サラ、サラ、サラ‥‥。
 星が、流れる。
 ぼくはいくつの流星を見逃しただろうか。
 満天の星空にきらめく流星。なんて美しいのだろう。
 願い事がないわけじゃなかった。でも、決して叶わない願い事なんて願っても願わなく
ても同じ。いつも、ぼくは星がただ流れるのを見送っていた。
 天空に輝く星になりたい。
 美しく、儚い星に。あんなに輝けたら、なんて素敵なことだろう。
 反面、どうして、ぼくは、こんなにも醜いのだろう‥‥。

 帝都国立劇場、通称オペラ座は4月の第1月曜日に7名の未来の歌姫を迎える。
「おじさま、はじめまして。」
 一人の少女がオペラ座の関係者専用の入り口に立った。さらさらの栗色のロングヘアに
たまご型の顔、頬は桃色で瞳はつぶら、長い睫毛が愛らしく、唇は少女らしく薄いサクラ
ンボ色をしている。服は紺のキュロットにブレザー、赤いストライプのリボンを胸元に配
し、頭の上にちょこんとベレー帽を乗せている。もちろんこれらは劇団の制服で、とは言
うものの制服は新人以外に着ているものもなく、彼女はとてもそれを初々しく着こなして
いる。
「おや、可愛いお嬢さん、ようこそオペラ座へ。“おにーさん”は未来の歌姫を歓迎しま
すよ」
 玄関先に座り込み、何やら大工をしていた長身の男、たぶん大道具なのだろうが、体の
サイズも大道具って感じだ。おじさまと呼ばれたのをさり気なくおにーさんに訂正してい
るのは流石か。
「はい、おじさま♪こちらこそ宜しくお願いします」
 やはり上手なのは未来の歌姫の方らしい。長身の男はずっこける。
「とほほ。俺はまだ20代だぜ、おにーさんって呼ばれたかったのになぁ‥‥」
「え?」
 追い打ちをかけるように少女は鈍い。もはや訂正するのでさえ諦めて話を続ける。
「いやいや、なんでもない。
 俺の名前はオラトリオ、オペラ座の大道具係だ」
 大きくて暖かい手を差し伸べてくる。
「私はエララです。今日からこちらでお世話になります」
 エララも握手をしてオラトリオに応える。
「でも本当に可愛いなぁ。そうそう、おにーさんが一ついいことを教えてあげましょう。
じつはですね、お嬢さん、このオペラ座には幽霊が棲みついているんですよ」
「幽、霊?」
「そう、幽霊。舞台の下の奈落に棲んでいるっていう噂なんですよ。しかもこの幽霊はお
嬢さんみたいな可愛い女の子が大好きでね、幽霊に食べられないように気をつけてくださ
いね」
 エララはきょとんとする。いや、少し怯えているのかもしれない。この手の話が苦手ら
しい。
「オラトリオさん、何も知らない女の子を怖がらせるものじゃありませんよ」
 不意の闖入者、声に振り向くときっちりタキシードを着た女の子みたいな繊細な顔つき
の男性がいた。さらさらの金髪が春風に揺れる。
「カルマ、嘘じゃないだろう?照明の雷電は嘘をつく奴じゃないし、衣装のクリスと音響
のパルスが二人一緒に見たそうじゃないか。オペラ座の奈落に誰かが住んでいるっていう
のは本当だよ」
「だからって幽霊とか人を食べるとかは感心しませんね。せめてみんなが呼んでいるよう
に怪人にしたらどうですか?」
「怪人?幽霊だって一緒みたいなものじゃないか。まあいいけどな。
 お嬢さん、とにかくオペラ座っていうのは劇場になる前は反政府ゲリラの根拠地だった
らしいんだ。もう5世紀も前の話だけどな。しかも舞台の底、奈落のさらに奥には地下牢
だってあるんだぜ。捕虜の監禁や拷問をやっていたらしいが、夜に奈落に行くと当時の拷
問にあった虜囚のうめき声が聞こえてくるっていう噂だ。まあ、誰も地下牢の存在は知ら
ないが、文献にはちゃんと載っている。きっと後の時代、ここをオペラ座にする時にコン
クリートで埋めたんだろうけどな」
「オラトリオさんよく調べましたね。でも私も貴方も昔からこのオペラ座で働いています
けれども、『幽霊話は昔からありましたが、怪人が出たって言うのは』ここ数年のことじ
ゃありませんか?」
「たしかにな。きっとどこかの家出息子が住みついているんじゃないかな。もしかしたら
支配人、クエーサー野郎の隠し子だったりしてな」
「オラトリオさん!」
「ああ、悪い悪い。
 そうそう、注意ついでに怪人とやらの特徴を教えてあげよう。黒いマントに白い仮面で
見るもおぞましい素顔を隠し、神出鬼没で100メートルを5秒で走るそうだ。今のとこ
ろさしたる被害はないが‥‥、お嬢さんが最初の被害者にならないとは限らない。気をつ
けるんだよ」
 オラトリオとカルマはまだ何やら話していたが、ずっとここで二人に付き合っているわ
けにはいかない。簡単にお暇してオペラ座の中にエララは入っていく。何せ今日ははじめ
てのオペラ座なのだ。国中の年頃の女の子が憧れる歌姫への道。自分が歌姫になれるなん
て思ってもいないが、意地悪な先輩に目を付けられては大変だ。そのために集合時間の1
時間も前にオペラ座に来たのだから。どんな人なのかな。大きく息を吹い、期待に胸を膨
らませてオペラ座の門を潜る。

