*** 感動は霊感の一種である ***
私には写真の趣味もあり、撮影関係の仕事もしている。で、時々、心象写真という言葉を耳にすることがあるんだけれど、要するに、精神世界の具現化ということらしい。
心象とは「見たり聞いたりしたことが基になり、意識の中に現れてくる像や姿。イメージ。」(infoseekの国語辞典より)ということなので、心象写真とは、それを写真にしたものということになる。「己の意識を写真に託す」のだという人もいる。しかし私は心象写真には懐疑的だ。
自分のイメージと言った所でそんなものは頭の中にあるだけで、写真に写せるものではない。そんなことが出来たならそれは心象写真ではなく念写とか心霊写真の類だ(笑)せいぜい私に出来ることは、自分のイメージになるべく近い被写体を探して写すこと位だろう。
「イメージにピッタリだ!」と言うことはあるが、実はイメージそのものでは在り得ない。そのつもりで撮影したとしても、出来上がった写真は、それを見る人それぞれによって違うイメージを抱かれることになる。つまり、「作品」とやらの一人歩きが始まるわけだ。
私がいくら念じて撮ったところで、他人様がどう感じるかなんてことまではコントロール出来ないのだ。写真に己の心象を託す、なんていうのは思い込みなのだ。
だからフルトヴェングラーがいくら霊感溢れる演奏をしたとしても、それを録音することは実は出来ないし、つまりはレコードには精神なんてものは入っていないのである。が、それでもフルトヴェングラーの録音を聴いて涙する人もいるのは何故だろう?
これは逆を考えてみると解り易い。つまりフルトヴェングラーの何処が良いのかサッパリわからない、という人が存在するという事実だ。極端に言えば、フルトヴェングラーの精神を強く感じ取り、その深遠なる形而上学的世界にワープできる人と、単なる録音の悪い騒音としてしか捉えられない人の両者が同時に存在するということなのだ。要するに、感じ取るも感じないも人それぞれ、人生色々、ということなのだよ(笑)
しかし、何かを感じ取ることの出来る人がいるということは、それはその人の何らかの能力に因るものではないかと考えるのが合理的と思えて来たのだが・・・。いや、そうに違いない。
巷には、あの世とこの世の境目をさまよう霊の存在を感じ取ることの出来る、いわゆる霊能力者という方々がいらっしゃるそうな。科学的には在り得ないと反証したところで、その人が感じることは結局その本人しか解らない、という現象は、芸術に対する理解と似ているではないか?
私は亡霊を感じはしないが、特定の録音を聴いた時、精神の飛翔する様を見ることならある。本当の話だ。これは単なる感動のレベルではなく、更に高次元の体験なのであり、つまり私に限定された一種の霊能力があるからそういうことが起こるのでは?と思うのだが(笑)
否、私だけでなく、そういう霊能力を持つ人は大勢いて、音盤の発する霊波に対する感度やチューニングの範囲もそれぞれ異なるのだと考えれば、全てに納得がいくのだ。
他人にはおよそ理解出来ないものに興味や理解を示すのは、恐らく、その人がそういう霊能力を持っているからなのだよ。
つまり、フルトヴェングラー・ファンにはフルトヴェングラーに対する霊能力があり、トスカニーニ・ファンにはトスカニーニに対する霊能力を持っている。だから、それを持たない者が聴いても何も感じないのは、むしろ当然なのである。
しかし、例え何の霊感も持ち合わせていないとしても嘆くことでもない。そういう人は、つまらぬ霊に惑わされて迷路に入り込むことも無く、真っ直ぐに人生を歩んで行くことができるのだから(笑)
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