何人にも受け入れかねない(誤字)瞬間というものがある。
それがエララさんの兄がコードであったりした時とか、
高得点を期待していた算数のテストの結果が散々たる状況だったりした時とか、
改造魔人が早朝、独り鏡の前で優しく微笑んでいた時とか、人それぞれイロイロだろう
が、間違いなく、今、ぼくの前にその瞬間が訪れようとしていた。
それはいつも通りの平和な昼下がりのことだった。
いつものようにパルスと将棋をして完敗した後、新たな挑戦者がぼくの前に立ちはだか
ったのだった。
それは敵だった。そう、わずかほんのちょっと前までは。今では友とは口が裂けても言
わないが、けっして欠かせない可愛い弟のような存在だった。いや、好敵手というのが一
番正しい表現なのかもしれない。
誰がどう考えたって過去に一度戦って勝った(別の勝負ではあるが)相手に、それも自
分のコピーで経験も劣る相手に後れを取るだなんて思わないだろう。
だが、今、その瞬間が訪れようとしていた。
将棋の盤面はぼくが優勢だった。今、クイックがさすまでは。
クイックが嬉しさをかみ殺してぼくを一瞥してから自分の駒台から角を取り出すと、絶
好の位置にそれを置いたのだった。
クイックのどうだ!と言わんばかりの表情を見て、ぼくの優勢と自信は音をたてて崩れ
さった。ギャラリーのパルスも信彦も「へ〜」という納得した表情をしている。盤面は王
手飛車をさしていた。
「う〜〜〜〜」
ぼくは頭を抱えこんで唸った。
「ふ〜ん、で、シグナルピンチなの?」
将棋のことはよくわからないクリスがパルスに尋ねる。
「そうだなぁ。わかりやすく言うと、一番強くて攻撃の要の駒がタダで取られてしまうと
いうことだ」
パルスはあまりにも非情なことを平然と言ってのけた。その表情は「私ならこんなヘマ
はしない」と雄弁に物語っていた。悲しい。
「さ、どうするん?マケマシタってちゃんと言うんだよ」
自分の勝勢を確信してクイックはぼくを見下してくる。
悔しい。こんなに悔しいことはパルスに初めて負けた時以来だった。屈辱なのはやっぱ
りぼくより年寄りで経験のあるパルスに負けた時よりも、ぼくと同じ性能で、ぼくより経
験のないクイックに負け‥‥てないぞまだ。な時の方が大きいのは言うまでもない。
挽回する機会さえなさそうだった。上空1万メートルの雲の上から地面に激突したかの
ように頭がクラクラとした。
こうなれば、最終手段‥‥。
「だめだよ。台をひっくりかえすっていうのは」
‥‥もクイックの予知の前には無力だった。がっしりと台を抑えられてしまっている。
「ううっ‥‥マケ‥‥マシタ‥‥‥‥」
ぼくが耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び、涙を流しながら敗北宣言をすると、元気
100パーセントの笑顔でクイックが勝利のポーズを決めた。
「よくやったな、クイック。私も教え甲斐というものがあるものだ。クイックは素直で私
の言うこともよく聞くし、飲み込みも早い。誰かさんとは大違いだ」
誰かさんこと、ぼくはもう立ち直れなかった。なにせ、後輩‥‥というか、ぼくのコピ
ーにさえ負けちゃうんですよ?この前、ケンカでクイックをのした後、パルスとクイック
が何やら話し合っていたのを聞いたんだけど、こんな陰謀をたてていたなんて!