 夕暮れ、宵闇の帳が降りる。地平がうっすらとオレンジ色に染まり、そして上空は藍色
に化粧直す。一番星が輝き、月ももうしばらくで顔を出すだろう。
 昼が夜へ、深淵なる闇はぼくにやすらぎをもたらす。闇の中では美しいも醜いもない。
あるのは闇色に染まった全てと、宙空に輝く星と月。美は両者だけが語ることを許され、
他者は闇に抱かれて深い夢を見る。
 夜は、ぼくにやすらぎをもたらす。夜なら、闇のなかでなら、ぼくは素顔をさらけだせ
る。誰にも見られないから、誰かに見られても、頼り無い月明かりだけでは、ぼくの醜い
顔を照らし出すことがないから。
 好きな、長い夜をぼくは楽しむ。月を見、星を眺め、歌を口ずさむ。
 心が旋律を奏でる。そのままにぼくは歌を口ずさむ。
 決して叶わない願望と、素直な自分のメロディを詩に乗せて‥‥。

「る〜♪るらら〜♪る〜♪ら〜♪」
 エララは満場の舞台で歌を歌っていた。いや違う、舞台から見下ろせる客席には誰もい
ない。観客の誰もいない舞台の上で、いつか満場の観客の前で歌う自分を重ねて歌ってい
るのだ。
『♪愛しい貴方へ、この歌は届くのかしら♪
 ♪遠く、離れた異国のお城、囚われた小鳥のさえずり♪
 ♪もし、叶うのなら♪
 ♪私は翔んでゆきたい♪
 ♪たとえ砂漠を越えて行くには、この翼が小さすぎるとしても♪』
 少し歌った所でエララは口を止める。
 砂漠って、エジプトかどこかなのかしら。
 囚われたお姫様とそれを救う騎士のお話。ありきたりの、それでも王道といえるほど人
気のお話。私もこのお話が好きで、よくナイト様が助けにきてくれるのを夢見たものだっ
た。
「感情が、こもって、いない‥‥」
 大好きなお話だから、感情はとびっきりこめて歌ったはずなのに、それでも何度も叱ら
れた。
 どこがいけないのかしら。やっぱり、憧れではいけないのかもしれない。先生が言うよ
うに本当に恋を‥‥。
 そこまで考えてエララは赤くなる。
 本当に恋をしなければならない。きっと、騎士に恋をしなければならないっていうこと
だろうけど‥‥、それでも、私にも本当に恋するような素敵な人が現れるのかしら。
 エララは恥ずかしい気持ちを抑えて、また練習を再開した。

