勇基の場合

 2月  14日  どのような残酷なシナリオをも描いて見せるガルドでも類を見ない残虐な1日が幕をあ けようとしていた。  それはガルドでも比較的平和な(つまり人の少ない)片隅での出来事だった。  “そのこと”に初めに気づいたのは、残念ながら勇基だった。  いつものように朝一番で起き、まだ眠たい瞳をこすりながらバスまでやってくる。  なにげなく、いつも通りパジャマ姿の勇基は眠り世界に半ば入っている自分を覚醒させ るために顔を洗い、そして歯を磨こうとしていた時だ。  口に歯ブラシをくわえ、丹念に歯を磨きながら鏡を見ると、後方に日めくりのカレンダ ーがあることに気づいた。  洗面所に日めくりカレンダーがあるのは別にこれといったおかしなところもない。昨日 も勇基が朝一番で日めくりカレンダーをめくったし、その前の日も明日も彼がカレンダー をめくっていた。  問題なのはそれ、カレンダーに記されている日付だった。  2月13日。  その日は自分の誕生日でもなければ明日香のでもない。ましてや借金の期日でも税金の 申告締め日でもない。じゃあ別段普通の日と違いないかもしれないが、しかし、日付、1 3日の所に大きく油性の赤マジックで○がつけられていた。  昨日と、そして一昨日と、ずーっと毎日続けてきたことを、勇基はおそるおそる実行す る。  すなわち。カレンダーを一枚めくること。  この事はある意味なんの問題もない。別にカレンダーをめくらなかったからって今日が 13日のままであることもないし、逆にけっして14日にならないということもない。本 心ではこのカレンダーをめくらなければ、14日が来ないことを祈っていたが。  裏が見えそうなくらい薄っぺらい紙をつかんで、おもいきってそれをやぶく。  ビリッ!  乾いた音をたてて古い日は捨て去られ、そして新しい日がやってきた。  14日のカレンダーには恐るべき悪魔の一文が朱文字で記されている。  聖バレンタインデー。  生まれてこのかた、勇基はこの日にいい思いでがない。別にモテなくて誰からもチョコ を貰えない青春時代を過ごしたとか、そういうことは幸運にもなかった。しかし、毎年と いってどこか勘違いした女やオカマからチョコなんて貰ったこともある。  まあ、そんなちょっと困り事の出来事は置いておいたとしても、勇基はバレンタインデ ーにいい思いでがなかった。  それはある意味我が家に住む悪魔のせいだった。  義理の妹とは言え、自分から見ても可愛いなと思う彼女。実際にガルド中の年頃の男の 子たちに密かな人気があるのを知っていたが、この際、そんなことはどうでもいい。(普 段なら明日香に近づく男はたとえ子供でも容赦しないが・・・)とにかくこの究極的に可 愛い妹は究極的な料理の才能があった。  いや、言葉を改めよう。致命的な暗殺者の能力を生来から備えていた。  その言葉が誤りでないほど、彼女の料理の才能は飛びぬけていた。  どこをどうやって作ったのか、茶碗蒸しを作ろうとしてキッチンを大破させてしまった こともあった。  まぁ、茶碗蒸しというのは難しい料理なのでいいとしよう。  コーヒーをいれるのでさえ、彼女は何を思ったのかコーヒーの中にコーヒー豆そのもの を浮かばせていた。  これでまだ反論の余地が残されているだろうか?  しかし、破滅的に料理の才能がないと言っても、彼女が料理をするのをやめてくれれば 何の問題も起こらないのである。幸い、勇基の料理の腕はプロ級とうたわれていた。人参 はちゃんと花形に切ってあるし、見た目だけじゃない、ダシもちゃんととる方だった。本 人に言わせれば多少凝ってはいるが、しょせん素人料理。適当に作っているよ。しかしそ れはひいき目に見たとしても謙遜に過ぎないだろう。実は何でも屋みたいなヤクザな仕事 をしているが、もしよかったらプロの料理人になっているところだった。事実、なんどと なく一流ホテルのオーナーからコックとして来てほしいと誘われたこともあったし、ちょ っとしたトラブルさえなければ今ごろは3つ星ホテルの料理長なんてこともないわけでも なかった。話がそれた。  とにかく、明日香がどれほど殺人的な料理の才能をもっていたとしても、その才能を自 覚して調理場に立つのを謹んでくれればいいだけである。しかし絶望的なことに彼女は自 分の料理の才能を理解せずに、嬉々として調理場に立つのであった。  もうキッチンをリフォームしたのは両手の指では数えられないほどだった。  