『学者のウソ』質疑応答(その2)
掛谷英紀
前回に続き、『学者のウソ』(ソフトバンク新書)について、ネット上で公開されているコメントなどにお答えします。再度、細かい記述ミスについては、こちらに修正情報があります(お詫び申し上げます)。
まず、第一点目として、この本は一体誰に向けられて書かれた本なのか分からないという声がある。その疑問に一言で答えるならば、社会的に影響力のある情報発信をしている人(あるいは今後そうなるであろう人)ということになる。そういう人に対して、お互いもっと公正な情報発信をしよう、それによってお互いを信じられる社会を作ろうと呼びかけているのである。小飼弾氏のblogの書評では、その気持ちが正面から受け止められていた。こういう書評は著者にとって非常にうれしいものである。(なお、小飼氏は私とは全く面識がない。献本は担当編集者によるものである。)これと同種の書評は、メール等でも多数いただいており、心強い限りである。
もちろん、そういう価値を全く理解しない人も世の中にはいる。たとえば、次のような状況を考えよう。「手元にボタンAとボタンBがある。ボタンAを押すと自分だけが100万円をもらえる。ボタンBを押すと、極貧の1000人に1万円ずつ与えられる(合計1000万円)。そのボタンのことは誰も知らないので、選択の責任を問いただされることはない。」この状況で、何の迷いもなくAボタンを押す人は、『学者のウソ』のメッセージを理解することは永遠にないだろう。
よって、社会的に影響力のある情報発信をする立場にあり、上のボタン選択でBを選ぶ人は、『学者のウソ』を読んで満足する可能性が高いが、これに当てはまらない人は読んでも消化不良に終わる可能性が高い。実際、ネット上の書評をみると、消化不良を起こしている人は結構多いようである。今、同書を読むかどうか迷っている人は、参考にして欲しい。
ここで、私自身の倫理上の問題が一つ浮かび上がる。これは小飼氏の書評でも指摘されているタイトルの問題、そして本の帯の問題である。タイトルや帯からは、この本を読めば学者に騙されない知恵がつくとの誤解を持つ可能性が非常に高い。そのつもりでこの本を読むと、「あれっ?」ということになるだろう。そういう誤解を持たせて本を売る著者に、道義的責任はないのかと言いたくなる人はいるだろう。
実は、今回、タイトルと帯の決定権は出版社側にあった。ただ、それを言い訳にすることは当然許されない。どうしてもいやならば、著者として出版を拒否することはできたからである。
では、著者として、この問題をどうモラル・リーズニングするか。ここでは、功利主義に則って考えよう。功利主義とは、いわゆる最大多数の最大幸福の考え方である。今回の出版で得られる社会的ベネフィットは、この本を読んで満足する読者の満足の総和、コストはこの本を読んで消化不良をおこす読者の不満の総和である。この2つだけを考えれば、タイトルは内容に忠実な方がいいということになる。しかし、ここでもう一つの要素を考慮に入れるべきではないだろうか。それは、この本を読んで賛同した人が、より正確な情報発信をするようになる(あるいはそういう仕組みを作る)ことによって得られる社会的ベネフィットである。タイトルを内容に忠実なものにすれば、たしかに消化不良の読者は大きく減るだろうが、本自体の話題性が減れば、本書を手にしてベネフィットを得る読者もそれなりに減るだろう。そうすると、正確な情報発信という文化も広がらなくなり、その意味でもベネフィットが低下することになる。カント的義務論の立場では、これを以ってこの本のタイトル・帯を了承した私の判断は正当化される。ただし、帰結主義に基づけば、これでは正当化にならない。実際にこの本が正確な情報発信の増加に貢献するという結果が伴って初めて、私の判断は正当化されることになる。ちなみに、功利主義によるモラル・リーズニング自体に欠陥があることも知られている。それは、最大多数の最大幸福が得られても、一部の個人に多大な犠牲をもたらす可能性があるからである。ただ、今回のケースでは、本は一冊735円であるから、個人に「多大な犠牲」は与えておらず、また、本書が正確な情報発信に貢献すれば、そのコストも解消される可能性がある。いずれにせよ、信じられる社会の構築に貢献することが、これからの私に課せられた責務である。