「る〜♪るらら〜♪る〜♪ら〜♪」
 微かに、歌が聞こえてくる。
 奈落の底、さらに奥にある地下牢。天窓があってそこから光が差し込んでくる。やわら
かな月光と一緒に、女性の歌がどこからか聞こえてくるのだ。
 最近、よく夜になると聞こえてくる。
 この上がオペラ座だということは知っている。あまり覗いてみたことはないけど、昼間
にはたくさんの劇団員が歌や芝居の練習をしている。昼は歌声だけじゃなく、他の雑音も
大きいので歌声が直接地下牢まで響いてくるということはない。静かな夜だからこそ、風
に乗って聞こえてくるのだ。
 耳を澄ます。
 なんて、心地よいのだろう。
 瞳を閉じると、暖かいような、それでいてふわ〜っとするような、そんな気持ち。
 お母さんの子守歌。心の中に浸透してきて、それでいてやすらげる。
 毎日のように歌声を聞いていると、この歌声が好きな自分がいることに気づく。
 どんなひとが歌っているのだろう。
 そのひとのことを考えるだけで、なんだか心が無性に嬉しくなる。
 きゅう〜って胸が締めつけられるみたいで、とても気持ちいい。
 この気持ちってなんだろう。
 わからないけど、きっと歌のひとに会えば、自然とわかるような気がする。
 明日、こっそり会いに行ってみよう。
 ドキドキで眠れない中、ぼくの頭は夢見る未来でいっぱいだった。

 今夜もあのひとの歌声が風に乗って聞こえてきた。
 ぼくは簡単に身繕いをして奈落を登っていく。
 心を弾ませて、彼女の歌に合わせて鼻唄を歌いながらぼくは奈落を登っていく。
 瞳を閉じ、より明瞭とした彼女の歌声に聞き入ってしまう。
 甘い、蜂蜜のような声。とろっ〜としていて、それでいて透明感のある澄んだ声。7月
の朝露を集めたらきっとこんな味がするんじゃないかな。
 声が、歌が、直接ぼくの心に浸透してくる。
 歌声だけで、彼女の心優しい性格や麗しの容姿が見えてきそうな気がする。
 どんどんどんどん希望が胸に膨らむ。
 きっと、綺麗な人なんだろうなぁ。
 頬が緩んだところで、ぼくは我に返りハッとする。いつの間にかぼくは舞台の袖にまで
来ていたのだ。あと少し気づくのが遅かったら、ぼくは舞台の上に足を踏み入れてしまっ
ていたかもしれない。
 慌てて舞台袖の幕に身を隠す。
『♪嗚呼、貴方に逢いたい♪
 ♪許されぬとわかっていても、忘れられぬこの想い♪
 ♪月よ、伝えて、この、想いを‥‥♪』
 そっと舞台の中央を覗き込むと、誰もいない真っ暗な客席に向かって、一心不乱に歌い
つづける少女の姿があった。
 さらさらの亜麻色の髪が歌の振り付けと一緒に揺れる。ストレートのロングヘアに隠れ
た顔はすらっとした卵形で、肌は抜けるよな透明感にあふれている。それにつぶらなエメ
ラルドグリーンの瞳、きれいで長い睫毛、柳のように流れる眉、小さな鼻、唇は薄くて、
それでいてふっくらとしている。
 なんてきれいな人なんだろう。
 ぼくは心うたれた。
 処女雪の中から出てきたような、甘酸っぱい林檎の花の香り。妖精のような彼女。
 歌うたびに、蜂蜜のような笑顔が零れる。
 ぼくはぽーっとした。
 彼女の前にぼくは決して出てはいけないのに、なのにふらふらと誘われそうだった。
 いつ彼女の公演が終わったか知らない。気がついたら、ぼくは無人の舞台の袖に独りた
たずんでいた。
 たった一人だけの観客。なんだか最高の気分。
 終幕は、ぼくに淡い夢を抱かせてくれた。

 あの日から、ぼくはいても立ってもいられなくなった。
 ぼくは一目惚れしたのだ。幻の歌姫に。
 ぼくの心が、彼女でいっぱいになる。
 ぼくの名前を呼んでくれる彼女。
 ぼくに真珠のような微笑みを向けてくれる彼女。
 歌を歌う真剣な眼差し。
 汗がきらきらと輝きながら散っていく。
 逢いたい。
 できることなら、逢いたい。逢って、彼女を抱きしめたい。きっと、太陽をいっぱい浴
びて、ふかふかになった布団の匂いがする彼女に包まれたい。
 彼女の名前だって知りたい。
 彼女の純粋な瞳のなかに、ぼくの姿を映してほしい。
 決して叶わない願いはぼくの心を駆けめぐる。
 でも、それらは全て、決して叶わないのだ。
 冷たい仮面がぼくに教える。
 ぼくは、醜い。
 仮面の下に隠された素顔。
 悪魔のような顔。誰かが言った。
 彼女が、ぼくの素顔を知ったら、きっと彼女はぼくを恐れ、嫌うだろう。
 彼女の真珠のような笑顔が、凍りついたように歪んでいく。
 ぼくはその瞬間に耐えられない。
 この、満天に輝く星のようになれたら、なんて素敵だろう‥‥。

