙る尾根から落ち葉が流れて谷川を彩る。
 やがて霜が山に降りる頃、時には淡雪が搭を覆い、朱色の柱が白銀に映える。室生寺には、四季の移ろいを静かに語りかける文学の世界がある。

 室生寺より、室生川を約15分歩いてさかのぼった渓谷の入り口に、龍穴神社がある。その昔、室生寺は、この龍穴神社の神宮寺で、龍王寺と呼ばれた時期もあったようで、室生寺と一緒にぜひ参拝したい。
 また、龍穴神社には、奥宮があり、雨や雲を支配する龍王が住むと云う吉祥龍穴がある。龍穴神社より、室生川を更にさかのぼり、左に入る林道を道なりに登っり、案内板を頼りに谷に下りると吉祥龍穴に至る。龍穴神社より約20分ほど歩かねばならないが、素晴らしい渓谷美が味わえるところなので、ぜひ訪れてみたい。

   
4.大正時代を偲ぶ

 これでもって、平成21(2009)年12月より、平成22(2010)年4月の約4ヶ月をかけ、平成3(1991)年に発行された現存する唯一の資料を基に作成した「大和北部八十八ヶ所霊場巡拝リスト」に記載するすべてを霊場を巡ったことになる。
 資料が約20年前ということもあって、すでに廃寺と化した寺、跡地のみが確認された寺など、まさに幻と言うにふさわしい霊場巡りであった。

 冒頭でも紹介したが、この大和北部八十八ヶ所霊場は、江戸時代の明和年間に制定されたので、約240年の歴史を持っているが、直近の20年でも大きく変遷する様を目前にし、歴史を少しでも遡れるような資料がないものかと探し求めていた。

 とある日、ふとしたことから、約90年前にあたる大正11〜12(1922〜1923)年にかけて、大和北部八十八ヶ所を巡拝した際の右の納経帖(御朱印帖)が、図書館に古文書として保存されているのを発見する。
 この納経帖は、川東村大字西井上(現在の磯城郡田原本町西井上)に在した池田氏ご本人、もしくわ、ご子息などが寄贈されたものと思われ、奈良県立図書情報館に蔵書されており、蔵書検索(所蔵資料検索)でも、キーワードを「大和北部八十八ヶ所巡拝納経帖」で検索すれば、古文書としてヒットする。
 貴重書庫で保管されてる蔵書ということで、指定場所での閲覧やコピー機での複写禁止などの制限はあるが、身分証明書(運転免許証可)と閲覧目的を提示することで、一般の閲覧も可能である。

 平成22(2010)年6月19日に図書情報館に調査に赴いた。はじめは、指定場所で閲覧しながら情報を書き写していたが、約90年前の文字であることにに加え、達筆すぎて書き写せない難読文字が多くに困り果てた。確認したところ、コピー機での複写は資料を傷める可能性があるので禁止だが、非接触であるカメラ撮影は可能とのことで、デジタルカメラによる撮影に移った。

 デジタルカメラの撮影場所としては、館内施設の左のデジタルスタジオが空いていたので、その一角を無料で使用させていただいた。スタジオ内の照明は明るく、壁面が白ということもあって、フラッシュが無くても十分な光量を得ることができるベストコンディションで、納経帖のすべてを撮影して持ち帰ることができた。持ち帰った画像を調査してみると、よくぞ画像で持ち帰ったと感じる。もしこれが、書き写したものであれば、限界もあって、欠如する情報も多くあり、日参するのは必至だっただろう。
 さすが、図書情報館というだけあって、新メディア時代にふさわしく、知りたい情報を効率よく入手する施設が完備されているのには感心する。

 
大正時代との札所相違リスト

 前節で述べた、大正11〜12(1922〜1923)にかけて、池田氏が巡拝した際の納経帖の画像データが入手できたので、平成3(1991)年に大安寺から発行された「大和北部八十八ヶ所霊場巡拝リスト」との照合を行った。
 当然のことながら、それらの間において町名変更などが行なわれているので、所在地名は異なるが同一場所と思われるのは除外し、所在地と寺名の相違ピックアップし、まとめたのが下表の「大正時代との札所相違リスト」である。


