小さく、手を握ってみる。
この朝の爽やかな空気を受け止めるように。
篤川家の温室のなかで。
静かな、清浄な旋律を奏でる篤川家の敷地内でも、この温室が一番好きだった。
明日香の温室で戒はゆっくりと深呼吸する。
大きく吸い込まれたつくりたての酸素、ほのかに甘い花の匂いが鼻腔をくすぐる。ガラ
スから差し込む陽光は朝のおめざに最高のプレゼントをする。チュン、チュンとスズメの
鳴き声がする。温室の天井のガラスの上で今日も一日が訪れたことを楽しそうに踊ってい
る。
彼らの目的は・・・実は明日香であるのだが。
たまに、早起きなんてしてみるのもいいものだな。
そう思う。朝がこんなにも気持ちがいいものだとは知らなかった。スズランの葉っぱか
ら朝露が雫おちる。
まぁ、それでも8時は回ってたりするのだが・・・。
勇基から「んなの早起きと言わねぇよ」ってイヤミを言われるのが聞こえてきそうだ。
「おはよー、戒くん♪」
勇基の不機嫌そうな表情が弾け飛んで明日香が闖入してきた。もちろん想像じゃなくて
、想像上のとびっきりの笑顔で温室の中に入ってきたのだ。オーバーオール一枚で肩なん
か露になっているのがちょっとドキっとする。手にはバケツを持っていて、さらに屋根で
待ち構えていたスズメやらヒバリやらが一緒に入ってくる。
「おはよう」
心地よく挨拶すると明日香はちょっと照れ笑いをして喜んだ。と、同時に小鳥たちが朝
ごはんを待ちきれなくなって明日香にじゃれはじめる。
「ちょっとぉ、くすぐったいってば。今あげるから待ってよ」
えさはバケツの中に入っているのだけれど、小鳥たちも行儀よく(?)明日香の許しが
あるまでは食べない。というか、明日香から手渡しされるのが最高のご馳走だとわかって
いるみたいだ。笑顔をふりまいて明日香はバケツから一掴みのえさを手にとり、餌付けす
る。
明日香の手のひらに集まった鳥たちを見て心が和む。要領のいい小鳥は明日香の手のひ
らから素早くえさを口にくわえると戦場から飛び立って明日香の肩で特等席と言わんばか
りに得意気にえさを頬張る。明日香から早春の新芽のようないい馨りがする。笑顔が奏で
る旋律も、実に心地良いものだ。
「ねぇ、戒くんもやってみない?」
「えっ・・・?」
まさか、言われるとは思ってもみなかった。他意のない笑顔に不意をつかれる。えさの
豆を差し出されるが、受け取っていいものか少し躊躇う。
それでも、手渡しで受け取って手をかざす。すると、明日香の方だけでなく、自分の方
にまで鳥がやってきた。
「くすぐったい・・・ね」
手の上のえさをついばむと同時に勢い余って手までついばまれるのがくすぐったい。
「これでおしまい。だめっだってばぁ、食べすぎは体に毒なんだか。さぁ、食後の運動を
しないと太って勇基ちゃんに食べられちゃうよ」
いくら勇基でも、鳥が丸々と太って美味しそうでも捕まえて食べないと思うけど。よほ
ど、お金がなくて飢えていないかぎり。
「さて、私たちは私たちのご飯の用意をしましょうか。私は茄子を採るから、戒くんはト
マトをお願いね」
小鳥のえさが入っていたバケツはそのまま収穫用の籠になった。明日香は茄子の株から
大きいものを選んでもぎ取っていく。戒も茄子の隣のトマトの株の前で腰をおろして真っ
赤に熟れたトマトを慎重に選んで収穫する。
これはちょっと青いかなぁ・・・。
ん、これはパスタに使ったら美味しそうだな・・・。
食べるだけ、熟れたものだけを採る。あまり大きくないバケツはすぐいいっぱいになっ
た。
「そうそう、もうごはんできてるってよ。片づかないから勇基ちゃんが早く食べろって。
ねぇ、ごはん食べおわったら、買い物に付き合ってね」
ちょっとうつむき加減で恥ずかしそうに言う。まさかデート?って戒も頬を赤らめる。
「う・・うん・・・。別に大丈夫だけど・・」
じゃあ、早く食べてきてね♪と微笑んで明日香はバケツを手に嬉しそうに家の中に消え