「エララ」
 オペラ座の廊下を歩いていると、誰かに呼び止められた。
「先生!」
 ちょっと不思議そうに振り返った顔が急に晴れやかになる。
「そんなに喜ぶものじゃないよ。でも最近、歌が上手くなったじゃないか。さっき同期の
ユーロパも感心していたよ。夜遅くまで残って練習していた効果が出たのかな」
 先生は30代後半の女の人。長身で男勝りな所が特徴で、女性の劇団員に絶大な人気が
ある。昔はトップスターの一人だったらしい。ユーロパは私と同期、しかも私なんかと違
って劇団に首席で入団した雲上人だ。
「はい♪きっと先生の指導のお蔭だと思います。それに、」
 ちょっと頬を赤らめて続ける。
「私が夜、歌の練習していると、誰かの視線を感じるんです。その人は姿を見せてはくれ
ないんですけれども、毎日私の歌を聞いてくれるんです。そう思うとその人のために歌い
たくなるんです」
「おやおや、エララの歌を毎日聞きにくるだって?裏方の誰かかもしれないよ。けっこう
エララは男共に人気があるんだから。心当たりを聞いてこようか?」
「もう、先生ったらそんなんじゃありません」
 否定をしながら全然否定になってない口調に先生も頬を緩める。「まあそういうことに
しておくよ」と言い置いてその場を立ち去ろうとすると、思い出したかのように重大なこ
と、エララにとっては嬉しすぎる知らせを口にした。
「そうそう、再来週の恒例の新作の劇に、ユーロパとお前が選ばれたよ。ユーロパがヒロ
インでお前は準ヒロインだけどね。明日からはその劇の練習にも加わってくれ。私と違っ
て劇の監督は厳しいからがんばるんだよ」
 なんでもない口調で言われたことはとんでもないことだった。
 春恒例の新作。これは毎年オペラ座が新人のお披露目のための劇で、この劇に出られる
ということはいわば将来を約束されたのも同然なのだ。ユーロパのヒロインも異例なこと
ではあるが、私の準ヒロインも異例なことだった。普通、役所的には重要な、それでいて
も主役格など新人はやらせてもらえない。
「はい!有り難うございます」
 深々と一例して先生を見送る。心の中では喜びでいっぱいだ。
 誰に伝えようかしら。
 家族に、友達に、それに‥‥、
 名前も、顔も知らない私の歌を毎日聞いてくれたあの人。
 今日こそは会って、お礼を言いたかった。