札所 平成時代
(平成3年の大安寺発行の巡拝リストに基づく)
大正時代
(大正11〜12年に池田氏が巡拝の納経帖に基づく)
寺名 所在地 寺名 所在地
2 嘶堂 奈良市大安寺町 護摩堂 添上郡大安寺町
11 圓證寺 生駒市上町4713 奈良市林小路町
16 高林寺 奈良市井上町32 正覚寺 奈良市西紀寺町
17 大森大師 奈良市大森町283※廃寺 奈良大森
高野山支部院
奈良市大森町
28 往生院 生駒市有里※廃寺 極楽寺 都跡村字七条
41 平隆寺 三郷町勢野東2-11 叶堂千手院 平群村三里岩井
48 融念寺 斑鳩町神南3-5-8 三室堂 龍田町神南
49 薬師寺 奈良市西ノ京457 善福院 龍田北庄
51 法隆寺西堂 斑鳩町法隆寺内878 法隆寺西円堂 法隆寺
60 誕生寺 奈良市三棟町※廃寺 慈眼寺 郡山茶町
63 白毫寺 奈良市白毫寺町 西福院 辰市村西九条
66 大野寺 宇陀郡室生村大野 超願寺 平和村上三橋
76 聖林寺 桜井市下692 鹿野園太子堂 添上郡鹿野園村
79 観音寺 橿原市小房6 木戸寺 山辺郡丹波市町大字杣之内木堂
86 与楽寺 広陵町広瀬 與楽寺 廣瀬村
奥の院 室生寺 宇陀郡室生村室78    
番外     室生寺 宇陀郡室生村
    傳楽寺観音堂 川東村西井上傳楽寺
    隆興寺 帯解村今市東元山

 以降、札所の順に、相違についての考察を行うが、遡ること約90年ということもあって、史料の入手も困難であることから、想像の域であることも多いと思われる。
 読書の皆さんも、創造たくましく、歴史を楽しんでいただければ、幸いである。

 
第二番霊場 嘶堂と護摩堂

 同じ大安寺境内の堂宇であるが、平成では嘶堂に対し、大正では護摩堂と異なっている。

 現在は本堂裏に在る嘶堂は、大安寺第一次伽藍整備によって、平成9(1997)年に新しく建てられた堂宇であり、大正には存在しなかったはずである。
 そして、現在の嘶堂の「本尊馬頭観世音菩薩」は、大正にあっては、江戸時代に建立されたと伝わる、下の本堂右手の護摩堂に安置されていたと考えられる。



 嘶堂の参拝の折は、護摩堂にも参拝いただき、大正時代を偲んでいただきたい。




大正の第二番霊場 大安寺護摩堂の御朱印
 
第十一番霊場 圓證寺の移転

 所在地が、平成では生駒市上町に対し、大正では奈良市林小路町と異なっている。

 もとより圓證寺は、大和国の戦国大名・筒井家ゆかりの寺院である。
 筒井家の起源は明らかでないが、大和国の土豪であり、中世には興福寺の宗徒であった。そのことから、筒井家は興福寺にほど近い林小路(現在の奈良市林小路町)にも下館(下屋敷)を構えていた。
 ところが、天文19(1550)年、戦国大名として著名な筒井順慶の父である筒井順昭が、林小路の館で死去した後、順昭の夫人が夫の菩提を弔うため、館を寺に改めたという。その際、添下郡筒井庄(現在の大和郡山市)の圓證寺の寺籍が林小路に移されたものと見られる。

 すなわち、圓證寺は、林小路町にあった筒井家の下館を寺に改めたもので、その際の寺籍は大和郡山市より移されたものであり、大正には林小路町に在した。

 ところが、林小路町というと、現在の近鉄奈良駅南方の繁華街に位置し、ファッションビルの奈良ビブレ付近がその跡地にあたり、繁華街の騒音、振動等のため文化財の護持や宗教活動に支障があるとして、昭和59〜60(1984〜1985)年にかけて、重要文化財と共に圓證寺は現在の生駒市上町に移転した。

 生駒市の霊場が三十番台の中にあって、十一番の圓證寺が存在する謎は、寺の移転に由縁する。


大正の第十一番霊場 圓證寺の御朱印
 
第十六番霊場 正覚寺

 第十六番霊場は、平成では高林寺に対し、大正では正覚寺と異なっている。

 正覚寺(しょうがくじ)は、全国的にも多い寺名で、インターネットで調べても、奈良県内でも15の正覚寺を発見できた。また、「ならまち」においても、西紀寺町と南城戸町に2つが現存する。

 大正の正覚寺の所在地は、御朱印では奈良市西紀寺町となっており、現在でもその地名は存在し、先に述べたように、西紀寺町21に正覚寺は現存する。

 「ならまち」に現存する正覚寺の所在地を、右の「正覚寺近辺の地図」にマークしている(正確な位置は「卍」の辺り)。おそらく、大正の第十六番霊場と思われる西紀寺町の正覚寺は、平成の第十六番霊場である「高林寺」の、西約200メートルに存在する正覚寺であろう。
 同町内に同名のお寺が存在したとは考えにくく、何らかの事情によって、札所を高林寺に譲り、正覚寺そのものは現存してると考えている。