このケース、技術者倫理教育の題材に使えそうである。
以上、非常に長くなったが、もう一つの論点に移ろう。こちらは、上に比べると些細な問題に見えるかもしれないが、学者を職業とする私にとっては、この方がずっと重要である。以下は、国立天文台の牧野淳一郎氏の日誌の一節である。
「学者のウソ」とかいう本を眺める。 赤林君と木村さんという人が分子生物学会について行った調査の結果が引用されてるけど、これを「研究開発費獲得状況は、独身者に限ると男女差が全くない」(上の本 p167)と読むのはちょっと間抜け過ぎる。差がないのは、「PIになった場合に」獲得する金額で、PI になる割合は独身でも大きな差がある、という結果で、そのことはまとめにもちゃんと書いてあるわけで。
こういうレベルで問題があると、他のところの主張もまあその程度のものかいなと。
「間抜け」呼ばわりするのは勝手だが、実は赤林・木村両氏の調査研究に対する私の分析は牧野氏の想像よりもっと深いところにある。是非同文献の中身を見ていただきたいのであるが、同調査における多変数回帰モデルがあまりに不完全なのである。なんと、学歴を「博士号の有無」だけで測っているのである。こんな単純な指標で得られた「学歴」を「研究者の実力」の指標にするのは明らかに不十分である。いいことかどうかは別として、研究者はどういう大学のどの研究室で学位をとったかで、人事において違った扱い方をされる。そして、大学間の男女比率の差はそれなりに顕著である。東大、京大などの上位校は、他大学より女性比率が明らかに少ない。よって、その差がPI率に反映している可能性は否定できない。本当に男女差別の有無を検証したいのであれば、出身大学・出身研究室の過去数年間の平均研究費獲得額、個々人のジャーナル論文数とインパクトファクターの合計などをモデルに組み込むことが不可欠であろう。そういう重要な要素が含まれない不完全なモデルに基づく結論であるから、私は同調査の「PI率」のところを意図的に無視したのである。(一方、研究費獲得では、所属大学や過去の論文リストなどが審査員に見えるようになっており、それを通じて実力が組み込まれうるので、引用に値すると判断した。)もちろん、こういう「リサーチ・リテラシー」は、社会調査にある程度慣れていないと身につかないので、天文学者さんにこれを求めるのは酷かもしれないが。。。
ただ、それを差し引いても「こういうレベルで問題があると、他のところの主張もまあその程度」というのは、学者という以前に、人間としてあまり好ましい考え方ではない。これを世間では「偏見」と呼ぶ。
ちなみに、私のフェミニスト批判や左翼批判を「偏見」呼ばわりする人もいるが、こちらは10年近く色々な事例を積み上げて、それに基づいて批判しているのである。決して一部を全体のごとく語っているわけではない。これは、どこまでの表現が正当化できるかの問題だが、たとえば、X学会に属する10人の研究者A,B,C,〜,H,I,Jがいたとき、A〜Hまで8人ぐらい調べて、Aだけが本来の学者で、他の7人が政治活動まがいのことをしていれば、「X学会は政治団体だ」との主張は正当化されよう。もちろん、このとき、Aや、まだ調べていないIやJの個人を指して政治活動家と言うことは正当化されない。私が左翼やフェミニストを総称批判するのは、上のX学会を批判するレベルである。しかし、牧野氏の場合、A一人を調べて、それが黒(拙著の場合、本当は黒ではないのだが)というだけで、X学会には価値がないと言っているのと同じである。こういうもの言いこそ、「偏見」と呼ぶにふさわしいのではないだろうか。