 静かな夜の帳が見せる静かなコンサート。たった一人の歌姫と、これまたたった一人の
影なる観客。たとえ二人が顔を合わせなくとも、どちらもが相手の存在に気づいていた。
エララはシグナルのために歌を歌っていたし、シグナルはエララの歌が日ごとに上手くな
ること、そしてその歌が自分に向けられていることに気づいていた。
 それでも、二人が重なり合うことはありえなかった。
 二人とも、お互いを意識しながら視線は平行線をたどる。
 奇妙な関係と言ってもおかしくなかった。
 エララは客席に誰もいないと思って歌を歌い、そして練習を終えると無感情に舞台を去
っていく。シグナルの方も歌声の途中でさもついでに来てやったという雰囲気で舞台袖に
現れ、そして歌が終わるとしばらくして、また姿を消す。その繰り返しだった。
 今日もまた、いつもと変わらない二人がオペラ座にいる。
 変わらない二人は、変わらない行動を取り、そして変わりなく舞台から消えていく。
 最終楽章を歌いおえた時、エララは一瞬の無気力感に襲われる。
 終末を懐かしむような、そんな表情。
 ふっと我に返り、そのまま舞台を退場する。
 シグナルも見送り、住処である地下牢に帰ろうとした時、カツカツというエララの靴の
音が途絶えた。
 舞台の上が真実の静寂に包まれる。
「あの‥‥」
 舞台の端で立ち止まった歌姫はシグナルに後ろ向きのまま言葉を発した。もちろんそれ
が自分に向けて放たれたものではあることは理解できた。少しビクつく。まさか歌姫に自
分の存在が知られているとは思ってもみなかったのだ。
「いつも、私の歌を聞いてくださってますよね」
 闇に向かって問い掛けられる。声に含まれているのは少量の疑問。
 返事はない。
 シグナルは返事をしない。それでも聞いて貰えていることを確信してエララは続ける。
「私、今度の劇で役を貰えたんです。きっと、練習の成果が出たんだとおもうんです。
 有り難うございます。貴方が私の歌を聞いてくれるから、だから上手くなれたんだと思
います。だから、お礼が言いたくて‥‥」
 エララははにかむ。シグナルにはそういう表情の歌姫が見えた。
「ぼくは何もしていないよ」
 エララの顔が喜びで紅潮する。そして反対にシグナルはつい口にしてしまったことを後
悔する。
「ただ、聞いていただけ。ごめん。こんな風に隠れて聞いているなんて卑怯だよね」
 継ぎ足してシグナルはもっと後悔する。歌姫が求めていたのはこんな言葉じゃなくて、
慰労の言葉、もっと言えば自分が歌姫の前に出ていくこと。
 でもそれは出来ない。
 静寂が訪れる。
「あの、エララ。私はエララです。
 貴方のお名前は?」
 言っていいのだろうか?一瞬、戸惑う。
「シグナル‥‥」
 ぶつっと途切れたように言う。
「あの、そんな所に隠れてないで、
 私の前に出てきてくれませんか?
 私は貴方のことに気づいていたんですもの。こそこそと隠れないでください。いえ、詰
問しているんじゃなくて、
 貴方に目の前で見てもらいたいんです」
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥」
 沈黙。
 沈黙が流れる。勇気を出して言った言葉に返事がなくて、耐えられなくてエララは舞台
の端から端まで、シグナルの隠れている厚い檀帳のすぐ前まで歩いていった。
「だめなんですか?
 そう、だめなんですね。
 私には姿を見せる価値もないんですね」
 泣きそうな顔でエララは吐き捨てる。
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥」
 沈黙。先程よりも長い沈黙が流れる。
「そう。
 残念です‥‥」
 諦めた口調で呟く。泣いているのかもしれない。
「‥‥‥‥ごめん‥‥‥‥‥‥」
「え?」
 シグナルの気配が消えた瞬間、ぼそっと辛そうな口調で囁いた気がした。
「ごめん、ぼくは君には逢えない‥‥」

 醜いっていうのはなんて罪なんだろう。
 今日ほど自分の顔が憎いって思ったことはない。
 憧れの歌姫、エララさんがぼくに逢いたいって言ってくれたのに、ぼくは、ぼくの顔を
見たエララさんに嫌われるのが怖くて姿を見せられなかった。
 美人とは言わない。もし、ぼくに世間で言う一般的な顔があれば、ぼくは何も躊躇うこ
となくエララさんに前に現れることができただろうに。
 いつだってぼくの顔はぼくを苛む。
 冷たい仮面の下に隠された醜い素顔。
 紫の髪は人間の髪じゃない。
 血の色。それも悪魔か宇宙人の‥‥。
 次の日の夜、毎日行われていたエララさんとぼくの二人だけの公演は、主役が訪れるこ
となく寂しく閉幕した。