 さて、現在の西紀寺町 正覚寺の山門の様子を右に掲載しているが、住職またはご家族がお住みになられているように窺えるが、門は固く閉ざされ、蔦が絡んでいる様は、出入りが非常に少ないことを感じさせる。

 ところで、現在の正覚寺の宗派であるが、真宗22派+αとも呼ばれる、数多い真宗の中でも、やや特異な、浄土真宗遣迎院派(けんこういんは)に属する。
 遣迎院派の本山は、京都市北区鷹峯(たかがみね)の遣迎院(けんごういん)で、もとは上京区北之辺町(京都御所の東方)の天台宗寺院であったが、昭和30(1955)年に現在の寺地へ移り、独立して一派を形成している。
 また、寺名の遣迎院の院号は、浄土を「遣」わす釈迦、浄土で「迎」える阿弥陀に由来するもので、本尊を二尊立てるなど、浄土真宗と標榜しているものの、他の真宗教団とは関係が薄い。

 これらのことから、正覚寺についても、昭和30(1955)年以降に、浄土真宗遣迎院派への宗旨替えが行なわれ、その時点で第十六番の札所を返したものと思われる。
 そして、空いた第十六番の札所には、「中将姫ゆかりの地」で固めるとという意図もあって、すでにあった、中将姫が育ったといわれる第四番霊場の徳融寺、中将姫が生まれたといわれる第六十番霊場の誕生寺に加え、境内にある古墳が中将姫の父豊成のものとされる高林寺が選ばれたと推定する。




大正の第十六番霊場 正覚寺の御朱印



正覚寺近辺の地図



現在の西紀寺町の正覚寺山門
(2010/07/24 撮影)
 
第十七番霊場 奈良大森 高野山支部院

 第十七番霊場は、平成では「大森大師」に対し、大正では「奈良大森 高野山支部院」と呼ばれているが、呼び方が異なるだけで、本体は同じと思われる。

 高野山は、和歌山県伊都郡高野町にある標高約1,000m前後の山々の総称であるが、ここでは、平安時代に弘法大師空海が修業の場として開いた高野山真言宗を指す。
 現在は、「檀上伽藍」と呼ばれる根本道場を中心に宗教都市を形成し、寺院数は高野山真言宗総本山金剛峯寺(山号は高野山)をはじめ117ヶ所に及び、その半数が宿坊を兼ねている。

 宿坊の規模からも類推できるように、全国的な布教活動も盛んで、現在は「高野山大師教会」が布教、御詠歌、宗教舞踏等の総本部で、各種研修会や講習会が開催されている。

 「支部」と「支部院」の違いであるが、「支部」とは本部の総括のもとに本部から分かれて活動する機関を指すのに対し、「支部院」とは「支部」の建物を指すものであろう。
 したがって、大正の「奈良大森 高野山支部院」とは、奈良大森に在する高野山の支部の院所である。

 平成になって、一般的な呼称が「大森大師」と異なっているが、住宅地図での表示では、「奈良大森大師堂大森教会(中村智雄)」となっていて、(格の違いがあるとも考えられるが)単なる時代による呼称の違いだけと思われる。

 どちらにしても、これほど歴史ある寺院が廃寺となり、まことに残念なことであるが、前を通る機会があれば、祠にお参りをしていただきたい。




大正の第十七番霊場
 奈良大森 高野山支部院の御朱印


旧大森大師跡の地蔵盆
(2010/7/24撮影)
 
第二十八番霊場 極楽寺

 第二十八番霊場は、平成では往生院に対し、大正では極楽寺と異なっている。

 大正では、第二十八番と第二十九番の霊場は、同じく、都跡村字七条(現在の奈良市七条町)の極楽寺になっており、極楽寺に二つの札所が存在していたことになる。
 そして、平成になって、第二十八番霊場は極楽寺より往生院に移り(現在は廃寺)、第二十九番の極楽寺は、そのまま、現在に至る。

 第二十九番霊場の極楽寺にある、二つの札所が記された謎の石碑は、上の経緯によるものであった。
 また、同じ生駒市に在る、他の霊場が三十四番〜三十八番に対し、往生院のみが二十八番と離れているのも、この経緯によるものである。

 大正の第二十八番霊場の御朱印は判読しにくいが、第二十九番霊場の御朱印の「本尊観世音菩薩」というという文面のみが異なる。




二つの札所が記された謎の石碑
(2009/12/26撮影)