ていった。
なに・・着ていこう・・・かな。
ちょっと考えるべき人が違うかもしれない。
戒は鼻唄混じりで階段を降り、玄関に向かった。途中、廊下で勇基に遭遇し、「おまえ
なに嬉しそうにしているんだよ。あん?よそ行きの服なんて着やがって。おまえもいっち
ょまえにデートか?」なんて言われた。あんまり気づいていないので助かったが、少し鈍
すぎやしないか?勇基は最近凝りだした盆栽の手入れをするために鋏を持って縁側の方に
消えていった。
もし明日香とデート(?)なんて知ったらどうするんだろ。やっぱり、怒るのかな。ま
ぁ、ただの買い物なんだから言われる筋合いはないけど。
そう思った時に自分の姿を見る。
普段なら洗い晒しの綿のシャツを着ているだろうけど、今は絹のシャツだったし、ズボ
ンだってジーンズではなく、光沢のある茶色のズボンだった。さらに実用性を度外視した
小さな帽子を被っているとしたら、誰が見たってデートに見えるかもしれない。
かぁっと赤くなる。
もし明日香がこの露骨さに気づいたとしたら・・・。
着替えてこようかとも思ったが、そんな時間はなかった。ちょっと気恥ずかし気に玄関
に向かうと、しかしながら、明日香もしっかりとおめかしした姿だったのだ。
「ごめん、待った・・?」
「ううん、いま来たところ」
お決まりの台詞を応酬しあった後に出掛ける。買い物って言っていたけど、なにを買う
のかな。
ひのふのみ・・・。
自分の誕生日にはまだ早かった。勇基のでもマリアのでもないし、一先ず思い当たるも
のはない。じゃあ、ジュマ?とも思うが、記憶によると違う気がする。
じゃあ普通に服とかでも買うのかなと思っていたのだが・・・。
「こういうことだったのね・・」
買い物に帰り、塩、味噌、醤油、さらにお米と重いものを山ほど持たせられて戒はつぶ
やいた。
よく考えればわからないわけでもなかった。でも、勇基が買えばいいんじゃないのか?
と思わないでもない。
「戒くん、重くない?ごめんね。ちょうど切らしちゃってて。勇基ちゃんがいつもは買い
に
いくんだけど、今日の晩御飯は勇基ちゃんの番じゃないし」
「いや、いいけどさ。これ、全部いっぺんに買う必要、あったのかな・・・」
「あ゛っ・・・」
明日香が汗を流す。醤油なんでボトルで買う必要もないし、塩だって小さいのがあるか
ら何も10キロも買わなくていいんじゃ。
「本当にゴメンね。なんだか。悪いことしちゃったような。今から返品するわけにもいか
ないし・・・」
「だ、だいじょうぶだよ。ほら、力を使って重力を遮断すれば軽いし・・ね」
確かにできなくはなかったが、重力を遮断するなんて家までずーっと使った方が逆に体
力を消耗させる。
まぁ、限界がきたら明日香と一緒に瞬間移動しちゃえば・・。
そんなわけで30キロ近くある荷物を抱えてガルドの商店街を進んでいく。
「明日香ちゃん、美味しいカレーパンが焼き上がったんだけど、どう?」
前におやつで買ってきたカレーパンだ。焼きたてだし、愚がぎっしりつまってて美味し
かった。明日香ってけっこう甘いお菓子をおやつに出すんだけど、カレーパンだったら大
歓迎だ。
「ん〜、じゃあ、甘いの一つと・・・、戒君は?普通のでいいんだ。じゃあ、前とおんな
じで普通の二つください」
甘いのがダメだからって辛いのも苦手な戒だった。勇基からはシゲキがダメな男とか言
われるかもしれない。
「はい、お釣り。そうそう、趣味でクッキーを焼いたんだよ。もしよかったらもらってい
ってよ。といっても、そんなに量があるわけじゃないんだけど。ちょうどいい時間だし、
その辺でお茶と一緒に食べちゃいなさいよ」
甘いものが好きな明日香だったから断る理由はなかった。オバさんの好意を「ありがと
う」と言って素直に受け取る。「ちょっとおなかがすいていたからちょうどいいね♪」な
んて言って向かいのオープンカフェに向かう。
ク、クッキー、僕も食べる・・のか?