「エララ!エララ!おい、聞いているのか!?」
 エララは新作の劇の練習に参加していた。
「えっ!あ、はい!」
 不意に呼ばれてエララはすっとんきょうな顔をする。
「エララ。大事な劇の練習中にぼーっとしているっていうのはどういうことなんだ?集中
できないというのなら辞めてもらって結構だ。お前の代わりはいくらでもいるんだぞ」
「ごめんなさい‥‥」
 エララは最近、心ここに在らずといった状態が続いていた。その理由は自分でもわかっ
ている。誰もいない夜の幻の公演。そのただ一人の観客、シグナルのせいだ。
『ごめん、ぼくは君には逢えない‥‥』
 意味深な言葉だったが、エララは額面通りにその言葉を受け取っていた。逢えない。逢
いたくない。私なんかには。
 密かに膨らんでいたシグナルへの想い。それを踏みにじられた感情。ショックで夜、一
人で練習する気も、ここ2、3日はなくなっていた。
「エララ、どうしたの?最近のあなたはボロボロじゃない。何があったの?」
 練習が退けて、各々が休憩と解散についた時、同期のスター、ユーロパが話しかけてき
てくれた。
「なんでもないんです‥‥」
 ぜんぜんなんでもなくない表情で話してしまう。「放っておいてください」と言わんば
かりの態度。つっけんどんにしてしまうのはいかがなものなのだろう。
「そう、話したくないのならいいけどね。
 でも、このままじゃ本当に降ろされちゃうわよ。何があったかしらないけど、ただ悩ん
でうじうじしているのはどうかと思うわ」
 ユーロパの心のこもった忠告もエララの耳には入らない。あるのは良くも悪くもシグナ
ルのことだけ。
 シグナルさん‥‥。
 エララも他の人たちと同様に備え付けのシャワールームに入った。
 無気力に衣装を脱ぎ捨て、頭からシャワーを浴びる。
 何も考えてはいない。
 ただ、無情に熱いシャワーはエララの体を刺激する。肌は瑕一つなく、水を弾くほどみ
ずみずしいというのに、心は虚ろだった。
 それからのことはよく覚えていない。茫然とシャワーを止め、バスタオルで濡れた体を
拭き、来るときに着て着た普段着に身を纏う。ふら、ふらとオペラ座を彷徨っていた。

『嗚呼、ぼくはどうすればいいのだろう。
 美しい蝶に恋した醜い蜘蛛。決して相容れないとわかっているのに、止められないこの
気持ち。
 蜘蛛が蝶に恋をしたって、結局は飢えて食べるしかないのに?
 何を思ったのか蝶が蜘蛛にも恋しているなんて残酷だ。
 どんなに好きな天使の微笑みも、たかが食欲に負けて自分で食べてしまう。
 信頼していた顔が、いざ食べられるとわかって恐怖に歪む。
 ぼくは蝶を食べて何が残るというのか。
 最愛のものを失った喪失感と、ただ胃袋の満足感だけ‥‥』
 歌も、途中からは歌にすらなっていなかった。ただ、心の悲痛な叫び。そのままを旋律
にしただけ。天を仰いで虚しくなる。
「忘れた方がいいのだろうか‥‥?」
 あっさりと忘れられるなら、こんなに悩みもしなかっただろう。一瞬、咲くかと思われ
た二人のつぼみは、最悪の結末によって花開くことを禁じられた。
 忘れるにしても、時間はかかりそうだった。


 舞台最終日。
 満場のスタンディングオベーションに包まれて、春の新人お披露目公演は幕を閉じた。
大成功である。
 エララは、そのスタンディングオベーションを舞台の袖で聞いていた。あれから、役を
降ろされるということはなかった。監督に褒められるほどエララはやる気を取り戻したの
である。
「おめでとう」
 誰もが近年まれに見る大成功に喜んでいた。主演のユーロパも、厳しい監督も、他のス
タッフも、エララも劇の成功に酔いしれていた。
「ほら、いっておいで」
 最後のカーテンコール。役者たちに残された最後の仕事だ。
 本当に、満場の観客である。ギャラリーから放たれる喝采は津波のように舞台の上のエ
ララたちを飲み込む。
 エララは、天にも昇る気持ちで、静かに瞳を閉じた。
 今までの苦労と、努力。それに‥‥。
 今日がエララにとって最後の劇となる。もう引退することは決めた。早すぎる、という
慰留の声もあったが、意思は変わらない。ユーロパには事情を説明したし、納得し、励ま
しもしてくれた。
 エララは思いをはせる。
 この、満場の観客のどこかで私を見つめているシグナルさんのことを。