大正の第二十八番霊場 極楽寺の御朱印


大正の第二十九番霊場 極楽寺の御朱印
 
第四十一番霊場 叶堂千手院

 第四十一番霊場は、平成では平隆寺に対し、大正では叶堂千手院と異なっている。

 叶堂千手院(かのうどうせんじゅいん)は、現在の平群郡三里町(へぐりぐんみさとちょう)(明治10年に岩井、安明寺、中之宮の3つの集落が合併してできた大字)に存した、安明寺(あんめいじ)という寺院の堂宇の一つで、安明寺叶堂とも呼ばれていました。

 安明寺(あんめいじ)の歴史は古く、平安末の文治4年(1188)の文書にその名がみえ、春日神社文書にもしばしば登場する。これらの資料から、安明寺は興福寺の末寺として栄え、一乗院門跡寄所となっている。また、「興福寺官務牒疏(かんむちょうしょ)」には「聖徳太子の建立、坊舎10宇」と記載され、一分(奈良県生駒市)にある、往馬坐伊古麻都比古(いこまにいますいこまつひこ)神社の官寺の一つにもなっていました。

 そして叶堂は、三間×四間の入母屋造りで建てられた御堂で、千手観音が祀られていたとのことです。

 ところが、昭和51年7月、信者さんの灯明から焼失してしまいました。その後、復興されずに現在に至り、今は礎石と石段だけが残るのみとなってしまいました。

 現在、地元では安明寺叶堂跡と呼ばれており、近鉄生駒線の平群駅より、徒歩で約15分の距離であるが、案内板が整備されてないのでわかりにくい。迷った場合は、地元の方にお聞きすれば、すぐわかるはずです。

 地図で説明すると、平群駅北側の道路を山側に向かい、168号線を越えて、やや屈折があるものの、道なりに真っ直ぐ進み、突き当りを右に折れ、すぐに左の山側の道に入る。道の右側に渓流の小川があり、山の勾配がややきつくなるところの、すぐ左が安明寺叶堂跡である。
 ちなみに、この荒れた山道を少し登れば白石畑、そこから、さらに登れば松尾寺へ、下れば法隆寺に至る、直線ルートの近道でもある。




大正の第四十一番霊場 叶堂千手院の御朱印


安明寺叶堂(叶堂千手院)跡 位置図


白石畑への荒れた山道
 

礎石と石段だけが残る叶堂千手院跡
(2010/08/29撮影)

ありし日の叶堂千手院
広報誌「マイタウン平群」 415号(平成11年2月刊)
ふるさと平群再発見131 「三里 安明寺叶堂」より
 
第四十八番霊場 三室堂

 第四十八番霊場は、平成では融念寺に対し、大正では三室堂と異なっている。

  三室堂は、融念寺の裏山に鎮座する神岳(かみおか)神社の神宮寺で、既に廃絶した神南寺の下堂と呼ばれ、地蔵菩薩立像が安置されていたことから、地蔵堂とも呼ばれていた。



 また、上堂は観音堂と呼ばれ、聖観音菩薩立像が安置されおり、神仏習合形態で、神岳神社の境内地内にあった。ところが、明治の神仏分離令をきっかけ起こった廃仏毀釈運動により、上堂は廃絶に至った。神岳神社の所在地は、生駒郡斑鳩町神南字上ノ堂であるが、「字上ノ堂」という地名が、上堂が在ったことを物語っている。

  このようなことから、神南寺の上堂(観音堂)が明治時代に廃絶し、下堂(地蔵堂)の三室堂も、大正から昭和の間に途絶え、第四十八番の札所は、融念寺に引き継がれたものと思われる。
 なお、上堂と下堂に安置されていた、聖観音菩薩立像と地蔵菩薩立像は、一時期、奈良国立博物館に寄託されていたが、現在は、融念寺境内の三室堂が在った場所に、新たに恵宝殿を建立し、ここに安置されている。

  融念寺に参拝の折は、恵宝殿にて当時の三室堂を偲び、少し足を延ばして、上堂があった神岳神社へのお参りが、おすすめコースである。
 なお、融念寺より神岳神社へは、軽い登りで約400mで、ゆっくり歩いても約15分である。





大正の第四十八番霊場 三室堂の御朱印


現在の神岳神社


神岳神社 位置図
   
第四十九番霊場 善福院

 第四十九番霊場は、平成では薬師寺に対し、大正では善福院(ぜんぷくいん)と異なっている。

 善福院は、かつては、生駒郡斑鳩町龍田北(現地名)に在って、古伝によると、延暦21(802)年に弘法大師が開基し、自作の肖像が安置されていたそうだ。また、近世においては、高野山蓮金院の末寺でもあった。