パルスを追い越そうとオラトリオとかに修行してもらっているのに、なんでぼくって学
習能力がないんだろう。やっぱり、クエーサーにミラを取られたせいかな。わずか一瞬で
もあの妖怪ぢぢいの体内にミラが入っていたと思うと‥‥腐っているんじゃないかって思
いたくなる。
“ぴんぽーん”
と、その時、音井家の呼び鈴が鳴った。
「ごめんくださ〜い」
小鳥のさえずり、天使の蜜、この世の清音を集めたような素敵な声がかずかながらリビ
ングに聞こえてくると、ぼくは地獄の底まで落ち込んでいたのを返上して、脱兎のごとく
玄関に向かって駆けだした。が、もちろん、憎きクイックと信彦も同じようにスタートを
きっている。
「あ、シグナル!抜け駆けはずるいぞ」
などと言うが、所詮は負け犬の遠吠えよ。家の構造を知り尽くしているだけあって、ぼ
くは先頭をきってエララさんの待つ玄関にたどり着く。もちろん、人間の速度の信彦は敵
じゃない。
「ようこそ、エララさん♪」
エララさんは玄関の中で待っていた。もちろん、ぼくを♪そういえば、意識が戻ってか
ら初めての出会いな気がする。嗚呼エララさん。貴方はどうしてそんなに美しいのでしょ
う。この感激をそのまま行動で表してエララさんを抱きしめたいです。
「こんにちは、クイックさん」
え?
真っ先にぼくに挨拶してくれると思っていたら、エララさんの視線は急に下のほうに、
実際は屈んでクイックの目線に合わせて挨拶している。エララさんに挨拶され、なおかつ
頭なんか撫でられて得意顔をしているクイックを見るのは屈辱だった。ぼくはもちろんの
こと、信彦も面白くなさそうな顔をしている。
っていうか、ぼくが知らない間にいつの間にクイックの野郎はぼくのエララさんと仲良
くなったんだ?
「何がぼくのエララだ。貴様なんぞにエララはやらんと何度言ったらわかるんだ!」
「いたっ!って、コードも来てたのかよ。ってぇかさ、ヒトの心の中の声まで勝手に読み
取らないでくれる?」
ぼくがコードの嘴でつつかれた頭をさすりながら抗議するも、コードは知ったことかと
知らんぷり。まったく、クエーサーの事件以来、暇になったものだから、いつもエララさ
んにべったりついて、変な虫がつかないか見張っている。その迫力としつこさは以前の比
じゃない。まぁ、きっとクイーンに誘拐されたのが尾を引いているんだろうけど。
「こんにちは、シグナルさん、信彦さん。クイックさんから遊びに来てほしいと電話があ
りまして‥‥」
そういうワケだったのか。でもいつの間にエララさんの電話番号なんて知ったのだろう
か。とにかく、危険なライバルが一人現れたのは間違いない。さらに、クイックのことを
子供だと思っているからだろうか、なぜかコードはクイックにちょっかいを出さないし。
「ねぇ、なにして遊ぼうか?」
人懐っこそうにクイックはエララさんに話しかけている。エララさんもクイックに合わ
せて話をしているし。(しかも楽しそう!)どうしてこう‥‥。
「そうですねぇ、お料理なんていかがでしょう」
げっ!
ぼくと信彦はその言葉を聞いてギクっとした。クイックはエララさんの手料理が食べら
れると聞いて一人喜んでいたが、次の瞬間、ぼくらのリアクションを不思議そうに見た。
「今日はクイックさんが好きなカレーです。それも特別にシーフードカレーにしましょう
ね」
げげげげげっ!恐ろしいまでの記憶が黄泉返ってくる。エララさんお手製のシーフード
カレー。それで教授は病院送りになってしまったのだった。
ふふふっ、ふふふふふ、はぁーはっは。クイック、エララさんの手料理を食べて死ぬが
いい。って、キャラが違いますがな。
音井家ではエララが料理のリの字を口にしただけでみんなヒキガエルみたいにヒクつく
のだが、知らないこととはいえクイックが大喜びだったので、エララさんも嬉しそうだ。
これはきっとメルトダウンが起こるぐらいはりきってエララさんは料理を作るぞ。
「さて、今日はシーフードカレーを作ります。まず用意するのは普通のカレーの材料です
ね。人参、玉葱、ジャガイモ、お肉、カレールーに、シーフードカレーなのでエビ、ホタ
テ、イカ、ウニ、それにシャコを入れます」
3分クッキングの要領でエララさんは材料を説明しながら、鍋に次々と材料を入れてい
く。今回も恐ろしそうな材料が入っているが、前回よりはナンボかマシな気がしないでも
ない。それにしても、シャコって‥‥。あんなんアリか?