『♪七色に光り輝くこの大空よ♪
 ♪ぼくは翔ぼう、この背中に、鷲のような大きな翼をつけて♪
 ♪両翼の大いなる翼、純白の羽ばたきによって、風に乗り♪
 ♪重力の呪縛を絶って、遙か蒼海なる大空に翔び立とう♪』
 ぼくは寂しさを紛らわすために今日も歌を歌っていた。ぼくの声はテノール。この大空
を歌った歌はぼくの声に合うでしょ?ぼくの一番好きな歌だ。
『♪風を斬り、雲を越えて、私は汝、空の王女に会いに行こう♪
 ♪騎士なる翼と、求愛の花束を携えて♪』
「!!!?」
 ズササっと跳びずさるようにぼくは驚愕した。なぜなら、歌を歌ったのはぼくではなか
ったから。女性の甘いソプラノ。しかもよく聞き慣れた声なのだ。
「今晩は、シグナルさん」
 嘘じゃない。幻でもない。ぼくの目の前、オペラ座の地下牢にひょっこりとエララさん
が現れたのだ。エララさんはいつも通りの笑顔でぼくに語りかけてくる。そう、泣きそう
だったあの顔じゃなく、それまでのエララさんの顔でだ。
「えっ、あっ、どうして‥‥?」
 どうしてこんな所にいるの?どうしてぼくの所に来たの?どうしてそんな笑顔でぼくに
語りかけられるの?さまざまなどうしてが含まれる。
 ぼくは呆気にとられて変な返事を返した。いや、ぼくは内心慌てている。幸い、ぼくは
仮面をつけているから醜い素顔を見られるということはないけど、それでもいつぼくの素
顔が知られるか恐くてならないのだ。
「うふっ、逢いに来ちゃったの。迷惑だったかしら」
 迷惑だなんてそんな‥‥。でも喧嘩別れ?みたいになったのに、どうして‥‥。
「シグナルさんが噂の怪人さんだったんですね。オラトリオさんから聞いたんです。オペ
ラ座の地下に巣くう怪人、黒いマントに真っ白な仮面をつけ、神出鬼没で100メートル
を5秒で走るそうですね」
 エララは悪意なくにっこりと微笑んでぼくのことを説明してくる。でもいくらなんでも
100メートルを5秒じゃ走れないぞ。それじゃあまるっきり化け物じゃないか。
「ま、まあ‥‥」
「よかった、もしどこか間違えていたらどうしようかと」
 本当は違うんですけど。
 と、深刻なことにぼくは気づく。エララさんはぼくの素顔のことについては何も触れな
かった。知らないということはないだろう。きっと、わざと言わなかったのだ。
「あの、ぼくは君なんかと違う、醜い怪人なんだよ。怖くないの?」
 自分でいって、自分がつらい。どうしてぼくは自分の口から醜いって言わなければなら
ないのだろう。
「?」
 エララさんは頭に疑問符を浮かべる。ぼくの、本当の素顔を知らないために。
「ぼくがこのオペラ座の地下牢に住んでいるのは誰にもぼくを見られたくないため。この
冷たい仮面は、ぼくの素顔を隠すため。そして、ぼくの素顔を象徴するためにあるんだ。
見るもおぞましい悪魔の素顔。人に在らざる顔。
 ぼくの顔を見ても、エララさんはぼくを嫌わないでくれる?」
「‥‥‥‥‥‥‥‥?
 はい♪私は、昔からシグナルさんの素顔は知っていましたから」
 とんでもないことを平然とエララさんは言う。何時ぼくはぼくの顔を見られたというの
だろうか。
「くすっ。そんなに驚かないでください。昔って言ってもそんなに昔じゃないですから。
そう、ほんの数週間前からのことですから」
 エララさんが一歩、また一歩とぼくの方に近づいてくる。
「私が、オペラ座の舞台で一人練習を始めた時、どこからともなく素敵な歌声が聞こえて
きたんです。優しくて、暖かくて、5月の快晴みたいな歌声。澄みきった、曇り一つない
純粋な歌声。シグナルさんの歌声です。
 私は、シグナルさんの歌声に、シグナルさんの素顔を見たんです。歌と同じように、優
しくて、暖かい素顔。心は純粋で、子供のように脆い。ほら、こんな顔」
 カランと乾いた音をたててぼくの仮面が剥がれ落ちる。違う。エララさんがぼくの仮面
を取ったんだ。
 ぼくの顔を見ないで!
 そんなことはもう思わなかった。ぼくは、呆然とされるままになった。
 エララさんは微笑んでいる。ぼくの素顔を見ながら。
「‥‥ぼくの顔が怖くないの?」
 ぽつりと呟くように言う。
「なんで?私と同じ顔じゃない」
 エララさんの口調に嘘は1ミリも含まれていない。
 エララさんの瞳にぼくの顔が映る。
「けど、ぼくの髪は紫色だよ?人間の色じゃないんだよ?」
 突き放すように言う言葉に、エララさんは逆に抱きとめる。
「そうかしら。綺麗な色だと思うけど」
 エララさんはぼくの頭の後ろに手をまわし、さらさらとぼくの紫の髪を梳く。
「そんな、ぼくの髪は血の色。悪魔か、宇宙人の‥‥」
 ぼくの視界が、エララさんでいっぱいになる。薄い桃色の頬。身長差もあって上向き加
減で見上げるエララさんの唇と下を向くぼくの唇がぶつかりそうになる。
「綺麗な、空の色じゃない。あなたの、心と一緒」
 ぎゅっとエララさんはぼくの手を握る。ぼくと、エララさんは抱き合っていた。
 あれ?目尻が熱い。
 エララさんの顔が歪んでみえる。
 歪んでみえるけど、でもとっても嬉しい。
 エララさんはぼくの全てを受け入れてくれるんだ。
 ぼくは、エララさんに体を預ける。そして、エララさんも‥‥。
 二人に、言葉は必要なくなった。
 二人が歌う歌が、お互いの気持ちを確認しあう魔法の言葉となる。
 空を見上げ、寄り添って歌を歌う。
 歌うのは、この世の全ての恋を歌った歌。
 月と、星が、今夜の二人だけのコンサートの観客となる。
 この後、二人がどうなったかなんて、あえて書く必要もないだろう。