 その後、永年続いた歴史は、昭和の代に途切れ、しばらくは廃寺のようになっていたが、平成4(1992)年に、その跡地に鉄筋コンクリート造りの本堂を建立し、現在は紅葉寺(こうようじ)に成り代わっている。

 善福院が廃寺となった折、薬師寺に札所を引き継いだため、二十番台の札所の西の京に、四十九番が混在するのは、この由による。


 

大正の第四十九番霊場 善福院の御朱印

紅葉寺(旧善福院跡地) 位置図
   

紅葉寺の入口(左に曲がれば本堂)

鉄筋コンクリート造りの紅葉寺本堂
   
第五十一番霊場 法隆寺西円堂

 第五十一番霊場は、平成では法隆寺西堂に対し、大正では法隆寺西圓堂と異なっている。

  法隆寺西堂の項で述べたが、現在は「西堂」という施設は、法隆寺境内には存在せず、ある一つの聞き込みによる伝聞をもって、「三経院」の一部説とした。

 ところが、大正の御朱印帳に記載されているのは「西圓堂」(新字体では「西円堂」)で、以下の根拠をもって、平成においても、「西円堂」が正しいものと、考えを新たにした。

 法隆寺西円堂には、わが国最大級の乾漆像として知られ、峯の薬師とも呼ばれる薬師如来坐像が、現在でも安置されていることで知られているが、平成の御朱印に「本尊薬師如来」とあることからも、「西円堂」が正しいと考えて間違いなかろう。

  昭和に大安寺が発行した案内用チラシの「大和北部八十八ヶ所霊場巡拝道順」では、確かに「第51番 法隆寺西 堂」となっているが、おそらく、編集の折に「円」が脱落してしまった可能性が高い。

  西円堂は、三経院の左奥の石段を登った小高い丘の上に建つ八角形の御堂で、三経院より数分の距離である。




大正の第五十一番霊場
法隆寺西圓堂の御朱印


現在の法隆寺西円堂
   
第六十番霊場 慈眼寺

 第六十番霊場は、平成では誕生寺に対し、大正では慈眼寺と異なっている。

 昭和の札所は、五十四番〜五十九番までと六十一番の所在地は大和郡山市で、六十番の誕生寺だけが、ずいぶんと離れた奈良市(ならまち)となっている。
 この理由は、大正の札所が大和郡山市の慈眼寺であると知って理解ができた。いつかは不明だが、大正から昭和にかけ、慈眼寺が廃寺となって、その札所の六十番を誕生寺が引き継いだため、所在地が離れた結果となったものである。

 では、当時の慈眼寺はどこにあったのであろうか?
 大和郡山の地誌「ふるさと大和郡山歴史辞典」などを元に調査した結果、当時の「慈眼寺」は元禄11年に尊清法印が中興した浄土宗の寺院であったが、現在は廃寺となって、その跡地に菅原道真を祭る天満神社になっているようだ。

 さっそく天満神社を訪れたが、なるほど、お堂を改築したこともあって、拝殿などは、やや風変わりな造りの神社となっている。
 なお、神社の裏どなり(北東)に墓地があり、その中に「北和札所第六十番慈眼寺」の標石も見つけることができる。

 「北和」とは、令制国の大和国北部を指す地域名称であるが、現在では奈良県北部のうち最北部に位置する地域を指す名称として用いられることが多い。厳密な定義がある訳でもないが、奈良市と生駒市のみを指す場合や、これに大和郡山市、天理市、山添村を加える場合もあり、さらに生駒郡を含めた場合も見られる。したがって、標石にある「北和」は、「大和北部」と同意語で、「大和北部八十八ケ所」を指していると思われる。

 現在の天満神社の地番は、大和郡山市茶町9番であり、第五十八番 釈尊寺、第五十九番 薬園寺、第六十一番 春岳院は、慈眼寺も含めて約500m四方内に収まる至近距離である。
 この辺りは社寺が多く、郡山城の城下町としての風情が残っているところの一つなので、ぶらぶらと歩くのも楽しい。



大正の第六十番霊場
慈眼寺の御朱印


天満神社の山門?