ちょっと憂鬱になる。
明日香はオレンジジュースを、戒は紅茶(もちろんストレート)を買って空いているテ
ーブルにつく。
「美味しいよ、戒くんも食べたら?」
鬼のようなことを笑顔で言ってくる。僕、何か悪いことでもしたかな。
しかたがないのでクッキーをひとかけら手に取って食べるモーションだけする。左手で
カップを持って口に運ぶ。
「そ、そういえばさ。こんなところでお菓子とか食べちゃったら、おやつのカレーパン食
べられないんじゃ・・」
クッキーを美味しそうに頬張っている明日香の口が止まる。
「そ、そだね・・・。どうしよう。勇基ちゃん3つも食べてくれるかなぁ」
「いや、勇基だって3つも食べたら今度は晩御飯が食べられなくなると思うし」
そういえば、前に「体が資本だから食べられるときに食べる主義」だとか言っていたよ
な。もしかすると大丈夫か?
「ん〜、みんな食べてくれるかなぁ」
明日香はどうやら犬たちに食べてもらおう考えているみたいだったけど、さすがにそれ
は無理ってものじゃないだろうか。
「僕が1個、今食べちゃうよ。今なら晩御飯にも影響少ないだろうし」
「ありがとう、よろしくね♪」
ほっとする。なんとか、クッキーを食べない口実ができた。
「ねぇ、戒くん。またお買い物付き合ってね♪」
篤川家に着いてから、最後に明日香が微笑んで言った。
今日一日、重いものばっかり持たされたりとか、クッキーを食べだせられそうになった
りとか、あんまりデートっぽくなかったりとか不満はいっぱいあったけど、明日香の嬉し
そうな笑顔を見ると全てがいい思い出になりそうな気がする。
「お早いお帰りで」
家の中に入ると、勇基が当番でもないのに晩御飯を作って、さらに3人分がもう食卓の
上に並べてあった。
「冷めないうちにとっとと食えよな」
割ぽう着を脱ぎ捨てて勇基は言う。
絶対に厭味を言っている。別に何も・・キス・・とかしてないんだし。勇基に文句言わ
れる筋合いはないと思うんだけど。
くんくん。
と、何か花の甘い香りがした。
この香りは・・・香水?
ポンと思い当たることがあって、今までイジメをお返しするためにあることをポツリと
言う。
「勇基・・」
「あん?」
「口の端に口紅がついているよ。明日香が来る前にちゃんと拭いておいたほうがいいんじ
ゃない?」
そう言って僕は自分の部屋に戻ろうとする。勇基は、慌てて口を手でごしごしと拭った
が、すぐに口紅なんかがついていないことを悟った。
「戒・・てめぇっ」
勇基がハメられて真っ赤になって怒ったのを見て、戒は優しそうに微笑む。
「くすくす。じゃあ、また来るよ。でも、君もなかなか隅に置けないんだなぁ」
人ごとだからからかえるが、もし自分だったらどうだろう。
特定の誰かとキスをしたいなんて思わないけど、でも、キスに憧れてみたい気がする。
明日香も・・そう・・・かな。
そこまで考えて、急に赤くなる。
僕は明日香と・・その・・キス・・・・をしたいの・・かな。
夕日が地平線に沈む頃、廊下の階段に窓から差し込む茜色の光に包まれながら、戒はゆ
っくりと自分の部屋に戻っていった。
いつか、こんな夕日の中で、小麦色に染まった明日香の頬を優しく撫でながら口づけを
できたのなら・・。
あとがき
戒と明日香のほのぼの小説をリクエストされたんですけど、なかなか難しいものですね。ん〜、遅くなりました。こんなに苦労させられたのは久しぶりです。それ以上はもう何も言いたくないです。(おい)
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