明日香は料理が好きなのだった。  才能がほんの少しでもその好奇心に追いついてくれればと思うところだが、とにかく今 日はバレンタインデー。“料理好き”の彼女がチョコレートを作らないわけがないのだ。  溶かして固めるだけじゃないか。とお思いのそこのあなた。  その考えは今すぐごみ箱に放り込んだ方が身のためだ。  勇基も初めはそのように考えていたのだ。  溶かして固めるだけ。誰だってできる。  この認識がチョコレートよりも甘いと気づかされたのは、そう、初めて明日香からチョ コをもらった晩のことだった。  その日のことは今でもよく覚えている。  いや、言葉を改めよう。どうにかして忘れようと努めたが、どんなにがんばっても忘れ ることができなかった。忘れられなかった。  白い日までおよそ1ヶ月間、ずーっと体調を崩して寝込んでしまったのだ。  特に最初の3日間は大変だった。  地獄の試練とやらでさえ、これほど過酷ではないだろうと勇基は考える。  見た目は普通だったんだ。  悪魔に誘われた一言を今でも後悔している。  自殺志願者は是非とも彼女のチョコを食べてもらいたい。  それからの毎年のバレンタインは、勇基は何かと都合を付けて明日香の殺人チョコから 身を逃れてきたのだった。  去年は長期出張をいれていたし、一昨年は明日香に3日ほど睡眠薬を盛っておいた。  非道とは言わないでほしい。明日香のチョコの方がよっぽど凶悪だ。  だが、今年はうちにやってきたお荷物のせいで多忙で多忙で。ついすっかりバレンタイ ンの存在を忘れていたのだ。  昨日、疲れていたからといってどうして気づかなかったのか。  果てしなく後悔する。  昨日は早朝から戒といっしょに仕事をして、そして深夜遅くに帰ってきたのだ。  当然、明日香のことに注意する余裕も暇もなかった。明日香そのものも見ていない。  明日香は奇跡的に今日のことを忘れてくれただろうか?  いや、残酷な神はきっとにたりと笑って明日香にバレンタインのことをそっと教えただ ろう。  過去の例を見るとキッチンでチョコ作りに苦闘した明日香の眠りこけれいる姿があるは ずだった。  ひっそりとキッチンの方へ足を向ける。  ドアが見えてきた。  幸か不幸かキッチンのドアは開け放たれ、そして蛍光燈の淡い光が廊下まで漏れている。  誰かいたのだ。  もちろんその誰かが誰であるかなど言うまでもない。戒じゃないことは間違いない。昨 日、寝室に入っていったとこまでは見た。この家には勇基と戒を除けばあと住人は一人し かいない。  今すぐにでも荷物をまとめて逃げ出したい衝動をこらえながらそっとキッチンを覗き込 んだ。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・。  キッチンは予想通り壊滅的状況になっていた。しかし、不幸なことに明日香はチョコ作 り“だけ”は成功したみたいなのだ。疲れ果ててエプロン姿のままでテーブルに眠りこけ た明日香の姿がある。顔とかエプロンにはチョコがついていて、これだけを見れば妹なが ら実に可愛いのだが、悪魔は人間に天使の笑顔を見せるものだと思いなおす。  キッチンは泥棒が入ったのではないかと疑うほど荒れ果てていたが、不思議とテーブル の上の明日香の目の前だけは奇麗に片付いていて、さらにこの部屋の惨状には不釣り合い なほど奇麗にラッピングされた箱が二つだけある。 (俺と戒の分か・・・?)  道連れができたことを少しだけ幸運に思いながら、しかし次の瞬間には別のことを考え ていた。すなわち、  どうやって逃げようか。  明日香が眠っている間にチョコを処分してしまう方法もないわけじゃなかった。しかし、 しかしである。チョコを処分するためには、当然のことながらチョコを取りに行かなけれ ばならない。そのチョコは明日香の頭の上で大事そうに置かれているのである。仮に、仮 にだが、もしチョコを処分するために明日香のそばまで行った時、明日香が目覚めてしま ったらどうだろう。きっととびっきりの笑顔で「おはよう」を言ったあとに、死刑が執行 される。その勢いであの恐ろしいチョコを渡されかねないのだ。  現在、ほんの少しでもリスクを負ってはいけない。  やはりここは回れ右をして部屋に戻り、そして音速で荷物をまとめてこの悪魔の棲む屋 敷から逃げ出さなければならないのだ。  キキィ・・・・  歩くたびにきしむ床の音に肝をすり減らされながら、勇基は自分の部屋へ待避していっ た。




続く