天満神社の拝殿


「北和札所第六十番慈眼寺」の標石

慈眼寺跡(天満神社) 位置図
   
第六十三番霊場 西福院

 第六十三番霊場は、平成では白毫寺に対し、大正では西福院と異なっている。

 西福院は山号を龍頭山といい、元は龍頭寺という名前だったそうだ。
 所在地は、奈良市西九条町(旧地名は添上郡辰市村西九条)の倭文(しぶり)神社の社務所西側の境内地になる。

 現在でもお堂が残っており、立札には毎月21日に大師講のお勤めが催されると書いてある。
 また、倭文神社の外垣には、「大和霊場八十八ヶ所 第六十三番札所」の標石が残っている。

 元の名の龍頭寺であるが、龍の頭・腹・尻尾の伝承があり、頭はここ西九条町の龍頭寺こと西福院、腹は北之庄町の竜腹寺(白山神社の地)、尻尾は今市町の竜尾寺(春日神社の隆興寺の地)と伝えられている。




大正の第六十三番霊場
西福院の御朱印




正面奥が西福院のお堂
右は倭文神社の社務所

西福院(倭文神社) 位置図
   
第六十六番霊場 超願寺

 第六十六番霊場は、平成では大野寺に対し、大正では超願寺(ちょうがんじ)と異なっている。

 超願寺は山号を法性山(ほっしょうざん)といい、宝永2(1705)年頃までは、現在の須佐之男神社(すさのうのみこと)(昔は牛頭(ごす)天皇社と言った)の鎮守社だったと伝えられている。
 また、須佐之男神社の南側には、後述の伝説において、須佐之男命が大蛇に化けて水浴をしたと伝えられる、「蛇南坊池」という変わった名の溜池がある。

 その後、時は定かでないが、本尊を現在の上三橋(かみみつはし)町公民館の場所に移すとともに、お堂は奈良市紀寺町に移したとある。
 つまり、須佐之男神社の地にあった超願寺は、現在の上三橋町公民館のある場所と奈良市紀寺町に分かれて移った。その後、上三橋の方は上三橋町公民館が建てられ、公民館の裏手に名残を示す「超願寺跡」の石碑が置かれた。なお、紀寺町の超願寺については現存する。

 須佐之男神社は、俗に「ちょんがりの宮」と呼ばれているが、これは鎮守社の超願寺の「超願の宮」がなまったとされる説が有力だが、ホームページ「ななかまど」の「大和の傳説」の中で紹介されている伝説を紹介しておこう。

ちょんがりの宮 大和郡山市上三橋町(旧添上郡平和村上三橋)
 上三橋の須佐之男神社を俗にちょんがりの宮と呼ばれている。この境内に、その昔、超願寺という寺があった。
 須佐之男命は、「いつもまっこうくさい仏さまと一しょにいるのはつらい。」といって、毎夜、前の池に大蛇に化けて水浴されるので、村人は気の毒に思って、超願寺の本尊を村の西にうつし、堂は奈良の高畑にうつした。
 超願寺がなまって、ちょんがりの宮となった。(乾健治)



大正の第六十六番霊場
超願寺の御朱印


須佐之男神社に今も残るお堂


須佐之男神社南側の蛇南坊池


須佐之男神社の周辺 位置図

上三橋町公民館の裏手の「超願寺跡」石碑


超願寺 位置図

現存する奈良市紀寺町の超願寺
   
第七十六番霊場 鹿野園太子堂

  第七十六番霊場は、平成では聖林寺に対し、大正では鹿野園太子堂と異なっている。

 鹿野園太子堂は、大正時代の旧地名では添上郡鹿野園村とされているが、現地名では奈良市鹿野園町と呼ばれる地に存在していた。

 鹿野園(ろくやおん)とは珍しい地名であるが、大仏開眼の導師を勤めたインド僧の菩提僊那(ぼだいせんな)によって、インドの仏教聖地サルナートにちなんで名付けられたとされる。
 なお、サルナートという地名は、「鹿の王」を意味するサーランガ・ナータが縮まったものと考えられており、悟りを開いたブッダ(釈迦)が初めて説法した仏教の聖地でもある。今も昔も鹿が多く住んでいるところから漢訳で鹿野園となったとされる。

 おおよその位置は、「北・山の辺の道」(東海自然歩道にも指定)と呼ばれる天理から奈良公園に至る終着近く。平尾池と白毫寺の間に八坂神社や新池があるが、このあたりを鹿野園町と呼ぶ。少し脇道に入ると美しい竹林が拡がり、奈良公園から歩いても約40分でありながら、閑静な佇まいで、趣深いところである。

 さて、在りし日の鹿野園太子堂探しである。
 1回目に訪れた2010年9月25日には、鹿野園町をしらみつぶしに歩き回ったが、何の手掛かりも得ることはできなかった。
 2回目は2010年10月9日に再チャレンジした。、折しも朝から雨の降る日、幸運にも地元の御老人のお話を聞くことができ、「かつては在ったらしい」ということと、「跡地のおおよその位置」を教えていただき、いにしえを偲んで感無量。
 

 