「そして隠し味にナマコを入れます」
料理をする時のエララさんの笑顔こそが、悪魔の天使のような微笑みというのだろう。
ナマコが丸々混沌としつつあるカレーの中に沈んでいった。というか、プカプカと浮かん
でいたりする。全然、隠れてないんですけど‥‥。
「あと15分ほど煮込んだら出来上がりです♪」
密かにぼくと信彦はキッチンの物陰から様子を覗いていたりするのだが、コードはもち
ろん、冷蔵庫の上でおとなしく風見鶏なんかしている。そろそろ逃げる算段をしなければ
ならないだろう。さて、どんな言い訳を考えつくべきか‥‥。この前は腹痛だったし、そ
の前はみのるさんのお使いだった。今回は‥‥。
「さぁできましたよ。シグナルさんたちも様子なんか見てなくていいですよ。どうぞ椅子
に座ってくださいな。今、盛りますから♪」
「い、いや、急にお仕事が入っちゃったんです。教授から緊急メンテナンスをするって‥
‥」
「何を言っているんですか?音井教授は今日は学会に出かけていないじゃありませんか」
しまった!墓穴を掘った。信彦は買い物に出かけた正信に呼ばれたとか言って既に逃げ
出しているし、風見鶏を気取っていたコードはオラクルから救難信号が入ったとか言って
いる。オラトリオじゃあるまいし。
というわけで、ぼくは泣く泣く食卓についたのだった。家には他にクリスとかパルスが
いたはずだが、エララさんが料理をしていると知って慌てて荷物をまとめて逃げ出してし
まった。
ぼく、エララさん、クイックの3人で仲良く食卓を囲む。微笑ましい光景は、しかしな
がら、ぼくはまったく落ち込んでいた。エララさんお手製のカレーライスは匂いだけは食
欲をそそっていたが、暗黒の液体(なぜかカレーのことだ)の中にはナマコだとかシャコ
だとかがわさわさと生えていた。そして今、気づいたことだったのだが、エビはどうやら
伊勢海老らしい。優美な姿が虚しいほどにカレーから突き出している。
死‥‥か。
ぼくは覚悟を決めてスプーンを取る‥‥。
取るも心は決まっていなかった。とりあえず他の人の様子を見るのだが‥‥。
「いっただきま〜す♪んぐんぐ。コレ、すっごく美味しいよ!」
マヂですかい!?クイックはガッツポーズをしてエララさんの料理を褒めた。どうやら
やせ我慢ではなく、本気で美味しいと思っているらしい。クイックの味覚がおかしいのか
それとも本当に美味しいのかはわからないのだが。
エララさんもすんごい味覚の持ち主だからアテにはならない。エララさんはクイックの
言葉を素直に喜んで、自分もスプーンを進めている。
「やっぱりさぁ、こういうあたたかい料理っていいよね。クエーサーのとこじゃクワイエ
ットしか料理しなかったし。アジはきちんとしているんだけど、なんだか美味しくないん
だよ」
それは、クワイエットの料理はラヴェンダーの料理に匹敵するくらい恐いだろうけど。
「シグナルさんも食べないんですか?」
ついにその時は来てしまった。エララさんは少しいぶかりながらぼくの方を見ている。
しかたなく、意を決してぼくはうねうねと心持ち呼んでいるようなナマコ‥‥は避けてス
ープをすくう。
ハムっと目をつぶってスプーンを口のなかに誘った。
“ボン‥‥!”
機械の理解を超えるエキセントリックな味。まったりとしていてそれでいてクセのある
おどろおどろしい味がぼくの舌いっぱいに広がった時、ぼくの頭はオーバーヒートした。
「シ、シグナルさん!」
驚いたような、申し訳なさそうに口許を隠してマタヤッテシマッタの意を示すエララさ
んの顔を見ながら、ぼくは天国へ旅たった。
やっと修復されたというのに、またぼくは3週間ほど修理に時間をかけることになる。
あとがき
尻切れトンボな感じになってしまったカンは否めなく・・。いきなり即興で作った話にしてはまずまかなと思わなくもないですけど。もうちこっと余裕を持って取り組みませう。そしてもうちこっと上手に書きませう。ということで。
戻る