「ふ〜。やっと終わったぁ。
 やっぱりこうだよ。これが主役の待遇ってやつだよね。最後はハッピーエンド。ぼくと
エララさんは遠い田舎‥‥ボキッ」
「こら!人がせっかく敢えて書かなかったその後の話を語るんじゃない」
「痛いな作者、だいたい神出鬼没で100mを5秒で走るのはお前じゃないのか?」
「なにを失礼な。今度こそはちゃんとした役にしてやったというのに、次は覚悟しておい
た方がいいぞ」
「ああっ、作者様。なにとぞ、なにとぞ今回のように美味しい役をこのぼくに‥‥」
「そこまで卑屈になることないだろう。たかが女装しただけじゃない」
「た・か・が・じゃない!ぼくのファンがどれほど減ったと思っているんだ」
「ある特定のファンは増えたんじゃない?」
「そんなのが嬉しいもんかぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」
「まあまあ。次回はまだ未定だけど『竹取り物語』とか『平家物語』とか和モノをやって
みたいから、たぶん大丈夫なんじゃないかな」
「本当なんだろうなぁ‥‥(かなりジト目)」
「そうそう、そんなことより今度はボクを出してよ」
「おお、ハーモニー」
「やっほ〜。ボクの1億2千万のファンのみなさん。みなさんもボクの活躍期待してるよ
ね」
『そんなにいないいない』
「でも今回の話ってキツかったよね〜。何せシグナル君が醜いなんてはっきりいって無茶
すぎる設定なんじゃない。あげくの果てには紫色の髪の毛が気持ち悪いってことにしちゃ
ってさ」
「だってしかたないじゃない。やりたかったお話なんだからさ。私だってかなり頭を悩ま
せたんだから」
「挙げ句の果てにエララがなんだか積極的だしさ。あんなのエララじゃないよ」
「煩いなぁ。しかたないだろう?本当の主人公はエララなんだから」
「え?」
「あれ、知らなかったの?原作では怪人なんて敵役だよ。主人公は歌姫とその幼なじみの
子爵。醜い怪人の魔の手から歌姫を守るのが本当の話」
「ぼくを騙したな、作者ぁぁぁぁぁぁぁ」
「ちょ、ちょっとお、っく、苦しい。首、絞めないで。
 はぁはぁ。まったくもう。このお話では子爵なんて出てこなかったでしょ?」
「そういえば‥‥」
「絵的に醜い怪人と歌姫の話の方が簡単で、しかも書きやすかったんだもん。だからエラ
ラとシグナルが主人公なの」
「まっいっか。ではこの辺で作者の見苦しい言い訳も終わりにしたいと思います。ではま
た次回会える日をお楽しみに」
「‥‥ブツブツ‥‥ねえハーモニー、次はどんな話にしようか‥‥」
「‥‥ヒソヒソ‥‥そうだねぇ、ボクとしてはシグナルがかぐや姫で‥‥」
「そこ、なに不吉なことを話しているんだぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」
「こんにちは、エララです。お騒がせ中すみませんけどこれで失礼します。ではまた、ご
機嫌よう」



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