大正の第七十六番霊場
鹿野園太子堂の御朱印


鹿野園太子堂跡地


新池の堤より眺めた鹿野園太子堂跡地の方向
(真ん中のオレンジ色の家の向こうが跡地)

(墓場の横にある)石仏群

鹿野園太子堂 周辺位置図
   
第七十九番霊場 木戸寺

 第七十九番霊場は、平成では観音寺に対し、大正では木戸寺と異なっている。

 御朱印によると木戸寺の所在地は「山辺郡丹波市町大字杣野内木堂(やまのべぐんたんばいちちょうそまのうちきどう)」となっている。

 明治12年に木堂と山口と内山を合せて杣之内村となる。山口は、現在の木堂の南西にあたり、現在でも都祁(つげ)山口神社が、昔の名を留めている。なお、内山は、山口の東にあたり(現在の木堂の南東)、かの名跡の内山永久寺跡のあたりになろう。
 また、現在は木堂と書くが、昔は村の入口にちょっとした関所のようなものがあって、木戸(城戸)と呼ばれていたことから、木戸寺という名称の寺が存在していた所以である。

 その後、合併・吸収や町制・市制変更を経て、昭和29年以降は、通称「天理市杣之内町木堂」と呼ばれている。(正しくは、木堂を使わず、「天理市杣之内町|*番地|と番地で表現する)

 さて、大正には確かに存在していたはずの木戸寺であるが、ネットで検索しても、天理市立図書館に出向いて天理市史などを閲覧しても、手掛かりすらまったく掴めないので、やむなく現地に直接出向いて現地調査を行った。

 当時、木堂と呼ばれていた場所は、51号線の杣之内町交差点の東側で、東西約500m、南北約200mの範囲であり、民家があるのはその中の5分の1程度と狭いところなので、丹念にくまなく歩き回っても、1時間程度である。
 それらしき跡地を探し、また地元の人への聞き込みも行ったが、何ら手掛かりもなく、帰ろうと断念し、51号線近くまで戻ったところで、農作業をしていた70歳前後のご婦人に聞いてみたところ、知ってると言われる。

 『私が物心がついた時は、すでにお堂はなかったのですが、両親からここはお寺だった聞いていた。場所は、白山神社の隣(境内)に「木堂公民館」がありますが、そこにお寺があったらしいです。現在でも公民館の中に仏様が安置されているので、時々はお参りに行きます。また歌(御詠歌)が飾ってあり、そこに確かに木戸寺と書いてありますよ。』(ご婦人談)

 歩き回った折に、怪しいと踏んだ場所であるが、白山神社とあまりに至近していることから、見過ごしたが、まさに典型的な神仏習合の形を見た思いだ。

 公民館は厳重に戸締りをして、通常は閉ざしているので、特別なお願いをしないと、仏様を拝むことはできない。

 白山神社の場所は、天理より桜井に向かう「山の辺の道」沿いで、石上(いそのかみ)神宮を起点として約500mの右手になる。
 なお、白山神社の祭例は毎年10月14日なので、祭例には公民館が開いていて、在りし日の木戸寺の遺物にふれられるかもしれない。
 



大正の第七十九番霊場
木戸寺の御朱印


木戸寺跡 周辺位置図
(石上神宮より約500m)


白山神社
(左手に木堂公民館)


木戸寺跡
(木堂公民館)
   
第八十六番霊場 與楽寺

 第八十六番霊場は、平成では与楽寺(ようらくじ)に対し、大正では與楽寺と異なっている。

 と、はじめは思ったが、與楽寺のは、興福寺のとは異なり、の旧字体である。

 また、御朱印の文面に「広瀬 與楽寺」とあるが、現在の与楽寺が「北葛城郡広陵町大字広瀬」に存することからも、二者は単なる字体が異なるだけで、同一の寺院と考えられる。
 

第八十六番霊場 与楽寺の
大正の御朱印
   
番外霊場 傳楽寺観音堂

 番外霊場は、平成では戒壇院と観音寺の二つに対し、大正では室生寺と傳楽寺観音堂と隆興寺を加えて、五つになっている。
 ただし室生寺は、昭和では奥の院に格替えされているので、実質、大正での番外霊場としては傳楽寺観音堂と隆興寺が加わっており、昭和になってリストより外されている。

 傳楽寺観音堂は、大正の御朱印帳によると川東村西井上となっているが、現地名では磯城郡田原本町大字西井上にあたる。
 現地名の大字西井上は、東西600mで南北300mの範囲であるが、そのほとんどが田んぼであり、旧家が密集している範囲はせいぜい200m四方なので、現地調査に出かけたところ、融通念仏宗の伝楽寺を見つけることができた。

 門が閉まっていたので、詳しいことは聞けてないが、大正の傳楽寺観音堂は、現在の伝楽寺であると考えられよう。融通念仏宗と観音堂は、ややミスマッチの感がある。大正の傳楽寺が宗旨替えをして、現在の伝楽寺として残っていると考えるのが自然のようだ。
 




番外霊場 傳楽寺観音堂の
大正の御朱印


伝楽寺 周辺位置図


現在の伝楽寺
   
番外霊場 隆興寺

 前の傳楽寺観音堂でも述べたように、大正には番外霊場として存在していたが、平成になってリストからは外れている。

 隆興寺は、大正の御朱印帳によると、帯解村今市東元山となっている。現地名では、奈良市今市町にあたり、JR万葉まほろば線(旧JR桜井線)の線路を挟んで、帯解寺と向かい合う位置に春日神社が在り、その境内西側に存する。

 山号を東光山と云い、融通念仏宗のお寺で、寺縁起によると、春日神社は守護神として正徳年間(1711〜1715)に奉斉されたと記されており、神仏習合の形をとっていたようである。

 現在においても、毎年7月23日には帯解子安地蔵会式大法会が行われ、隆興寺がら帯解寺に向けての岩田帯練供養で賑わう。
 



番外霊場 隆興寺の
大正の御朱印
   

隆興寺 周辺位置図

現在の隆興寺

 

5.おわりに

 あるお寺で見つけた右の石碑がきっかけで、存在を知ることになった大和北部八十八ヶ所霊場。聞いたところによると、かつては存在していたが、現在は廃寺などによって、名ばかりになっているとの話であった。

 まことに残念なことで、『形あるものは失われる』というのは世の常であるが、少なくとも現在の状況だけでも後世に残したい思いで作ったのが、このコンテンツである。

 幸いなことに、平成3(1991)年に発行された「大和北部八十八ヶ所霊場巡拝道順」という案内用チラシを奈良市立図書館で入手できたので(詳細はこちら)、まず、これをもとに調査(巡拝)をはじめた。

 最初に制定されたのは、約240年前になる明和年間(1764〜1772)年であるが、その後、廃寺などによって札所の入れ替わりが頻繁にあったと思われる。事実、先の案内用チラシにしたがって調査しただけでも、なんと15ヶ所が廃寺になっていて、中には面影さえ窺えないお寺があるのが現状であった。

 約20年の間に15ヶ所が廃寺になったという事実を目前にし、調査して記録を残すことの意義を大いに感じ、さらにその前はどのような変化があったのかに興味を抱いた。

 とある日、ふとしたことから、大正11〜12(1922〜1923)年にかけて、田原本町の池田氏が巡拝した際の納経帖(御朱印帖)が、奈良県立図書情報館に蔵書されていることが分かり、早速に資料調査を行った(詳細はこちら)。

 その結果、平成3(1991)年に制定された札所の14ヶ所が、大正11〜12(1922〜1923)年には制定されてない札所であることが分かった。すなわち、大正11〜12(1922〜1923)年に制定された札所の14ヶ所は、平成3(1991)年までに廃寺になったことを意味する(詳細はこちら)。

 後編では、この旧札所であった14ヶ所についての消息を訪ね歩くことにした。すでに現在は存在しないお寺を探すことになるので、非常な困難を極めたものの、何とか探しだして、在りし日を想像することができた。

 このような経緯を通じて得た、廃寺探しの教訓について、下記に整理する。

 (1)ヒットしないインターネット検索
 うまくヒットすれば手っ取り早いが、廃寺になったお寺を探すのは難しい。なぜならば、インターネットが普及し、せいぜい20年程度なので、それ以前のデータが存在しないことによる。

 (2)古いデータは書籍が一番
 古いデータは紙ベースに頼ることになるが、所在する市町村の図書館に出向いて、蔵書されてる郷土史などを調べると、掲載されていることが多い。

 (3)現場で迷えば神社の周辺を探す
 所在地が明確でなくとも、だいたいの目安があれば、神社の周辺を探せば、見つけられることも多い。昔は神仏習合の形をとっていた証拠で、お寺は廃絶しても、神社は残っていることに起因する。

 (4)以外と強力な口コミ調査
 最後の手段は、地元の人に聞くことである。都会と違って意外と伝承されていることが多く、若い方でも、おじいさんやおばあさんに聞いたことがあると、分かることも多い。

 長い間、お付き合いをありがとうございました。新たな情報を入手すれば、追記していきますが、ひとまず、これにて、おわりとします。

(2011/04/17)